關寺小町
世阿彌
作
小野小町老ひ衰へて關寺のほとりに住みゐたるを。歌道の譽れに依りて七夕祭に寺に招かれ。昔に歸りて舞をまふ事を作る。愚見抄に。「小野小町大江惟章が妻になりて筑紫へ下りけるが。後に尼になりて近江の國關寺のあたりにありける。」鴉鷺記に。「いくばくか人の心を惱まししといへども。おとろへぬれば鄙にさすらひ都にさまよひ。はては關寺の邊に庵を結びて。野邊の若草に命をささへ。うきすまひをせしを。智證大師御覽じましまして。寺にて七日の御説法ありとて召されしに。身のありさまを恥ぢて參らざりし時。御使たびたびなりしかば。召事はをののやけばとわびけんも。誠にあはれに覺えたり。そのまま乞食となりて昔し志のばれしほど。今は厭はれ終に路次の骸となる。」など見えたるを。取り合はせ面白く飜案したるなるべし。小町の事を作れるもの。草子洗小町、通小町、卒都婆小町などあるに區別して關寺小町と名づく。
- ワキ
- 關寺の住僧
- ワキヅレ
- 同僧
- シテ
- 小野小町
- 子方
- 寺の稚児
地は
- 近江
季は
- 七月
ワキ次第
「待ち得て今ぞ秋に逢ふ。待ち得て今ぞ秋に逢ふ。星の祭を急がん。
詞
「是は江州關寺の住僧にて候。今日は七月七日にて候ふ程に。七夕の祭を取り行ひ候。又此山陰に老女の菴を結びて候ふが。歌道を極めたる由申し候ふ程に。幼き人を伴なひ申し。彼老女の物語をも承らばやと存じ候。
一同サシ
「颯々たる凉風と衰鬢と。一時に來る初秋の。七日の夕に早なりぬ。
ワキ
「今日七夕の手向けとて。糸竹呂律の色々に。
ツレ
「ことを盡して。
ワキ
「敷島の。
歌
「道を願ひの糸はへて。道を願ひの糸はへて。織るや錦のはた薄。花をも添へて秋草の。露の玉琴かき鳴らす。松風までも折からの。手向に叶ふ夕かな。手向に叶ふ夕かな。
シテサシ
「朝に一鉢を得ざれども求むるに能はず。草衣夕の肌を隱さざれどもおぎぬふに便あり。花は雨の過ぐるによつて紅正に老いたり。柳は風に欺かれて緑漸く垂れり。人更に若き事なし。終には老いの鶯の。百囀の春は來れども。昔に歸る秋はなし。あら來し方戀しや。あら來し方戀しや。
ワキ詞
「如何に老女に申すべき事の候。是は關寺に住む者にて候。此寺の兒達歌を御稽古にて候ふが。老女の御事を聞き給ひ。歌をよむべき樣をも問ひ申し。又御物語をも承らん爲めに。兒達も是まで御出でにて候。
シテ詞
「是は思ひも寄らぬ事を承り候ふ物かな。埋木の人知れぬ事となり。花薄穗に出だすべきにしもあらず。心を種として言葉の花色香に染まば。などか其風を得ざらん。優しくも幼き人の御心に好き給ふ物かな。
ワキ
「先々普く人の翫び候ふは。難波津の歌を以て。手習ふ人の始めにもすべき由聞え候ふよなふ。
シテ
「夫れ歌は神代より始まれども。文字の數定まらずして。事の心分き難かりけらし。今人の代となりて。めでたかりし世繼をよみ始めし詠歌なればとて。難波津の歌を翫び候。
ワキ
「又淺香山の歌は。王の御心を和らげし故に。是れ又めでたき詠歌よなふ。
シテ
「實によく心得給ひたり。此二歌を父母として。
ワキ
「手習ふ人の始めとなりて。
シテ
「高き賤しき人をも分かず。
ワキ
「都鄙遠國の鄙人や。
シテ
「我等如きの庶人までも。
ワキ
「好ける心に。
シテ
「近江の海の。
地
「ささ波や。濱の眞砂は盡くるとも。濱の眞砂は盡くるとも。よむ言の葉はよも盡きじ。青柳の糸絶えず。松の葉の散り失せぬ。種は心と思し召せ。たとひ時移り事去るとも。此歌の文字あらば。鳥の跡も盡きせじや。鳥の跡も盡きまじ。
ワキ詞
「有難う候。古き歌人の言葉多しといへども。女の歌は稀なるに。老女の御事例少なうこそ候へ。我背子が來べき宵なりささがにの。蜘蛛の振舞かねてしるしも。是も女の歌候ふか。
シテ
「是は古へ衣通姫の御歌なり。衣通姫とは允恭天皇の后にてまします。形の如く我等も其流をこそ學び候へ。
ワキ
