齡は百とせのなかばに近づきて、鬢の霜やうやく冷しといへども、なすことなくして、徒らに明かし暮らすのみにあらず、さしていづこに住みはつべしとも思ひ定めぬ有樣なれば、かの白樂天の、身は浮雲に似たり、首は霜に似たり、と書き給へる、あはれに思ひ合せらる。もとより金張七葉の榮えを好まず、ただ陶潜五柳の住みかを求む。しかはあれども、みやまの奧の柴の庵までも、しばらく思ひやすらふ程なれば、なまじひに都のほとりに住まひつつ、人なみに世にふる道になんつらなれり。これ即ち、身は朝市にありて心は隱遁にあるいはれなり。
かかるほどに、思はぬほかに、仁治三年の秋八月十日あまりの頃、都を出でて東へ赴くことあり。まだ知らぬ道の空、山かさなり江かさなりて、はるばる遠き旅なれども、雲をしのぎ霧を分けつつ、しばしば前途の極まりなきに進む。つひに十餘の日数をへて、鎌倉に下り着きし間、或は山館野亭の夜のとまり、或は海邊水流の幽なる砌にいたるごとに、目にたつ所々、心とまるふしぶしを書きおきて、忘れず忍ぶ人もあらば、おのづから後のかたみにもなれとてなり。
東山のほとりなる住みかを出でて、逢坂の關うちすぐるほどに、駒ひきわたる望月の頃も、やうやう近き空なれば、秋ぎりたちわたりて、深き夜の月影ほのかなり。木綿付鳥かすかに音づれて、遊子猶殘月に行きけん函谷の有樣おもひ出でらる。むかし蝉丸といひける世捨人、この關のほとりに、藁屋の床を結びて、常は琵琶をひきて心をすまし、大和歌を詠じて思ひを述べけり。嵐の風はげしきをわびつつぞすぐしける。(ある人のいはく、蝉丸は延喜第四の宮にておはしけるゆゑに、この關のあたりを四の宮河原と名づけたりといへり)
東三條院、石山に詣でて還御ありけるに、關の清水をすぎさせ給ふとて詠ませ給ひける御歌に、「あまたたび行きあふ坂の關水にけふを限りの影ぞ悲しき」ときこゆるこそ、いかなりける御心のうちにかと、あはれに心ぼそけれ。
關山をすぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんど聞けども、いまだ夜のうちなれば、定かにも見えわかず。むかし天智天皇の御代、大和の國飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡に都うつりありて、大津の宮をつくられけりと聞くにも、このほどは、古き皇居の跡ぞかしとおぼえてあはれなり。
曙の空になりて、瀬田の長橋うちわたすほどに、湖はるかに現はれて、かの滿誓沙彌が比叡山にてこのうみを望みつつ詠めりけん歌思ひ出でられて、漕ぎゆく舟の跡の白波、まことにはかなく心ぼそし。
東路の野路の朝露けふやさは
たもとにかかる初めなるらん
篠原といふ所を見れば、西東へ遙かに長き堤あり。北には里人住みかをしめ、南には池のおもて遠く見えわたる。向ひのみぎは、緑ふかき松のむらだち、波の色も一つになり、南山の影をひたさねども、青くして洸瀁たり。洲崎、ところどころに入りちがひて、あし、かつみなど、生ひわたれる中に、をしかものうちむれて飛びちがふさま、葦手を書けるやうなり。都をたつ旅人、この宿にこそ泊りけるが、今は打過ぐるたぐひのみ多くして、家居もまばらになりゆくなど聞くこそ、變りゆく世のならひ、飛鳥の川の淵瀬にはかぎらざりけりとおぼゆれ。
行く人もとまらぬ里となりしより
荒れのみまさる野路の篠原
鏡の宿にいたりぬれば、むかし、ななの翁のよりあひつつ、老をいとひて詠みける歌の中に、「鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老いやしぬると」といへるは、この山のことにやとおぼえて、宿もからまほしくおぼえけれども、なほ奧さまに訪ふべき所ありて、うちすぎぬ。
たちよらで今日はすぎなん鏡山
しらぬ翁のかげは見ずとも
