瀧口入道

第一

 やがて壽永じゆえいの秋の哀れ、治承ぢしようの春の樂みに知る由もなく、六歳むとせの後に昔の夢を辿たどりて、直衣なほしの袖を絞りし人々には、今宵こよひの歡曾も中々に忘られぬ思寢おもひねの涙なるべし。

 おご平家へいけを盛りの櫻にくらべてか、散りての後の哀れは思はず、入道相國にふだうしやうこくが花見の宴とて、六十餘州の春を一夕いつせきうてなに集めてみやこ西八條の邸宅。君ならでは人にして人に非ずとうたはれし一門の公達きんだち宗徒むねとの人々は言ふもさらなり、[1]華冑攝※くわちゆうせつろく子弟していの、苟も武門の蔭を覆ひに當世の榮華に誇らんずるやからは、今日けふはれにと裝飾よそほひて綺羅星きらほしの如くつらなりたる有樣、燦然さんぜんとしてまばゆばかり、さしも善美を盡せる虹梁鴛瓦こうりやうゑんぐわいしだゝみ影薄かげうすげにぞ見えし。あはれ此程このほどまでは殿上てんじやうまじはりをだに嫌はれし人の子、家のやから、今は紫緋紋綾しひもんりよう禁色きんじきみだりにして、をさ/\傍若無人の振舞ふるまひあるを見ても、眉をひそむる人だに絶えてなく、夫れさへあるに衣袍いはう紋色もんしよく、烏帽子のためやうまで萬六波羅樣よろづろくはらやうをまねびて時知り顏なる、世は愈々平家の世と覺えたり。

 見渡せば正面に唐錦からにしきしとねを敷ける上に、沈香ぢんかう脇息けふそくに身を持たせ、解脱同相げだつどうさう三衣さんえした天魔波旬てんまはじゆんの慾情を去りやらず、一門の榮華を三世のいのちとせる入道清盛、さても鷹揚おうやうに坐せる其の傍には、嫡子ちやくし小松の内大臣重盛卿、次男中納言宗盛、三位中將知盛とももりを初めとして、同族の公卿十餘人、殿上三十餘人、其他、衞府諸司數十人、平家の一族を擧げて世には又人なくぞ見られける。時のみかど中宮ちゆうぐう、後に建禮門院と申せしは、入道が第四のむすめなりしかば、此夜の盛宴に漏れ給はず、かしづける女房曹司にようばうざうしは皆々晴の衣裳に奇羅を競ひ、六宮りくきゆう粉黛ふんたい何れ劣らずよそほひらして、花にはあらで得ならぬ匂ひ、そよ吹く風毎かぜごと素袍すはうの袖をかすむれば、末座にみ居る若侍等わかざむらひたちの亂れもせぬ衣髮をつくろふも可笑をかし。時は是れ陽春三月の暮、青海せいかいの簾高く捲き上げて、前に廣庭を眺むる大弘間、咲きも殘らず散りもはじめず、欄干おばしま近く雲かとまがふ滿朶の櫻、今を盛りに匂ふさまに、月さへかゝりて夢の如きまどかなる影、朧に照り渡りて、滿庭の風色ふうしよく碧紗に包まれたらん如く、一刻千金も啻ならず。内には遠侍とほざむらひのあなたより、遙か對屋たいやに沿うて樓上樓下を照せる銀燭の光、錦繍の戸帳とちやう、龍鬢の板疊に輝きて、さしも廣大なる西八條のやかたひかり到らぬくまもなし。あはれ昔にありきてふ、金谷園裏きんこくゑんりの春のゆふべも、よも是には過ぎじとぞ思はれける。

 饗宴の盛大善美を盡せることは言ふもおろかなり、庭前には錦の幔幕を張りて舞臺を設け、管絃鼓箏の響は興を助けて短き春の夜のくるを知らず、かねて召し置かれたる白拍子しらびやうしの舞もはや終りし頃ほひ、さときぬを裂くが如き四絃一撥の琴の音にれて、繁絃急管のしらべ洋々として響き亙れば、堂上堂下にはか動搖どよめきて、『あれこそは隱れもなき四位の少將殿よ』、『して此方こなたなる壯年わかうどは』、『あれこそは小松殿の御内みうちに花と歌はれし重景殿よ』など、女房共の罵り合ふ聲々に、人々ひとしく樂屋がくやの方を振向けば、右の方より薄紅うすくれなゐ素袍すほうに右の袖を肩脱かたぬぎ、螺鈿らでん細太刀ほそだちに紺地の水の紋の平緒ひらをを下げ、白綾しらあや水干すゐかん櫻萌黄さくらもえぎに山吹色の下襲したがさね、背には[2]胡※やなぐひきて老掛おいかけを懸け、露のまゝなる櫻かざして立たれたる四位の少將維盛これもり卿。御年やうやく二十二、青絲せいしみぐし紅玉こうぎよくはだへ平門へいもん第一の美男びなんとて、かざす櫻も色失いろうせて、何れを花、何れを人と分たざりけり。左の方よりは足助あすけの二郎重景とて、小松殿恩顧のさむらひなるが、維盛卿よりわかきこと二歳にて、今年まさ二十はたち壯年わかもの、上下同じ素絹そけんの水干の下に燃ゆるが如き緋の下袍したぎを見せ、厚塗あつぬりの立烏帽子に平塵ひらぢりの細鞘なるをき、袂豐たもとゆたかに舞ひ出でたる有樣、宛然さながら一幅の畫圖とも見るべかりけり。二人共に何れ劣らぬ優美の姿、適怨清和、きよくに隨つて一絲も亂れぬ歩武の節、首尾能く青海波せいがいはをぞ舞ひ納めける。滿座の人々感に堪へざるはなく、中宮ちゆうぐうよりは殊に女房を使に纏頭ひきでもの御衣おんぞを懸けられければ、二人は面目めんもく身に餘りて退まかり出でぬ。跡にて口善惡くちさがなき女房共は、少將殿こそ深山木みやまぎの中の楊梅、足助殿あすけどのこそ枯野かれの小松こまつ、何れ花もも有る武士ものゝふよなどと言い合へりける。知るも知らぬも羨まぬはなきに、父なる卿の眼前にこれを見て如何許いかばかり嬉しく思い給ふらんと、人々上座の方を打ち見やれば、入道相國のも喜ばしげなる笑顏ゑがほ引換ひきかへて、小松殿は差しうつぶきて人におもてを見らるゝをものうげに見え給ふぞいぶかしき。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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