お島が腫ぼったいような目をして、父親の朝飯の給仕に坐ったのは、大分たってからであった。明放した部屋には、朝間の寒い風が吹通って、田圃の方から、ころころころころと啼く蛙の声が聞えていた。
「今日は雨ですよ。とても帰れやしませんよ」お島は縁の端へ出て、水分の多い曇空を眺めながら呟いた。
「さあ、どういう風になっているんですかね、私にもさっぱりわからないんですよ。多分お金なんか可いんでしょう」
ここに五十両もって来ているから、それで大概借金の方は片着く意だからといって、父親が胴巻から金を出したとき、お島は空※[22]けた顔をして言った。
「それじゃ御父さん恁うしましょう。私も長いあいだ世話になった家ですから、これから忙しくなろうと云うところを見込んで、帰って行くのも義理が悪いから、六月一杯だけいて、遅くともお盆には帰りましょう」
お島はそうも言って、父親を宥め帰そうと努めたが、こんな所に長くいては、どうせ碌なことにはならないからと言張って、やっぱり肯かなかった。田舎へ流れていっている娘について、近所で立っている色々の風聞が、父親の耳へも伝わっていた。
「立つにしたって、浜屋へもちょっと寄らなくちゃならないし、精米所だって顔を出さないで行くわけにいきやしませんよ。私だって髪の一つも結わなくちゃ......」お島は腹立しそうに終にそこを立っていったが、父親も到頭職人らしい若い時分の気象を出して、娘の体を牽着けておく風の悪い田舎の奴等が無法だといって怒りだした。
「お前と己とじゃ話のかたがつかねえ。誰でもいいから、話のわかるものを此処へ呼んできねえ」
父親は高い声をして言出した。
廊下をうろうろしていたお島の姿が、やがて浴場の方に現われた。
お島は目に一杯涙をためて、鏡の前に立っていたが、硝子戸をすかしてみると、今起きて出たばかりの男の白い顔が、湯気のもやもやした広い浴槽のなかに見られた。
「弱っちまうね、御父さんの頑固にも......」お島はそこへ顔を出して、溜息を吐いた。
「何といったって駄目だもの」
どうしようと云う話もきまらずに、そこに二人は暫く立話をしていたが、するうち※[23]が段々移っていった。
浜屋が湯からあがった時分には、お島の姿はもう家のどの部屋にも見られなかった。
町を離れて、山の方へお島は一人でふらふら登って行った。山はどこも彼処も咽かえるような若葉が鬱蒼としていた。痩せた菜花の咲いているところがあったり、赭土の多い禿山の蔭に、瀬戸物を焼いている竈の煙が、ほのぼのと立昇っていたりした。お島は静かなその山のなかへ、ぐんぐん入っていった。誰の目にも触れたくはなかった。どこか人迹のたえたところで、思うさま泣いてみたいと思った。