行きくれぬれば、武佐寺といふ山寺のあたりに泊りぬ。まばらなるとこの秋風、夜ふくるままに身にしみて、都にはいつしか引きかへたるここちす。枕に近き鐘のこゑ、曉の空におとづれて、かの遺愛寺のほとりの草の庵のねざめも、かくやありけむとあはれなり。行くすゑ遠き旅の空、思ひつづけられて、いといたう物がなし。
都いでていくかもあらぬこよひだに
かたしきわびぬとこの秋かぜ
この宿を出でて、笠原の野原うちとほるほどに、おいその森といふ杉むらあり。下草ふかき朝露の、霜に變らんゆくすゑも、はかなく移る月日なれば、遠からずおぼゆ。
變らじなわがもとゆひにおく霜も
名にしおいその森のした草
音にききし醒が井を見れば、陰くらき木の下の岩根より流れ出づる清水、あまりすずしきまで澄みわたりて、まことに身にしむばかりなり。餘熱いまだ盡きざるほどなれば、往還の旅人多くたちよりて凉みあへり。班
せふよが團雪の扇、秋風にかくて暫らく忘れぬれば、末遠き道なれども、たち去らんことは物うくて、さらに急がれず。かの西行が、「道のべに清水ながるる柳かげしばしとてこそたちとまりつれ」とよめるも、かやうの所にや。
道のべの木陰の清水むすぶとて
しばし凉まぬ旅人ぞなき
柏原といふ所をたちて、美濃の國、關山にもかかりぬ。谷川、霧の底に音づれ、山風、松の梢にしぐれわたりて、日影も見えぬ木の下道、あはれに心ぼそし。越えはてぬれば不破の關屋なり。菅屋の板庇、年へにけりと見ゆるにも、後京極攝政殿の、「荒れにしのちはただ秋の風」と詠ませ給へる歌、思ひいでられて、このうへは風情もめぐらしがたければ、いやしき言の葉をのこさんも、なかなかにおぼえて、ここをば空しくうちすぎぬ。
株瀬川といふ所に泊りて、夜ふくるほどに川端にたち出でて見れば、秋のもなかの晴天、清き川瀬にうつろひて、照る月なみも數みゆばかり澄みわたれり。二千里の外の故人の心、遠く思ひやられて、旅の思ひ、いとどおさへがたくおぼゆれば、月の影に筆をそめつつ「花洛を出でて三日、株瀬川に宿して一宵、しばしば幽吟を中秋三五夜の月にいたましめ、かつがつ遠情を先途一千里の雲におくる」など、ある家の障子に書きつくるついでに、
知らざりき秋のなかばの今宵しも
かかる旅寢の月を見んとは
萱津の東宿の前をすぐれば、そこらの人あつまりて、里もひびくばかりにののしりあへり。今日は市の日になむあたりたるとぞいふなる。往還のたぐひ、手ごとに空しからぬ家づとも、かの「見てのみや人に語らん」と詠める花のかたみには、やうかはりておぼゆ。
花ならぬ色香もしらぬ市人の
いたづらならでかへる家づと
尾張の國熱田の宮にいたりぬ。神垣の、あたり近ければ、やがて參りて拜み奉るに、木立年ふりにたる森の木の間より、夕陽の影たえだえさし入りて、朱の玉垣色をかへたるに、ゆふしで風に亂れたることがら、物にふれて神さびたる中にも、ねぐら爭ふ鷺むらの、數も知らず梢に來ゐるさま、雪の積れるやうに見えて、遠く白きものから、暮れゆくままにしづまりゆく聲々も心すごく聞ゆ。
(ある人のいはく、この宮は素盞烏尊なり。初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲たつといへる大和ことばも、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、このみぎりに跡をたれ給へりといへり。又いはく、この宮の本體は、草薙と號し奉る神劔なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷を平げて歸り給ふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ。劔は熱田にとまり給ふともいへり)
一條院の御時、大江匡衡といふ博士ありけり。長保の末にあたりて、當國の守にて下りけるに、大般若を書きてこの宮にて供養をとげける願文に、「吾が願すでに満ちぬ。任限また滿ちたり。故郷にかへらんとする期、いまだ幾ばくならず」と書きたるこそ、あはれに心細く聞ゆれ。
