中 編
一の一
今しも午後八時を拍ちたる床の間の置き時計を炬燵の中より顧みて、川島未亡人は
「八時――もう帰りそうなもんじゃが」
とつぶやきながら、やおらその肥え太りたる手をさしのべて煙草盆を引き寄せ、つづけざまに二三服吸いて、耳傾けつ。山の手ながら松の内の夜は車東西に行き違いて、隣家には福引きの興やあるらん、若き男女の声しきりにささめきて、おりおりどっと笑う声も手にとるように聞こえぬ。未亡人は舌打ち鳴らしつ。
「何をしとっか。つッ。赤坂へ行くといつもああじゃっで……武も武、浪も浪、実家も実家じゃ。今時の者はこれじゃっでならん」
膝立て直さんとして、持病のリュウマチスの痛所に触れけん、「あいたあいた」顔をしかめて癇癪まぎれに煙草盆の縁手荒に打ちたたき「松、松松」とけたたましく小間使いを呼び立つる。その時おそく「お帰りい」の呼び声勇ましく二挺の車がらがらと門に入りぬ。
三が日の晴着の裾踏み開きて走せ来たりし小間使いが、「御用?」と手をつかえて、「何をうろうろしとっか、早玄関に行きなさい」としかられてあわてて引き下がると、引きちがえに
「母さん、ただいま帰りました」
と凛々しき声に前を払わして手套を脱ぎつつ入り来る武男のあとより、外套と吾妻コートを婢に渡しつつ、浪子は夫に引き沿うてしとやかに座につき、手をつかえつ。
「おかあさま、大層おそなはりました」
「おおお帰りかい。大分ゆっくりじゃったのう。」
「はあ、今日は、なんです、加藤へ寄りますとね、赤坂へ行くならちょうどいいからいっしょに行こうッて言いましてな、加藤さんも伯母さんもそれから千鶴子さんも、総勢五人で出かけたのです。赤坂でも非常の喜びで、幸い客はなし、話がはずんで、ついおそくなってしまったのです――ああ酔った」と熟せる桃のごとくなれる頬をおさえつ、小間使いが持て来し茶をただ一息に飲みほす。
「そうかな。そいはにぎやかでよかったの。赤坂でもお変わりもないじゃろの、浪どん?」
「はい、よろしく申し上げます、まだ伺いもいたしませんで、……いろいろお土産をいただきまして、くれぐれお礼申し上げましてございます」
「土産といえば、浪さん、あれは……うんこれだ、これだ」と浪子がさし出す盆を取り次ぎて、母の前に差し置く。盆には雉子ひとつがい、鴫鶉などうずたかく積み上げたり。
「御猟の品かい、これは沢山に――ごちそうがでくるの」
「なんですよ、母さん、今度は非常の大猟だったそうで、つい大晦日の晩に帰りなすったそうです。ちょうど今日は持たしてやろうとしておいでのとこでした。まだ明日は猪が来るそうで――」
「猪? ――猪が捕れ申したか。たしかわたしの方が三歳上じゃったの、浪どん。昔から元気のよか方じゃったがの」
「それは何ですよ、母さん、非常の元気で、今度も二日も三日も山に焚火をして露宿しなすったそうですがね。まだなかなか若い者に負けんつもりじゃて、そう威張っていなさいます」
「そうじゃろの、母さんのごとリュウマチスが起こっちゃもう仕方があいません。人間は病気が一番いけんもんじゃ。――おおもうやがて九時じゃ。着物どんかえて、やすみなさい。――おお、そいから今日はの、武どん。安彦が来て――」
立ちかかりたる武男はいささか安からぬ色を動かし、浪子もふと耳を傾けつ。
「千々岩が?」
「何か卿に要がありそうじゃったが――」
武男は少し考え、「そうですか、私もぜひ――あわなけりゃならん――要がありますが。――何ですか、母さん、私の留守に金でも借りに来はしませんでしたか」
「なぜ? ――そんな事はあいません――なぜかい?」
「いや――少し聞き込んだ事もあるのですから――いずれそのうちあいますから――」
「おおそうじゃ、そいからあの山木が来ての」
「は、あの山木のばかですか」
「あれが来てこの――そうじゃった、十日にごちそうをすっから、是非卿に来てくださいというから」
「うるさいやつですな」
「行ってやんなさい。父さんの恩を覚えておっがかあいかじゃなっか」
「でも――」
「まあ、そういわずと行ってやんなさい――どれ、わたしも寝ましょうか」
「じゃ、母さん、おやすみなさい」
「ではお母様、ちょっと着がえいたしてまいりますから」
若夫婦は打ち連れて、居間へ通りつ。小間使いを相手に、浪子は良人の洋服を脱がせ、琉球紬の綿入れ二枚重ねしをふわりと打ちきすれば、武男は無造作に白縮緬の兵児帯尻高に引き結び、やおら安楽椅子に倚りぬ。洋服の塵を払いて次の間の衣桁にかけ、「紅茶を入れるようにしてお置き」と小間使いにいいつけて、浪子は良人の居間に入りつ。
「あなた、お疲れ遊ばしたでしょう」
葉巻の青き煙を吹きつつ、今日到来せし年賀状名刺など見てありし武男はふり仰ぎて、
「浪さんこそくたびれたろう、――おおきれい」
「?」
「美しい花嫁様という事さ」
「まあ、いや――あんな言を」
さと顔打ちあかめて、ランプの光まぶしげに、目をそらしたる、常には蒼きまで白き顔色の、今ぼうっと桜色ににおいて、艶々とした丸髷さながら鏡と照りつ。浪に千鳥の裾模様、黒襲に白茶七糸の丸帯、碧玉を刻みし勿忘草の襟どめ、(このたび武男が米国より持て来たりしなり)四分の羞六分の笑を含みて、嫣然として燈光のうちに立つ姿を、わが妻ながらいみじと武男は思えるなり。
「本当に浪さんがこう着物をかえていると、まだ昨日来た花嫁のように思うよ」
「あんな言を――そんなことをおっしゃると往ってしまいますから」
「ははははもう言わない言わない。そう逃げんでもいいじゃないか」
「ほほほ、ちょっと着がえをいたしてまいりますよ」
一の二
武男は昨年の夏初め、新婚間もなく遠洋航海に出で、秋は帰るべかりしに、桑港に着きける時、器械に修覆を要すべき事の起こりて、それがために帰期を誤り、旧臘押しつまりて帰朝しつ。今日正月三日というに、年賀をかねて浪子を伴ない加藤家より浪子の実家を訪いたるなり。
武男が母は昔気質の、どちらかといえば西洋ぎらいの方なれば、寝台に寝ねて匙もて食らうこと思いも寄らねど、さすがに若主人のみは幾分か治外の法権を享けて、十畳のその居間は和洋折衷とも言いつべく、畳の上に緑色の絨氈を敷き、テーブルに椅子二三脚、床には唐画の山水をかけたれど、[13]13※間には亡父通武の肖像をかかげ、開かれざる書筺と洋籍の棚は片すみに排斥せられて、正面の床の間には父が遺愛の備前兼光の一刀を飾り、士官帽と両眼鏡と違い棚に、短剣は床柱にかかりぬ。写真額数多掛けつらねたるうちには、その乗り組める軍艦のもあり、制服したる青年のおおぜいうつりたるは、江田島にありけるころのなるべし。テーブルの上にも二三の写真を飾りたり。両親並びて、五六歳の男児の父の膝に倚りたるは、武男が幼きころの紀念なり。カビネの一人撮しの軍服なるは乃舅片岡中将なり。主人が年若く粗豪なるに似もやらず、几案整然として、すみずみにいたるまで一点の塵を留めず、あまつさえ古銅瓶に早咲きの梅一両枝趣深く活けたるは、温かき心と細かなる注意と熟練なる手と常にこの室に往来するを示しぬ。げにその主は銅瓶の下に梅花の香を浴びて、心臓形の銀の写真掛けのうちにほほえめるなり。ランプの光はくまなく室のすみずみまでも照らして、火桶の炭火は緑の絨氈の上に紫がかりし紅の焔を吐きぬ。
愉快という愉快は世に数あれど、つつがなく長の旅より帰りて、旅衣を平生服の着心地よきにかえ、窓外にほゆる夜あらしの音を聞きつつ居間の暖炉に足さしのべて、聞きなれし時計の軋々を聞くは、まったき愉快の一なるべし。いわんやまた阿母老健にして、新妻のさらに愛しきあるをや。葉巻の香しきを吸い、陶然として身を安楽椅子の安きに託したる武男は、今まさにこの楽しみを享けけるなり。
ただ一つの翳は、さきに母の口より聞き、今来訪名刺のうちに見たる、千々岩安彦の名なり。今日武男は千々岩につきて忌まわしき事を聞きぬ。旧臘某日の事とか、千々岩が勤むる参謀本部に千々岩にあてて一通のはがきを寄せたる者あり、折節千々岩は不在なりしを同僚の某何心なく見るに、高利貸の名高き何某の貸し金督促状にして、しかのみならずその金額要件は特に朱書してありしという。ただそれのみならず、参謀本部の機密おりおり思いがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。なおその上に、千々岩の姿をあるまじき相場の市に見たる者あり。とにかく種々嫌疑の雲は千々岩の上におおいかかりてあれば、この上とても千々岩には心して、かつ自ら戒飭するよう忠告せよと、参謀本部に長たる某将軍とは爾汝の間なる舅中将の話なりき。
「困った男だ」
かくひとりごちて、武男はまた千々岩の名刺を打ちながめぬ。しかも今の武男は長く不快に縛らるるあたわざるなり。何も直接にあいて問いただしたる上と、思い定めて、心はまた翻然として今の楽しきに返れる時、服をあらためし浪子は手ずから紅茶を入れてにこやかに入り来たりぬ。
「おお紅茶、これはありがたい」椅子を離れて火鉢のそばにあぐらかきつつ、
「母さんは?」
「今おやすみ遊ばしました」紅茶の熱きをすすめつつ、なお紅なる良人の面をながめ「あなた、お頭痛が遊ばすの? お酒なんぞ、召し上がれないのに、あんなに母がおしいするものですから」
