初音町に引き越してから、一週間目が天長節であった。
瀬戸の処へは、越した晩に葉書を出して、近い事だから直ぐにも来るかと思ったが、まだ来ない。大石の処へは、二度目に尋ねて行って、詩人になりたい、小説が書いて見たいと云う志願を話して見た。詩人は生れるもので、己がなろうと企てたってなられるものではないなどと云って叱られはすまいかと、心中危ぶみながら打ち出して見たが、大石は好いとも悪いとも云わない。稽古のしようもない。修行のしようもない。只書いて見るだけの事だ。文章なんぞというものは、擬古文でも書こうというには、稽古の必要もあろうが、そんな事は大石自身にも出来ない。自身の書いているものにも、仮名違なんぞは沢山あるだろう。そんな事には頓着しないで遣っている。要するに頭次第だと云った。それから、とにかく余り生産的な為事ではないが、その方はどう思っているかと問われたので、純一が資産のある家の一人息子に生れて、パンの為めに働くには及ばない身の上だと話すと、大石は笑って、それでは生活難と闘わないでも済むから、一廉の労力の節減は出来るが、その代り刺戟を受けることが少いから、うっかりすると成功の道を踏みはずすだろうと云った。純一は何の掴まえ処もない話だと思って稍や失望したが、帰ってから考えて見れば、大石の言ったより外に、別に何物かがあろうと思ったのが間違で、そんな物はありようがないのだと悟った。そしてなんとなく寂しいような、心細いような心持がした。一度は、家主の植長がどこからか買い集めて来てくれた家具の一つの唐机に向って、その書いて見るということに著手しようとして見たが、頭次第だと云う頭が、どうも空虚で、何を書いて好いか分らない。東京に出てからの感じも、何物かが有るようで無いようで、その有るようなものは雑然としていて、どこを押えて見ようという処がない。馬鹿らしくなって、一旦持った筆を置いた。
天長節の朝であった。目が醒めて見ると、四畳半の東窓の戸の隙から、オレンジ色の日が枕の処まで差し込んで、細かい塵が活溌に跳っている。枕元に置いて寝た時計を取って見れば、六時である。
純一は国にいるとき、学校へ御真影を拝みに行ったことを思い出した。そしてふいと青山の練兵場へ行って見ようかと思ったが、すぐに又自分で自分を打ち消した。兵隊の沢山並んで歩くのを見たってつまらないと思ったのである。
そのうち婆あさんが朝飯を運んで来たので、純一が食べていると、「お婆あさん」と、優しい声で呼ぶのが聞えた。純一の目は婆あさんの目と一しょに、その声の方角を辿って、南側の戸口の処から外へ、ダアリアの花のあたりまで行くと、この家を借りた日に見た少女の頭が、同じ処に見えている。リボンはやはりクリイム色で容赦なく※[2]いた大きい目は、純一が宮島へ詣ったとき見た鹿の目を思い出させた。純一は先の日にちらと見たばかりで、その後この娘の事を一度も思い出さずにいたが、今又ふいとその顔を見て、いつの間にか余程親しくなっているような心持がした。意識の閾の下を、この娘の影が往来していたのかも知れない。婆あさんはこう云った。
「おや、いらっしゃいまし。安は団子坂まで買物に参りましたが、もう直に帰って参りましょう。まあ一寸こちらへいらっしゃいまし」
「往っても好くって」
「ええええ。あちらから廻っていらっしゃいまし」
少女の頭は萩の茂みの蔭に隠れた。婆あさんは純一に、少女が中沢という銀行頭取の娘で、近所の別荘にいるということ、娵の安がもと別荘で小間使をしていて娘と仲好だということを話した。
その隙に植木屋の勝手の方へ廻ったお雪さんは、飛石伝いに離れの前に来た。中沢の娘はお雪さんというのである。
