一の二
「お嬢――おやどういたしましょう、また口がすべって、おほほほほ。あの、奥様、ただいま帰りましてございます。おや、まっくら。奥様エ、どこにおいで遊ばすのでございます?」
「ほほほほ、ここにいるよ」
「おや、ま、そちらに。早くおはいり遊ばせ。お風邪を召しますよ。旦那様はまだお帰り遊ばしませんでございますか?」
「どう遊ばしたんだろうね?」と障子をあけて内に入りながら「何なら帳場へそう言って、お迎人をね」
「さようでございますよ」言いつつ手さぐりにマッチをすりてランプを点くるは、五十あまりの老女。
おりから階段の音して、宿の女中は上り来つ。
「おや、恐れ入ります。旦那様は大層ごゆっくりでいらっしゃいます。……はい、あのいましがた若い者をお迎えに差し上げましてございます。もうお帰りでございましょう。――お手紙が――」
「おや、お父さまのお手紙――早くお帰りなさればいいに!」と丸髷の婦人はさもなつかしげに表書を打ちかえし見る。
「あの、殿様の御状で――。早く伺いたいものでございますね。おほほほほ、きっとまたおもしろいことをおっしゃってでございましょう」
女中は戸を立て、火鉢の炭をついで去れば、老女は風呂敷包みを戸棚にしまい、立ってこなたに来たり、
「本当に冷えますこと! 東京とはよほど違いますでございますねエ」
「五月に桜が咲いているくらいだからねエ。ばあや、もっとこちらへお寄りな」
「ありがとうございます」言いつつ老女はつくづく顔打ちながめ「うそのようでございますねエ。こんなにお丸髷にお結い遊ばして、ちゃんとすわっておいで遊ばすのを見ますと、ばあやがお育て申し上げたお方様とは思えませんでございますよ。先奥様がお亡くなり遊ばした時、ばあやに負されて、母様母様ッてお泣き遊ばしたのは、昨日のようでございますがねエ」はらはらと落涙し「お輿入の時も、ばあやはねエあなた、あの立派なごようすを先奥様がごらん遊ばしたら、どんなにおうれしかったろうと思いましてねエ」と襦袢の袖引き出して目をぬぐう。
こなたも引き入れられるるようにうつぶきつ、火鉢にかざせし左手の指環のみ燦然と照り渡る。
ややありて姥は面を上げつ。「御免遊ばせ、またこんな事を。おほほほ年が寄ると愚痴っぽくなりましてねエ。おほほほほ、お嬢――奥様もこれまではいろいろ御苦労も遊ばしましたねエ。本当によく御辛抱遊ばしましたよ。もうもうこれからはおめでたい事ばかりでございますよ、旦那様はあの通りおやさしいお方様――」
「お帰り遊ばしましてございます」
と女中の声階段の口に響きぬ。