「なあに――今日は実に愉快だったね、浪さん。阿舅のお話がおもしろいものだから、きらいな酒までつい過ごしてしまった。はははは、本当に浪さんはいいおとっさんをもっているね、浪さん」
浪子はにっこり、ちらと武男の顔をながめて
「その上に――」
「エ? 何です?」驚き顔に武男はわざと目をみはりつ。
「存じません、ほほほほほ」さと顔あからめ、うつぶきて指環をひねる。
「いやこれは大変、浪さんはいつそんなにお世辞が上手になったのかい。これでは襟どめぐらいは廉いもんだ。はははは」
火鉢の上にさしかざしたる掌にぽうっと薔薇色になりし頬を押えつ。少し吐息つきて、
「本当に――永い間母様も――どんなにおさびしくッていらっしゃいましてしょう。またすぐ勤務にいらっしゃると思うと、日が早くたってしようがありませんわ」
「始終内にいようもんなら、それこそ三日目には、あなた、ちっと運動にでも出ていらっしゃいませんか、だろう」
「まあ、あんな言を――も一杯あげましょうか」
くみて差し出す紅茶を一口飲みて、葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつ、快くあたりを見回して、
「半年の余もハンモックに揺られて、家に帰ると、十畳敷きがもったいないほど広くて何から何まで結構ずくめ、まるで極楽だね、浪さん。――ああ、何だか二度蜜月遊をするようだ」
げに新婚間もなく相別れて半年ぶりに再び相あえる今日このごろは、ふたたび新婚の当時を繰り返し、正月の一時に来つらん心地せらるるなりけり。
語はしばし絶えぬ。両人はうっとりとしてただ相笑めるのみ。梅の香は細々として両人が火桶を擁して相対えるあたりをめぐる。
浪子はふと思い出でたるように顔を上げつ。
「あなたいらっしゃいますの、山木に?」
「山木かい、母さんがああおっしゃるからね――行かずばなるまい」
「ほほ、わたくしも行きたいわ」
「行きなさいとも、行こういっしょに」
「ほほほ、よしましょう」
「なぜ?」
「こわいのですもの」
「こわい? 何が?」
「うらまれてますから、ほほほ」
「うらまれる? うらむ? 浪さんを?」
「ほほほ、ありますわ、わたくしをうらんでいなさる方が。おのお豊さん……」
「ははは、何を――ばかな。あのばか娘もしようがないね、浪さん。あんな娘でももらい人があるかしらん。ははは」
「母さまは、千々岩はあの山木と親しくするから、お豊を妻にもらったらよかろうッて、そうおっしゃっておいでなさいましたよ」
「千々岩?――千々岩?――あいつ実に困ったやっだ。ずるいやつた知ってたが、まさかあんな嫌疑を受けようとは思わんかった。いや近ごろの軍人は――僕も軍人だが――実にひどい。ちっとも昔の武士らしい風はありやせん、みんな金のためにかかってる。何、僕だって軍人は必ず貧乏しなけりゃならんというのじゃない。冗費を節して、恒の産を積んで、まさかの時節に内顧の患のないようにするのは、そらあ当然さ。ねエ浪さん。しかし身をもって国家の干城ともなろうという者がさ、内職に高利を貸したり、あわれむべき兵の衣食をかじったり、御用商人と結託して不義の財をむさぼったりするのは実に用捨がならんじゃないか。それに実に不快なは、あの賭博だね。僕の同僚などもこそこそやってるやつがあるが、実に不愉快でたまらん。今のやつらは上にへつらって下からむさぼることばかり知っとる」
今そこに当の敵のあるらんように息巻き荒く攻め立つるまだ無経験の海軍少尉を、身にしみて聞き惚るる浪子は勇々しと誇りて、早く海軍大臣かないし軍令部長にして海軍部内の風を一新したしと思えるなり。
「本当にそうでございましょうねエ。あの、何だかよくは存じませんが、阿爺がね、大臣をしていましたころも、いろいろな頼み事をしていろいろ物を持って来ますの。阿爺はそんな事は大禁物ですから、できる事は頼まれなくてもできる、できない事は頼んでもできないと申して、はねつけてもはねつけてもやはりいろいろ名をつけて持ち込んで来ましたわ。で、阿爺が戯談に、これではたれでも役人になりたがるはずだって笑っていましたよ」
「そうだろう、陸軍も海軍も同じ事だ。金の世の中だね、浪さん――やあもう十時か」おりからりんりんとうつ柱時計を見かえりつ。
「本当に時間が早くたつこと!」
二の一
芝桜川町なる山木兵造が邸は、すぐれて広しというにあらねど、町はずれより西久保の丘の一部を取り込めて、庭には水をたたえ、石を据え、高きに道し、低きに橋して、楓桜松竹などおもしろく植え散らし、ここに石燈籠あれば、かしこに稲荷の祠あり、またその奥に思いがけなき四阿あるなど、この門内にこの庭はと驚かるるも、山木が不義に得て不義に築きし万金の蜃気楼なりけり。
時はすでに午後四時過ぎ、夕烏の声遠近に聞こゆるころ、座敷の騒ぎを背にして日影薄き築山道を庭下駄を踏みにじりつつ上り行く羽織袴の男あり。こは武男なり。母の言黙止し難くて、今日山木の宴に臨みつれど、見も知らぬ相客と並びて、好まぬ巵挙ぐることのおもしろからず。さまざまの余興の果ては、いかがわしき白拍子の手踊りとなり、一座の無礼講となりて、いまいましきこと限りもなければ、疾くにも辞し去らんと思いたれど、山木がしきりに引き留むるが上に、必ず逢わんと思える千々岩の宴たけなわなるまで足を運ばざりければ、やむなく留まりつ、ひそかに座を立ちて、熱せる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なき方をたどりしなり。
武男が舅中将より千々岩に関する注意を受けて帰りし両三日後、鰐皮の手かばんさげし見も知らぬ男突然川島家に尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々岩安彦、保証人の名前は顕然川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。先方の口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか寓を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り出したる往復の書面を見るに、違う方なき千々岩が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事の田崎も、さる相談にあずかりし覚えなく、印形を貸したる覚えさらになしという。かのうわさにこの事実思いあわして、武男は七分事の様子を推しつ。あたかもその日千々岩は手紙を寄せて、明日山木の宴会に会いたしといい越したり。
その顔だに見ば、問うべき事を問い、言うべき事を言いて早帰らんと思いし千々岩は来たらず、しきりに波立つ胸の不平を葉巻の煙に吐きもて、武男は崖道を上り、明竹の小藪を回り、常春藤の陰に立つ四阿を見て、しばし腰をおろせる時、横手のわき道に駒下駄の音して、はたと豊子と顔見合わせつ。見れば高島田、松竹梅の裾模様ある藤色縮緬の三枚襲、きらびやかなる服装せるほどますます隙のあらわれて、笑止とも自らは思わぬなるべし。その細き目をばいとど細うして、
「ここにいらっしたわ」
三十サンチ巨砲の的には立つとも、思いがけなき敵の襲来に冷やりとせし武男は、渋面作りてそこそこに兵を収めて逃げんとするを、あわてて追っかけ
「あなた」
「何です?」
「おとっさんが御案内して庭をお見せ申せってそう言いますから」
「案内? 案内はいらんです」
「だって」
「僕は一人で歩く方が勝手だ」
これほど手強く打ち払えばいかなる強敵も退散すべしと思いきや、なお懲りずまに追いすがりて
「そうお逃げなさらんでもいいわ」
武男はひたと当惑の眉をひそめぬ。そも武男とお豊の間は、その昔父が某県を知れりし時、お豊の父山木もその管下にありて常に出入したれば、子供もおりおり互いに顔合わせしが、まだ十一二の武男は常にお豊を打ちたたき泣かしては笑いしを、お豊は泣きつつなお武男にまつわりつ。年移り所変わり人長けて、武男がすでに新夫人を迎えける今日までも、お豊はなお当年の乱暴なる坊ちゃま、今は川島男爵と名乗る若者に対してはかなき恋を思えるなり。粗暴なる海軍士官も、それとうすうす知らざるにあらねば、まれに山木に往来する時もなるべく危うきに近よらざる方針を執りけるに、今日はおぞくも伏兵の計に陥れるを、またいかんともするあたわざりき。
「逃げる? 僕は何も逃げる必要はない。行きたい方に行くのだ」
「あなた、それはあんまりだわ」
おかしくもあり、ばからしくもあり、迷惑にもあり、腹も立ちし武男行かんとしては引きとめられ、逃れんとしてはまつわられ、あわれ見る人もなき庭のすみに新日高川の一幕を出せしが、ふと思いつく由ありて、
「千々岩はまだ来ないか、お豊さんちょっと見て来てくれたまえ」
「千々岩さんは日暮れでなけりゃ来ないわ」
「千々岩は時々来るのかね」
「千々岩さんは昨日も来たわ、おそくまで奥の小座敷でおとっさんと何か話していたわ」
「うん、そうか――しかしもう来たかもしれん、ちょっと見て来てくれないかね」
「わたしいやよ」
「なぜ!」
「だって、あなた逃げて行くでしょう、なんぼわたしがいやだって、浪子さんが美しいって、そんなに人を追いやるものじゃなくってよ」
「油断せば雨にもならんずる空模様に、百計つきたる武男はただ大踏歩して逃げんとする時、
