ヰタ・セクスアリス


 十八になった。

 夏休の間の出来事である。卒業試験が近くなるので、どこかいつもより静かな処にいて勉強したいと思った。さいわい向島の家が借手がなくて明いている。そこへ書物を持って這入はいる。お母様が二三日来ていて、世話をして下さる。しかし材料さえ集めて置いて貰えば、僕が自炊をするというのである。お母様は覚束おぼつかないと仰ゃる。

 この話を隣の植木屋が聞いた。お父様が畠に物を作る相談をせられるので、心安くなっていた植木屋である。この植木屋のお上さんが、親切にもこういう提議をした。植木屋にお蝶という十四になる娘がある。体は十六位かと見えるように大きいが、まるで子供である。煮炊にたきもろくな事は出来ない。しかし若旦那よりは上手であろう。これを貸してくれようと云うのである。お母様は同意なすった。僕も初から女を置くということには反対していたが、鼻を垂らして赤ん坊を背負っていたのを知っている、あのお蝶なら好かろうというので、同意した。

 お蝶は朝来て夜帰る。むくむくと太った娘で、大きな顔に小さな目鼻が附いている。もう鼻は垂らさない。島田に結っている。これは僕のお召使になるというので、自ら好んで結って貰ったのだそうだが、大きな顔の上に小さい島田髷が載っている工合は随分可笑しい。

 飯の時にはお蝶がお給仕をする。僕はその様子を見て、どうしても蝶ではなくての方だなどと思っている。見るともなしに顔を見る。少したてに向いて附いた眉の下に、水平な目があるので、内眦めがしらの処が妙にせせこましくなっている。俯向うつむいてその目で僕を見ると、滑稽を帯びた愛敬がある。

 お蝶は好く働く。僕は飯の時に給仕をさせるだけで、跡は何をしていようと構わない。お菜は何にしましょうと云って来ると、何でも好いから、お前の内でこしらえるような物を拵えろと云う。そんな風で二週間程立った。

 或日今年は親類の内に往っていると聞いていた尾藤裔一が来た。僕は学科の本に読みきていたので、喜んで話しかけたが、裔一はひどくしおれている。僕は不審に思った。

「君どうかしているようじゃないか」

「僕は本科に這入はいることはめた」

「どうして」

「実は君には逢わずに国へ立ってしまおうと思ったのだ。ところが、親父おやじ暇乞いとまごいに来て聞けば、君がいるというので、つい逢いたくなって遣って来た」

 お蝶が茶を持って出た。裔一は茶を一息に飲んで話を続けた。裔一の学資は父親の手から出ていない。木挽町こびきちょうに店を出している伯父が出していたのである。その伯父の所帯が左前になったので、いよいよ廃学をしなくてはならないようになった。そこで国へ帰って小学校の教員でもしようかと思っている。しかし教員になるにしても、そのかたわら何か遣りたい。西洋の学問をするには、素養が不十分な上に、新しい本を買うのは容易でない。そこで一時のしのぎにと云って、伯父の出してくれた金の大部分は漢籍にしてしまった。それを持って国へ引込んで読むというのである。

 僕は気の毒でたまらなかった。しかし何とも言いようがない。意味のない慰めなんぞを言うと、裔一は怒り兼ない。為方しかたなしに黙っていた。

 間もなく裔一は帰ると云った。そして立ちそうにして立たずに、すこぶる唐突にこんな事を言い出した。

「僕の伯父の立ち行かなくなったのは、元はおばの為めだ」

「おばさんはどんな人なんだ」

「伯父が一人でいたときの女中だ」

「ふむ」

「それがどうしても離れないのだ。女房に内助なんということを要求するのは無理かも知れないが、訣の分らない奴が附いていて離れないというものは、人生の一大不幸だなあ。左様なら」

 裔一はふいと帰って行った。

 僕はあっ気に取られて跡を見送った。戸口に掛けてあるすだれを透して、冠木門かぶきもんを出て行く友の姿が見える。白地の浴衣ゆかた麦稈帽むぎわらぼうを被った裔一は、ひる過の日のかっかっと照っている、かなめ垣の道に黒い、短い影を落しながら、遠ざかって行く。

