オリンポスの果実


 翌朝から、ぼくは、あなたを、先輩達に言わせれば、まるで犬の様につけまわし出しました。船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくはひまさえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです。

 その晩、B甲板の船室のかげで、あなたが手摺てすりもたれかかって、海を見ているところを、みつけました。うでをくんで背中をまるめている、あなたの緑色のスエタアのうえに、お下げにした黒髪くろかみが、颯々さつさつと、風になびき、折柄おりからの月光に、ひかっていました。勿論もちろんぼくには、馴々なれなれしく、そばによって、声をかける大胆だいたんさなどありません。ただ、あなたの横にいた、柴山のかたたたき、「なにを見てる」とたずねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも船板ふなばたから、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、舷側げんそくくだけるなみが、まるで石鹸シャボンのようにあわだち、沸騰ふっとうして、飛んでいました。

 次の晩、ぼくが、二等船室から喫煙室きつえんしつのほうに、階段をのぼって行くと、上り口の右側の部屋から、溌剌はつらつとしたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”といているようなので、そっとその部屋をのぞくと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。

 二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだしました。その花やいだ笑いに、つりこまれるように、ぼくは、その部屋が男子禁制のレディスルウムであるのも忘れ、ふらふらと入りんでしまいました。あなた達は、怪訝けげんな顔をして、ぼくを見ています。ぼくも入ったきり、なんとも出来ぬ、羞恥しゅうちにかられ、立ちすくんでしまった。

 すると、あなた達はそそくさ、部屋を出て行きました。ぼくも、その後から、急いでげだしたのです。

 翌晩、船で、簡単な晩餐会ばんさんかいがあって、その席上、選手全員の自己紹介が行われました。なにしろ元気一杯な連中ばかりですから、溌剌とした挨拶あいさつが、食堂中にひびわたります。やり丹智タンチさんが女にしては、堂々たる声で、「槍の丹智で御座ございます」とお辞儀じぎをすると、TAをCHIとちがやすいものですから、男達は、どっと笑い出しました。ぼくには、大きな体の丹智さんが、呆気あっけにとられ、すわりもならず、立っているのが、その時には、ほんとうにお気の毒でした。いつもなら、無邪気むじゃきに笑えたでしょう。が、あなたの上に、すぐ考えて、それが如何いかにも、女性をけがす、許されない悪巫山戯わるふざけに、思えたのです。

 ぼくの番になったら、美辞麗句れいくを連ね、あなたに認められようと思っていたのに、はずかしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、せいと名前を言ったら、もうおしまいでした。

 あなたの番になると、あなたは、じずおくせず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。

 それから何日、ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで孤独こどくなぼくには、なにかにつけ、目立った行為こういはできなかった。

 ある夜、船員達の素人芝居しろうとしばいがあるというので、みんな一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、仄明ほのあかるい廊下ろうかはずれに、月光に輝いた、実にさおな海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖ほおづえついた、あなたが、一人で月をながめていました。月は、横浜をってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜いざよいあたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大そうだいさは、玉兎ぎょくと、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりするほどです。満々たる月、満々たる水といいましょうか。みきった天心に、皎々こうこうたる銀盤ぎんばんが一つ、ぽかッとうかび、水波渺茫すいはびょうぼうかすんでいるあたりから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺ちりめんじわをよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、まことに、ものすさまじいばかりの景色でした。

 ぼくは一瞬いっしゅん度胆どぎもかれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅かいこうが、こんなにも、海を、月を、夜を、かぐわしくさせたとしか思われません。ぼくは胸をふくらませ、あなたを見つめました。

 その夜のあなたは、また、薄紫うすむらさき浴衣ゆかたに、黄色い三尺帯をめ、髪を左右に編んでお下げにしていました。化粧けしょうをしていない、小麦色のはだが、ぼくにしっとりとした、落着きをあたえてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この雰囲気ふんいきのなかでは、しゃべるよりもだまって、あなたと、海をみているほうが、たのしかった。

 随分ずいぶん、長い間、沈黙ちんもくが続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」とたずねました。あなたはうなずいてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が綺麗きれいだし、人が親切で」「ええ、いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、悪戯いたずらのように、くるくる動く黒眼勝くろめがちの、まつげの長いひとみを、輝かせ、えくぼをよせて頬笑ほほえむと、たもとひるがえし、かるく手拍子てびょうしを打って『土佐は良いとこ、南を受けて、薩摩颪さつまおろしがそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、おどりだしました。

 ぼくが可笑おかしがって、吹出ふきだすと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、播磨屋はりまや橋で、ぼうさん、かんざし、買うをみた』とすそをひるがえし、活溌かっぱつに、踊りだしました。文句の面白おもしろさもあって、踊るひと、るひと共に、大笑い、天地も、ために笑った、と言いたいのですが、これは白光浄土じょうどとも呼びたいくらい、荘厳そうごんな月夜でした。

 しかし、その月光のその一刻ひとときは、長かったようで、ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑ってむかえましたが、ぼくにとっては月の光りも、一時に、色褪いろあせた気持でした。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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