Author: Yosano, Akiko
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©2004 by the Rector and Visitors of the University of Virginia
About the original source:
Title: Yosano Akiko hyoronshu
Author: Akiko Yosano
Publisher: Tokyo : Iwanami Shoten , 1985
Publication Note: The copy-text is based on Ningen reihai (Tokyo: Ten'yusha, 1921).
日本人は早く仏教に由って「無常迅速の世の中」と教えられ、儒教に由って「日に新たにしてまた日に新たなり」ということを学びながら、それを小乗的悲観の意味にばかり解釈して来たために、「万法流転」が人生の「常住の相」であるという大乗的楽観に立つことが出来ず、現代に入って、舶載の学問芸術のお蔭で「流動進化」の思想と触れるに到っても、
私のおりおり
その人たちの言う所をかいつまんで述べますと、女子が男子と同じ程度の高い教育を受けたり、男子と同じ範囲の広い職業に就いたりすると、女子特有の美くしい性情である「女らしさ」というものを失って、女とも附かず、男とも附かない中間性の変態的な人間が出来上るから宜しくないというのです。
私は第一に問いたい。その人たちのいわれるような結論は何を前提にして生じるのですか。一般の女子に中学程度の学校教育をすら授けないでいる日本において、また市町村会議員となる資格さえ女子に許していない日本において、どうして、男子と同等の教育とか職業とかいうことが軽々しく口にされるのですか。女子に対してまだ何事も男子と同等の自由を与えないで置いて、早くもその結果を否定するのは臆断も甚だしいではありませんか。
それよりも、論者に対して、もっと肉迫して私の問いたいことは、女子が果して論者のいうような最上の価値を持った「女らしさ」というものを特有しているでしょうか。私にはそれが疑問です。
論者は、「女らしさ」というものを、女子の性情の第一位に置き、その下にすべての性情を隷属させようとしています。女子に、どのような優れた多くの他の性情があっても、唯だ一つの「女らしさ」を欠けば、それがために人間的価値は
そもそも、その「女らしさ」という物の正体は何でしょう。我国では女子が外輪に歩くと「女らしくない」といって批難されます。また女子が活溌な遊戯でもすると「女らしくない」といって笑われます。そうすると、内輪に歩くということ、人形のように
論者は、「男子のすることを女子がすると、女らしさを失う」というのですが、人間の活動に、男子のする事、女子のする事という風に、先天的に決定して賦課されているものがあるでしょうか。私は女子が「妊娠する」という一事を除けば、男女の性別に由って宿命的に課せられている分業というものを見出すことが出来ません。
紫式部の日記を読むと、この
政治や軍事は昔から男子の専任のように思っていますけれども、我国の歴史を見ただけでも、女帝があり、女子の政治家があり、女兵があり、幕末の勤王婦人等があって、それが「女子の中性化」の実例として批難されていないのみならず、
して見ると、男子のする事を女子もするからといって、「女らしさ」を失うという批難は当らないことになります。もし男女の性別に由って歴史的に定まった分業の領域が永久に封鎖されているものなら、男子が裁縫師となり、料理人となり、洗濯業者となり、紡績工となることは、女子の領域を侵すものとして、「男子の中性化」が論じられなければならないはずです。「女のする日記というもの」を書いた
論者はまた、「女らしさ」とは愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていることをいうのである。その反対に「女らしくない」ということは、無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味するのであるといわれるでしょう。しかし愛と、優雅と、つつましやかさとは男子にも必要な性情であると私は思います。それは特に女子にのみ期待すべきものでなくて、人間全体に共通して欠くことの出来ない人間性そのものです。それを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく「人間らしさ」というべきものであると思います。人間性は男女の性別に由って差異を生ずる性質のものでないのですから、もしこれを失う者があれば「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難して宜しい。しかるに従来は男子に対してそれが
我国の男子の中には、まだこの点を反省しない人たちがあって、いわゆる豪傑風を気取った前代の男子の悪習を保存し、自分自身は粗野な言動を慎まないのみならず、その醜さをかえって得意としながら、唯だ女子にばかり、愛と、優雅と、つつましやかさとを要求します。しかし無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等の欠点は、男子においても許しがたい欠点であることを思わねばなりません。これを女にばかり責めるのは、性的
以上のように考察してくると、論者のいうように、女子に特有して、それが人間的価値の最高標準となるべき「女らしさ」というものは
人間性の内容は愛と、優雅と、つつましやかさとに限らず、創造力と、鑑賞力と、なおその他の重要な文化能力をも含んでいます。そうしてこの人間性は