「お嬢様、お嬢様」
と婢の呼び来たりて、お豊を抑留しつ。このひまにと武男はつと藪を回りて、二三十歩足早に落ち延び、ほっと息つき
「困った女だ」
とつぶやきながら、再度の来襲の恐れなき屈強の要害――座敷の方へ行きぬ。
二の二
日は入り、客は去りて、昼の騒ぎはただ台所の方に残れる時、羽織袴は脱ぎすてて、煙草盆をさげながら、おぼつかなき足踏みしめて、廊下伝いに奥まりたる小座敷に入り来し主人の山木、赤禿げの前額の湯げも立ち上らんとするを、いとどランプの光に輝かしつつ、崩るるようにすわり、
「若旦那も、千々岩君も、お待たせ申して失敬でがした。はははは、今日はおかげで非常の盛会……いや若旦那はお弱い、失敬ながらお弱い、軍人に似合いませんよ。御大人なんざそれは大したものでしたよ。年は寄っても、山木兵造――なあに、一升やそこらははははは大丈夫ですて」
千々岩は黒水晶の目を山木に注ぎつ。
「大分ご元気ですな。山木君、もうかるでしょう?」
「もうかるですとも、はははは――いやもうかるといえば」と山木は灰だらけにせし煙管をようやく吸いつけ、一服吸いて「何です、その、今度あの○○○○が売り物に出るそうで、実は内々様子を探って見たが、先方もいろいろ困っている際だから、案外安く話が付きそうですて。事業の方は、大有望さ。追い追い内地雑居と来ると、いよいよ妙だが、いかがです若旦那、田崎君の名義でもよろしいから、二三万御奮発なすっちゃ。きっともうけさして上げますぜ」
と本性違わぬ生酔いの口は、酒よりもなめらかなり。千々岩は黙然と坐しいる武男を流眸に見て、「○○○○、確か青物町の。あれは一時もうかったそうじゃないか」
「さあ、もうかるのを下手にやり崩したんだが、うまく行ったらすばらしい金鉱ですぜ」
「それは惜しいもんだね。素寒貧の僕じゃ仕方ないが、武男君、どうだ、一肩ぬいで見ちゃア」
座に着きし初めより始終黙然として不快の色はおおう所なきまで眉宇にあらわれし武男、いよいよ懌ばざる色を動かして、千々岩と山木を等分に憤りを含みたる目じりにかけつつ
「御厚意かたじけないが、わが輩のように、いつ魚の餌食になるか、裂弾、榴弾の的になるかわからない者は、別に金もうけの必要もない。失敬だがその某会社とかに三万円を投ずるよりも、わが輩はむしろ海員養成費に献納する」
にべなく言い放つ武男の顔、千々岩はちらとながめて、山木にめくばせし、
「山木君、利己主義のようだが、その話はあと回しにして僕の件から願いたいがね。川島君も承諾してくれたから、願って置いた通り――御印がありますか」
証書らしき一葉の書付を取り出して山木の前に置きぬ。
千々岩の身辺に嫌疑の雲のかかれるも宜なり。彼は昨年来その位置の便宜を利用して、山木がために参謀となり牒者となりて、その利益の分配にあずかれるのみならず、大胆にも官金を融通して蠣殻町に万金をつかまんとせしに、たちまち五千円余の損亡を来たしつ。山木をゆすり、その貯えの底をはたきて二千円を得たれども、なお三千の不足あり。そのただ一親戚なる川島家は富みてかつ未亡人の覚えめでたからざるにもあらざれど、出すといえばおくびも惜しむ叔母の性質を知れる千々岩は、打ち明けて頼めば到底らちの明かざるを看破り、一時を弥縫せんと、ここに私印偽造の罪を犯して武男の連印を贋り、高利の三千円を借り得て、ひとまず官金消費の跡を濁しつ。さるほどに期限迫りて、果てはわが勤むる官署にすら督促のはがきを送らるる始末となりたれば、今はやむなくあたかも帰朝せる武男を説き動かし、この三千円を借り得てかの三千円を償い、武男の金をもって武男の名を贖わんと欲せしなり。さきに武男を訪いたれどおりあしく得逢わず、その後二三日職務上の要を帯びて他行しつれば、いまだ高利貸のすでに武男が家に向かいしを知らざるなりき。
山木はうなずき、ベルを鳴らして朱肉の盒を取り寄せ、ひと通り証書に目を通して、ふところより実印取り出でつつ保証人なるわが名の下に捺しぬ。そを取り上げて、千々岩は武男の前に差し置き、
「じゃ、君、証書はここにあるから――で、金はいつ受け取れるかね」
「金はここに持っている」
「ここに?――戯談はよしたまえ」
「持っている。――では、参千円、確かに渡した」
懐中より一通の紙に包みたるもの取り出でて、千々岩が前に投げつけつ。
打ち驚きつつ拾い上げ、おしひらきたる千々岩の顔はたちまち紅になり、また蒼くなりつ。きびしく歯を食いしばりぬ。彼はいまだ高利貸の手にあらんと信じ切ったる証書を現に目の前に見たるなり。武男は田崎に事の由を探らせし後、ついに怪しかる名前の上の三千円を払いしなりき。
「いや、これは――」
「覚えがないというのか。男らしく罪に伏したまえ」
子供、子供と今が今まで高をくくりし武男に十二分に裏をかかれて、一腔の憤怨焔のごとく燃え起こりたる千々岩は、切れよと唇をかみぬ。山木は打ちおどろきて、煙管をやに下がりに持ちたるまま二人の顔をながむるのみ。
「千々岩、もうわが輩は何もいわん。親戚のよしみに、決して私印偽造の訴訟は起こさぬ。三千円は払ったから、高利貸のはがきが参謀本部にも行くまい、安心したまえ」
あくまではずかしめられたる千々岩は、煮え返る胸をさすりつ。気は武男に飛びもかからんとすれども、心はもはや陳弁の時機にあらざるを認むるほどの働きを存せるなり。彼はとっさに態度を変えつ。
「いや、君、そういわれると、実に面目ないがね、実はのっぴきならぬ――」
「何がのっぴきならぬのだ? 徳義ばかりか法律の罪人になってまで高利を借る必要がどこにあるのか」
「まあ、聞いてくれたまえ。実は切迫つまった事で、金は要る、借りるところはなし。君がいると、一も二もなく相談するのだが、叔母様には言いにくいだろうじゃないか。それだといって、急場の事だし、済まぬ――済まぬと思いながら――、実は先月はちっと当てもあったので、皆済してから潔く告白しようと――」
「ばかを言いたまえ。潔く告白しようと思った者が、なぜ黙って別に三千円を借りようとするのだ」
膝を乗り出す武男が見幕の鋭きに、山木はあわてて、
「これさ、若旦那、まあ、お静かに、――何か詳しい事情はわかりませんが、高が二千や三千の金、それに御親戚であって見ると、これは御勘弁――ねエ若旦那。千々岩君も悪い、悪いがそこをねエ若旦那。こんな事が表ざたになって見ると、千々岩君の立身もこれぎりになりますから。ねエ若旦那」
「それだから三千円は払った、また訴訟なぞしないといっているじゃないか。――山木、君の事じゃない、控えて居たまえ、――それはしない、しかしもう今日限り絶交だ」
もはや事ここにいたりては恐るる所なしと度胸を据えし千々岩は、再び態度を嘲罵にかえつ。
「絶交?――別に悲しくもないが――」
武男の目は焔のごとくひらめきつ。
「絶交はされてもかまわんが、金は出してもらうというのか。腰抜け漢!」
「何?」
気色立つ双方の勢いに酔いもいくらかさめし山木はたまり兼ねて二人が間に分け入り「若旦那も、千々岩君も、ま、ま、ま、静かに、静かに、それじゃ話も何もわからん、――これさ、お待ちなさい、ま、ま、ま、お待ちなさい」としきりにあなたを縫いこなたを繕う。
押しとめられて、しばし黙然としたる武男は、じっと千々岩が面を見つめ、
「千々岩、もういうまい。わが輩も子供の時から君と兄弟のように育って、実際才力の上からも年齢からも君を兄と思っていた。今後も互いに力になろう、わが輩も及ぶだけ君のために尽くそうと思っていた。実はこのごろまでもまさかと信じ切っていた。しかし全く君のために売られたのだ、わが輩を売るのは一個人の事だが、君はまだその上に――いやいうまい、三千円の費途は聞くまい。しかし今までのよしみに一言いって置くが、人の耳目は早いものだ、君は目をつけられているぞ、軍人の体面に関するような事をしたもうな。君たちは金より貴いものはないのだから、言ったってしかたはあるまいが、ちっとあ恥を知りたまえ。じゃもう会うまい。三千円はあらためて君にくれる」
厳然として言い放ちつつ武男は膝の前なる証書をとってずたずたに引き裂き棄てつ。つと立ち上がって次の間に出でし勢いに、さっきよりここに隠れて聞きおりしと覚しき女お豊を煽り倒しつ。「あれえ」という声をあとに足音荒く玄関の方に出で去りたり。
あっけにとられし山木と千々岩と顔見あわしつ。「相変わらず坊っちゃまだね。しかし千々岩さん、絶交料三千円は随分いいもうけをしたぜ」
落ち散りたる証書の片々を見つめ、千々岩は黙然として唇をかみぬ。
三の一
二月初旬ふと引きこみし風邪の、ひとたびは[14]14※りしを、ある夜姑の胴着を仕上ぐるとて急ぐままに夜ふかししより再びひき返して、今日二月の十五日というに浪子はいまだ床あぐるまで快きを覚えざるなり。
今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで、日々吹き募る北風は雪を誘い雨を帯びざる日にもさながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は黒囲のみぞ多くなり行く。この寒さはさらぬだに強からぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれという異なれる病態もなけれど、ただ頭重く食うまからずして日また日を渡れるなり。