思ひでのなくてや人の歸らまし
のりのかたみをたむけおかずば
この宮を立出でて濱路におもむくほど、有明の月影ふけて、友なし千鳥ときどき音づれわたれる、旅の空のうれへ、すずろに催して、あはれ、かたがた深し。
ふるさとは日をへて遠く鳴海潟
いそぐ汐干の道ぞくるしき
やがて夜のうちに二村山にかかりて、山中などを越えすぐるほどに、ひんがしやうやう白みて、海の面はるかに現はれわたれり。波も空も一つにて、山路につづきたるやうに見ゆ。
玉くしげ二村山のほのぼのと
明けゆく末は波路なりけり
行き行きて三河の國八橋のわたりを見れば、在原の業平、かきつばたの歌よみたりけるに、みな人、かれいひの上に涙おとしける所よと思ひ出でられて、そのあたりを見れども、かの草とおぼしき物はなくて、稻のみぞ多く見ゆる。
花ゆゑに落ちし涙のかたみとや
稻葉のつゆをのこしおくらん
源の義種が、この國の守にて下りける時、とまりける女のもとにつかはしける歌に、「もろともに行かぬ三河のやつはしを戀しとのみや思ひわたらん」と詠めりけるこそ、思ひいでられてあはれなれ。
矢矧といふ所をいでて、宮路山こえすぐるほどに、赤坂といふ宿あり。ここにありける女ゆゑに、大江定基が家を出でけるも、あはれに思ひいでられて過ぎがたし。人の發心する道、その縁一つにあらねども、あかぬ別れを惜みし迷ひの心をしもしるべとし、誠の道に赴きけん、ありがたくおぼゆ。
別れ路にしげりもはてで葛の葉の
いかでかあらぬかたにかへりし
本野が原に打出でたれば、よもの望みかすかにして、山なく岡なし。秦甸の一千餘里を見わたしたらんここちして、草土ともに蒼茫たり。月の夜の望み、いかならんとゆかしくおぼゆ。茂れる笹原の中に、あまた踏み分けたる道ありて、行くすゑも迷ひぬべきに、故武藏の前司、道のたよりの輩に仰せて植ゑおかれたる柳も、いまだ陰と頼むまではなけれども、かつがつ、まづ道のしるべとなれるもあはれなり。もろこしの召公
せきは周の武王の弟なり、成王の三公として、燕といふ國をつかさどりき。陜の西のかたを治めし時、一つの甘棠のもとをしめて政を行ふ時、つかさ人より初めて、もろもろの民にいたるまで、そのもとを失はず、あまねく又、人の患へをことわり、重き罪をもなだめけり。國民こぞりてその徳政をしのぶ故に、召公去りしあとまでも、かの木を敬ひて敢へてきらず、歌をなん作りけり。後三條天皇、東宮にておはしましけるに、學士實政、任國に赴く時、「州の民はたとひ甘棠の詠をなすとも、忘るることなかれ、多くの年の風月の遊び」といふ御製を賜はせたりけるも、この心にやありけん、いみじくかたじけなし。かの前の司も、この召公の跡を追ひて、人をはぐくみ、物を憐むあまり、道のほとりの往還の蔭までも、思ひよりて植ゑおかれたる柳なれば、これを見むともがら、みなかの召公を忍びけん國の民の如くに惜みそだてて、行くすゑの蔭と頼まむこと、その本意は定めてたがはじとこそおぼゆれ。
植ゑおきしぬしなきあとの柳原
なほそのかげを人やたのまん
豐川といふ宿の前を打過ぐるに、ある者のいふを聞けば、この道をば昔よりよくるかたなかりしほどに、近頃より俄かに渡津の今道といふかたに、旅人おほくかかる間、今はその宿は、人の家居をさへ外にのみ移すなどぞいふなる。古きをすてて新しきにつく習ひ、定まれることといひながら、いかなる故ならんとおぼつかなし。昔より住みつきたる里人の、今さら居うかれんこそ、かの伏見の里ならねども、荒れまく惜しくおぼゆれ。
おぼつかないさとよ川の變る瀬を
いかなる人の渡りそめけん
三河、遠江のさかひに、高師の山ときこゆるあり。山中に越えかかるほどに、谷川の流れおちて、岩瀬の波ことごとしく聞ゆ。境川とぞいふ。
岩づたひ駒うち渡す谷川の
音もたかしの山に來にけり
