オリンポスの果実

二十一

 行きは、よいよい帰りはこわい、と子供のころうたう童謡どうようがあります。あの歌のように人生、行きと帰りとではずいぶん気持がちがうものです。再び、サンピイドロの港、春洋丸の甲板かんぱんで、見送りに来てくれた在留邦人ほうじんの方々がうちる日の丸の、小旗の波と五色のテエプの雨をながめながら、ぼくはなんともいえぬわびしさでした。

 勝ってかえる人達はとにかく元気でした。陸上の東田良平が、大きなかめの子を二ひき、記念にもらくびひもをつけ、ほがらかに引張って歩いているのが目立っていました。アメリカ人に、「Mayachita, Mayachita」と呼ばれて人気のある水泳の宮下も、船橋ブリッジの上で手を打ちふりながら、いつまで熱狂ねっきょう的な歓送にこたえていました。負けて還るほうは、拳闘けんとう某氏ぼうしのように責任を感じて丸坊主まるぼうずになったひともいましたが、やはり気恥きはずかしさやひがみもあり張りめた気も一遍いっぺんに折れた、がっかりさで、ぼくは雑沓ざっとうするスモオキング・ルウムの片隅かたすみにしょんぼりこしを降ろしていたのです。

 あなたとのことも、きの船では、帰りの船でこそ話もしよう遊びもできようと、あれやこれや空想をえがいていたのですが、さて眼前、現実にその時が来てみると、最前、船のタラップを、ドレスしおおもても萎れて登ってきたあなたの可憐かれんな姿が目のあたりにちらつきながら、手も足も出ず心もしびれ、なるままになれと思うのが、やっと精一杯いっぱいのかたちでした。

 出帆しゅっぱん前のはなやかな混雑もうるさいままに、独りで、ガアデン・ルウムに入って行ってみると、すでに先客がひとり、ひっそりとした青い空気のなかで、硝子ガラス越し一杯の陽光を浴びながら、熱帯樹の葉っぱをもてあそんでいました。

 その男は百メエトルの満野でした。かつて吉岡が擡頭たいとうするまでの名スプリンタアではありましたが今度のオリムピックには成績も悪く、いまは凋落ちょうらく一途いっとにあったようです。かれはぼくをみると磊落らいらくに笑い、退屈たいくつなまま色々な打明話をしてくれました。彼はKOの予科三年で続いて二度落第していると語り、「こんども駄目だめだから、まア退学は固いね」と他人言ひとごとのように笑っていました。小学校のときからけてばかりきてとしり、いま学校を追われる様になってもスポオツで食う見込はたたず、「まア国に帰って、兄貴の店でも手伝うか」と言っていましたが、スポオツでなにもつかみ得なかった悔恨かいこんが、彼の心身をむしばんでいるさまがありありと感ぜられ、外では歓呼の声や旗の波のどよめきがうしおのようにひびいてくるままに、なにかスポオツマンの悲哀ひあい、身にみるものがあって、ぼくも心がむなしかったのです。

 なみに明け浪にれる日々。それから毎日、海をみてくらしていました。だれやらの抒情詩じょじょうしではありませんが、ただ青く遠きあたりは、たとうれば、古き思い出。舷側げんそくに、しろくあわだっては消えて行く水沫うたかたは、またきょうの日のわれの心か、と少年の日の甘ったるい感傷におぼれこんでもみるのでした。阿呆あほうなぼくは時折、あなたのことを思い出しては、痛く胸をむ苦さと快さをたのしんでいました。

 アメリカをってから五日目。暖かい陽光をいっぱいに浴びた甲板のデッキ・チェアにこしを降ろして、蒼々あおあおいだ太平洋をみるともなくながめていますと、どやどやと下のケビンから十人ばかりの女子選手達があがって来ました。

 内田さんや中村じょうのなかに交ってあなたの姿もみえたとき、ぼくは心が定らないままげだしたい衝動しょうどうにかられました。しかし女のひとが好きでつおっちょこちょいのぼくは、あなた達から好意を持たれているのを意識しているだけ、なにか気のいた文句を一言聞かせたく、そのためだけでも浮々うきうきみんなむかえるのでした。みんなはおしゃべりな小鳥のようにペちゃくちゃさえずりながら、附近ふきんのデッキ・チェアに群がりましたが、ぼくの顔をみるや、急に内田さんから始まって、ひそひそ話になり、一度にぱっと飛びたって、一瞬いっしゅんの間に全部いなくなってしまいました。あとにあなたともう一人、円盤えんばんの石見嬢が残っていましたが、石見さんもみんなのにわかに席から立ち去ってしまったのにおどろくと、きょろきょろあたりを見廻みまわして、初めてあなたとぼくに気づくと、こちらが照れてしまうほどになり、大きな身体からだをもじもじさせ、スカアトのひだを直したりして体裁ていさいつくろってから、大急ぎでけ去ってしまいました。

 さて、ぼくは、あなたのそばのデッキ・チェアにすわり直してはみましたが、やはり、はげしい羞恥しゅうちにいじかんだような、かたいあなたの容子ようすをみていると、ぼくも同様あがってしまい、そのくせ、意地悪いうちの連中がやってきて、なにか言うなら言え、とそのときの糞度胸くそどきょうはきめていたのですが、愈々いよいよ話をする段になるとなにから話そうかと切りだすすべをさがして、ぼくは外見落着きをよそおってはいるものの、頭のなかは火のように燃えていました。

 と、自分の靴先くつさきをみるともなく見詰めていたぼくのひとみに、あなたのあしが写ってきました。海風が、あなたのスカアトをそよとく、静かな一瞬です。短かい靴下ソックス穿いていたあなたの脚に生毛うぶげがいっぱいに生えているのがみえました。そのときほど、毛の生えた脚をしているあなたがいやらしく見えたことはありません。

 男は女が自分に愛されようと身も心も投げだしてくると、すきだらけになった女のあらが丸見えになりたまらなく女が鼻につくそうです。女が反対に自分から逃げようとすればするほど、女がしたわしくなるとかきいています。そこに手練手管てれんてくだとかいうものが出来るのでしょう。

 ぼくは羞恥に火照ほてった顔をして、ちょこんと結んだひっつめのかみをみせ、項垂うなだれているあなたが、恍惚こうこつと、なにかしらぼくのささやきを待ち受けている風情ふぜいにみえると、再び毛の生えたあなたの脚がクロオズアップされ、悪寒おかんに似た戦慄せんりつが身体中を走りました。

 ぼくはそれまであなたへの愛情に、肉慾にくよくを感じたことがなかった。しかしこの時、あなたの一杯に毛の生えた脚の、女らしい体臭たいしゅうせると、ぼくはぞっとしていたたまれず、「熊本さんはふとりましたね」とかなんとか、あなたのやつれを気づかっていたつい最前の自分も忘れ、お座なり文句もそこそこに、立ちあがると逃げだしてしまいました。海を眺めに行ったのです。あとに残ったあなたのさびしい表情が、形容のつかぬ残酷ざんこくさで黙殺もくさつできると同時に、あなたの、やるせなさそうな表情は心に残った。ぼくは自分を勝手だとおもいました。ふくれあがった海をみながら――。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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