十七
おとらは途で知合の人に行逢うと、きっとお島が、生家の母親の病気を見舞いにいった体に吹聴していたが、お島にもその心算でいるようにと言含めた。
「作太郎にも余りつんけんしない方がいいよ。あれだってお前、為ることは鈍間でも、人間は好いものだよ。それにあの若さで、女買い一つするじゃなし、お前をお嫁にすることとばかり思って、ああやって働いているんだから。あれに働かしておいて、島ちゃんが商売をやるようにすれば、鬼に鉄棒というものじゃないか。お前は今にきっとそう思うようになりますよ」おとらはそうも言って聞せた。
お島は何だか変だと思ったが、欺したり何かしたら承知しないと、独で決心していた。
家へ帰ると、気をきかして何処かへ用達しにやったとみえて、作の姿は何処にも見えなかったが、紙漉場の方にいた養父は、おとらの声を聞つけると、直に裏口から上って来た。お島はおとらに途々言われたように、「御父さんどうも済みません」と、虫を殺してそれだけ言ってお叩頭をしたきりであったが、おとらが、さも自分が後悔してでもいるかのような取做方をするのを聞くと、急に厭気がさして、かっと目が晦むようであった。お島はこの家が遽に居心がわるくなって来たように思えた。取返しのつかぬ破滅に陥ちて来たようにも考えられた。
「あの時王子の御父さんは、家へ帰って来るとお島は隅田川へ流してしまったと云って御母さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈だ」養父はねちねちした調子で、そんな事まで言出した。
お島はつんと顔を外向けたが、涙がほろほろと頬へ流れた。
「旧を忘れるくらいな人間なら、駄目のこった」
お島がいらいらして、そこを立かけようとすると、養父はまた言足した。
「それで王子の方では、皆さんどんな考だったか。よもやお前に理があるとは言うまいよ」
お島は俛いたまま黙っていたが、気がじりじりして来て、じっとしていられなかった。
おとらが汐を見て、用事を吩咐けて、そこを起してくれたので、お島は漸と父親の傍から離れることが出来た。そして八畳の納戸で着物を畳みつけたり、散かったそこいらを取片着けて、埃を掃出しているうちに、自分がひどく脅されていたような気がして来た。
夕方裏の畑へ出て、明朝のお汁の実にする菜葉をつみこんで入って来ると、今し方帰ったばかりの作が、台所の次の間で、晩飯の膳に向おうとしていた。作は少し慍ったような風で、お島の姿を見ても、声をかけようともしなかったが、大分たってから明朝の仕かけをしているお島の側へ、汚れた茶碗や小皿を持出して来た時には、矢張いつものとおり、にやにやしていた。
「汚い、其地へやっとおき」お島はそんな物に手も触れなかった。