橋本といふ所に行きつきぬれば、聞きわたりしかひありて、景色いと心すごし。南には潮海あり、漁舟、波に浮ぶ、北には湖水あり、人家、岸につらなれり。その間に洲崎遠くさしいで、松きびしく生ひつづき、嵐しきりにむせぶ。松のひびき、波の音、いづれも聞きわきがたし。行く人、心をいたましめ、とまるたぐひ、夢をさまさずといふことなし。みづうみに渡せる橋を濱名となづく。古き名所なり。朝たつ雲のなごり、いづくよりも心ぼそし。
行きとまる旅寢はいつも變らねど
わきて濱名の橋ぞすぎうき
さてもこの宿に一夜とまりたりしやどあり。軒ふりたるわらやの、ところどころまばらなるひまより、月のかげくもりなくさし入りたる折しも、君どもあまた見えし中に、少しおとなびたるけはひにて、「夜もすがら床のもとに青天を見る」と忍びやかに打詠じたりしこそ、心にくくおぼえしか。
ことのはの深きなさけは軒端もる
月の桂の色に見えにき
なごり多くおぼえながら、この宿をも打出でて行きすぐるほどに、舞澤の原といふ所に來にけり。北南は渺々と遙かにして、西は海の渚ちかし。錦花繍草のたぐひは、いとも見えず、白き眞砂のみありて雪の積れるに似たり。その間に、松たえだえ生ひ渡りて、潮風、梢に音づれ、又あやしの草の庵、所々見ゆる、漁人釣客などのすみかにやあるらん、末とほき野原なれば、つくづくと眺めゆくほどに、うちつれたる旅人の語るを聞けば、いつの頃よりとは知らず、この原に木像の觀音おはします。御堂など朽ち荒れにけるにや、かりそめなる草の庵のうちに、雨露もたまらず、年月を送るほどに、一とせ望むことありて鎌倉へくだる筑紫人ありけり。この觀音の御前に參りたりけるが、もしこの本意をとげて故郷へ向はば、御堂を造るべきよし、心のうちに申しおきて侍りけり。鎌倉にて望むことかなひけるによりて、御堂を造りけるより、人多く參るなんどぞいふなる。聞きあへずその御堂へ參りたれば、不斷香の煙、風に誘はれ打ちかほり、あかの花も露あざやかなり。願書とおぼしきもの、斗張の紐に結びつけたれば、「弘誓の深きこと海の如し」といへるも頼もしくおぼえて、
頼もしな入江にたつるみをつくし
深きしるしのありと聞くにも
天龍と名づけたるわたりあり。川深く、流れ烈しく見ゆ。秋の水みなぎり來て舟のさること速かなれば、往還の旅人、たやすく向ひの岸につきがたし。この川、水まされる時、舟などもおのづからくつがへりて、底のみくづとなるたぐひ多かりと聞くこそ、かの巫峽の水の流れ、思ひよせられて、いと危きここちすれ。しかはあれども、人の心にくらぶれば、靜かなる流れぞかしと思ふにも、たとふべきかたなきは、世にふる道のけはしき習ひなり。
この川の早き流れも世の中の
人のこころのたぐひとは見ず
遠江の國府、今の浦につきぬ。ここに宿かりて一日二日とどまりたるほど、あまの小舟に棹さしつつ、浦の有樣見めぐれば、潮海、湖の間に、洲崎とほく隔たりて、南には、極浦の波、袖をうるほし、北には、長松の風、心をいたましむ。なごり多かりし橋本の宿にぞ相似たる。昨日の目うつりなからずば、これも心とまらずしもあらざらましなどはおぼえて、
浪の音も松のあらしも今の浦に
きのふの里のなごりをぞ聞く
ことのままと聞ゆる社おはします。その御前をすぐとて、いささか思ひつづけられし。
ゆふだすきかけてぞたのむ今思ふ
ことのままなる神のしるしを
小夜の中山は、古今集の歌に、「よこほりふせる」とよまれたれば、名高き名所なりとは聞きおきたれども、見るにいよいよ心ぼそし。北は深山にて、松杉、嵐はげしく、南は野山にて、秋の花、露しげし。谷より嶺にうつる道、雲にわけ入る心ちして、鹿のね、涙をもよほし、蟲のうらみ、あはれ深し。
踏み通ふ峯のかけはしとだえして
雲にあととふ小夜の中山
