Author: Yosano, Akiko
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About the original source:
Title: Yosano Akiko hyoronshu
Author: Akiko Yosano
Publisher: Tokyo : Iwanami Shoten , 1985
Publication Note: The copy-text is based on Nyo`nin sozo (Tokyo: Hakusuisha, 1920).
人類が連帯責任の中に協力して文化主義の生活を建設し、その生活の福祉に
正当な社会的分業ということは、一切の人類が心的及び体的の実力を以て、文化生活の維持と増進とに必要な労作を分担することです。この労作には精神的のものもあり、物質的のものもありますが、前者が高等な労作であり、後者が劣等な労作であるという差別はありません。私は文化生活に役立つ上において等しく相対的の価値を持っているものであると考えます。自己の能力に応じ、自ら認めて受持つ所の分業ですから、
文化主義の生活を実現する社会には、一人としてこの労作の義務を負担しないものはありません。この義務を生存の権利として要求します。何人からも強いられず、何人にも強いず、各自が自発的に権利として要求する所の社会的奉仕です。かくする事に由って、人は互に自己の個人的存在の理由を充実し、生き甲斐のある人生を享楽するのです。
人類の感情は次第にこの文化主義の実現に向って傾動しています。しかしこれに逆行する反対の利己的感情がまだ多分に残っていますから、最近の大戦のような文化生活の破壊を試みる一大蛮行が突如として発生もしましたが、人は到底野獣の生活に還元されるものでなく、かえってこの大戦から受けた刺戟に由って、世界は一つの大きな自覚を加え、――それはあたかも大火に
その中にも最も偉大な自覚であると思うのは、民衆が自己の個性の威厳と力量とに、一層顕著に目覚めて来たことです。例えば労働者がその集団を以てすれば、資本家階級に対抗して優に対等の争闘的実力を成立し、久しく従属的奴隷的の階級として資本家の圧迫の下に
この現象は、
武力に訴える人類間の闘争は独墺の屈服に由って一段落がついたようですが、望む所の平和はまだ容易にその
これまでの労働者が企てた階級闘争は本能的、盲目的のものでした。反射的、ヒステリイ的のものでした。彼らは敵についても、味方についても、その実力を知らず、その要求が一時的の不平に発し、その行動が個人的に偏して、多数の利害を念とする協同作用が欠けていましたから、資本家の慈善主義に感激したり、警察官や軍隊の威圧に挫折したりして、たわいもない結果に終る場合が多かったようですが、最近の同盟罷工には、労働者に知識があり、自制があって、その要求が或程度の合理的基礎を備え、その行動が自制と組織とを持つようになりました。これは労働者の非常な進歩です。こういう聡明なかつ道徳的な労働運動に対しては、第一に一般社会がこれに同情して、隠然と多大の後援を寄せることになります。また資本家も官憲も姑息な圧制手段や温情的方法を以て一時を
私は貧富の階級闘争を以て到底一度は避けがたいものだと思っています。それは無産階級にある私たちが、一面には労働者として余りに不当に少く支払われ、一面には消費者として余りに不当に多く支払わされているという日日の経済事情がこれを促進せずに置きません。この事は一に少数の資本家と称する特権階級が、その利己的欲望の発露である資本主義的制度、営利的企業制度に由って私たち無産階級の生活を出来るだけ脅かしている所から発生する不祥な事象です。
既に階級闘争が避けがたいものであるとすれば、出来るだけ穏和な方法でこれを早く通過してしまうことが聡明な仕方だと思います。これを圧服しようと考えるのは、腸
しかし私は、今日
階級闘争がこういう賃銀の増給のような要求を前衛として起って来る間は、資本家はまだ太平の夢を見ていることが出来ます。労働者が資本家の存在を認めて、賃銀さえ要求通りに支払わるれば、その下風に立って各自の労働力を商品の如くに売買することを辞しないという奴隷的精神が明確に維持されているからです。
私の考察では、階級闘争という意義は、労働者が全く資本家の支配から解放されて、平等なる人格者として対抗し、これまで資本家が利潤として独占していた剰余価値を――むしろ労働者から
今日の資本家が利潤において五割七割という配当を行っているのに、労働者が利潤の方面には手を着けず、全く無関心に放任して置いて、その賃銀ばかりの値上を迫っているのは、資本家と対等な人格的独立者としての権利的要求でなくて、徹頭徹尾資本家の隷属として社会的低位にある人間の哀訴的要求であると思います。
私はこの物価の暴騰時代に、労働者が目前の窮乏を補足する必要から、賃銀の値上を要求することは正当過ぎる要求として勿論同感しますが、しかしこれが前述のように階級闘争の意義に遠いものである所から、この事が少しも無産階級全体の幸福とはならない事を遺憾に思います。賃銀の値上は、その要求に成功したる少数の工場労働者だけに目前の窮乏を救うだけのものです。のみならず、値上げしたる賃銀は資本家の利潤から支払われるものでなくて、資本家はきっとそれだけの増収を製品の価格を値上げすることに由って計ろうとします。例えば活版職工の賃銀の増加はてきめん印刷物の定価の引上を見ずに置きません。そうすれば、資本家と、及びその資本家と賃銀において妥協した少数の労働者とが協力して、製品の価格を不法に
例えば私たちのような文筆の職業に就いている者は単独的労働者であって、工場や会社の労働者のように集団的行動を
しかし階級闘争が賃銀の値上を越えて、その本体たる利潤の争奪戦にまで向上する日が遠からず到来するにせよ、そうしてあるいはそれが露西亜の過激派のように、労働階級の勝利に帰する日があるにせよ、私はそれを決して望ましい事だとは考えないのです。それは反動の社会です。極端なる資本家階級の横暴に代えるに、極端なる労働階級の横暴を以てする社会です。私の理想はそういう
私は階級闘争を出来るだけ早く緩和する方法として、資本階級の絶滅を計ると共に、労働階級の絶滅をも併せて計る外はないと思います。両階級が対立して存在する限り、いずれかの一方が代って支配者の地位に就くことを要求し、特権を占有する者と第二次的人格者として隷属する者との嫉視争闘の断える機会は永久に来ないでしょう。
文化主義の社会には、唯だ文化生活の建設に努力し、協力し、貢献する労作者ばかりがあります。資本主義もなければ営利主義もなく、従って資本家と労働者との階級が対立する見苦しい光景もありません。生活に必要な物質財は、その生産を各人の能力に応じて自由に分担すると共に、その分配もまた各人の必要に応じて公平に
資本主義の精神と制度とが勢力を持っている今日において、このような文化生活を