十八になった。
夏休の間の出来事である。卒業試験が近くなるので、どこかいつもより静かな処にいて勉強したいと思った。さいわい向島の家が借手がなくて明いている。そこへ書物を持って
この話を隣の植木屋が聞いた。お父様が畠に物を作る相談をせられるので、心安くなっていた植木屋である。この植木屋のお上さんが、親切にもこういう提議をした。植木屋にお蝶という十四になる娘がある。体は十六位かと見えるように大きいが、まるで子供である。
お蝶は朝来て夜帰る。むくむくと太った娘で、大きな顔に小さな目鼻が附いている。もう鼻は垂らさない。島田に結っている。これは僕のお召使になるというので、自ら好んで結って貰ったのだそうだが、大きな顔の上に小さい島田髷が載っている工合は随分可笑しい。
飯の時にはお蝶がお給仕をする。僕はその様子を見て、どうしても蝶ではなくて
お蝶は好く働く。僕は飯の時に給仕をさせるだけで、跡は何をしていようと構わない。お菜は何にしましょうと云って来ると、何でも好いから、お前の内で
或日今年は親類の内に往っていると聞いていた尾藤裔一が来た。僕は学科の本に読み
「君どうかしているようじゃないか」
「僕は本科に
「どうして」
「実は君には逢わずに国へ立ってしまおうと思ったのだ。ところが、
お蝶が茶を持って出た。裔一は茶を一息に飲んで話を続けた。裔一の学資は父親の手から出ていない。
僕は気の毒でたまらなかった。しかし何とも言いようがない。意味のない慰めなんぞを言うと、裔一は怒り兼ない。
間もなく裔一は帰ると云った。そして立ちそうにして立たずに、
「僕の伯父の立ち行かなくなったのは、元はおばの為めだ」
「おばさんはどんな人なんだ」
「伯父が一人でいたときの女中だ」
「ふむ」
「それがどうしても離れないのだ。女房に内助なんということを要求するのは無理かも知れないが、訣の分らない奴が附いていて離れないというものは、人生の一大不幸だなあ。左様なら」
裔一はふいと帰って行った。
僕はあっ気に取られて跡を見送った。戸口に掛けてある
裔一は置土産に僕を
机に向いて読み掛けていた本を開ける。どうも裔一の云ったことが気になる。僕はお蝶を何とも思ってはいない。しかしお蝶はどうだろう。僕とお蝶とは殆ど話というものをしないから、お蝶が何と云ったというような記憶は無い。何か記憶に留まった事はないかと思うと、ふいと今朝の事を思い出す。今朝散歩に出た。出るときお蝶は
この時から僕はお蝶に注意するようになった。別な目でお蝶を見る。飯の給仕をしてくれる時に、彼の表情に注意する。注意して見ると、こういう事がある。初の頃は俯向いてはいたが、度々僕の顔を見ることがあった。それがこの頃は殆ど全く僕の顔を見ない。彼の態度は確に変って来たのである。
僕は庭なぞを歩くとき、これまでは台所の前を通っても、中でことこと言わせているのを聞きながら、
又飯の給仕に来る。僕の観察の目が次第に鋭くなる。彼は何も言わず、顔も上げずにいるが、彼の神経の情態が僕に感応して来るような気がする。彼の体が電気か何かの蓄積している物体ででもあるように感ぜられる。そして僕は次第に不安になって来た。
僕は本を見ていても、台所の方で音がすれば、お蝶は何をしているのかと思う。呼べば
その頃僕はこんな事を思った。尾藤裔一は鋭敏な男ではない。しかし彼は父親の処にいる時も、伯父の処にいる時も、僕の内とは違う雰囲気の中に
或日お母様がお出なすった。僕は、もう向島は嫌になったから、小菅に帰ろうと思うと云った。お母様は、そんな事なら、何故葉書でもよこさなかったかと仰ゃる。僕は、切角手紙を出そうと思っていた処だと云った。実はお母様のお出なすったのを見て、急に思い附いたのである。僕はお母様に、お蝶と植木屋のものとに跡を片附けさせて帰って下さるように頼んで置いて、本を二三冊持って、ついと出て、小菅へ帰った。
お蝶の精神か神経かの情態に、何か変ったことがあったかどうだか、恋愛が芽ざしていたか、性欲が動いていたか、それとも僕の想像が跡形もない事を描き出したのであったか、僕はとうとう知らずにしまった。