二十五
横浜まで、あと一週間という日になった。
プロムナアド・デッキの手摺に凭りかかって海に唾を吐いていると、うしろから肩を叩かれ、振返ると丸坊主になりたての柴山でした。
彼はひどく真面目ぶった顔付で「坂本君、熊本さんのことでなにか聞いたか」と訊ねます。「いや別に」と答えると声をひそめ、「大変なことがあるんだ。これが公けになったら熊本さんの一生は台なしだよ。君はあんなにして特に親しいから、君からいっペん忠告してやれよ」と親切にお節介を焼いてくれます。ぼくは息づまるほどのショックを受け柴山をみつめていました。
「昨夜なア、うちの河堀と金沢が、ボオト・デッキで涼んでいたら、暗い蔭になったほうでガサゴソ物音がするんだそうだ。なんだとおもってみてたら、熊本秋子とネルチンスキイの奴が二人ッきりで腕を組んで出てきた。それで、此方で見ているとも知らずネルチンスキイが、熊本にながいこと接吻してけつかったそうだ。汚ない」
ネルチンスキイというのは一船遅れて日本に遠征に来る筈の芬蘭の陸上選手監督で、一足先きに事務上の連絡旁々この船に乗った、中年の好紳士です。背が高く口髭を蓄え、膏ぎった赭顔をしていました。
ぼくは頭のなかが熱くなり、嘘だ嘘だとおもいながらも柴山の言葉を否定するなんの根拠もないままに、無性に腹が立ってきました。柴山は続けます。
「それで、金沢が帰ってきて陸上の連中に話したから、みんな怒っていたよ。二三人で呼びだして、熊本を撲ろうかとまで言っているんだぜ」
ぼくはこれは大変だ、と思いました。とにかく河堀と金沢に会ってから真相を確かめ、その上であなたに逢ってお話をするのだ、と心に決め、柴山の親切に、厚く礼をいってからその場を立ち去りました。
先ず、河堀を捜しに行くとスモオキング・ルウムで、これも丸坊主になりたての頭で、煙草を吹かしていました。「ちょっと」と呼びだし、照れ臭いのを我慢して、あなたの一件を尋ねますと、KOボオイの標準型で立派な青年紳士の趣のある彼はかるく笑い、
「そりゃア柴山の話が大きいんだ。そこ迄ぼく達はみなかった。ただ暗い処を二人でごそごそしていたし、出てきたとき熊本が泣いていて、それをネルチンスキイが慰めていた様子が変だったから、金沢がみんなに話したんでしょう。しかし、ぼくには、なにも他人のことだし、誰にも言いふらしたりしませんよ。安心なさい」
とニヤニヤ笑いながら、ぼくの肩を叩きます。マドロス・パイプを乙に銜え、落着いて煙をくゆらす彼の態度にはなにか信用できるものがあって、ぼくはくれぐれもその噂を打消すように頼むと、こんどは、階段を飛ぶように降りて、金沢の船室を叩いてみました。
折よく在室とみえ「お入り」と重々しい声です。ドアを開けると、元来禁欲僧じみた風貌の彼にはよく似合う刈りたての頭をして、寝台にどっかと胡坐をかき、これも丸坊主の村川と、しきりに大声で笑いあって、なにか嬉しそうに話をしていました。
入って行ったぼくをみると、彼は顔をあげて意外らしく、「オウ」と挨拶します。ぼくが改まって、「金沢君、お願いがあるんだけれど」と切り出すと、「え、なんだい」彼はおおげさに眉を顰めました。ぼくは下劣に流布されているぼく達の交友が、ここでもストイックの彼に、誤解されてはと「実は変にとられたら困るけれど」と前置きすれば、「いや別に変に思わないよ」ともう冷たい声で突っぱなされました。
ぼくは懸命になればなる程、拙劣なのを知りながら「実はあなたが昨夜、熊本さんについて見たことを、あなたの胸だけに蔵っておいて貰いたいのです」と言いかければ、彼は不愉快そうにかん高く、ぼくを遮り「なにも俺はそんなことを喋り歩いたりはしないよ。言ってみたって何の得にもならないし、第一、俺は熊本みたいな女に少しも興味がないもの」と、そこで一寸と口を切ってから、また落着いた嗄れ声にかえり「然し、実際女の選手ってだらしがねエな」と村川を顧みれば、村川も即座に、「じッせえ、女流選手っていうのは、なっちゃいないね」と合槌を打ちます。ぼくは無責任な批評をするな、と腹がたちましたが、金沢は続いて無造作に、「しかし誰かに言い触らすようなことはしないよ。それは約束します」という。その言い方に、ぼくはふッと、彼の大人を感じると、なにか信用して好い気になり、安心すると同時に、一遍に気恥かしくなってきて急いで、彼の部屋を辞しました。