 裔一は置土産に僕を諷諫ふうかんしたのである。僕は一寸腹が立った。何もその位な事を人に聞かなくても好いと思う。それも人による。万事に掛けて自分よりは鈍いように思っていた裔一には、出過ぎた話だと思う。その上お蝶が何だ。こっちはまるで女とも何とも思っていないのではないか。人をらないのだ。えんもまたはなはだしいと思ったのである。

 机に向いて読み掛けていた本を開ける。どうも裔一の云ったことが気になる。僕はお蝶を何とも思ってはいない。しかしお蝶はどうだろう。僕とお蝶とは殆ど話というものをしないから、お蝶が何と云ったというような記憶は無い。何か記憶に留まった事はないかと思うと、ふいと今朝の事を思い出す。今朝散歩に出た。出るときお蝶は蚊屋かやを畳み掛けていた。三十分も歩いたと思って帰って見ると、お蝶は畳んだ蚊屋を前に置いて、目はくうを見てぼんやりしてすわっていた。もうとっくに片付けてしまっているだろうと思ったのに、意外であった。その時僕は少しなまけて来たなと思った。あの時お蝶は三十分が間も何を思っていたのだろう。こう思って、僕は何物をか発見したような心持がした。

 この時から僕はお蝶に注意するようになった。別な目でお蝶を見る。飯の給仕をしてくれる時に、彼の表情に注意する。注意して見ると、こういう事がある。初の頃は俯向いてはいたが、度々僕の顔を見ることがあった。それがこの頃は殆ど全く僕の顔を見ない。彼の態度は確に変って来たのである。

 僕は庭なぞを歩くとき、これまでは台所の前を通っても、中でことこと言わせているのを聞きながら、其方そっちを見ずに通ったのが、今度は見て通る。物なんぞを洗い掛けて手を休めて、くうを見て、じっとしているのが目に附く。何か考えているようである。

 又飯の給仕に来る。僕の観察の目が次第に鋭くなる。彼は何も言わず、顔も上げずにいるが、彼の神経の情態が僕に感応して来るような気がする。彼の体が電気か何かの蓄積している物体ででもあるように感ぜられる。そして僕は次第に不安になって来た。

 僕は本を見ていても、台所の方で音がすれば、お蝶は何をしているのかと思う。呼べばすぐに来る。来るのは当りまえではあるが、呼ぶのを待っていたなと思う。夕かたになると暇乞をして勝手の方へ行く。そして下駄を穿いて出て、戸を締める音がするまで、僕は耳をそばだてている。そしてその間の時間が余り長いように思う。彼は帰り掛けて、僕の呼び戻すのを待っているのではないかと思う。僕の不安はいよいよ加わって来たのである。

 その頃僕はこんな事を思った。尾藤裔一は鋭敏な男ではない。しかし彼は父親の処にいる時も、伯父の処にいる時も、僕の内とは違う雰囲気の中に栖息せいそくしていたのである。そこで一寸茶を持って出ただけのお蝶の態度を見て、何物かを発見したのではあるまいかと思った。

 或日お母様がお出なすった。僕は、もう向島は嫌になったから、小菅に帰ろうと思うと云った。お母様は、そんな事なら、何故葉書でもよこさなかったかと仰ゃる。僕は、切角手紙を出そうと思っていた処だと云った。実はお母様のお出なすったのを見て、急に思い附いたのである。僕はお母様に、お蝶と植木屋のものとに跡を片附けさせて帰って下さるように頼んで置いて、本を二三冊持って、ついと出て、小菅へ帰った。

 お蝶の精神か神経かの情態に、何か変ったことがあったかどうだか、恋愛が芽ざしていたか、性欲が動いていたか、それとも僕の想像が跡形もない事を描き出したのであったか、僕はとうとう知らずにしまった。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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