井筒
世阿彌
作
伊勢物語に。「むかし田舎わたらひしける人の子ども。井のもとに出でて遊びけるを。おとなになりにければ。男も女も耻ぢかはしてありけれど。男は此女をこそ得めと思ひ。女も此男をこそと思ひつつ。親の(他の男女に)あはすることも聞かでなんありける。され此隣の男のもとよりかくなん。筒井づつ井筒にかけしまろがたけ。生ひにけらしな相見ざるまに。女返し。くらべ來し振分髪も肩すぎぬ。君ならずして誰かあぐべき。かくいひいひて。遂に本意の如く逢ひにけり。さて年頃ふるほどに。女の親なくなりて便なくなるままに。諸共にいふかひなくてあらんやはとて。河内の國高安の郡に。(男の)いき通ふ(女の)所いできにけり。さりけれど。此もとの女あしと思へるけしきもなくて。出だしやりければ。男(女の方に)異心ありてかかるにやあらんと思ひ疑ひて。前栽の内に隱れ居て。河内へいぬるがほにて見れば。この女いとよう假装じてうちながめて。風吹けば沖つ白波立田山。夜半にや君がひとり越ゆらん。とよみけるを聞きて。限なくかなしと思ひ。河内へも通はずなりにけり。」とある一段の物語を種として作れり。歌の詞によりて井筒と名づく。
前
- ワキ
- 旅僧
- シテ
- 里女
後
- ワキ
- 前に同じ。
- シテ
- 紀有常の娘
地は
- 大和
季は
- 秋
ワキ詞
「是は諸國一見の僧にて候。我此程は南都七堂に參りて候。又是より初瀬に參らばやと存じ候。是なる寺を人に尋ねて候へば。在原寺とかや申し候ふ
程に。立ちより一見せばやと思ひ
候。さては
此在原寺は。いにしへ業平紀の有常の息女。夫婦住み給ひし石上なるべし。風ふけば沖つ白浪たつた山と詠じけんも。此所にての事なるべし。
歌
「昔がたりの跡とへば。其業平の友とせし。紀の有常の常なき世。妹背をかけて弔はん。妹背をかけて弔はん。
シテ次第
「曉ごとの閼伽の水。曉ごとの閼伽の水。月も心や澄ますらん。
サシ
「さなきだに物の淋しき秋の夜の。人目まれなる古寺の。庭の松風更け過ぎて。月もかたぶく軒端の草。わすれて過ぎし古へを。忍ぶ顔にていつまでか。待つ事なくてながらへん。げに何事も思ひ出の。人には殘る世の中かな。
下歌
「唯いつとなく一筋に。頼む佛の御手の糸。道びき給へ法の聲。
上歌
「迷ひをも。照らさせ給ふ御誓ひ。照らさせ給ふ御誓ひ。げにもと見えて有明の。ゆくへは西の山なれど。ながめは四方の秋の空。松の聲のみ聞ゆれども。嵐はいづくとも。定めなき世の夢心。何の音にか覺めてまし。何の音にか覺めてまし。
ワキ詞
「我此寺にやすらひ心を澄ますをりふし。いとなまめける女性。庭の板井を結び上げ花水とし。是なる塚に回向の氣色見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。
シテ詞
「是は此あたりに住む者なり。此寺の本願在原の業平は。世に名を留めし人なり。されば其跡のしるしも是なる塚の陰やらん。妾も委しくは知らず候へども。花水を手向け御跡を弔ひ參らせ候。
ワキ
「げにげに業平の御事は。世に名を留めし人なりさりながら。今は遥に遠き世の。昔がたりの跡なるを。しかも女性の御身として。かやうに弔ひ給ふ事。其在原の業平に。いかさま故ある御身やらん。
シテ
「故ある身かと問はせ給ふ。其業平は其時だにも。昔男といはれし身の。ましてや今は遠き世に。故もゆかりもあるべからず。