しかるに、論者が、女子に対して高等教育を拒み、労働区域の制限を固守しようとするのは、全く理由のないことだと思います。男子においては人間性の啓発となる教育と労働とが、女子においては反対に「人間らしさ」を失わしめる結果になろうとは考えられないことです。
論者はこれに対して、現在の女教師や、女学生や、女流文人や、職業婦人やに共通する半可通的な、軽佻な、生意気な、あるいは粗野な習気を挙げて、その自説を弁護しようとするかも知れませんが、私は、かえってそれこそ論者の意見を顛覆させるものだと思います。現在のそれらの女子に人間性の不足していると見えるのは、私も同感ですが、それは
論者はまた言うでしょう、子供を生みかつ育てることは女子でなくては出来ない。従って「女らしさ」の主要条件は母となることである。しかるに女子解放運動は、女子をしてその母性を失わしめるから
私はこれに対しても、その母となるということが「女らしさ」という言葉で尽すべきものでないことを述べて、第一に訂正したいと思います。
如何にも、女子でなければ妊娠することの出来ないのは事実ですが、これがために生殖のことは女子の独占であると思っては間違いです。妊娠ということが男子の協力に待たねばならないのを初めとして、子供を養育するにも、教育するにも、父と母との両者の愛、両者の聡明、両者の労力を合せることが必要です。従来は余りに父性が等閑にされていましたから、母性に不当の重荷を課して、生殖生活は女子のみの任務のように誤解して来ましたが、この事もまた男女に共通した「人間的活動」です。形に現れた所の相異を見て、男子には軽微で、女子には重大な任務であると速断してなりません。人の親になることは、両者に取って共に重大な任務であるのです。
従って生殖の生活を母性にのみ帰してしまって、「女らしさ」の主要条件とするのは不当です、形と作用の上において父と母とに分れていても、親としての精神は男女同一であって、ひとしく人間性の表現ですから、一方に偏した「女らしさ」という言葉を以て評価すべきでなく、両者を統一した「人間性の表現」もしくは「人間的活動」という言葉を以て称すべきものと思います。
次に女子解放運動が、女子をして、その母性を失わしめると論じるのも理由のないことで、事実を離れた、一種の
論者は「母性を失う」というような言葉を無思慮に用いられるようですけれども、親となることの欲求は、
しかもまた、論者に注意したいことは、人間は必ずしも人の親になるとも定まっていないということです。また、大多数の男女が親になるとしても、その子供を必ず育て得るものとも定まらねば、その子供が必ず育ち得るものと限っていないということです。もし女子が母とならないために「女らしさ」を失うというなら、男子も父とならないため「男らしさ」を失うといわねばならないでしょう。世間には先天的もしくは後天的のいろいろの事情に由って、結婚をせず、結婚をしても子供を生まない男女があります。
既に述べましたように、人間性の中には親となることの熱烈な本能を所蔵しています。高度の教育に由って人間性を精錬された男女は、最も理想的な父母となることを意欲しないで置きません。これを抑制し、または回避するような不良な傾向があるなら、それは唯だ一つの理由、即ち社会の経済的分配が法外な不公平を示して、過度の労働の下に生産した物質価値の大部分を資本階級に由って搾取されてしまった後の私たち無産階級の生活が、子供を育てるどころか、結婚をするにも甚だしく不適当であるという理由に帰する外はありません。現に結婚難は
また万人に結婚の可能な新社会が出現したからといって、人間は必ずしも結婚して親とならねばならないという事はなかろうと思います。「人間的活動」の領域は
社会にはまた、昔から、或種の活動に専心して、わざと家庭を作らない男女もあります。何事も個人の自由意志に任すべきものですから、そういう人たちに生殖生活を強要することも出来ません。その人たちは、家庭の楽み以上に、自己の専門的生活を評価しているのです。それでこそ、その人たちの人間性が完全に表現されもするのです。世界人類の中に、そういう人たちの貢献があるので、昔も今も、どれだけ文化行程の飛躍を示したか知れません。私は、人類の中にそういう人たちのまじっていることを例外とせず、望ましい配剤として、肯定したいと思います。
以上は甚だ粗雑な考察ながら、私はこれによって、論者のいうような「女らしさ」というものが特に女子の上に存在しないということを突き詰めて知ることが出来ました。「女らしさ」というものは、要するに私のいわゆる「人間性」に吸収し還元されてしまうものです。女子に特有して、女子を男子から分化し、女子のみの生活というものを基礎づける第一原理となり、最高の価値標準となるものでないことが明白になりました。「女らしさ」という言葉から解放されることは、女子が機械性から人間性に目覚めることです。人形から人間に帰ることです。もしこれを論者が「女子の中性化」と呼ぶなら、私たちはむしろそれを名誉として甘受しても好いと思います。
「女らしくない」という一語が、昔から、どれだけ女子の活動を圧制して来たか知れません。習慣というものは根強いもので、今でも「女らしくない」といわれると、一部の女子は蛇でも投げつけられたようにぎょっとして身を縮めます。しかし現代の女子の大多数は最早「女らしくない」という言葉くらいに恐れません。それはもっと恐ろしい言葉のあることを直感しているからです。即ち「人間らしくない」という言葉に由って表現される人間性の破滅が、何よりも現代人に取って恐ろしいものであることを思わずにいられないからです。(一九二一年一月)
(『婦人倶楽部』一九二一年二月)