中将は浪子の手をひきつつ
「年のたつは早いもンじゃ。浪、卿はおぼえておるかい、卿がちっちゃかったころ、よくおとうさんに負ぶさって、ぽんぽんおとうさんが横腹をけったりしおったが。そうじゃ、卿が五つ六つのころじゃったの」
「おほほほほ、さようでございましたよ。殿様が負ぶ遊ばしますと、少嬢様がよくおむずかり遊ばしたンでございますね。――ただ今もどんなにおうらやましがっていらッしゃるかもわかりませんでございますよ」と気軽に幾が相槌うちぬ。
浪子はたださびしげにほほえみつ。
「駒か。駒にはおわびにどっさり土産でも持って[42]行くじゃ。なあ、浪。駒よか千鶴さんがうらやましがっとるじゃろう、一度こっちに来たがっておったのじゃから」
「さようでございますよ。加藤のお嬢様がおいで遊ばしたら、どんなにおにぎやかでございましょう。――本当に私なぞがまあこんな珍しい見物さしていただきまして――あの何でございますか、さっき渡りましたあの川が宇治川で、あの螢の名所で、ではあの駒沢が深雪にあいました所でございますね」
「はははは、幾はなかなか学者じゃの。――いや世の中の移り変わりはひどいもンじゃ。おとうさんなぞが若かった時分は、大阪から京へ上るというと、いつもあの三十石で、鮓のごと詰められたもンじゃ。いや、それよかおとうさんがの、二十の年じゃった、大西郷と有村――海江田と月照師を大阪まで連れ出したあとで、大事な要がでけて、おとうさんが行くことになって、さああと追っかけたが、あんまり急いで一文なしじゃ。とうとう頬かぶりをして跣足で――夜じゃったが――伏見から大阪まで川堤を走ったこともあったンじゃ。はははは。暑いじゃないか、浪、くたびれるといかん、もう少し乗ったらどうじゃ」
おくれし車を幾が手招けば、からからと挽き来つ。三人は乗りぬ。
「じゃ、そろそろやってくれ」
車は徐々に麦圃を穿ち、茶圃を貫きて、山科の方に向かいつ。
前なる父が項の白髪を見つめて、浪子は思いに沈みぬ。良人に別れ、不治の疾をいだいて、父に伴なわるるこの遊びを、うれしといわんか、哀しと思わんか。望みも楽しみも世に尽き果てて遠からぬ死を待つわれを不幸といわば、そのわれを思い想う父の心をくむに難からず。浪子は限りなき父の愛を想うにつけても、今の身はただ慰めらるるほかに父を慰むべき道なきを哀しみつ。世を忘れ人を離れて父子ただ二人名残の遊びをなす今日このごろは、せめて小供の昔にかえりて、物見遊山もわれから進み、やがて消ゆべき空蝉の身には要なき唐織り物も、末は妹に紀念の品と、ことに華美なるを選みしなり。
父を哀しと思えば、恋しきは良人武男。旅順に父の危難を助けたまいしとばかり、後の消息はたれ伝うる者もなく、思いは飛び夢は通えど、今はいずくにか居たもうらん。あいたし、一度あいたし、生命あるうちに一度、ただ一度あいたしと思うにつけて、さきに聞きつる鄙歌のあいにく耳に響き、かの百姓夫婦のむつまじく語れる面影は眼前に浮かび、楽しき粗布に引きかえて憂いを包む風通の袂恨めしく――
せぐり来る涙をハンケチにおさえて、泣かじと唇をかめば、あいにくせきのしきりに濡れぬ。
中将は気づかわしげに、ふりかえりつ。
「もうようございます」
浪子はわずかに笑みを作りぬ。
*
山科に着きて、東行の列車に乗りぬ。上等室は他に人もなく、浪子は開ける窓のそばに、父はかなたに坐して新聞を広げつ。
おりから煙を噴き地をとどろかして、神戸行きの列車は東より来たり、まさに出でんとするこなたの列車と相ならびたり。客車の戸を開閉する音、プラットフォームの砂利踏みにじりて駅夫の「山科、山科」と叫び過ぐる声かなたに聞こゆるとともに、汽笛鳴りてこなたの列車はおもむろに動き初めぬ。開ける窓の下に坐して、浪子はそぞろに移り行くあなたの列車をながめつ。あたかもかの中等室の前に来し時、窓に頬杖つきたる洋装の男と顔見合わしたり。
「まッあなた!」
「おッ浪さん!」
こは武男なりき。
車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ。
「おあぶのうございますよ、お嬢様」
幾は驚きてしかと浪子の袂を握りぬ。
新聞手に持ちたるまま中将も立ち上がりて窓の外を望みたり。
列車は五間過ぎ――十間過ぎぬ。落つばかりのび上がりて、ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるごとくかのハンケチを振りて、何か呼べるを見つ。
たちまちレールは山角をめぐりぬ。両窓のほか青葉の山あるのみ。後ろに聞こゆる帛を裂くごとき一声は、今しもかの列車が西に走れるならん。
浪子は顔打ちおおいて、父の膝にうつむきたり。