今二点を拍ちし時計の蜩など鳴きたらんように凛々と響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。珍しくうららかに浅碧をのべし初春の空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、悠々たる日の光くまなく紙障に栄えて、余りの光は紙を透かして浪子が仰ぎ臥しつつ黒スコッチの韈を編める手先と、雪より白き枕に漂う寝乱れ髪の上にちらちらおどりぬ。左手の障子には、ひょろひょろとした南天の影手水鉢をおおうてうつむきざまに映り、右手には[15]15槎※たる老梅の縦横に枝をさしかわしたるがあざやかに映りて、まだつぼみがちなるその影の、花は数うべくまばらなるにも春の浅きは知られつべし。南縁暄を迎うるにやあらん、腰板の上に猫の頭の映りたるが、今日の暖気に浮かれ出でし羽虫目がけて飛び上がりしに、捕りはずしてどうと落ちたるをまた心に関せざるもののごとく、悠々としてわが足をなむるにか、影なる頭のしきりにうなずきつ。微笑を含みてこの光景を見し浪子は、日のまぶしきに眉を攅め、目を閉じて、うっとりとしていたりしが、やおらあなたに転臥して、編みかけの韈をなで試みつつ、また縦横に編み棒を動かし始めぬ。
ドシドシと縁に重やかなる足音して、矮き仁王の影障子を伝い来つ。
「気分はどうごあんすな?」
と枕べにすわるは姑なり。
「今日は大層ようございます。起きられるのですけども――」と編み物をさしおき、襟の乱れを繕いつつ、起き上がらんとするを、姑は押しとめ、
「そ、そいがいかん、そいがいかん。他人じゃなし、遠慮がいッもンか。そ、そ、そ、また編み物しなはるな。いけませんど。病人な養生が仕事、なあ浪どん。和女は武男が事ちゅうと、何もかも忘れッちまいなはる。いけません。早う養生してな――」
「本当に済みません、やすんでばかし……」
「そ、そいが他人行儀、なあ。わたしはそいが大きらいじゃ」
うそをつきたもうな、卿は常に当今の嫁なるものの舅姑に礼足らずとつぶやき、ひそかにわが[16]16※のこれに異なるをもっけの幸と思うならずや。浪子は実家にありけるころより、口にいわねどひそかにその継母のよろず洋風にさばさばとせるをあきたらず思いて、一家の作法の上にはおのずから一種古風の嗜味を有せるなりき。
姑はふと思い出でたるように、
「お、武男から手紙が来たようじゃったが、どう書えて来申した?」
浪子は枕べに置きし一通の手紙のなかぬき出して姑に渡しつつ、
「この日曜にはきっといらッしゃいますそうでございますよ」
「そうかな」ずうと目を通してくるくるとまき収め、「転地養生もねもんじゃ。この寒にエットからだ動かして見なさい、それこそ無か病気も出て来ます。風邪はじいと寝ておると、なおるもんじゃ。武は年が若かでな。医師をかえるの、やれ転地をすッのと騒ぎ申す。わたしたちが若か時分な、腹が痛かてて寝る事なし、産あがりだて十日と寝た事アあいません。世間が開けて来っと皆が弱うなり申すでな。はははは。武にそう書えてやったもんな、母さんがおるで心配しなはんな、ての、ははははは、どれ」
口には笑えど、目はいささか懌ばざる色を帯びて、出で行く姑の後ろ影、
「御免遊ばせ」
と起き直りつつ見送りて、浪子はかすかに吐息を漏らしぬ。
親が子をねたむということ、あるべしとは思われねど、浪子は良人の帰りし以来、一種異なる関係の姑との間にわき出でたるを覚えつ。遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、粗豪なる男心にも留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか苦々しく姑の思える様子は、怜悧き浪子の目をのがれず。時にはかの孝――姑のいわゆる――とこの愛の道と、一時に踏み難く岐るることあるを、浪子はひそかに思い悩めるなり。
「奥様、加藤様のお嬢様がおいで遊ばしましてございます」
と呼ぶ婢の声に、浪子はぱっちり目を開きつ。入り来る客を見るより喜色はたちまち眉間に上りぬ。
「あ、お千鶴さん、よく来たのね」
三の二
「今日はどんな?」
藤色縮緬のおこそ頭巾とともに信玄袋をわきへ押しやり、浪子の枕べ近く立ち寄るは島田の十七八、紺地斜綾の吾妻コートにすらりとした姿を包んで、三日月眉におやかに、凛々しき黒目がちの、見るからさえざえとした娘。浪子が伯母加藤子爵夫人の長女、千鶴子というはこの娘なり。浪子と千鶴子は一歳違いの従姉妹同士。幼稚園に通うころより実の同胞も及ばぬほど睦み合いて、浪子が妹の駒子をして「姉さんはお千鶴さんとばかり仲よくするからわたしいやだわ!」といわしめしこともありき。されば浪子が川島家に嫁ぎて来し後も、他の学友らはおのずから足を遠くせしに引きかえ、千鶴子はかえってその家の近くなれるを喜びつつ、しばしば足を運べるなり。武男が遠洋航海の留守の間心さびしく憂き事多かる浪子を慰めしは、燃ゆるがごとき武男の書状を除きては、千鶴子の訪問ぞその重なるものなりける。
浪子はほほえみて、
「今日はよっぽどよい方だけども、まだ頭が重くて、時々せきが出て困るの」
「そう?――寒いのね」うやうやしく座ぶとんをすすむる婢をちょっと顧みて、浪子のそば近くすわりつ。桐胴の火鉢に指環の宝石きらきらと輝く手をかざしつつ、桜色ににおえる頬を押う。
「伯母様も、伯父様も、おかわりないの?」
「あ、よろしくッてね。あまり寒いからどうかしらッてひどく心配していなさるの、時候が時候だから、少しいい方だッたら逗子にでも転地療養しなすったらッてね、昨夕も母さんとそう話したのですよ」
「そう? 横須賀からもちょうどそう言って来てね……」
「兄さんから? そう? それじゃ早く転地するがいいわ」
「でももうそのうちよくなるでしょうから」
「だッて、このごろの感冒は本当に用心しないといけないわ」
おりから小間使いの紅茶を持ち来たりて千鶴子にすすめつ。
「兼や? 母さんは? お客? そう、どなた? 国の方なの?――お千鶴さん、今日はゆっくりしていいのでしょう。兼や、お千鶴さんに何かごちそうしておあげな」
「ほほほほ、お百度参りするのだもの、ごちそうばかりしちゃたまらないわ。お待ちなさいよ」言いつつ服紗包みの小重を取り出し「こちらの伯母さんはお萩がおすきだッたのね、少しだけども、――お客様ならあとにしましょう」
「まあ、ありがとう。本当に……ありがとうよ」
千鶴子はさらに紅蜜柑を取り出しつつ「きれいでしょう。これはわたしのお土産よ。でもすっぱくていけないわ」
「まあきれい、一ツむいてちょうだいな」
千鶴子がむいて渡すを、さもうまげに吸いて、額にこぼるる髪をかき上げ、かき上げつ。
「うるさいでしょう。ざっと結ってた方がよかないの? ね、ちょっと結いましょう。――そのままでいいわ」
勝手知ったる次の間の鏡台の櫛取り出して、千鶴子は手柔らかにすき始めぬ。
「そうそう、昨日の同窓会――案内状が来たでしょう――はおもしろかってよ。みんながよろしくッて、ね。ほほほほ、学校を下がってからまだやっと一年しかならないのに、もう三一はお嫁だわ。それはおかしいの、大久保さんも本多さんも北小路さんもみんな丸髷に結ってね、変に奥様じみているからおかしいわ。――痛かないの?―ほほほほ、どんな話かと思ったら、みんな自分の吹聴ですわ。そうそう、それから親子別居論が始まってね、北小路さんは自分がちっとも家政ができないに姑がたいへんやさしくするものだから同居に限るっていうし、大久保さんはまた姑がやかましやだから別居論の勇将だし、それはおかしいの。それからね、わたしがまぜッかえしてやったら、お千鶴さんはまだ門外漢――漢がおかしいわ――だから話せないというのですよ。――すこしつまり過ぎはしないの?」
「イイエ。――それはおもしろかったでしょう。ほほほほ、みんな自己から割り出すのね。どうせ局々で違うのだから、一概には言えないのでしょうよ。ねエ、お千鶴さん。伯母様もいつかそうおっしゃったでしょう。若い者ばかりじゃわがままになるッて、本当にそうですよ、年寄りを疎略に思っちゃ済まないのね」
父中将の教えを受くるが上に、おのずから家政に趣味をもてる浪子は、実家にありけるころより継母の政を傍観しつつ、ひそかに自家の見をいだきて、自ら一家の女主になりたらん日には、みごと家を斉えんものと思えるは、一日にあらざりき。されど川島家に来たり嫁ぎて、万機一に摂政太后の手にありて、身はその位ありてその権なき太子妃の位置にあるを見るに及びて、しばしおのれを収めて姑の支配の下に立ちつ。親子の間に立ち迷いて、思うさま良人にかしずくことのままならぬをひそかにかこてるおりおりは、かつてわが国風に適わずと思いし継母が得意の親子別居論のあるいは真理にあらざるやを疑うこともありしが、これがためにかえって浪子は初心を破らじとひそかに心に帯せるなり。
継母の下に十年を送り、今は姑のそばにやがて一年の経験を積める従姉の底意を、ことごとくはくみかねし千鶴子、三つに組みたる髪の端を白きリボンもて結わえつつ、浪子の顔さしのぞきて、声を低め、「このごろでも御機嫌がわるくッて?」
