熊坂
禪竹
作
熊坂長範といふ強盗ありて。都より奥州に通ふ金商人。三條吉次の旅宿を襲ひ。其荷を奪はんと攻め入りしが。思ひもよらず源家の御曹司牛若丸に防れが。ここにて討ちたるる物語を。其亡靈出でて旅僧に語る事を作る。かの「烏帽子折は熊坂の現在を冩し。この「熊坂は烏帽子折後段の過去を語る 相比べ讀みて味ふべし。この熊坂以下盜賊の名。義經記には。出羽の由利の太郎を大將とし。越後 藤澤入道。信濃のさんの權頭の子息太郎。遠江の蒲 餘一。駿河の興津の十郎。上野の豐岡の源八以下。宗徒のもの廿五人。その勢七十人。とあり。
前
- ワキ
- 都の僧
- シテ
- 赤坂の僧
後
- ワキ
- 前に同じ。
- シテ
- 熊坂長範
地は
- 美濃
季は
- 秋
ワキ次第
「憂しとは言ひて捨つる身の。憂しとは言ひて捨つる身の。行方いつとか定むらん。
詞
「是は都方より出でたる僧にて候。我いまだ東國を見ず候ふ程に。只今思ひ立ち東國修行と志し候。
道行
「山越えて。近江路なれや湖の。近江路なれや湖の。粟津の森も見え渡る。瀬田の長橋うち過ぎて。野路篠原に夜をこめて。朝立つ道の露深き。名こそ青野が原ながら。色づく色か赤坂の。里も暮れ行く日影かな。里も暮れ行く日影かな。
シテ詞
「なふなふあれなる御僧に申すべき事の候。
ワキ詞
「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。
シテ
「今日はさる者の命日にて候ふ弔ひて賜はり候へ。
ワキ
「それこそ出家の望みなれ。さりながら誰と志して回向申すべき。
シテ
「たとひ其名は申さずとも。あれに見えたる一木の松の。少し此方の萱原こそ。唯今申す古墳なれ。往復ならねば申すなり。
ワキ
「あら何ともなや。誰と名を知らで回向は如何ならん。
シテ
「よしそれとても苦しからず。法界衆生平等利益。
ワキ
「出離生死を。
シテ
「離れよとの。
地
「御弔ひを身に受けば。御弔ひを身に受けば。たとひ其名は名のらずとも。受け喜ばは。それこそ主よ有難や。回向は草木國土まで。漏らさじなれば分きて其。主にと心あてなくとも。さてこそ回向なれ。浮までは如何あるべき。
シテ詞
「さらば此方へ御入り候へ。愚僧が庵室の候ふに一夜を明かして御通り候ひ。
ワキ詞
「さらばかう參らうずるにて候。如何に申し候。持佛堂に參り勤めを始めうずると存じ候ふ處に。安置し給ふべき繪像木像の形もなく。一壁には大長刀。手杖にあらざる鐡の棒。其外兵具をひつしと立て置かれて候ふは。何と申したる御事にて候ふぞ。
シテ
「さん候此僧は未だ初發心の者にて候ふが。御覽候ふ如く此あたりは。埀井青墓赤坂とて。其里々は多けれども。間々の道すがら。青野が原の草高く。青墓小安の森しげれば。晝ともいはず雨の内には。山賊夜盜のぬす人ら。高荷を落し里通ひの。下女やはしたの者までも。打ち剥ぎとられ泣き叫ぶ。さやうの時は此僧も。例の長刀ひつさげつつ。ここをば愚僧に任せよと。呼ばはりかくれば實には又。一度はさもなき時もあり。さやうの時は此所の。便りにもなる物ぞかしと。喜びあへば然るべしと。思ふばかりの心なり。なんぼうあさましき世を捨者の所存候ふぞ。
クセ
「ししようなき手柄。
地
「似あはぬ僧の腕立。さこそをかしと思すらめ。さりながら佛も。彌陀の利劍や愛染は。方便の弓に矢をはげ。多門は鉾を横たへて。惡魔を降伏し。災難を拂へ給へり。
シテ
「されば愛著慈悲心は。
地
「達多が五逆にすぐれ方便の殺生は。菩薩の六度に勝れりとか。これを見かれを聞き。他を是非知らぬ身の行くへ。迷ふも悟るも心ぞや。されば心の師とはなり。心を師とせざれと。古き詞に知られたり。かやうの物語。申さば夜も明けなまし。お休みあれや御僧達。我もまどろまんさらばと。眠藏に入るよと見えつるが。形も失せて庵室も。草むらとなりて松陰に。夜を明かしたる不思議さよ。夜を明かしたる不思議さよ。(中入)
ワキ
