見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、中一日置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた洋筆先で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。彼の指頭は赤い印気で所々汚れていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。
島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を異にしていたが、健三からいえば、双方とも殆んど差別のない位懸け離れた人間であった。
彼は縞の羽織に角帯を締めて白足袋を穿いていた。商人とも紳土とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三に訊いた。――
「貴方は私の顔を覚えて御出ですか」
健三は驚ろいてその人を見た。彼の顔には何らの特徴もなかった。強いていえば、今日までただ世帯染みて生きて来たという位のものであった。
「どうも分りませんね」
彼は勝ち誇った人のように笑った。
「そうでしょう。もう忘れても好い時分ですから」
彼は区切を置いてまた附け加えた。
「しかし私ゃこれでも貴方の坊ちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」
「そうですか」
健三は素ッ気ない挨拶をしたなり、その人の顔を凝と見守った。
「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所を遣っていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯をして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱の中にあったんでさあ。あの時金盥に水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」
健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。しかし今自分の前に坐っている人のその時の姿などは夢にも憶い出せなかった。
「その縁故で今度また私が頼まれて、島田さんのために上ったような訳合なんです」
彼は直本題に入った。そうして健三の予期していた通り金の請求をし始めた。
「もう再び御宅へは伺わないといってますから」
「この間帰る時既にそういって行ったんです」
「で、どうでしょう、此所いらで綺麗に片を付ける事にしたら。それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」
健三は迷惑を省いてやるから金を出せといった風な相手の口気を快よく思わなかった。
「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢していた方が、私にはよッぽど心持が好いんです」
その人はしばらく考えていた。少し困ったという様子も見えた。しかしやがて口を開いた時は思いも寄らない事をいい出した。
「それに貴方も御承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでも纏めたものを渡して、あの書付と引き易えになすった方が好くはありませんか」
健三はその書付を慥に覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったについては、向後御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味を僅二行余に綴って先方へ渡した。
「あんなものは反故同然ですよ。向で持っていても役に立たず、私が貰っても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」
健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。