瀧口入道

第十七

『罪造りの横笛殿、あたら勇士に世を捨てさせし』。あゝ半ば戲れに、半ば法界悋氣の此一語、横笛が耳には如何に響きしぞ。戀に望を失ひて浮世を捨てし男女の事、昔の物語に見し時は世に痛はしき事に覺えて、草色の袂に露の哀れを置きし事ありしが、猶ほ現ならぬ空事とのみ思ひきや、今や眼前かゝる悲しみに遇はんとは。而も世を捨てし其人は、命を懸けて己れを戀ひし瀧口時頼。世を捨てさせし其人は、可愛とは思ひながらも世の關守に隔てられて無情しと見せたる己れ横笛ならんとは。餘りの事に左右の考も出でず、夢幻の思ひして身を小机に打ち伏せば、『可惜武士に世を捨てさせし』と怨むが如く、嘲けるが如き聲、何處よりともなく我が耳にひゞきて、其度毎に總身宛然水を浴びし如く、心も體も凍らんばかり、襟を傳ふ涙の雫のみさすが哀れを隱し得ず。

 掻き亂れたる心、辛う我に歸りて、熟々思へば、世を捨つるとは輕々しき戲事に非ず。瀧口殿は六波羅上下に名を知られたる屈指の武士、希望に滿てる春秋長き行末を、二十幾年の男盛りに截斷りて、樂しき此世を外に、身を佛門に歸し給ふ、世にも憐れの事にこそ。數多の人に優りて、君の御覺殊に愛たく、一族の譽を雙の肩に擔うて、家には其子を杖なる年老いたる親御もありと聞く。他目にも數あるまじき君父の恩義惜氣もなく振り捨てて、人の譏り、世の笑ひを思ひ給はで、弓矢とる御身に瑜伽三密の嗜は、世の無常を如何に深く觀じ給ひけるぞ。ああ是れ皆此の身、此の横笛の爲せし業、刃こそ當てね、可惜武士を手に掛けしも同じ事。――思へば思ふほど、乙女心の胸塞りて泣くより外にせん術もなし。

 吁々、協はずば世を捨てんまで我を思ひくれし人の情の程こそ中々に有り難けれ。儘ならぬ世の義理に心ならずとは言ひながら、斯かる誠ある人に、只々一言の返事だにせざりし我こそ今更に悔しくも亦罪深けれ。手筐の底に祕め置きし瀧口が送りし文、涙ながらに取り出して心遣りにも繰り返せば、先には斯くまでとも思はざりしに、今の心に讀みもて行く一字毎に腸も千切るゝばかり。百夜の榻の端がきに、今や我も數書くまじ、只々つれなき浮世と諦めても、命ある身のさすがに露とも消えやらず、我が思ふ人の忘れ難きを如何にせん。――など書き聯ねたるさへあるに、よしや墨染の衣に我れ哀れをかくすとも、心なき君には上の空とも見えん事の口惜しさ、など硯の水に泪落ちてか、薄墨の文字定かならず。つらつら數ならぬ賤しき我身に引較べ、彼を思ひ此を思へば、横笛が胸の苦しさは、譬へんに物もなし。世を捨てんまでに我を思ひ給ひし瀧口殿が誠の情と竝ぶれば、重景が戀路は物ならず。況して日頃より文傳へする冷泉が、ともすれば瀧口殿を惡し樣に言ひなせしは、我を誘はん腹黒き人の計略ならんも知れず。斯く思ひ來れば、重景の何となう疎ましくなるに引き換へて、瀧口を憐れむの情愈々切にして、世を捨て給ひしも我れ故と思ふ心の身にひし/\と當りて、立ちても坐りても居堪らず、窓打つ落葉のひゞきも、蟲の音も、我を咎むる心地して、繰擴げし文の文字は、宛然我れを睨むが如く見ゆるに、目を閉ぢ耳を塞ぎて机の側らに伏し轉べば、『あたら武士を汝故に』と、いづこともなく囁く聲、心の耳に聞えて、胸は刃に割かるゝ思ひ。あはれ横笛、一夜を惱み明かして、朝日影窓に眩き頃、ふらふらと縁前に出づれば、憎くや、檐端に歌ふ鳥の聲さへ、己が心の迷ひから、『汝ゆゑ/\』と聞ゆるに、覺えず顏を反向けて、あゝと溜息つけば、驚きて起つ群雀、行衞も知らず飛び散りたる跡には、秋の朝風音寂しく、殘んの月影夢の如く淡し。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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