九の三
医師は騒がず看護婦を呼びて、応急の手段を施しつ。さしずして寝床に近き玻璃窓を開かせたり。
涼しき空気は一陣水のごとく流れ込みぬ。まっ黒き木立の背ほのかに明るみたるは、月出でんとするなるべし。
父中将を首として、子爵夫人、加藤子爵夫人、千鶴子、駒子、及び幾も次第にベッドをめぐりて居流れたり。風はそよ吹きてすでに死せるがごとく横たわる浪子の鬢髪をそよがし、医はしきりに患者の面をうかがいつつ脈をとれば、こなたに立てる看護婦が手中の紙燭はたはたとゆらめいたり。
十分過ぎ十五分過ぎぬ。寂かなる室内かすかに吐息聞こえて、浪子の唇わずかに動きつ。医は手ずから一匕の赤酒を口中に注ぎぬ。長き吐息は再び寂かなる室内に響きて、
「帰りましょう、帰りましょう、ねエあなた――お母さま、来ますよ来ますよ――おお、まだ――ここに」
浪子はぱっちりと目を開きぬ。
あたかも林端に上れる月は一道の幽光を射て、惘々としたる浪子の顔を照らせり。
医師は中将にめくばせして、片隅に退きつ。中将は進みて浪子の手を執り、
「浪、気がついたか。おとうさんじゃぞ。――みんなここにおる」
空を見詰めし浪子の目は次第に動きて、父中将の涙に曇れる目と相会いぬ。
「おとうさま――おだいじに」
ほろほろ涙をこぼしつつ、浪子はわずかに右手を移して、その左を握れる父の手を握りぬ。
「お母さま」
子爵夫人は進みて浪子の涙をぬぐいつ。浪子はその手を執り
「お母さま――御免――遊ばして」
子爵夫人の唇はふるい、物を得言わず顔打ちおおいて退きぬ。
加藤子爵夫人は泣き沈む千鶴子を励ましつつ、かわるがわる進みて浪子の手を握り、駒子も進みて姉の床ぎわにひざまずきぬ。わななく手をあげて、浪子は妹の前髪をかいなでつ。
「駒ちゃん――さよなら――」
言いかけて、苦しき息をつけば、駒子は打ち震いつつ一匕の赤酒を姉の唇に注ぎぬ。浪子は閉じたる目を開きつつ、見回して
「毅一さん――道ちゃん――は?」
二人の小児は子爵夫人の計らいとして、すでに月の初めより避暑におもむけるなり。浪子はうなずきて、ややうっとりとなりつ。
この時座末に泣き浸りたる幾は、つと身を起こして、力なくたれし浪子の手をひしと両手に握りぬ。
「ばあや――」
「お、お、お嬢様、ばあやもごいっしょに――」
泣きくずるる幾をわずかに次へ立たしたるあとは、しんとして水のごとくなりぬ。浪子は口を閉じ、目を閉じ、死の影は次第にその面をおおわんとす。中将はさらに進みて
「浪、何も言いのこす事はないか。――しっかりせい」
なつかしき声に呼びかえされて、わずかに開ける目は加藤子爵夫人に注ぎつ。夫人は浪子の手を執り、
「浪さん、何もわたしがうけ合った。安心して、お母さんの所においで」
かすかなる微咲の唇に上ると見れば、見る見る瞼は閉じて、眠るがごとく息絶えぬ。
さし入る月は蒼白き面を照らして、微咲はなお唇に浮かべり。されど浪子は永く眠れるなり。
*
三日を隔てて、浪子は青山墓地に葬られぬ。
交遊広き片岡中将の事なれば、会葬者はきわめておおく、浪子が同窓の涙をおおうて見送れるも多かりき。少しく子細を知れる者は中将の暗涙を帯びて棺側に立つを見て断腸の思いをなせしが、知らざる者も老女の幾がわれを忘れて棺にすがり泣き口説けるに袖をぬらしたり。
故人は妙齢の淑女なればにや、夏ながらさまざまの生け花の寄贈多かりき。そのなかに四十あまりの羽織袴の男がもたらしつるもののみは、中将の玄関より突き返されつ。その生け花には「川島家」の札ありき。