植源という父の仲間うちの隠居の世話で、父や母にやいやい言われて、翌年の春、神田の方の或鑵詰屋へ縁着かせられることになったお島は、長いあいだの掛合で、やっと幾分かを養家から受取ることのできた着物や頭髪のものを持って、心淋しい婚礼をすまして了った。
植源の隠居の生れ故郷から出て来て、長いあいだ店でも実直に働き、得意先まわりにも経験を積み、北海道の製造場にも二年弱もいて、職人と一緒に起臥して来たりした主人は、お島より十近くも年上であったが、家附の娘であった病身がちのその妻と死別れたのは、つい去年の秋の頃だと云うのであった。
鶴さんというその主人を、お島の姉もよく知っていた。神田の方のある棟梁の家から来ている植源の嫁も、その主人のことを始終鶴さん鶴さんといって、噂していた。植源の嫁は、生家の近所にあったその鑵詰屋のことを、何でもよく知っていたが、色白で目鼻立のやさしい鶴さんをも、まだ婿に直らぬずっと前から知っていた。その頃鶴さんは、鳥打帽をかぶって、自転車で方々の洋食店のコック場や、普通の家の台所へ、自家製の鑵詰ものや、西洋食料品の註文を持ちまわっていた。
先の上さんが、肺病で亡ったことを、お島はいよいよ片着くという間際まで、誰からも聞されずにいたが、姉の口からふとそれが洩れたときには、何だか厭なような気もした。
「先の上さんのような、しなしなした女は懲々だ。何でも丈夫で働く女がいいと言うのだそうだから、島ちゃんなら持って来いだよ」姉は肥りきったお島の顔を眺めながら揶揄ったが、男のいい鶴さんを旦那に持つことになったお島の果報に嫉妬を持っていることが、お島に感づかれた。死んだ上さんの衣裳が、そっくりそのまま二階の箪笥に二棹もあると云うことも、姉には可羨しかった。
結納の取換せがすんで、目録が座敷の床の間に恭しく飾られるまでは、お島は天性の反抗心から、傍で強いつけようとしているようなこの縁談について、結婚を目の前に控えている多くの女のように、素直な満足と喜悦に和ぎ浸ることができずに、暗い日蔭へ入っていくような不安を感じていた。養家にいた今までの周囲の人達に対する矜を傷つけられるようなのも、肩身が狭かった。作太郎に嫁が来たと云う噂が、年のうちに此方へも伝っていた。お島はそのことを、糧秣問屋の爺さんからも聞いたし、その土地の知合の人からも話された。その嫁はお島も知っている、男に似合いの近在の百姓家の娘であった。
「あの馬鹿が、どんな顔してるか一度見にいってやりましょうよ」お島は面白そうに笑ったが、何かにつけ、それを引合いに自分を悪く言う母親などから、そんな女と一つに見られるのが腹立しかった。