無茶苦茶に駆けあるきたいような衝動にかられて、階段をかけ上って行くと、森さん、松山さん、沢村さん達がいずれ麻雀でも果てたあとか、たくましく笑い合って降りて来かかり、血走ったぼくの様子をみると、顔見合せて、更にどっと笑いたてました。
てッきり、あなたの一件で笑われたと、ぼくは尚更、口惜しがって、あなたを捜しまわりましたが、その晩は遂に見つからず、また不眠の夜を送りました。
翌日、海は晴れていた。ぼくは、あなたを探して船の上から下まで馳せめぐった。逢ってなにか一言いわなければ、納まらない気持だったのです。その日も、むなしく海が暮れました。ぼくはスモオキング・ルウムの一隅に坐り、ひとり薄汚れた感傷を噛んでいました。
その頃の流行歌の一節に、※[33]花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら※[34]というのがありました。ぼくは其処のところが、奇妙に好きで、誰もいないのを幸い、何遍も何遍もかけ直しては、面をたれて、歌をきいていました。
逢魔ケ時という海の夕暮でした。ぼくは電燈もつけず、仄暗い部屋のなかで、ばかばかしくもほろほろと泣いてみたい、そんな気持で、なんども、その甘い歌声をきいていました。その時ひょいと顔をあげると愕然としました。あなたの仄白い顔が、窓から覗いているのです。あんなに捜してもみつからなかったのに、一体どこにかくれていたんです、とも言いたく、お元気でなによりですと、喜んでもあげたかった。
が、驚きのほうが強く、まじまじ目を見開いているぼくの顔にあなたは「ぼんち、今晩は」と笑いかけ、寂しさに甘えようとしているぼくの表情が判ると、ふッと身体を乗りだし「そんなとこで、なにしてんの。ホホ……」と少しヒステリカルに笑い、顔見合せると急に笑い止んで、やるせない沈黙の瞬時が流れましたが、ふっと表情をかえたあなたは「ぼんち映画みに行かないの」といい棄てたまま、くるりと身を翻えし、甲板の端の映画場のほうへ行ってしまいました。
機械的に、そのあとから、ぼくも跳ねおき、活動を見に急いだのです。
映画は、むかし懐しい大河内伝次郎主演、辻吉朗監督『沓掛時次郎』でありました。ところは太平洋の真唯中、海のどよめきを伴奏にして、映画幕は潮風にあおられ、ふくれたり、ちぢんだりしています。見物人は船客一同に加えて、満天の星と、或いは、海の鱗族共ものぞいているかも知れません。
ぼくは、舷側の手摺に凭れて、みんなの頭越しに、この傷だらけのフィルムを、ぼんやり眺めていました。
義理人情に絡まれた男、沓掛時次郎の物語はへんてこに悲しいものでした。それに、説明を買ってでたレスラアB氏の説明が出鱈目で、たとえば※[35]助ッ人※[36]と読むべきところを※[37]助人※[38]と読みあげるような誤りが、ぼくには奇妙な哀愁となって、引きこまれるのでした。飾りのない束ね髪に、白い上衣を着たあなたが項垂れたまま、映画をまるで見ていないようなのも悲しかった。
映画が済んで、みんな立ってしまったあと、ぼくは独り、舷縁に腰を掛け、柱に手をまいて暗い海をみていた。青白いスクリインは、バタバタと風に煽られ、そのまえに乱雑に転がったデッキ・チェア、みんな、虚しい風景でした。
もう、なんにも、あなたに言いたくなくなって、ぼんやり、一等船室の大広間に足を踏み入れると、悚然、頭から水を掛けられたようなショックを受け、絨毯のうえに身が釘付けになりました。あなたが、衆人環視のなかで泣いていたのです。
あとで聞くと、あなたは、その夜映画説明をしたB選手に醜聞の件で、面罵されたのだといいます。ぼくが傍に居合せたら恐らく、身体の震える憤りに気が狂いそうだったことでしょう。
このとき、一足なかに踏み込み、その光景をみるなり、ぼくは居竦んでしまいました。紺のベレエ帽に紺のブレザァコオトを着た内田さんが、看護婦のように、あなたに寄り添って慰めていました。室内にいた二十人ばかりの男女の視線が一斉に、立竦んでいるぼくに注がれた気がして居たたまれず、すぐ表に出てしまいました。
あなたが災難にあっているのに、何にもしてやれない自分がはがゆく、ぐるぐるデッキを廻り歩きました。黒い海だった。走る波でした。
二三回、プロムナアド・デッキを歩いて、先程の広間の前まで来ると、そこの手摺に凭れてあなたが陸上の川北氏と話をしていました。
思いきったぼくは臆面もなく、あなた達の間に割りこみました。あなたは泣いたあとの汚い顔はしていたけれど、なにか頼りなげな可憐な風がありました。