ワキ
「もつとも仰せはさる事なれども。ここは昔の舊跡にて。
シテ
「主こそ遠く業平の。
ワキ
「あとは殘りてさすがにいまだ。
シテ
「聞えは朽ちぬ世語を。
ワキ
「語れば今も。
シテ
「昔男の。
地
「名ばかりは。在原寺の跡舊りて。在原寺の跡舊りて。松も老いたる塚の草。是こそそれよ亡き跡の。一村ずすきの穗に出づるは。いつの名殘なるらん。草茫々として。露深々と古塚の。まことなるかな古への。跡なつかしきけしきかな。跡なつかしきけしきかな。
ワキ詞
「猶々業平の御事くはしく御物語り候へ。
地クリ
「むかし在原の中將。年經てここに石の上。ふりにし里も花の春。月の秋とて住み給ひしに。
シテサシ
「其頃は紀の有常が娘とちぎり。妹背の心あさからざりしに。
地
「又河内の國高安の里に。知る人ありて二道に。忍びて通ひ給ひしに。
シテ
「風吹けば沖つ白波立田山。
地
「夜半にや君がひとり行くらんと。おぼつか波の夜の道。ゆくへを思ふ心遂げて。よその契りはかれがれなり。
シテ
「げに情知るうたかたの。
地
「あはれを述べしも理なり。
クセ
「むかし此國に。住む人の有りけるが。宿をならべて門の前。井筒によりてうなゐ子の。友達かたらひて。互に影を水鏡。面をならべ袖を懸け。心の水も底ひなく。うつる月日も重なりて。おとなしく耻じがはしく。たがひに今はなりにけり。其後彼まめ男。言葉の露の玉章の。心の花も色そひて。
シテ
「筒井筒。井筒に懸けしまろが丈。
地
「生ひにけらしな妹見ざる間にと。よみておくりける程に。其時女もくらべこし。振分髪も肩過ぎぬ。君ならずして誰かあぐべきと。互によみし故なれや。筒井筒の女とも。聞えしは有常が。娘のふるき名なるべし。
ロンギ地
「げにや舊りにし物語。聞けば妙なる有樣の。あやしや名のりおはしませ。
シテ
「誠は我は戀衣。紀の有常が娘とも。いさ白波の立田山。夜半にまぎれて來りたり。
地
「ふしぎやさては立田山。色にぞ出づるもみじ葉の。
シテ
「紀の有常が娘とも。
地
「又は井筒の女とも。
シテ
「はづかしながら我なりと。
地
「いふや注連繩の長き世を。契りし年は筒井筒。井筒の陰に隱れけり。井筒の陰に隱れけり。(中入)
ワキ歌
「更けゆくや。在原寺の夜の月。在原寺の夜の月。昔を返す衣手に。夢待ちそへて假枕。苔の莚に臥しにけり。苔の莚に臥しにけり。
後ジテ
「あだなりと名にこそ立てれ櫻花。年に稀なる人も待ちけり。かやうによみしも我なれば。人待つ女ともいはれしなり。我筒井筒の昔より。眞弓槻弓年を經て。今は亡き世に業平の。形見の直衣身に觸れて。はづかしや昔男に移舞。
地
「雪をめぐらす花の袖。(序の舞)
シテワカ
「ここに來て。昔ぞかへす在原の。
地
「寺井に澄める月ぞさやけき。月ぞさやけき。
シテ
「月やあらぬ。春や昔と詠めしも。いつの頃ぞや筒井筒。
地
「つつゐづつ。井筒にかけし。
シテ
「まろがたけ。
地
「おひにけらしな。
シテ
「おひにけるぞや。
地
「さながら見々えし昔男の。冠直衣は女とも見えず。男なりけり業平の面影。
シテ
「見ればなつかしや。
地
「我ながらなつかしや。亡婦魄靈の姿は。しぼめる花の色なうて。にほひ殘りて在原の。寺の鐘もほのぼのと。明けくれば古寺の。松風や芭蕉葉の。夢も破れて覺めにけり。夢は破れ明けにけり。



