道草

Michikusa

夏目漱石 Natsume Sōseki

十八

 雨の降る日が幾日(いくか)も続いた。それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日欝陶(うっとう)しい思いをして、縫針(ぬいはり)にばかり気をとられていた細君は、縁鼻(えんばな)へ出てこの蒼(あお)い空を見上げた。それから急に箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)を開けた。

 彼女が服装を改ためて夫の顔を覗(のぞ)きに来た時、健三は頬杖(ほおづえ)を突いたまま盆槍(ぼんやり)汚ない庭を眺めていた。

 「あなた何を考えていらっしゃるの」

 健三はちょっと振り返って細君の余所行姿(よそゆきすがた)を見た。その刹那(せつな)に爛熟(らんじゅく)した彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。

 「どこかへ行くのかい」

 「ええ」

 細君の答は彼に取って余りに簡潔過ぎた。彼はまたもとの佗(わ)びしい我に帰った。

 「子供は」

 「子供も連れて行きます。置いて行くと八釜(やかま)しくって御蒼蠅(おうるさ)いでしょうから」

 その日曜の午後を健三は独り静かに暮らした。

 細君の帰って来たのは、彼が夕飯(ゆうめし)を済ましてまた書斎へ引き取った後(あと)なので、もう灯(あかり)が点(つ)いてから一、二時間経っていた。

 「ただ今」

 遅くなりましたとも何ともいわない彼女の無愛嬌(ぶあいきょう)が、彼には気に入らなかった。彼はちょっと振り向いただけで口を利かなかった。するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる媒介(なかだち)となった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。

 話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた。彼らは顔さえ見れば自然何かいいたくなるような仲の好(い)い夫婦でもなかった。またそれだけの親しみを現わすには、御互が御互に取ってあまりに陳腐(ちんぷ)過ぎた。

 二、三日経ってから細君は始めてその日外出した折の事を食事の時話題に上(のぼ)せた。

 「此間(こないだ)宅(うち)へ行ったら、門司(もじ)の叔父(おじ)に会いましてね。随分驚ろいちまいました。まだ台湾にいるのかと思ったら、何時の間にか帰って来ているんですもの」

 門司の叔父というのは油断のならない男として彼らの間に知られていた。健三がまだ地方にいる頃、彼は突然汽車で遣(や)って来て、急に入用(いりよう)が出来たから、是非とも少し都合してくれまいかと頼むので、健三は地方の銀行に預けて置いた貯金を些少(さしょう)ながら用立てたら、立派に印紙を貼(は)った証文を後から郵便で送って来た。その中に「但し利子の儀は」という文句まで書き添えてあったので、健三はむしろ堅過ぎる人だと思ったが、貸した金はそれぎり戻って来なかった。

 「今何をしているのかね」

 「何をしているんだか分りゃしません。何とかの会社を起すんで、是非健三さんにも賛成してもらいたいから、その内上(あが)るつもりだっていってました」

 健三にはその後を訊(き)く必要もなかった。彼が昔し金を借りられた時分にも、この叔父は何かの会社を建てているとかいうので彼はそれを本当にしていた。細君の父もそれを疑わなかった。叔父はその父を旨(うま)く説きつけて、門司まで引張って行った。そうしてこれが今建築中の会社だといって、縁もゆかりもない他人の建てている家を見せた。彼は実にこの手段で細君の父から何千かの資本を捲(ま)き上げたのである。

 健三はこの人についてこれ以上何も知りたがらなかった。細君もいうのが厭らしかった。しかし何時もの通り会話は其所(そこ)で切れてしまわなかった。

 「あの日はあまり好(い)い御天気だったから、久しぶりで御兄(おあにい)さんの所へも廻って来ました」

 「そうか」

 細君の里は小石川台町(こいしかわだいまち)で、健三の兄の家(うち)は市ヶ谷薬王寺前(いちがややくおうじまえ)だから、細君の訪問は大した迂回(まわりみち)でもなかった。

Japanese Text Initiative
Electronic Text Center | University of Virginia Library
PO Box 400148 | Charlottesville VA 22904-4148
434.243.8800 | fax: 434.924.1431
Etext Home | Library Home | Search the Library Web
Contact Us:UVA Library Feedback
Last Modified: Thursday, January 09, 2014
© 2025 The Rector and Visitors of the University of Virginia