ぼくは不作法にも突然あなたに向い、口を切りました。「どうしたんですか。一体、熊本さん」あなたは顔をあげ、ひどく泣きじゃくりながら、話しだしました。このひとは未だ少女ではないか、それを汚れた眼鏡でみるなんて、と、ぼくは憤慨しながら、あなたの話を聞いていました。
「昨夜六時頃、Bデッキを散歩していますとネルチンスキイさんが、笑いながら傍によってきて、よくは判らないんですけれど、光るものと言うから多分夜光虫でしょう、をみせてあげるからボオト・デッキに行こうッて言うのでしょう。わたし一人で、嫌だったから断ると、無理に、そりゃしつこく誘うのでしょ。内田さんがいてくれたら、気が強いんですけれど、心細いのにね。相手が外国のひとで、よく言葉が解らないから、若し失礼になったら――と思って、ついて行ったんです。そしたら、ボオト・デッキに上って、暗いほうへ、ずんずん行って、隅に立っていたの。気味がわるかったけれど我慢して一緒に並んでいると、訳のわからない早口を言って、わたしの顔をみたり、なんにも見えない暗い海をみたりしていましたが、いきなり、私の手をこうして握ったのでしょ。ぞうっとして、急いで、振りきって、帰ってきたんです。それだけなの」
それだけの事実が、こんなにも歪曲され拡大されて伝わって行くとはと、ぼくが訳もなく口惜しがっているあいだに、川北氏は考えを纏め、しずかに意見を述べだしました。
「だから、熊本君、さっきも言ったように、ネルチンスキイ氏に、なにもそれ程の邪意はなかったのじゃないかな。外国人は、女の手を握ったり、接吻したりするのは平気だから、若しかすると単なる親愛の意味からやったに過ぎないのじゃないかとも思う。しかしそういう処へ、男と二人ッきりでいたという、あなたも賢明じゃなかった。これからは、気をつけるんですね。
けれど、ネルチンスキイ氏にも、一度会って話はしておきましょう。なんでも彼方の習慣通りにやられては堪らない。ぼくが会って、あなたのことも、明瞭に、あやまらせて置きます」
ぼくはこんなにテキパキあなたに話ができる川北氏が羨しかった。ぼくには、悔恨と憧憬しかない。しかし、この人には理性と実行力があるのだと、尊敬する気持で、ぼくは、ネルチンスキイを捜す、川北氏のあとについて行きました。
折よくプウルの傍の手摺によりかかり、海に唾を吐きちらしているネルチンスキイをみつけると、川北氏は傍に近づき巧みな英語で話しかけます。ぼくは初めから川北氏に無視された形でしたが、ここでも語学の点で、尚更ひっこんでいなくてはならず、それでもなにかの役に立てばと独りで興奮して、二人の会話を傍観していました。
ぼくにはよく解らないながら、川北氏の一言一句はネルチンスキイの肺腑に染み渡るとみえ、彼はいかにも恐縮した様子で、「I'm sorry.」を繰返しては頷いていました。タイなしのカッタアシャツに灰色の上衣をひっかけた五尺そこそこ無髯の川北氏が、六尺有余、でっぷりした赭顔の鼻下にちょび髭を蓄えた堂々たる紳士のネルチンスキイを説得している有様は、まるで書生が大臣をへこましているような快感がありました。
その話も結着して、川北氏に別れ独りになって甲板を歩いていると、なんとも言えぬ淋しさがこみあげてきて、なに一つできぬ自分がほんとに厭になった。自分の意気地なさ、だらしなさ、情けなさが身にしみ、自分の影法師まで、いやになって、なんにも取縋るものがないのです。星影あわき太平洋、意地のわるい黒い海だった。
※[39]花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら※[40]と音痴の歌をくり返しては口ずさみ、薄暗い廊下を歩いてゆくと、向うの端から、仄白くあなたの姿が浮んできました。亡霊のような儚なさで、あなたはまた誰にか罵られたのか、両掌で顔をおおい、泣きじゃくりながら近づいて来るのです。
ぼくと向きあっても、あなたは覆っていた掌を放さず肩をふるわせて泣いているのでした。次の瞬間、ぼくは夢中であなたの肩を叩き、出来る限りのやさしさを籠め、「秋ッペさん泣くのはおよしよ。もう横浜が近いんだ」
すると、あなたは顔から手を放し、子供みたいに、こっくりして領いた。その時の、あなたの瞳の柔軟な美しさは、今も目にあります。「笑って」といったら、ほんとに、あなたはにっこり笑った。
ぼくには、それだけが精一杯だったのです。
あの夜、それだけで別れて横浜まで、お逢いしなかった。けれど、あのときの別れが、今日迄も続いている気がします。