道草

Michikusa

夏目漱石 Natsume Sōseki

二十四

 健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。そうして指定の日が来た時、約束通りまた津(つ)の守坂(かみざか)へ出掛けた。

 彼は時間に対して頗(すこ)ぶる正確な男であった。一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。実際今の彼は起きると寐(ね)るまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。

 彼は途々(みちみち)自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。

 彼はまた彼の細君の事を考えた。その当時強烈であった彼女の歇私的里(ヒステリー)は、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。彼はまたその細君の里の事を考えた。経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。

 彼はまた自分の姉と兄と、それから島田の事も一所に纏(まと)めて考えなければならなかった。凡(すべ)てが頽廃(たいはい)の影であり凋落(ちょうらく)の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。

 姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた。

 「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が挨拶(あいさつ)した。これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。

 「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくって遣(や)り切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、貴方(あなた)と御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」

 比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその勤先(つとめさき)の近所に囲っているという噂(うわさ)はまるで嘘(うそ)のようであった。

 古風な言葉で形容すれば、ただ算筆(さんぴつ)に達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。――健三の心にはこんな疑問さえ湧(わ)いた。

 「姉さんは」

 「それに御夏(おなつ)がまた例の喘息(ぜんそく)でね」

 姉は比田のいう通り針箱の上に載せた括(くく)り枕(まくら)に倚(よ)りかかって、ぜいぜいいっていた。茶の間を覗(のぞ)きに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。

 「どうです」

 彼女は頭を真直(まっすぐ)に上る事さえ叶(かな)わないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。挨拶をしようと思う努力が、すぐ咽喉(のど)に障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた咳嗽(せき)の発作が一度に来た。その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、傍(はた)で見ていても気が退(ひ)けた。

 「苦しそうだな」

 彼は独り言のようにこう囁(つぶ)やいて、眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。

 見馴れない四十恰好(がっこう)の女が、姉の後(うしろ)から脊中(せなか)を撫(さす)っている傍に、一本の杉箸(すぎばし)を添えた水飴(みずあめ)の入物が盆の上に載せてあった。女は健三に会釈した。

 「どうも一昨日(おととい)からね、あなた」

 姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。それを知らない健三ではなかったが、目前(まのあたり)この猛烈な咳嗽(せき)と消え入るような呼息遣(いきづかい)とを見ていると、病気に罹(かか)った当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。

 「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。私(わたし)はあっちへ行くから」

 発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。

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Last Modified: Thursday, January 09, 2014
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