田崎はほえみぬ。川島未亡人は眉をひそめしなり。
武男が憤然席をけ立てて去りしかの日、母はこの子の後ろ影をにらみつつ叫びぬ。
「不孝者めが! どうでも勝手にすッがええ」
母は武男が常によく孝にして、わが意を迎うるに[35]踟※せざるを知りぬ。知れるがゆえに、その浪子に対するの愛もとより浅きにあらざるを知りつつも、その両立するあたわざる場合には、一も二もなくかの愛をすててこの孝を取るならんと思えり。思えるがゆえに、その仕打ちのわれながらむしろ果断に過ぐるを思わざるにあらざりしも、なお家のため武男のためと謂いつつ、独断をもて浪子を離別せるなり。武男が憤りの意外にはげしかりしを見るに及んで、母は初めてわが違算を悟り、同時にいわゆる母なるものの決して絶対的権力をその子の上に有するものにあらざるを知りぬ。さきにはその子の愛の浪子に注ぐを一種不快の目をもて見たりしが、今は母の愛母の威光母の恩をもってしてなお死に瀕したる一浪子の愛に勝つあたわざるを見るに及び、わが威権全くおちたるように、その子をば全く浪子に奪い去られしように感じて、かつは武男を怒り、かつは実家に帰り去れる後までもなお浪子をののしれるなり。
なお一つその怒りを激せしものありき。そはおぼろげながら方寸のいずれにかおのが仕打ちの非なるを、知るとにはあらざれど、いささかその疑いのほのかにたなびけるなり。武男が憤りの底にはちとの道理なかりしか。わが仕打ちにはちとのわが領分を越えてその子を侵せし所はなかりしか。眠られぬ夜半にひとり奥の間の天井にうつる行燈の影ながめつつ考うるとはなく思えば、いずくにか汝の誤りなり汝の罪なりとささやく声あるように思われて、さらにその胸の乱るるを覚えぬ。世にも強きは自ら是なりと信ずる心なり。腹立たしきは、あるいは人よりあるいはわが衷なるあるものよりわが非を示されて、われとわが良心の前に悔悟の膝を折る時なり。灸所を刺せば、猛獣は叫ぶ。わが非を知れば、人は怒る。武男が母は、これがために抑え難き怒りはなおさらに悶を加えて、いよいよ武男の怒るべく、浪子の悪むべきを覚えしなり。武男は席をけって去りぬ。一日また一日、彼は来たりて罪を謝するなく、わびの書だも送り来たらず。母は胸中の悶々を漏らすべきただ一の道として、その怒りをほしいままにして、わずかに自ら慰めつ。武男を怒り、浪子を怒り、かの時を思い出でて怒り、将来を想うて怒り、悲しきに怒り、さびしきに怒り、詮方なきにまた怒り、怒り怒りて怒りの疲労にようやく夜も睡るを得にき。
川島家にては平常にも恐ろしき隠居が疳癪の近ごろはまたひた燃えに燃えて、慣れしおんなばらも幾たびか手荷物をしまいかける間に、朝鮮事起こりて豊島牙山の号外は飛びぬ。戦争に行くに告別の手紙の一通もやらぬ不埒なやつと母は幾たびか怒りしが、世間の様子を聞けば、田舎よりその子の遠征を見送らんと出で来る老婆、物を贈り書を送りてその子を励ます母もありというに、子は親に怒り親は子を憤りて一通の書だに取りかわさず、彼は戦地にわれは帝都に、おのおの心に不快の塊をいだいて、もしこのままに永別となるならば、と思うとはなく、ほのかに感じたる武男が母は、ついにののしりののしり我を折りて引きつづき二通の書を戦地にあるその子にやりぬ。
折りかえして戦地より武男が返書は来たれり。返書来たりてより一月あまりにして、一通の電報は佐世保の海軍病院より武男が負傷を報じ来しぬ。さすがに母が電報をとりし手はわなわなと打ち震いつ。ほどなくその負傷は命に関するほどにもあらざる由を聞きたれど、なお田崎を遠く佐世保にやりてそのようすを見させしなりき。