「でも、病気してからよくしてくださるのですよ。でもね、……武男にいろいろするのが、おかあさまのお気に入らないには困るわ! それで、いつでも此家ではおかあさまが女皇陛下だからおれよりもたれよりもおかあさまを一番大事にするンだッて、しょっちゅう言って聞かされるのですわ……あ、もうこんな話はよしましょうね。おおいい気持ち、ありがとう。頭が軽くなったわ」
言いつつ三つ組みにせし髪をなで試みつ。さすがに疲れを覚えつらん、浪子は目を閉じぬ。
櫛をしまいて、紙に手をふきふき、鏡台の前に立ちし千鶴子は、小さき箱の蓋を開きて、掌に載せつつ、
「何度見てもこの襟止はきれいだわ。本当に兄さんはよくなさるのねエ。内の――兄さん(これは千鶴子の婿養子と定まれる俊次といいて、目下外務省に奉職せる男)なんか、外交官の妻になるには語学が達者でなくちゃいけないッて、仏語を勉強するがいいの、ドイツ語がぜひ必要のッて、責めてばかりいるから困るわ」
「ほほほほ、お千鶴さんが丸髷に結ったのを早く見たいわ――島田も惜しいけれど」
「まあいや!」美しき眉はひそめど、裏切る微笑は薔薇の莟めるごとき唇に流れぬ。
「あ、ほんに、萩原さんね、そらわたしたちより一年前に卒業した――」
「あの松平さんに嫁らっした方でしょう」
「は、あの方がね、昨日離縁になったンですッて」
「離縁に? どうしたの?」
「それがね、舅姑の気には入ってたけども、松平さんがきらってね」
「子供がありはしなかったの」
「一人あったわ。でもね、松平さんがきらって、このごろは妾を置いたり、囲い者をしたり、乱暴ばかりするからね、萩原さんのおとうさんがひどく怒つてね、そんな薄情な者には、娘はやって置かれぬてね、とうとう引き取ってしまったんですッて」
「まあ、かあいそうね。――どうしてきらうのでしょう、本当にひどいわ」
「腹が立つのねエ。――逆さまだとまだいいのだけど、舅姑の気に入っても良人にきらわれてあんな事になっては本当につらいでしょうねエ」
浪子は吐息しつ。
「同じ学校に出て同じ教場で同じ本を読んでも、みんなちりぢりになって、どうなるかわからないものねエ。――お千鶴さん、いつまでも仲よく、さきざき力になりましょうねエ」
「うれしいわ!」
二人の手はおのずから相結びつ。ややありて浪子はほほえみ、
「こんなに寝ていると、ね、いろいろな事を考えるの。ほほほほ、笑っちゃいやよ。これから何年かたッてね、どこか外国と戦争が起こるでしょう、日本が勝つでしょう、そうするとね、お千鶴さん宅の兄さんが外務大臣で、先方へ乗り込んで講和の談判をなさるでしょう、それから武男が艦隊の司令長官で、何十艘という軍艦を向こうの港にならべてね……」
「それから赤坂の叔父さんが軍司令官で、宅のおとうさんが貴族院で何億万円の軍事費を議決さして……」
「そうするとわたしはお千鶴さんと赤十字の旗でもたてて出かけるわ」
「でもからだが弱くちゃできないわ。ほほほほ」
「おほほほほ」
笑う下より浪子はたちまちせきを発して、右の胸をおさえつ。
「あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?」
「時々せきするとね、ここに響いてしようがないの」
言いつつ浪子の目はたちまちすうと薄れ行く障子の日影を打ちながめつ。
四の一
山木が奥の小座敷に、あくまで武男にはずかしめられて、燃ゆるがごとき憤嫉を胸に畳みつつわが寓に帰りしその夜より僅々五日を経て、千々岩は突然参謀本部よりして第一師団の某連隊付きに移されつ。
人の一生には、なす事なす事皆図星をはずれて、さながら皇天ことにわれ一人をえらんで折檻また折檻の笞を続けざまに打ちおろすかのごとくに感ぜらるる、いわゆる「泣き面に蜂」の時期少なくとも一度はあるものなり。去年以来千々岩はこの瀬戸に舟やり入れて、今もって容易にその瀬戸を過ぎおわるべき見当のつかざるなりき。浪子はすでに武男に奪われつ。相場に手を出せば失敗を重ね、高利を借りれば恥をかき、小児と見くびりし武男には下司同然にはずかしめられ、ただ一親戚たる川島家との通路は絶えつ。果てはただ一立身の捷逕として、死すとも去らじと思える参謀本部の位置まで、一言半句の挨拶もなくはぎとられて、このごろまで牛馬同様に思いし師団の一士官とならんとは。疵持つ足の千々岩は、今さら抗議するわけにも行かず、倒れてもつかむ馬糞の臭をいとわで、おめおめと練兵行軍の事に従いしが、この打撃はいたく千々岩を刺激して、従来事に臨んでさらにあわてず、冷静に「われ」を持したる彼をして、思うてここにいたるごとに、一肚皮の憤恨猛火よりもはげしく騰上し来たるを覚えざらしめたり。
頭上に輝く名利の冠を、上らば必ず得べき立身の梯子に足踏みかけて、すでに一段二段を上り行きけるその時、突然蹴落とされしは千々岩が今の身の上なり。誰が蹴落とせし。千々岩は武男が言葉の端より、参謀本部に長たる将軍が片岡中将と無二の昵懇なる事実よりして、少なくも中将が幾分の手を仮したるを疑いつ。彼はまた従来金には淡白なる武男が、三千金のために、――たとい偽印の事はありとも――法外に怒れるを怪しみて、浪子が旧き事まで取り出でてわれを武男に讒したるにあらずやと疑いつ。思えば思うほど疑いは事実と募り、事実は怒火に油さし、失恋のうらみ、功名の道における蹉跌の恨み、失望、不平、嫉妬さまざまの悪感は中将と浪子と武男をめぐりて焔のごとく立ち上りつ。かの常にわが冷頭を誇り、情に熱して数字を忘るるの愚を笑える千々岩も、連敗の余のさすがに気は乱れ心狂いて、一腔の怨毒いずれに向かってか吐き尽くすべき路を得ずば、自己――千々岩安彦が五尺の躯まず破れおわらんずる心地せるなり。
復讎、復讎、世に心よきはにくしと思う人の血をすすって、その頬の一臠に舌鼓うつ時の感なるべし。復讎、復讎、ああいかにして復讎すべき、いかにしてうらみ重なる片岡川島両家をみじんに吹き飛ばすべき地雷火坑を発見し、なるべくおのれは危険なき距離より糸をひきて、憎しと思う輩の心傷れ腸裂け骨摧け脳塗れ生きながら死ぬ光景をながめつつ、快く一杯を過ごさんか。こは一月以来夜となく日となく千々岩の頭を往来せる問題なりき。
梅花雪とこぼるる三月中旬、ある日千々岩は親しく往来せる旧同窓生の何某が第三師団より東京に転じ来たるを迎うるとて、新橋におもむきつ。待合室を出づるとて、あたかも十五六の少女を連れし丈高き婦人――貴婦人の婦人待合室より出で来たるにはたと行きあいたり。
「お珍しいじゃございませんか」
駒子を連れて、片岡子爵夫人繁子はたたずめるなり。一瞬時、変われる千々岩の顔色は、先方の顔色をのぞいて、たちまち一変しつ。中将にこそ浪子にこそ恨みはあれ、少なくもこの人をば敵視する要なしと早くも心を決せるなり。千々岩はうやうやしく一礼して、微笑を帯び、
「ついごぶさたいたしました」
「ひどいお見限りようですね」
「いや、ちょっとお伺い申すのでしたが、いろいろ職務上の要で、つい多忙だものですから――今日はどちらへか?」
「は、ちょっと逗子まで――あなたは?」
「何、ちょっと朋友を迎えにまいったのですが――逗子は御保養でございますか」
「おや、まだご存じないのでしたね、――病人ができましてね」
「御病人? どなたで?」
「浪子です」
おりからベルの鳴りて人は潮のごとく改札口へ流れ行くに、少女は母の袖引き動かして
「おかあさま、おそくなるわ」
千々岩はいち早く子爵夫人が手にしたる四季袋を引っとり、打ち連れて歩みつつ
「それは――何ですか、よほどお悪いので?」
「はあ、とうとう肺になりましてね」
「肺?――結核?」
「は、ひどく喀血をしましてね、それでつい先日逗子へまいりました。今日はちょっと見舞に」言いつつ千々岩が手より四季袋を受け取り「ではさようなら、すぐ帰ります、ちとお遊びにいらッしゃいよ」
華美なるカシミールのショールと紅のリボンかけし垂髪とはるかに上等室に消ゆるを目送して、歩を返す時、千々岩の唇には恐ろしき微笑を浮かべたり。
四の二
医師が見舞うたびに、あえて口にはいわねど、その症候の次第に著しくなり来るを認めつつ、術を尽くして防ぎ止めんとせしかいもなく、目には見えねど浪子の病は日に募りて、三月の初旬には、疑うべくもあらぬ肺結核の初期に入りぬ。
わが老健を鼻にかけて今世の若者の羸弱をあざけり、転地の事耳に入れざりし姑も、現在目の前に浪子の一度ならずに喀血するを見ては、さすがに驚き――伝染の恐ろしきを聞きおれば――恐れ、医師が勧むるまましかるべき看護婦を添えて浪子を相州逗子なる実家――片岡家の別墅に送りやりぬ。肺結核! 茫々たる野原にただひとり立つ旅客の、頭上に迫り来る夕立雲のまっ黒きを望める心こそ、もしや、もしやとその病を待ちし浪子の心なりけれ。今は恐ろしき沈黙はすでにとく破れて、雷鳴り電ひらめき黒風吹き白雨ほとばしる真中に立てる浪子は、ただ身を賭して早く風雨の重囲を通り過ぎなんと思うのみ。それにしても第一撃のいかにすさまじかりしぞ。思い出づる三月の二日、今日は常にまさりて快く覚ゆるままに、久しく打ちすてし生け花の慰み、姑の部屋の花瓶にささん料に、おりから帰りて居たまいし良人に願いて、においも深き紅梅の枝を折るとて、庭さき近く端居して、あれこれとえらみ居しに、にわかに胸先苦しく頭ふらふらとして、紅の靄眼前に渦まき、われ知らずあと叫びて、肺を絞りし鮮血の紅なるを吐けるその時! その時こそ「ああとうとう!」と思う同時に、いずくともなくはるかにわが墓の影をかいま見しが。
