道草


 この姉は喘息持ぜんそくもちであった。年が年中ぜえぜえいっていた。それでも生れ付が非常な癇性かんしょうなので、よほど苦しくないと決してじっとしていなかった。何か用をこしらえて狭いうちの中を始終ぐるぐる廻って歩かないと承知しなかった。その落付おちつきのないがさつ[1]な態度が健三の眼には如何いかにも気の毒に見えた。

 姉はまた非常に饒舌しゃべる事のすきな女であった。そうしてその喋舌り方に少しも品位というものがなかった。彼女と対坐たいざする健三はきっと苦い顔をして黙らなければならなかった。

 「これがおれの姉なんだからなあ」

 彼女と話をしたあとの健三の胸には何時でもこういう述懐が起った。

 その日健三は例の如くたすきを掛けて戸棚の中をきまわしているこの姉を見出した。

 「まあ珍らしくく来てくれたこと。さあ御敷きなさい」

 姉は健三に座蒲団ざぶとんを勧めて縁側へ手を洗いに行った。

 健三はその留守に座敷のなかを見廻わした。欄間らんまには彼が子供の時から見覚えのある古ぼけた額が懸っていた。その落款らっかんに書いてある筒井憲つついけんという名は、たしか旗本はたもとの書家かなにかで、大変字が上手なんだと、十五、六の昔此所ここの主人から教えられた事を思い出した。彼はその主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行ったものである。そうして年からいえば叔父甥おじおいほどの相違があるのに、二人して能く座敷の中で相撲すもうをとっては姉からおこられたり、屋根へ登って無花果いちじく[2]いで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、しりを持ち込まれたりした。主人が箱入りのコンパス[3]を買ってるといって彼をだましたなり何時まで経っても買ってくれなかったのを非常に恨めしく思った事もあった。姉と喧嘩けんかをして、もう向うから謝罪あやまって来ても勘忍してやらないと覚悟をめたが、いくら待っていても、姉があやまらないので、仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、手持無沙汰てもちぶさたなので、向うで御這入おはいりというまで、黙って門口かどぐちに立っていた滑稽こっけいもあった。……

 古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、今は大した好意をつ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。

 「近頃は身体からだの具合はどうです。あんまり非道ひどく起る事もありませんか」

 彼は自分の前にすわった姉の顔を見ながらこうたずねた。

 「ええ有難う。御蔭さまで陽気がいもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのようにがせい[4]に働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんのあすびに来てくれた時分にゃ、随分しり端折ぱしょりで、それこそ御釜おかまの御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」

 健三は些少さしょうながら月々いくらかの小遣を姉にる事を忘れなかったのである。

 「少しせたようですね」

 「なにこりゃあたし持前もちまえだから仕方がない。昔からふとった事のない女なんだから。やッぱりかんが強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」

 姉は肉のない細い腕をまくって健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形のかさが、だるそうな皮で物憂ものうげに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。

 「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事はずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。御父おとっさんや御母おっかさんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」

 姉の眼にはいつか涙がたまっていた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と口癖くちくせのようにいっていた。そうかと思うと、「こんな偏窟へんくつじゃこの子はとても物にゃならない」ともいった。健三は姉の昔の言葉やら語気やらを思い浮べて、心の中で苦笑した。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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