五十
健三はすぐ奥へ来て細君の枕元に立った。
「どうかしたのか」
細君は眼を開けて天井を見た。健三は蒲団の横からまたその眼を見下した。
襖の影に置かれた洋燈の灯は客間のよりも暗かった。細君の眸がどこに向って注がれているのか能く分らない位暗かった。
「どうかしたのか」
健三は同じ問をまた繰り返さなければならなかった。それでも細君は答えなかった。
彼は結婚以来こういう現象に何度となく遭遇した。しかし彼の神経はそれに慣らされるには余りに鋭敏過ぎた。遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であった。彼はすぐ枕元に腰を卸した。
「もうあっちへ行っても好い。此所には己がいるから」
ぼんやり蒲団の裾に坐って、退屈そうに健三の様子を眺めていた下女は無言のまま立ち上った。そうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辞儀をしたなり襖を立て切った。後には赤い筋を引いた光るものが畳の上に残った。彼は眉を顰めながら下女の振り落して行った針を取り上げた。何時もなら婢を呼び返して小言をいって渡すところを、今の彼は黙って手に持ったまま、しばらく考えていた。彼はしまいにその針をぷつりと襖に立てた。そうしてまた細君の方へ向き直った。
細君の眼はもう天井を離れていた。しかし判然どこを見ているとも思えなかった。黒い大きな瞳子には生きた光があった。けれども生きた働きが欠けていた。彼女は魂と直接に繋がっていないような眼を一杯に開けて、漫然と瞳孔の向いた見当を眺めていた。
「おい」
健三は細君の肩を揺った。細君は返事をせずにただ首だけをそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。けれども其所に夫の存在を認める何らの輝きもなかった。
「おい、己だよ。分るかい」
こういう場合に彼の何時でも用いる陳腐で簡略でしかもぞんざい[17]なこの言葉のうちには、他に知れないで自分にばかり解っている憐憫と苦痛と悲哀があった。それから跪まずいて天に祷る時の誠と願もあった。
「どうぞ口を利いてくれ。後生だから己の顔を見てくれ」
彼は心のうちでこういって細君に頼むのである。しかしその痛切な頼みを決して口へ出していおうとはしなかった。感傷的な気分に支配されやすいくせに、彼は決して外表的になれない男であった。
細君の眼は突然平生の我に帰った。そうして夢から覚めた人のように健三を見た。
「貴夫?」
彼女の声は細くかつ長かった。彼女は微笑しかけた。しかしまだ緊張している健三の顔を認めた時、彼女はその笑を止めた。
「あの人はもう帰ったの」
「うん」
二人はしばらく黙っていた。細君はまた頸を曲げて、傍に寐ている子供の方を見た。
「能く寐ているのね」
子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすやすや寐ていた。
健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。
「水で頭でも冷して遣ろうか」
「いいえ、もう好ござんす」
「大丈夫かい」
「ええ」
「本当に大丈夫かい」
「ええ。貴夫ももう御休みなさい」
「己はまだ寐る訳に行かないよ」
健三はもう一遍書斎へ入って静かな夜を一人更かさなければならなかった。