ああ死! 以前世をつらしと見しころは、生何の楽しみぞ死何の哀惜ぞと思いしおりもありけるが、今は人の生命の愛しければいとどわが命の惜しまれて千代までも生きたしと思う浪子。情けなしと思うほど、病に勝たんの心も切に、おりおり沈むわが気をふり起こしては、われより医師を促すまでに怠らず病を養えるなりき。
目と鼻の横須賀にあたかも在勤せる武男が、ひまをぬすみてしばしば往来するさえあるに、父の書、伯母、千鶴子の見舞たえ間なく、別荘には、去年の夏川島家を追われし以来絶えて久しきかの姥のいくが、その再会の縁由となれるがために病そのものの悲しむべきをも喜ばんずるまで浪子をなつかしめるありて、能うべくは以前に倍する熱心もて伏侍するあり。まめまめしき老僕が心を用いて事うるあり。春寒きびしき都門を去りて、身を暖かき湘南の空気に投じたる浪子は、日に自然の人をいつくしめる温光を吸い、身をめぐる暖かき人の情けを吸いて、気も心もおのずからのびやかになりつ。地を転じてすでに二旬を経たれば、喀血やみ咳嗽やや減り、一週二回東京より来たり診する医師も、快しというまでにはいたらねど病の進まざるをかいありと喜びて、この上はげしき心神の刺激を避け、安静にして療養の功を続けなば、快復の望みありと許すにいたりぬ。
四の三
都の花はまだ少し早けれど、逗子あたりは若葉の山に山桜咲き初めて、山また山にさりもあえぬ白雲をかけし四月初めの土曜。今日は朝よりそぼ降る春雨に、海も山も一色に打ち煙り、たださえ永き日の果てもなきまで永き心地せしが、日暮れ方より大降りになって、風さえ強く吹きいで、戸障子の鳴る響すさまじく、怒りたける相模灘の濤声、万馬の跳るがごとく、海村戸を鎖して燈火一つ漏る家もあらず。
片岡家の別墅にては、今日は夙く来べかりしに勤務上やみ難き要ありておくれし武男が、夜に入りて、風雨の暗を衝きつつ来たりしが、今はすでに衣をあらため、晩餐を終え、卓によりかかりて、手紙を読みており。相対いて、浪子は美しき巾着を縫いつつ、時々針をとどめて良人の方打ちながめては笑み、風雨の音に耳傾けては静かに思いに沈みており。揚巻に結いし緑の髪には、一朶の山桜を葉ながらにさしはさみたり。二人の間には、一脚の卓ありて、桃色のかさかけしランプはじじと燃えつつ、薄紅の光を落とし、そのかたわらには白磁瓶にさしはさみたる一枝の山桜、雪のごとく黙して語らず。今朝別れ来し故山の春を夢むるなるべし。
風雨の声屋をめぐりて騒がし。
武男は手紙を巻きおさめつ。「阿舅もよほど心配しておいでなさる。どうせ明日はちょっと帰京るから、赤坂へ回って来よう」
「明日いらッしゃるの? このお天気に!――でもお母様もお待ちなすッていらッしゃいましょうねエ。わたくしも行きたいわ!」
「浪さんが!!![17]17 とんでもない! それこそまっぴら御免こうむる。もうしばらくは流刑にあったつもりでいなさい。はははは」
「ほほほ、こんな流刑なら生涯でもようござんすわ――あなた、巻莨召し上がれな」
「ほしそうに見えるかい。まあよそう。そのかわり来る前の日と、帰った日は、二日分のむのだからね。ははははは」
「ほほほ、それじゃごほうびに、今いいお菓子がまいりますよ」
「それはごちそうさま。大方お千鶴さんの土産だろう。――それは何かい、立派な物ができるじゃないか」
「この間から日が永くッてしようがないのですから、おかあさまへ上げようと思ってしているのですけど――イイエ大丈夫ですわ、遊び遊びしてますから。ああ何だか気分が清々したこと。も少し起きさしてちょうだいな、こうしてますとちっとも病気のようじゃないでしょう」
「ドクトル川島がついているのだもの、はははは。でも、近ごろは本当に浪さんの顔色がよくなッた。もうこっちのものだて」
この時次の間よりかの老女のいくが、菓子鉢と茶盆を両手にささげ来つ。
「ひどい暴風雨でございますこと。旦那様がいらッしゃいませんと、ねエ奥様、今夜なんざとても目が合いませんよ。飯田町のお嬢様はお帰京遊ばす、看護婦さんまで、ちょっと帰京ますし、今日はどんなにさびしゅうございましてしょう、ねエ奥様。茂平(老僕)どんはいますけれども」
「こんな晩に船に乗ってる人の心地はどんなでしょうねエ。でも乗ってる人を思いやる人はなお悲しいわ!」
「なあに」と武男は茶をすすり果てて風月の唐饅頭二つ三つ一息に平らげながら「なあに、これくらいの風雨はまだいいが、南シナ海あたりで二日も三日も大暴風雨に出あうと、随分こたえるよ。四千何百トンの艦が三四十度ぐらいに傾いてさ、山のようなやつがドンドン甲板を打ち越してさ、艦がぎいぎい響るとあまりいい心地はしないね」
風いよいよ吹き募りて、暴雨一陣礫のごとく雨戸にほとばしる。浪子は目を閉じつ。いくは身を震わしぬ。三人が語しばし途絶えて、風雨の音のみぞすさまじき。
「さあ、陰気な話はもう中止だ。こんな夜は、ランプでも明るくして愉快に話すのだ。ここは横須賀よりまた暖かいね、もうこんなに山桜が咲いたな」
浪子は磁瓶にさしし桜の花びらを軽くなでつつ「今朝老爺が山から折って来ましたの。きれいでしょう。――でもこの雨風で山のはよっぽど散りましょうよ。本当にどうしてこんなに潔いものでしょう! そうそう、さっき蓮月の歌にこんなのがありましたよ『うらやまし心のままにとく咲きて、すがすがしくも散るさくらかな』よく詠んでありますのねエ」
「なに? すがすがしくも散る? 僕――わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを賞翫するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。戦争でも早く討死する方が負けだよ。も少し剛情にさ、執拗さ、気ながな方を奨励したいと思うね。それでわが輩――わしはこんな歌を詠んだ。いいかね、皮切りだからどうせおかしいよ、しつこしと、笑っちゃいかん、しつこしと人はいえども八重桜盛りながきはうれしかりけり、はははは梨本跣足だろう」
「まあおもしろいお歌でございますこと、ねエ奥様」
「はははは、ばあやの折り紙つきじゃ、こらいよいよ秀逸にきまったぞ」
話の途切れ目をまたひとしきり激しくなりまさる風雨の音、濤の音の立ち添いて、家はさながら大海に浮かべる舟にも似たり。いくは鉄瓶の湯をかうるとて次に立ちぬ。浪子はさしはさみ居し体温器をちょっと燈火に透かし見て、今宵は常よりも上らぬ熱を手柄顔に良人に示しつつ、筒に収め、しばらくテーブルの桜花を見るともなくながめていたりしが、たちまちほほえみて
「もう一年たちますのねエ、よウくおぼえていますよ、あの時馬車に乗って出ると家内の者が送って出てますから何とか言いたかったのですけどどうしても口に出ませんの。おほほほ。それから溜池橋を渡るともう日が暮れて、十五夜でしょう、まん丸な月が出て、それから山王のあの坂を上がるとちょうど桜花の盛りで、馬車の窓からはらはらはらはらまるで吹雪のように降り込んで来ましてね、ほほほ、髷に花びらがとまってましたのを、もうおりるという時、気がついて伯母がとってくれましたッけ」
武男はテーブルに頬杖つき「一年ぐらいたつな早いもんだ。かれこれするとすぐ銀婚式になっちまうよ。はははは、あの時浪さんの澄まし方といったらはッははは思い出してもおかしい、おかしい。どうしてああ澄まされるかな」
「でも、ほほほほ――あなたも若殿様できちんと澄ましていらッしたわ。ほほほほ手が震えて、杯がどうしても持てなかったンですもの」
「大分おにぎやかでございますねエ」といくはにこにこ笑みつつ鉄瓶を持ちて再び入り来つ。「ばあやもこんなに気分が清々いたしたことはありませんでございますよ。ごいっしょにこうしておりますと、昨年伊香保にいた時のような心地がいたしますでございますよ」
「伊香保はうれしかったわ!」
「蕨狩りはどうだい、たれかさんの御足が大分重かッたっけ」
「でもあなたがあまりお急ぎなさるんですもの」と浪子はほほえむ。
「もうすぐ蕨の時候になるね。浪さん、早くよくなッて、また蕨狩りの競争しようじゃないか」
「ほほほ、それまでにはきっとなおりますよ」
四の四
明くる日は、昨夜の暴風雨に引きかえて、不思議なほどの上天気。
帰京は午後と定めて、午前の暖かく風なき間を運動にと、武男は浪子と打ち連れて、別荘の裏口よりはらはら松の砂丘を過ぎ、浜に出でたり。
「いいお天気、こんなになろうとは思いませんでしたねエ」
「実にいい天気だ。伊豆が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ」
二人はすでに乾ける砂を踏みて、今日の凪を地曳すと立ち騒ぐ漁師、貝拾う子らをあとにし、新月形の浜を次第に人少なき方に歩みつ。
浪子はふと思い出でたるように「ねエあなた。あの――千々岩さんはどうしてらッしゃるでしょう?」
「千々岩? 実に不埒きわまるやつだ。あれから一度も会わンが。――なぜ聞くのかい?」
浪子は少し考え「イイエ、ね、おかしい事をいうようですが、昨夜千々岩さんの夢を見ましたの」
