芝桜川町なる山木兵造が邸は、すぐれて広しというにあらねど、町はずれより西久保の丘の一部を取り込めて、庭には水をたたえ、石を据え、高きに道し、低きに橋して、楓桜松竹などおもしろく植え散らし、ここに石燈籠あれば、かしこに稲荷の祠あり、またその奥に思いがけなき四阿あるなど、この門内にこの庭はと驚かるるも、山木が不義に得て不義に築きし万金の蜃気楼なりけり。
時はすでに午後四時過ぎ、夕烏の声遠近に聞こゆるころ、座敷の騒ぎを背にして日影薄き築山道を庭下駄を踏みにじりつつ上り行く羽織袴の男あり。こは武男なり。母の言黙止し難くて、今日山木の宴に臨みつれど、見も知らぬ相客と並びて、好まぬ巵挙ぐることのおもしろからず。さまざまの余興の果ては、いかがわしき白拍子の手踊りとなり、一座の無礼講となりて、いまいましきこと限りもなければ、疾くにも辞し去らんと思いたれど、山木がしきりに引き留むるが上に、必ず逢わんと思える千々岩の宴たけなわなるまで足を運ばざりければ、やむなく留まりつ、ひそかに座を立ちて、熱せる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なき方をたどりしなり。
武男が舅中将より千々岩に関する注意を受けて帰りし両三日後、鰐皮の手かばんさげし見も知らぬ男突然川島家に尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々岩安彦、保証人の名前は顕然川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。先方の口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか寓を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り出したる往復の書面を見るに、違う方なき千々岩が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事の田崎も、さる相談にあずかりし覚えなく、印形を貸したる覚えさらになしという。かのうわさにこの事実思いあわして、武男は七分事の様子を推しつ。あたかもその日千々岩は手紙を寄せて、明日山木の宴会に会いたしといい越したり。
その顔だに見ば、問うべき事を問い、言うべき事を言いて早帰らんと思いし千々岩は来たらず、しきりに波立つ胸の不平を葉巻の煙に吐きもて、武男は崖道を上り、明竹の小藪を回り、常春藤の陰に立つ四阿を見て、しばし腰をおろせる時、横手のわき道に駒下駄の音して、はたと豊子と顔見合わせつ。見れば高島田、松竹梅の裾模様ある藤色縮緬の三枚襲、きらびやかなる服装せるほどますます隙のあらわれて、笑止とも自らは思わぬなるべし。その細き目をばいとど細うして、
「ここにいらっしたわ」
三十サンチ巨砲の的には立つとも、思いがけなき敵の襲来に冷やりとせし武男は、渋面作りてそこそこに兵を収めて逃げんとするを、あわてて追っかけ
「あなた」
「何です?」
「おとっさんが御案内して庭をお見せ申せってそう言いますから」
「案内? 案内はいらんです」
「だって」
「僕は一人で歩く方が勝手だ」
これほど手強く打ち払えばいかなる強敵も退散すべしと思いきや、なお懲りずまに追いすがりて
「そうお逃げなさらんでもいいわ」
武男はひたと当惑の眉をひそめぬ。そも武男とお豊の間は、その昔父が某県を知れりし時、お豊の父山木もその管下にありて常に出入したれば、子供もおりおり互いに顔合わせしが、まだ十一二の武男は常にお豊を打ちたたき泣かしては笑いしを、お豊は泣きつつなお武男にまつわりつ。年移り所変わり人長けて、武男がすでに新夫人を迎えける今日までも、お豊はなお当年の乱暴なる坊ちゃま、今は川島男爵と名乗る若者に対してはかなき恋を思えるなり。粗暴なる海軍士官も、それとうすうす知らざるにあらねば、まれに山木に往来する時もなるべく危うきに近よらざる方針を執りけるに、今日はおぞくも伏兵の計に陥れるを、またいかんともするあたわざりき。
「逃げる? 僕は何も逃げる必要はない。行きたい方に行くのだ」
「あなた、それはあんまりだわ」
おかしくもあり、ばからしくもあり、迷惑にもあり、腹も立ちし武男行かんとしては引きとめられ、逃れんとしてはまつわられ、あわれ見る人もなき庭のすみに新日高川の一幕を出せしが、ふと思いつく由ありて、
「千々岩はまだ来ないか、お豊さんちょっと見て来てくれたまえ」
「千々岩さんは日暮れでなけりゃ来ないわ」
「千々岩は時々来るのかね」
「千々岩さんは昨日も来たわ、おそくまで奥の小座敷でおとっさんと何か話していたわ」
「うん、そうか――しかしもう来たかもしれん、ちょっと見て来てくれないかね」
「わたしいやよ」
「なぜ!」
「だって、あなた逃げて行くでしょう、なんぼわたしがいやだって、浪子さんが美しいって、そんなに人を追いやるものじゃなくってよ」
「油断せば雨にもならんずる空模様に、百計つきたる武男はただ大踏歩して逃げんとする時、
「お嬢様、お嬢様」
と婢の呼び来たりて、お豊を抑留しつ。このひまにと武男はつと藪を回りて、二三十歩足早に落ち延び、ほっと息つき
「困った女だ」
とつぶやきながら、再度の来襲の恐れなき屈強の要害――座敷の方へ行きぬ。