「一夜ふす。男鹿の角の束の間も。男鹿の角の束の間も。寐られん物か秋風の。松の
下臥よもすがら。聲佛事をやなしぬらん。聲佛事をやなしぬらん。
後ジテ
「東南に風立つて西北に雲しづかならず。夕闇の夜風烈しき山陰に。
地
「梢木の間にやさわぐらん。
シテ
「有明頃かいつしかに。月は出でても朧夜なるべし。切り入れ攻めよと前後を下知し。弓手や馬手に心を配つて。人の寳を奪ひし惡逆。娑婆の執心。これ御覽ぜよあさましや。
ワキ詞
「熊坂の長範にてましますか。其時の有樣御物語り候へ。
シテ
「さても三條の吉次信高とて。黄金を商なふ商人あつて。毎年數多の寳を集めて。高荷を作つて奥へ下る。あつぱれ之を取らばやと。與力の人數は誰々ぞ。
ワキ
「さて國々より集まりし。中に取りても誰が有りしぞ。
シテ
「河内の覺紹。
詞
「磨針太郎兄弟は。表討には並びなし。
ワキ
「さて又都の其内に。多き中にも誰が有りしぞ。
シテ
「三條の衞門壬生の小猿。
ワキ
「火ともしの上手分切には。
シテ
「是等に上はよも越さじ。
ワキ
「さて北國には越前の。
シテ
「淺生の松若三國の九郎。
ワキ
「加賀の國には熊坂の。
シテ
「此長範を始として。究竟の手柄の痴者ら。七十人は與力して。
ワキ
「吉次がとほる道すがら。野にも山にも宿泊に。目付を附けて之を見す。
シテ
「此赤坂の宿に着く。こここそ究竟の所なれ。引場も四方に道多し。見れば宵より遊君すゑ。數百のあそび時をうつす。
ワキ
「夜も更け行けば吉次兄弟。前後も知らず臥したりしに。
シテ
「十六七の小男の。目の内人に勝れたるが。障子の透間物合の。そよともするを心にかけて。
ワキ
「少しも臥さでありけるを。
シテ
「牛若殿とは夢にも知らず。
ワキ
「運の盡きぬる盜人等。
シテ
「機嫌はよきぞ。
ワキ
「はや。
シテ
「入れと。
地
「いふこそ程も久しけれ。いふこそ程も久しけれ。皆我先にと松明を。投げ込み投げ込み亂れ入る勢は。やうやく神も。
面を向くべきやうぞなき。然れども牛若子。少し恐るるけしきなく。小太刀を抜いて渡り合ひ。獅子奮迅虎亂入。飛鳥の翔の手を碎き。攻め戰へばこらへず。表に進む十三人。同じ枕に切り伏せられ。其外手負太刀を捨て。具足を奪はれはふはふ逃げて。命ばかりを遁るもあり。熊坂いふやう。此者どもを手の下に。討つは如何さま鬼神か。人間にてはよもあらじ。盜も命のありてこそ。あら枝葉や引かんとて。長刀杖につき。うしろめたくも引きけるが。
シテ
「熊坂思ふやう。
地
「熊坂思ふやう。ものものし其冠者が。切るといふともさぞ有るらん。熊坂秘術を振ふならば。如何なる天魔鬼神なりとも。中につかんで微塵になし。討たれたるものどもの。いで供養に報ぜんとて。道より取つて返し。例の長刀引きそばめ。折妻戸を小楯に取つて。彼小男をねらひけり。牛若子は御覽じて。太刀抜きそばめ物あひを。少し隔てて待ち給ふ。熊坂も長刀かまへ。互にかかるを待ちけるが。いらつて熊坂左足を蹈み。鐡壁も徹れと突く長刀を。はつしと打つて弓手へ越せば。追つ懸け透かさずこむ長刀に。ひらりと乘れば刄向になし。しさつて引けば馬手へ越すを。おつ取り直してちゃうと切れば。中にて結ぶをほどく手に。却つて拂へば飛びあがつて。其まま見えず形も失せて。ここやかしこと尋ぬる處に。思ひもよらぬうしろより。具足の透間をちゃうと切れば。こは如何にあの冠者に。切らるる事の腹立さよと。いへども天命の。運の極めぞ無念なる。
地
「打物わざにて叶ふまじ。打物わざにて叶ふまじ。手取にせんとて長刀投げ捨て。大手をひろげて。ここの面廊かしこの詰りに。追つかけ追つ詰め取らんとすれども。陽炎稲妻水の月かや。姿は見れども手に取られず。
シテ
「次第々々に重手は負ひぬ。
地
「次第々々に重手は負ひぬ。猛きこころ。力も弱り弱り行きて。
シテ
「此松が根の。
地
「苔の露霜と。消えし昔の物語。末の世助けたび給へと。ゆふつけも告げ渡る。夜も白々と赤坂の。松陰に隱れけり。松陰にこそは隱れけれ。