「千々岩の夢?」
「はあ。千々岩さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの」
「はははは、気沢山だねエ、どんな話をしていたのかい」
「何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。――お千鶴さんが、あの方と山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々岩さんが我等宅に出入りするようなことはありますまいね」
「そんな事はない、ないはずだ。母さんも千々岩の事じゃ怒っていなさるからね」
浪子は思わず吐息をつきつ。
「本当に、こんな病気になってしまって、おかあさまもさぞいやに思っていらッしゃいましょうねエ」
武男ははたと胸を衝きぬ。病める妻には、それといわねど、浪子が病みて地を転えしより、武男は帰京するごとに母の機嫌の次第に悪しく、伝染の恐れあればなるべく逗子には遠ざかれとまで戒められ、さまざまの壁訴訟の果ては昂じて実家の悪口となり、いささかなだめんとすれば妻をかばいて親に抗するたわけ者とののしらるることも、すでに一再に止まらざりけるなり。
「はははは、浪さんもいろいろな心配をするね。そんな事があるものかい。精出して養生して、来春はどうか暇を都合して、母さんと三人吉野の花見にでも行くさ――やアもうここまで来てしまッた。疲れたろう。そろそろ帰らなくもいいかい」
二人は浜尽きて山起こる所に立てるなり。
「不動まで行きましょう、ね――イイエちっとも疲れはしませんの。西洋まででも行けるわ」
「いいかい、それじゃそのショールをおやりな。岩がすべるよ、さ、しっかりつかまって」
武男は浪子をたすけ引きて、山の根の岩を伝える一条の細逕を、しばしば立ちどまりては憩いつつ、一丁あまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。松五六本、ひょろひょろと崖より秀でて、斜めに海をのぞけり。
武男は岩をはらい、ショールを敷きて浪子を憩わし、われも腰かけて、わが膝を抱きつ。「いい凪だね!」
海は実に凪げるなり。近午の空は天心にいたるまで蒼々と晴れて雲なく、一碧の海は所々練れるように白く光りて、見渡す限り目に立つ襞だにもなし。海も山も春日を浴びて悠々として眠れるなり。
「あなた!」
「何?」
「なおりましょうか」
「エ?」
「わたくしの病気」
「何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ」
浪子は良人の肩に倚りつ、「でもひょっとしたらなおらずにしまいはせんかと、そう時々思いますの。実母もこの病気で亡くなりましたし――」
「浪さん、なぜ今日に限ってそんな事をいうのかい。だいじょうぶなおる。なおると医師もいうじゃアないか。ねエ浪さん、そうじゃないか。そらア母さんはその病気で――か知らんが、浪さんはまだ二十にもならんじゃないか。それに初期だから、どんな事があったってなおるよ。ごらんな、それ内の親類の大河原、ね、あれは右の肺がなくなッて、医者が匙をなげてから、まだ十五年も生きてるじゃないか。ぜひなおるという精神がありさえすりアきっとなおる。なおらんというのは浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ。なおらずにこれをどうするかい」
武男は浪子の左手をとりて、わが唇に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの指環燦然として輝けり。
二人はしばし黙して語らず。江の島の方より出で来たりし白帆一つ、海面をすべり行く。
浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」
「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」
「本当? うれしい! ねエ、二人で!――でもおっ母さまがいらッしゃるし、お職分があるし、そう思っておいでなすッても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ――わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ? あなた?」
武男は涙をふりはらいつつ、浪子の黒髪をかいなで「ああもうこんな話はよそうじゃないか。早く養生して、よくなッて、ねエ浪さん、二人で長生きして、金婚式をしようじゃないか」
浪子は良人の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をはらはらと武男が膝に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ! だれがどうしたッて、病気したッて、死んだッて、未来の未来の後までわたしはあなたの妻ですわ!」
五の一
新橋停車場に浪子の病を聞きける時、千々岩の唇に上りし微笑は、解かんと欲して解き得ざりし難問の忽然としてその端緒を示せるに対して、まず揚がれる心の凱歌なりき。にくしと思う川島片岡両家の関鍵は実に浪子にありて、浪子のこの肺患は取りも直さず天特にわれ千々岩安彦のために復讎の機会を与うるもの、病は伝染致命の大患、武男は多く家にあらず、[18]18姑※の間に軽々一片の言を放ち、一指を動かさずして破裂せしむるに何の子細かあるべき。事成らば、われは直ちに飛びのきて、あとは彼らが互いに手を負い負わし生き死に苦しむ活劇を見るべきのみ。千々岩は実にかく思いて、いささか不快の眉を開けるなり。
叔母の気質はよく知りつ。武男がわれに怒りしほど、叔母はわれに怒らざるもよく知りつ。叔母が常に武男を子供視して、むしろわれ――千々岩の年よりも世故に長けたる頭に依頼するの多きも、よく知りつ。そもそもまた親戚知己も多からず、人をしかり飛ばして内心には心細く覚ゆる叔母が、若夫婦にあきたらで味方ほしく思うをもよく知りつ。さればいまだ一兵を進めずしてその作戦計画の必ず成効すべきを測りしなり。
胸中すでに成竹ある千々岩は、さらに山木を語らいて、時々川島家に行きては、その模様を探らせ、かつは自己――千々岩はいたく悔悛覚悟せる由をほのめかしつ。浪子の病すでに二月に及びてはかばかしく治せず、叔母の機嫌のいよいよ悪しきを聞きし四月の末、武男はあらず、執事の田崎も家用を帯びて旅行せしすきをうかがい、一夜千々岩は不意に絶えて久しき川島家の門を入りぬ。あたかも叔母がひとり武男の書状を前に置きて、深く深く沈吟せるところに行きあわせつ。
五の二
「いや、一向捗がいきませんじゃ。金は使う、二月も三月もたったてようなるじゃなし、困ったものじゃて、のう安さん。――こういう時分にゃ頼もしか親類でもあって相談すっとこじゃが、武はあの通り子供――」
「そこでございますて、伯母様、実に小甥もこうしてのこのこ上がられるわけじゃないのですが、――御恩になった故叔父様や叔母様に対しても、また武男君に対しても、このまま黙って見ていられないのです。実にいわば川島家の一大事ですからね、顔をぬぐってまいったわけで――いや、叔母様、この肺病という病ばかりは恐ろしいもんですね、叔母様もいくらもご存じでしょう、妻の病気が夫に伝染して一家総だおれになるはよくある例です、わたくしも武男君の上が心配でなりませんて、叔母様から少し御注意なさらんと大事になりますよ」
「そうじゃて。わたしもそいが恐ろしかで、逗子に行くな行くなて、武にいうんじゃがの、やっぱい聞かんで、見なさい――」
手紙をとりて示しつつ「医者がどうの、やれ看護婦がどうしたの、――ばかが、妻の事ばかい」
千々岩はにやり笑いつ。「でも叔母様、それは無理ですよ、夫婦に仲のよすぎるということはないものです。病気であって見ると、武男君もいよいよこらそうあるべきじゃありませんか」
「それじゃてて、妻が病気すッから親に不孝をすッ法はなかもんじゃ」
千々岩は慨然として嘆息し「いや実に困った事ですな。せっかく武男君もいい細君ができて、叔母様もやっと御安心なさると、すぐこんな事になって――しかし川島家の存亡は実に今ですね――ところでお浪さんの実家からは何か挨拶がありましたでしょうな」
「挨拶、ふん、挨拶、あの横柄な継母が、ふんちっとばかい土産を持っての、言い訳ばかいの挨拶じゃ。加藤の内から二三度、来は来たがの――」
千々岩は再び大息しつ。「こんな時にゃ実家からちと気をきかすものですが、病人の娘を押し付けて、よくいられるですね。しかし利己主義が本尊の世の中ですからね、叔母様」
「そうとも」
「それはいいですが、心配なのは武男君の健康です。もしもの事があったらそれこそ川島家は破滅です、――そういううちにもいつ伝染しないとも限りませんよ。それだって、夫婦というと、まさか叔母様が籬をお結いなさるわけにも行きませんし――」
「そうじゃ」
「でも、このままになすっちゃ川島家の大事になりますし」
「そうとも」
「子供の言うようにするばかりが親の職分じゃなし、時々は子を泣かすが慈悲になることもありますし、それに若い者はいったん、思い込んだようでも少したつと案外気の変わるものですからね」
