日は入り、客は去りて、昼の騒ぎはただ台所の方に残れる時、羽織袴は脱ぎすてて、煙草盆をさげながら、おぼつかなき足踏みしめて、廊下伝いに奥まりたる小座敷に入り来し主人の山木、赤禿げの前額の湯げも立ち上らんとするを、いとどランプの光に輝かしつつ、崩るるようにすわり、
「若旦那も、千々岩君も、お待たせ申して失敬でがした。はははは、今日はおかげで非常の盛会……いや若旦那はお弱い、失敬ながらお弱い、軍人に似合いませんよ。御大人なんざそれは大したものでしたよ。年は寄っても、山木兵造――なあに、一升やそこらははははは大丈夫ですて」
千々岩は黒水晶の目を山木に注ぎつ。
「大分ご元気ですな。山木君、もうかるでしょう?」
「もうかるですとも、はははは――いやもうかるといえば」と山木は灰だらけにせし煙管をようやく吸いつけ、一服吸いて「何です、その、今度あの○○○○が売り物に出るそうで、実は内々様子を探って見たが、先方もいろいろ困っている際だから、案外安く話が付きそうですて。事業の方は、大有望さ。追い追い内地雑居と来ると、いよいよ妙だが、いかがです若旦那、田崎君の名義でもよろしいから、二三万御奮発なすっちゃ。きっともうけさして上げますぜ」
と本性違わぬ生酔いの口は、酒よりもなめらかなり。千々岩は黙然と坐しいる武男を流眸に見て、「○○○○、確か青物町の。あれは一時もうかったそうじゃないか」
「さあ、もうかるのを下手にやり崩したんだが、うまく行ったらすばらしい金鉱ですぜ」
「それは惜しいもんだね。素寒貧の僕じゃ仕方ないが、武男君、どうだ、一肩ぬいで見ちゃア」
座に着きし初めより始終黙然として不快の色はおおう所なきまで眉宇にあらわれし武男、いよいよ懌ばざる色を動かして、千々岩と山木を等分に憤りを含みたる目じりにかけつつ
「御厚意かたじけないが、わが輩のように、いつ魚の餌食になるか、裂弾、榴弾の的になるかわからない者は、別に金もうけの必要もない。失敬だがその某会社とかに三万円を投ずるよりも、わが輩はむしろ海員養成費に献納する」
にべなく言い放つ武男の顔、千々岩はちらとながめて、山木にめくばせし、
「山木君、利己主義のようだが、その話はあと回しにして僕の件から願いたいがね。川島君も承諾してくれたから、願って置いた通り――御印がありますか」
証書らしき一葉の書付を取り出して山木の前に置きぬ。
千々岩の身辺に嫌疑の雲のかかれるも宜なり。彼は昨年来その位置の便宜を利用して、山木がために参謀となり牒者となりて、その利益の分配にあずかれるのみならず、大胆にも官金を融通して蠣殻町に万金をつかまんとせしに、たちまち五千円余の損亡を来たしつ。山木をゆすり、その貯えの底をはたきて二千円を得たれども、なお三千の不足あり。そのただ一親戚なる川島家は富みてかつ未亡人の覚えめでたからざるにもあらざれど、出すといえばおくびも惜しむ叔母の性質を知れる千々岩は、打ち明けて頼めば到底らちの明かざるを看破り、一時を弥縫せんと、ここに私印偽造の罪を犯して武男の連印を贋り、高利の三千円を借り得て、ひとまず官金消費の跡を濁しつ。さるほどに期限迫りて、果てはわが勤むる官署にすら督促のはがきを送らるる始末となりたれば、今はやむなくあたかも帰朝せる武男を説き動かし、この三千円を借り得てかの三千円を償い、武男の金をもって武男の名を贖わんと欲せしなり。さきに武男を訪いたれどおりあしく得逢わず、その後二三日職務上の要を帯びて他行しつれば、いまだ高利貸のすでに武男が家に向かいしを知らざるなりき。
山木はうなずき、ベルを鳴らして朱肉の盒を取り寄せ、ひと通り証書に目を通して、ふところより実印取り出でつつ保証人なるわが名の下に捺しぬ。そを取り上げて、千々岩は武男の前に差し置き、
「じゃ、君、証書はここにあるから――で、金はいつ受け取れるかね」
「金はここに持っている」
「ここに?――戯談はよしたまえ」
「持っている。――では、参千円、確かに渡した」
懐中より一通の紙に包みたるもの取り出でて、千々岩が前に投げつけつ。