婆あさんが、「この方が今度越していらっしゃった小泉さんという方でございます」というと、お雪さんは黙ってお辞儀をして、純一の顔をじいっと見て立っている。着物も羽織もくすんだ色の銘撰であるが、長い袖の八口から緋縮緬の襦袢の袖が飜れ出ている。
飲み掛けた茶を下に置いて、これも黙ってお辞儀をした純一の顔は赤くなったが、お雪さんの方は却って平気である。そして稍々身を反らせているかと思われる位に、真直に立っている。純一はそれを見て、何だか人に逼るような、戦を挑むような態度だと感じたのである。
純一は何とか云わなくてはならないと思ったが、どうも詞が見付からなかった。そして茶碗を取り上げて、茶を一口に飲んだ。婆あさんが詞を挟んだ。
「お嬢様は好く画を見にいらっしゃいましたが、小泉さんは御本をお読みなさるのですから、折々いらっしゃって御本のお話をお聞きなさいますと宜しゅうございます。御本のお話はお好きでございましょう」
「ええ」
純一は、「僕は本は余り読みません」と云った。言って了うと自分で、まあ、何と云う馬鹿気た事を言ったものだろうと思った。そしてお雪さんの感情を害しはしなかったかと思って、気色を伺った。しかしお雪さんは相変らず口元に微笑を湛えているのである。
その微笑が又純一には気になった。それはどうも自分を見下している微笑のように思われて、その見下されるのが自分の当然受くべき罰のように思われたからである。
純一はどうにかして名誉を恢復しなくてはならないような感じがした。そして余程勇気を振り起して云った。
「どうです。少しお掛なすっては」
「難有う」
右の草履が碾磑の飛石を一つ踏んで、左の草履が麻の葉のような皴のある鞍馬の沓脱に上がる。お雪さんの体がしなやかに一捩り捩られて、長い書生羽織に包まれた腰が蹂口に卸された。
諺にもいう天長節日和の冬の日がぱっと差して来たので、お雪さんは目映しそうな顔をして、横に純一の方に向いた。純一が国にいるとき取り寄せた近代美術史に、ナナという題のマネエの画があって、大きな眉刷毛を持って、鏡の前に立って、一寸横に振り向いた娘がかいてあった。その稍や規則正し過ぎるかと思われるような、細面な顔に、お雪さんが好く似ていると思うのは、額を右から左へ斜に掠めている、小指の大きさ程ずつに固まった、柔かい前髪の為めもあろう。その前髪の下の大きい目が、日に目映しがっても、少しも純一には目映しがらない。
「あなたお国からいらっしった方のようじゃあないわ」
純一は笑いながら顔を赤くした。そして顔の赤くなるのを意識して、ひどく忌々しがった。それに出し抜けに、美中に刺ありともいうべき批評の詞を浴せ掛けるとは、怪しからん事だと思った。
婆あさんはお鉢を持って、起って行った。二人は暫く無言でいた。純一は急に空気が重くろしくなったように感じた。
垣の外を、毛皮の衿の附いた外套を着た客を載せた車が一つ、田端の方へ走って行った。
とうとう婆あさんが膳を下げに来るまで、純一は何の詞をも見出すことを得なかった。婆あさんは膳と土瓶とを両手に持って、二人の顔を見競べて、「まあ、大相お静でございますね」と云って、勝手へ行った。
蹲の向うの山茶花の枝から、雀が一羽飛び下りて、蹲の水を飲む。この不思議な雀が純一の結ぼれた舌を解いた。
「雀が水を飲んでいますね」
「黙っていらっしゃいよ」
純一は起って閾際まで出た。雀はついと飛んで行った。お雪さんは純一の顔を仰いで見た。
「あら、とうとう逃がしておしまいなすってね」
「なに、僕が来なくたって逃げたのです」大分遠慮は無くなったが、下手な役者が台詞を言うような心持である。
「そうじゃないわ」詞遣は急劇に親密の度を加えて来る。少し間を置いて、「わたし又来てよ」と云うかと思うと、大きい目の閃を跡に残して、千代田草履は飛石の上をばたばたと踏んで去った。