この山をも越えつつ、なほ過ぎ行くほどに、菊川といふ所あり。いにし承久三年の秋のころ、中御門中納言宗行ときこえし人の、罪ありて東へ下られけるに、この宿に泊りけるが、「昔は南陽縣の菊水、下流を汲みて齡をのぶ、今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失ふ」と、ある家の柱に書かれたりけりと聞きおきたれば、いとあはれにて、その家をたづぬるに、火の爲に燒けて、かの言の葉も殘らずと申す者あり。今は限とて殘しおきけむかたみさへ、跡なくなりにけるこそ、はかなき世の習ひ、いとどあはれに悲しけれ。
書きつくるかたみも今はなかりけり
跡はちとせと誰かいひけむ
菊川を渡りて、いくほどもなく一むらの里あり。こはまとぞいふなる。この里の東のはてに、少しうちのぼるやうなる奧より大井川を見わたしたれば、はるばると廣き河原の中に、一すぢならず流れわかれたる川瀬ども、とかく入りちがひたる樣にて、すながしといふ物をしたるに似たり。なかなか渡りて見むよりも、よそめ面白く、おぼゆれば、かの紅葉みだれて流れけむ龍田川ならねども、しばしやすらはる。
日かずふる旅のあはれは大井川
わたらぬ水も深き色かな
前島の宿をたちて、岡部の今宿をうちすぐるほど、かた山の松のかげに立ちよりて、かれいひなど取りいでたるに、嵐すさまじく梢にひびき渡りて、夏のままなる旅ごろも、薄き袂も寒くおぼゆ。
これぞこの頼む木のもと岡べなる
松のあらしよ心して吹け
宇津の山を越ゆれば、つたかへでは茂りて、昔のあとたえず。かの業平が、修行者にことづてしけんほどは、いづくなるらんと見ゆくほどに、道のほとりに札を立てたるを見れば、無縁の世捨人あるよしを書けり。道より近きあたりなれば、少し打入りて見るに、わづかなる草の庵のうちに一人の僧あり。畫像の阿彌陀佛をかけ奉りて、淨土の法文などを書けり。その外にさらに見ゆるものなし。發心の始めを尋ねきけば、我が身はもとこの國の者なり。さして思ひはなれたる道心も侍らぬうへ、その身たへたるかたなければ、理を觀ずるに心くらく、佛を念ずるに性ものうし。難行易行の二つの道、ともに缺けたりといへども、山の中に眠れるは、里にありて勤めたるにまされるよし、ある人の教へにつきて、この山に庵を結びつつ、あまたの年月を送るよしを答ふ。むかし、叔齊が首陽の雲に入りて、猶三春の蕨をとり、許由が頴水の月にすみし、おのづから一瓢の器をかけたりといへり。この庵のあたりには、ことさらに煙たてたるよすがも見えず、柴折りくぶる慰めまでも思ひたえたるさまなり。身を孤山の嵐の底にやどして、心を淨域の雲の外にすませる、いはねどしるく見えて、なかなかあはれに心にくし。
世をいとふ心の奧やにごらまし
かかる山邊のすまひならでは
この庵のあたり幾ほど遠からず、峠といふ所にいたりて、大きなる卒塔婆の年へにけると見ゆるに、歌どもあまた書きつけたる中に、「東路はここをせにせん宇津の山あはれも深し蔦の下道」とよめる、心とまりておぼゆれば、そのかたはらに書きつけし。
なほ打過ぐるほどに、ある木陰に、石を高く積みあげて、目にたつさまなる塚あり。人にたづぬれば、梶原が墓となむ答ふ。道のかたはらの土となりにけりと見ゆるにも、顯基中納言の口ずさみ給へりけん、「年々に春の草のみ生ひたり」といへる詩、思ひいでられて、これもまた古き塚となりなば、名だにも殘らじと、あはれなり。羊太傳が跡にはあらねども、心ある旅人は、ここにも涙をやおとすらむ。かの梶原は、將軍二代の恩に驕り、武勇三略の名を得たり、傍に人なくぞ見えける。いかなることにかありけん、かたへの憤ふかくして、たちまちに身を亡ぼすべきになりにければ、ひとまどものびんとや思ひけむ、都のかたへ馳せのぼりけるほどに、駿河の國、きかはといふ所にてうたれにけりと聞きしが、さはここにてありけるよと、あはれに思ひ合せらる。讃岐の法皇、配所へ赴かせ給ひて、かの志度といふ所にてかくれさせおはしましける御跡を、西行、修行のついでに見まゐらせて、「よしや君むかしの玉の床とてもかからむのちは何にかはせん」とよめりけるなど、うけたまはるに、まして、しもざまの者のことは申すに及ばねども、さしあたりて見るには、いとあはれにおぼゆ。