打ち驚きつつ拾い上げ、おしひらきたる千々岩の顔はたちまち紅になり、また蒼くなりつ。きびしく歯を食いしばりぬ。彼はいまだ高利貸の手にあらんと信じ切ったる証書を現に目の前に見たるなり。武男は田崎に事の由を探らせし後、ついに怪しかる名前の上の三千円を払いしなりき。
「いや、これは――」
「覚えがないというのか。男らしく罪に伏したまえ」
子供、子供と今が今まで高をくくりし武男に十二分に裏をかかれて、一腔の憤怨焔のごとく燃え起こりたる千々岩は、切れよと唇をかみぬ。山木は打ちおどろきて、煙管をやに下がりに持ちたるまま二人の顔をながむるのみ。
「千々岩、もうわが輩は何もいわん。親戚のよしみに、決して私印偽造の訴訟は起こさぬ。三千円は払ったから、高利貸のはがきが参謀本部にも行くまい、安心したまえ」
あくまではずかしめられたる千々岩は、煮え返る胸をさすりつ。気は武男に飛びもかからんとすれども、心はもはや陳弁の時機にあらざるを認むるほどの働きを存せるなり。彼はとっさに態度を変えつ。
「いや、君、そういわれると、実に面目ないがね、実はのっぴきならぬ――」
「何がのっぴきならぬのだ? 徳義ばかりか法律の罪人になってまで高利を借る必要がどこにあるのか」
「まあ、聞いてくれたまえ。実は切迫つまった事で、金は要る、借りるところはなし。君がいると、一も二もなく相談するのだが、叔母様には言いにくいだろうじゃないか。それだといって、急場の事だし、済まぬ――済まぬと思いながら――、実は先月はちっと当てもあったので、皆済してから潔く告白しようと――」
「ばかを言いたまえ。潔く告白しようと思った者が、なぜ黙って別に三千円を借りようとするのだ」
膝を乗り出す武男が見幕の鋭きに、山木はあわてて、
「これさ、若旦那、まあ、お静かに、――何か詳しい事情はわかりませんが、高が二千や三千の金、それに御親戚であって見ると、これは御勘弁――ねエ若旦那。千々岩君も悪い、悪いがそこをねエ若旦那。こんな事が表ざたになって見ると、千々岩君の立身もこれぎりになりますから。ねエ若旦那」
「それだから三千円は払った、また訴訟なぞしないといっているじゃないか。――山木、君の事じゃない、控えて居たまえ、――それはしない、しかしもう今日限り絶交だ」
もはや事ここにいたりては恐るる所なしと度胸を据えし千々岩は、再び態度を嘲罵にかえつ。
「絶交?――別に悲しくもないが――」
武男の目は焔のごとくひらめきつ。
「絶交はされてもかまわんが、金は出してもらうというのか。腰抜け漢!」
「何?」
気色立つ双方の勢いに酔いもいくらかさめし山木はたまり兼ねて二人が間に分け入り「若旦那も、千々岩君も、ま、ま、ま、静かに、静かに、それじゃ話も何もわからん、――これさ、お待ちなさい、ま、ま、ま、お待ちなさい」としきりにあなたを縫いこなたを繕う。
押しとめられて、しばし黙然としたる武男は、じっと千々岩が面を見つめ、
「千々岩、もういうまい。わが輩も子供の時から君と兄弟のように育って、実際才力の上からも年齢からも君を兄と思っていた。今後も互いに力になろう、わが輩も及ぶだけ君のために尽くそうと思っていた。実はこのごろまでもまさかと信じ切っていた。しかし全く君のために売られたのだ、わが輩を売るのは一個人の事だが、君はまだその上に――いやいうまい、三千円の費途は聞くまい。しかし今までのよしみに一言いって置くが、人の耳目は早いものだ、君は目をつけられているぞ、軍人の体面に関するような事をしたもうな。君たちは金より貴いものはないのだから、言ったってしかたはあるまいが、ちっとあ恥を知りたまえ。じゃもう会うまい。三千円はあらためて君にくれる」
厳然として言い放ちつつ武男は膝の前なる証書をとってずたずたに引き裂き棄てつ。つと立ち上がって次の間に出でし勢いに、さっきよりここに隠れて聞きおりしと覚しき女お豊を煽り倒しつ。「あれえ」という声をあとに足音荒く玄関の方に出で去りたり。
あっけにとられし山木と千々岩と顔見あわしつ。「相変わらず坊っちゃまだね。しかし千々岩さん、絶交料三千円は随分いいもうけをしたぜ」
落ち散りたる証書の片々を見つめ、千々岩は黙然として唇をかみぬ。