「さては衣通姫の流を學び給ふかや。近年聞えたる小野の小町こそ。衣通姫の流とは承れ。わびぬれば身を浮草の根を絶えて。誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ。是は小町の歌候ふな。
シテ
「是は大江の惟章が心變りせし程に。世の中物うかりしに。文屋の康秀が三河の守になりて下りし時。田舎にて心をも慰めよかしと。我を誘ひし程によみし歌なり。忘れて年を經し物を。聞けば涙の古事の。又思はるる悲しさよ。
ワキ
「不思議やなわびぬればの歌ば。我よみたりしと承る。又衣通姫の流と聞えつるも小町なり。實に年月を考ふるに。老女は百に及ぶといへば。たとひ小町の存ふるとも。いまだ此世に在るべきなれば。今は疑ふ所もなく。御身は小町の果ぞとよ。さのみな包み給ひそとよ。
シテ
「いや小町とは恥かしや。色見えでとこそよみし物を。
地
「移ろふ物は世の中の。人の心の花や見ゆる。恥かしやわびぬれば。身を浮草の根を絶えて。誘ふ水あらば今も。いなんとぞ思ふ恥かしや。」
地クリ
「實にや包めども。袖に溜まらぬ白玉は。人を見ぬ目の涙の雨。古事のみを思草の。花しをれたる身の果まで。何白露の名殘ならん。
シテサシ
「思ひつつ寐ればや人の見えつらんと。
地
「よみしも今は身の上に。存へ來ぬる年月を。送り迎へて春秋の。露行き霜來つて草葉變じ。虫の音も枯れたり。
シテ
「生命既に限りと爲つて。
地
「唯槿花一日の榮に同じ。
クセ
「あるは無く。無きは數添ふ世の中に。あはれ何れの日まで歎かんと。詠ぜし事も我ながら。いつまで草の花散じ。葉落ちても殘りけるは。露の命なりけるぞ。戀しの昔や。忍ばしの古への身やと。思ひし時だにも。また古事になり行く身の。せめて今は又。はじめの老ぞ戀しき。あはれ實に古へは。一夜泊りし宿までも。玳瑁を飾り。垣に金花を懸け。戸には水精を連ねつつ。鸞輿屬車の玉衣の。色を飾りて敷妙の。枕つく。妻屋の内にしては。花の錦の茵の。起き臥しなりし身なれども。今は埴生の。こや玉を敷きし床ならん。
シテ
「關寺の鐘の聲。「諸行無常と聞くなれども。老耳には益もなし。逢坂の山風の。是生滅法の理をも得ばこそ。飛花落葉のをりをりは。好ける道とて草の戸に。硯を馴らしつつ。筆を染めて藻鹽草。書くや言の葉の枯々に。あはれなるやうにて強からず。強からぬ女の歌なれば。いとどしく老の身の。弱り行く果ぞ悲しき。
子詞
「如何に申し候。七夕の祭おそなはり候。老女をも伴なひ御申し候へ。
ワキシ
「如何に老女。七夕の祭を御出で有つて御覽候へ。
シテ
「いやいや老女の事は憚りにて候ふ程に。思ひも寄らず候。
ワキ
「何の苦しう候ふべき。唯々出で候へとよ。
地
「七夕の。織る糸竹の手向草。幾年經てかかげろふの。小野の小町の百年に。及ぶや天つ星合の。雲の上人に馴れ馴れし。袖も今は麻衣の。淺ましや痛はしや。目もあてられぬ有樣。とても今宵は七夕の。手向けの數も色々の。或は糸竹に。懸けて廻らす盃の。雪を受けたる。童舞の袖ぞ面白き。星祭るなり呉竹の。(子方三段の舞)
シテ
「世々を經て住む行末の。
地
「いく久しさぞ萬歳樂。
シテ詞
「あら面白の唯今の舞の袖やな。むかし豐の明の五節の舞姫の袖をこそ五度返ししか。是は又七夕の手向の袖ならば。七返しにてや有るべき。狂人走れば不狂人も走るとかや。今の童舞の袖に引かれて。狂人こそ走り候へ。百年は。(序の舞)
シテワキ
「百年は。花に宿りし胡蝶の舞。
地
「あはれなりあはれなり。老木の花の枝。
シテ
「さす袖も手忘れ。
地
「もすそも足弱く。
シテ
「ただよふ波の。
地
「立ち舞ふ袂はひるがへせども。昔に返す袖はあらばこそ。
シテ
「あら戀しの古へやな。
地
「さる程に初秋の短夜。はや明方の關寺の鐘。
シテ
「鳥もしきりに。
地
「告げ渡る東雲の。あさまにもならば。
シテ
「羽束師の杜の。
地
「羽束師の。杜の木隱れもよもあらじ。暇申して歸るとて。杖にすがりてよろよろと。本の藁屋に歸りけり。百年の姥と聞えしは。小町が果の名なりけり。小町が果の名なりけり。