田子の浦にうち出でて、富士のたかねを見れば、時わかぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず、青うして天によれるすがた、繪の山よりもこよなう見ゆ。貞觀十七年の冬のころ、白衣の美女二人ありて、山の頂に並び舞ふと、都良香が富士の山の記に書きたり。いかなる故にかとおぼつかなし。
浮島が原は、いづくよりもまさりて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へはるばると長き沼あり。布をひけるが如し。山のみどり影をひたして、空も水も一つなり。蘆刈り小舟、所々に棹さして、むれたる鳥、多くさわぎたり。南は海のおもて遠く見わたされて、雲の波、煙の波、いと深きながめなり。すべて孤島の目にさへぎるなし。わづかに遠帆の空につらなれるを望む。こなたかなたの眺望、いづれもとりどりに心ぼそし。原には鹽屋の煙たえだえ立ちわたりて、浦風、松の梢にむせぶ。この原、昔は海の上に浮びて、蓬莱の三つの島の如くにありけるによりて、浮島となん名づけたりと聞くにも、おのづから神仙のすみかにもやあるらん、いとどおくゆかしく見ゆ。
影ひたす沼の入江に富士のねの
けむりも雲も浮島がはら
やがてこの原につぎて千本の松原といふ所あり。海のなぎさ遠からず、松はるかに生ひわたりて、みどりのかげ、きはもなし。沖には舟ども行きちがひて、木の葉の浮けるやうに見ゆ。かの、「千株の松下、雙峯の寺、一葉の舟中、萬里の身」と作れるに、かれもこれもはづれず、眺望いづくにもまさりたり。
見わたせば千本の松の末とほみ
みどりにつづく波の上かな
車返しといふ里あり。ある家にやどりたれば、網、釣などいとなむ賤しき者のすみかにや、夜のやどり、ありかことにして、床のさむしろもかけるばかりなり。かの縛戒人の夜半の旅寢も、かくやありけむとおぼゆ。
これぞこの釣するあまのとまびさし
いとふありかや袖にのこらん
伊豆の國府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うち拜み奉るに、松の嵐、木ぐらく音づれて、庭の氣色も神さびわたれり。この社は、伊豫の國、三島大明神をうつし奉ると聞くにも、能因入道、伊豫守實綱が命によりて歌よみて奉りけるに、炎旱の天より雨にはかに降りて、枯れたる稻葉もたちまちに緑にかへりけるあら人神の御なごりなれば、ゆふだすき、かけまくもかしこくおぼゆ。
せきかけし苗代水の流れきて
またあまくだる神ぞこの神
かぎりある道なれば、このみぎりをも立ち出でて、なほ行きすぐるほどに、箱根の山にもつきにけり。岩がね高くかさなりて、駒もなづむばかりなり。山の中にいたりて、みづうみ廣くたたへり。箱根の湖となづく、また蘆の海といふもあり。權現垂跡のもとゐ、けだかく尊し。朱樓紫殿の雲にかさなれるよそほひ、唐家の驪山宮かとおどろかれ、巖室石龕の波に臨めるかげ、錢塘の心水寺ともいひつべし。うれしき便なれば、うき身の行くへ、しるべせさせ給へなど祈りて、法施たてまつるついでに、
今よりは思ひ亂れじ蘆のうみの
ふかきめぐみを神にまかせて
この山も越えおりて、湯本といふ所に泊りたれば、みやまおろし烈しくうちしぐれて、谷川みなぎりまさり、岩瀬の波たかくむせぶ。暢師房の夜のききにもすぎたり。かの源氏物語の歌に、「涙もよほす瀧の音かな」といへる、思ひよられてあはれなり。
それならぬたのみはなきを故郷の
ゆめぢゆるさぬ瀧のおとかな
この宿をもたちて鎌倉につく日の夕つかた、雨俄かに降りて、みかさもとりあへぬほどなり。いそぐ心にのみすすめられて、大磯、江の島、もろこしが原など、聞ゆる所々をも、見とどむるひまもなくて打過ぎぬるこそ、いと心ならずおぼゆれ。
