十二
ぼくは、もう日本に帰る迄、あなたとは口を利くまいと、かたく心に誓ったのです。日本を離れるに随って、日本が好きになるとは、誰しもが言う処です。幼いマルキストであったぼくですが、――ハワイを過ぎ、桑港も近くなると、今更のように、自分は日本選手だ、という気持を感じて来ました。
その頃、ぼくは、人知れず、閑さえあれば、バック台を引いて、練習をしていました。ようやく静まってきた波のうねりをみながら、一望千里、涯しない大洋の碧さに、甘い少年の感傷を注いで、スライドの滑る音をきいていたのも、忘れられぬ思い出であります。
船が桑港に入る前夜、ぼくは日本を発つとき、学校の先生から頼まれた、羅府にいる先生の親戚への贈物、女の着物の始末に困って、副監督のM氏に相談しました。M氏は、それを誰か女の選手に、彼女の持物として、預かって貰えと言います。浅ましい話ですが、ぼくはそれをきくと、眼の色が変るほど、興奮しました。あなたに預かって貰えたら、と思ったのです。口を利かずともどんな形にでも、あなたと繋がっているものが欲しかった。ぼくは、その着物に潜ませる、恋文のことなど考えて、その夜も、また眠れませんでした。
もう二時間程で、桑港に入るという午後、ぼくは、M氏から、誰という名前はきかず、その着物を預かって貰えるからとの話で、着物をお願いしました。
がっかりすると言うより、ぼんやりして、海を見ていると、舵手の清さんがやって来て、肩を叩きます。「どうしたんだい、坂本さん」微笑んでいる清さんは、本当に、ぼくを気遣ってくれるのでしょう。「いや、別に」とぼくは、だらしなく悄気た声を出しました。「ばかに、元気がないじゃないか」「ええ」とうなずいて、清さんの顔をみていると、このひとに、なにもかにも打明けたら、さっぱりするだろうという、気がふッと致しました。
と、清さんは、急に真顔になって、「坂本さん。ちょッと話があるんだ。来てくれませんか」と先に立ち、上甲板に登って行きます。ああ、そのことかと、胸にギクリ来ましたが、結局、言われたほうが、楽になると思い、ついて行くと、ボオト・デッキから更に階段をあがり、船の頂上、プウルのある甲板にでました。方二間位のプウルには、青々と水が湛えられ、船の動揺にしたがって、揺れています。周囲にベンチが二つ、置かれてあるだけの狭い甲板です。「まア、掛けましょう」といわれ、並んで腰を降ろしたまま、しばらく沈黙が続きました。もう港が近いとみえ、鴎が遥か下の海上を飛んでいるのが見えます。
「少し、話し悪いことなんですが――」と前置きをして、清さんは切り出しました。「実は、あんたのことで、変な噂があるのを前からきいていましたが、坂本さんに限って、そんな莫迦はしないと、ぼくはいつも打消していました。
ところが、この頃、あんまり、森さんや、松山さん達が、心配するんでね、ぼくも、もう米国に着いたことだし、ここで、坂本さんにしっかりして貰えなきゃ困るんで、今日、改まって、訊く訳ですが、一体、あの噂は、何処ら辺までが本当なんです」
ぼくも、こんな風に言われると、やはり、自分の精神的な、苦悩は大切に蔵っておきたく、それとはあべこべに、あなたとの楽しかった遊びが、次から次へと、走馬燈のように想い出され、清さんのそれからの御意見も、いつしか空吹く風と、きき流したくなりました。と、不意に、(意見せられて、さし俯向いて――)という、おけさの一節が、頭に浮びました。(泣いていながら主のこと)なにか訴えるものが欲しかった。自然よ! と眼をあげた刹那、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、その癖、未生前とでもいいますか、どこかで一回は眺めたことがあるという感懐が、肉体を痺れさせるほど、強くおそいました。
みよ、この時、髣髴と迫ってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも湿りッ気を含まぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。夢のような美しさだ。夢がこれほど実感を伴って、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、如実に感じたことはありません。
白い国! 蜃気楼もかくや、――など陳腐な形容ですが、事実、ぼくは蜃気楼をみた想いでした。背後には、青空をくっきりと劃した、峰々の紫紺の山肌、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、摩天楼という名にふさわしく、空も山も、為にちいさくみえる豪華さです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては絢爛と光り輝き、明るさと眩しさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、悠々と、海を圧して、碇泊中の汽船、軍艦の間を縫い、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。
しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。只、青い海に浮んだ白い大都市が、燦然と、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある永劫のものへの旅を誘います。金門湾、桑港! と、ぼくは、昔なつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動に襲われたのか、ぼくに、「ほら、もう桑港じゃないか。元気をだしなよ」と肩を叩いて話を打ちきり、二人はしばし、唇を噤み、じっと、この新しい大陸をみつめていました。