くれかかるほどに下りつきぬれば、何がしのいりとかやいふ所に、あやしの賤が庵をかりてとどまりぬ。前は道にむかひて門なし、行人征馬、すだれのもとに行きちがひ、うしろは山ちかくして窓に望む、鹿の音、蟲の聲、かきの上にいそがはし。旅店の、都にことなる、さま變りて心すごし。
かくしつつ、明かしくらすほどに、つれづれも慰むやとて、和賀江の築島、三浦のみさきなどいふ浦々を行きて見れば、海上の眺望あはれを催して、こしかたに名高く面白き所々にも劣らずおぼゆ。
さびしさは過ぎこしかたの浦々も
ひとつながめの沖のつり舟
玉よする三浦がさきの波間より
出でたる月の影のさやけさ
そもそも鎌倉の初めを申せば、故右大將家ときこえ給ふ、水の尾のみかどの九つの世のはつえを猛き人に受けたり。さりにし治承の末にあたりて、義兵をあげて朝敵をなびかすより、恩賞しきりに隴山の跡をつぎて將軍の召しを得たり。營館をこの所にしめ、佛神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、いま繁昌の地となれり。中にも鶴が岡の若宮は、松柏のみどりいよいよ茂く、蘋
ぱんのそなへ缺くることなし。陪從を定めて四季の御神樂おこたらず、職掌に仰せて八月の放生會を行はる。崇神のいつくしみ、本社に變らずときこゆ。
二階堂はことにすぐれたる寺なり。鳳の甍、日にかがやき、鳧の鐘、霜にひびき、樓臺の莊嚴よりはじめて、林池のありとにいたるまで、殊に心とまりて見ゆ。
大御堂ときこゆるは、石巖のきびしきをきりて、道場のあらたなるを開きしより、禅僧、庵を並ぶ、月おのづから紙窓の觀をとぶらひ、行法、座をかさぬ、風とこしなへに金磬のひびきを誘ふ。しかのみならず、代々の將軍以下、造りそへられたる松の社、蓬の寺、まちまちにこれ多し。
そのほか、由井の浦といふ所に、阿彌陀の大佛を作り奉るよし語る人あり。やがていざなひて參りたれば、尊くありがたし。事の起りをたづぬるに、もとは遠江の國の人、定光上人といふ者あり。過ぎにし延應の頃より、關東のたかきいやしきを勸めて、佛像を作り堂舍を建てたり。その功すでに三が二に及ぶ。烏瑟たかく現はれて半天の雲に入り、白亳あらたにみがきて滿月の光をかがやかす。佛はすなはち兩三年の功、すみやかに成り、堂は又十二樓の構へ、望むに高し。かの東大寺の本尊は、聖武天皇の製作、金銅十丈餘の廬舍那佛なり。天竺、震旦にもたぐひなき佛像とこそ聞ゆれ。この阿彌陀は、八丈の御長なれば、かの大佛のなかばよりもすすめり。金銅、木像のかはりめこそあれども、末代にとりては、これも不思議といひつべし。佛法東漸のみぎりに當りて、權化、力を加ふるかと、ありがたくおぼゆ。
かやうの事どもを見聞くにも、心とまらずしもはなけれども、文にも暗く、武にもかけて、つひに住みはつべきよすがもなき、數ならぬ身なれば、日をふるままには、ただ都のみぞ戀しき。かへるべきほどと思ひしも空しく過ぎゆきて、秋より冬にもなりぬ。蘇武が漢を別れし十九年の旅の愁ひ、李陵が胡に入りし三千里の道の思ひ、身に知らるるここちす。聞きなれし蟲の音も、やや弱りはてて、松ふく峯の嵐のみぞ、いとど烈しくなりまされる、懷土の心にもよほされて、つくづくと都のかたを眺めやる折しも、一行の雁がね、空に消えゆくもあはれなり。
かへるべき春をたのむの雁がねも
なきてや旅のそらにいでにし
かかるほどに、神無月の二十日餘りのころ、はからざるに、とみの事ありて、都へかへるべきになりぬ。その心のうち、水くきのあとにも書き流しがたし。錦を着るさかひは、もとより望むところにあらねども、故郷に歸る喜びは、朱買臣に相似たるここちす。
ふるさとへ歸る山路のこがらしに
思はぬほかのにしきをや着む
十月二十三日の曉、すでに鎌倉をたちて都へ赴くに、宿の障子に書きつく。
なれぬれば都をいそぐけさなれど
さすが名殘の惜しき宿かな