「そうじゃ」
「少しぐらいのかあいそうや気の毒は家の大事には換えられませんからね」
「おおそうじゃ」
「それに万一、子供でもできなさると、それこそ到底――」
「いや、そこじゃ」
膝乗り出して、がっくりと一つうなずける叔母のようすを見るより、千々岩は心の膝をうちて、翻然として話を転じつ。彼はその注ぎ込みし薬の見る見る回るを認めしのみならず、叔母の心田もとすでに一種子の落ちたるありて、いまだ左右の顧慮におおわれいるも、その土を破りて芽ぐみ長じ花さき実るにいたるはただ時日の問題にして、その時日も勢いはなはだ長からざるべきを悟りしなりき。
その真質において悪人ならぬ武男が母は、浪子を愛せぬまでもにくめるにはあらざりき。浪子が家風、教育の異なるにかかわらず、なるべくおのれを棄てて姑に調和せんとするをば、さすがに母も知り、あまつさえそのある点において趣味をわれと同じゅうせるを感じて、口にしかれど心にはわが花嫁のころはとてもあれほどに届かざりしとひそかに思えることもありき。さりながら浪子がほとんど一月にわたるぶらぶら病のあと、いよいよ肺結核の忌まわしき名をつけられて、眼前に喀血の恐ろしきを見るに及び、なおその病の少なからぬ費用をかけ時日を費やしてはかばかしき快復を見ざるを見るに及び、失望といわんか嫌厭と名づけんか自ら分つあたわざるある一念の心底に生え出でたるを覚えつ。彼を思い出で、これを思いやりつつ、一種不快なる感情の胸中に[19]19※醸するに従って、武男が母は上うちおおいたる顧慮の一塊一塊融け去りてかの一念の驚くべき勢いもて日々長じ来たるを覚えしなり。
千々岩は分明に叔母が心の逕路をたどりて、これよりおりおり足を運びては、たださりげなく微雨軽風の両三点を放って、その顧慮をゆるめ、その萌芽をつちかいつつ、局面の近くに発展せん時を待ちぬ。そのおりおり武男の留守をうかがいて川島家に往来することのおぼろにほかに漏れしころは、千々岩はすでにその所作の大要をおえて、早くも舞台より足を抜きつつ、かの山木に向かい近きに起こるべき活劇の予告をなして、あらかじめ祝杯をあげけるなり。
六の一
五月初旬、武男はその乗り組める艦のまさに呉より佐世保におもむき、それより函館付近に行なわるべき連合艦隊の演習に列せんため引きかえして北航するはずなれば、かれこれ四五十日がほどは帰省の機会を得ざるべく、しばしの告別かたがた、一夜帰京して母の機嫌を伺いたり。
近ごろはとかく奥歯に物のはさまりしように、いつ帰りても機嫌よからぬ母の、今夜は珍しくにこにこ顔を見せて、風呂を焚かせ、武男が好物の薩摩汁など自ら手をおろさぬばかり肝いりてすすめつ。元来あまり細かき事には気をとめぬ武男も、ようすのいつになくあらたまれるを不思議――とは思いしが、何歳になってもかあいがられてうれしからぬ子はなきに、父に別れてよりひとしお母なつかしき武男、母の機嫌の直れるに心うれしく、快く夜食の箸をとりしあとは、湯に入りてはらはら降り出せし雨の音を聞きつつ、この上の欲には浪子が早く全快してここにわが帰りを待っているようにならばなど今日立ち寄りて来し逗子の様子思い浮かべながら、陶然とよき心地になりて浴を出で、使女が被る平生服を無造作に引きかけて、葉巻握りし右手の甲に額をこすりながら、母が八畳の居間に入り来たりぬ。
小間使いに肩揉らして、羅宇の長き煙管にて国分をくゆらしいたる母は目をあげ「おお早上がって来たな。ほほほほほ、おとっさまがちょうどそうじゃったが――そ、その座ぶとんにすわッがいい。――松、和女郎はもうよかで、茶を入れて来なさい」と自ら立って茶棚より菓子鉢を取り出でつ。
「まるでお客様ですな」
武男は葉巻を一吸い吸いて碧き煙を吹きつつ、うちほほえむ。
「武どん、よう帰ったもった。――実はその、ちっと相談もあるし、是非帰ってもらおうと思ってた所じゃった。まあ帰ってくれたで、いい都合ッごあした。逗子――寄って来つろの?」
逗子はしげく往来するを母のきらうはよく知れど、まさかに見え透いたるうそも言いかねて、
「はあ、ちょっと寄って来ました。――大分血色も直りかけたようです。母さんに済まないッて、ひどく心配していましたッけ」
「そうかい」
母はしげしげ武男の顔をみつめつ。
おりから小間使いの茶道具を持て来しを母は引き取り、
「松、御身はあっち行っていなさい。そ、その襖をちゃんとしめて――」
六の二
手ずから茶をくみて武男にすすめ、われも飲みて、やおら煙管をとりあげつ。母はおもむろに口を開きぬ。
「なあ武どん、わたしももう大分弱いましたよ。去年のリュウマチでがっつり弱い申した。昨日お墓まいりしたばかいで、まだ肩腰が痛んでな。年が寄ると何かと心細うなッて困いますよ――武どん、卿からだを大事にしての、病気をせん様してくれんとないませんぞ」
葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつつ、武男はでっぷりと肥えたれどさすがに争われぬ年波の寄る母の額を仰ぎ「私は始終外にいますし、何もかも母さんが総理大臣ですからな――浪でも達者ですといいですが。あれも早くよくなって母さんのお肩を休めたいッてそういつも言ってます」
「さあ、そう思っとるじゃろうが、病気が病気でな」
「でも、大分快方になりましたよ。だんだん暖かくはなるし、とにかく若い者ですからな」
「さあ、病気が病気じゃから、よく行けばええがの、武どん――医師の話じゃったが、浪どんの母御も、やっぱい肺病で亡くなッてじゃないかの?」
「はあ、そんなことをいッてましたがね、しかし――」
「この病気は親から子に伝わッてじゃないかい?」
「はあ、そんな事を言いますが、しかし浪のは全く感冒から引き起こしたンですからね。なあに、母さん用心次第です、伝染の、遺伝のいうですが、実際そういうほどでもないですよ。現に浪のおとっさんもあんな健康な方ですし、浪の妹――はああのお駒さんです――あれも肺のはの字もないくらいです。人間は医師のいうほど弱いものじゃありません、ははははは」
「いいえ、笑い事じゃあいません」と母はほとほと煙管をはたきながら
「病気のなかでもこの病気ばかいは恐ろしいもンでな、武どん。卿も知っとるはずじゃが、あの知事の東郷、な、卿がよくけんかをしたあの児の母御な、どうかい、あの母が肺病で死んでの、一昨年の四月じゃったが、その年の暮れに、どうかい、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの息子さん――どこかの技師をしとったそうじゃがの――もやっぱい肺病でこのあいだ亡くなッた、な。みいな母御のがうつッたのじゃ。まだこんな話が幾つもあいます。そいでわたしはの、武どん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすれば大事じゃと思うッがの」
母は煙管をさしおきて、少し膝をすすめ、黙して聞きおれる武男の横顔をのぞきつつ
「実はの、わたしもこの間から相談したいしたい思っ居い申したが――」
少し言いよどんで、武男の顔しげしげとみつめ、
「浪じゃがの――」
「はあ?」
武男は顔をあげたり。
「浪を――引き取ってもろちゃどうじゃろの?」
「引き取る? どう引き取るのですか」
母は武男の顔より目をはなさず、「実家によ」
「実家に? 実家で養生さすのですか」
「養生もしようがの、とにかく引き取って――」
「養生には逗子がいいですよ。実家では子供もいますし、実家で養生さすくらいなら此家の方がよっぽどましですからね」
冷たくなりし茶をすすりつつ、母は少し震い声に「武どん、卿酔っちゃいまいの、わかんふりするのかい?」じっとわが子の顔みつめ「わたしがいうのはな、浪を――実家に戻すのじゃ」
「戻す? ……戻す? ――離縁ですな!![20]20」
「こーれ、声が高かじゃなッか、武どん」うちふるう武男をじっと見て
「離縁、そうじゃ、まあ離縁よ」
「離縁! 離縁!![21]21 ――なぜですか」
「なぜ? さっきからいう通り、病気が病気じゃからの」
「肺病だから……離縁するとおっしゃるのですな? 浪を離縁すると?」
「そうよ、かあいそうじゃがの――」
「離縁!!![22]22」
武男の手よりすべり落ちたる葉巻は火鉢に落ちておびただしくうち煙りぬ。一燈じじと燃えて、夜の雨はらはらと窓をうつ。
六の三
母はしきりに烟る葉巻を灰に葬りつつ、少し乗り出して
「なあ、武どん、あんまいふいじゃから卿もびっくいするなもっともっごあすがの、わたしはもうこれまで幾夜も幾晩も考えた上の話じゃ、そんつもいで聞いてたもらんといけませんぞ。
そらアもう浪にはわたしも別にこいという不足はなし、卿も気に入っとっこっじゃから、何もこちの好きで離縁のし申すじゃごあはんがの、何を言うても病気が病気――」
「病気は快方に向いてるです」武男は口早に言いて、きっと母親の顔を仰ぎたり。
「まあわたしの言うことを聞きなさい。――それは目下の所じゃわるくないかもしらんがの、わたしはよウく医師から聞いたが、この病気ばかいは一時よかってもまたわるくなる、暑さ寒さですぐまた起こるもんじゃ、肺結核でようなッた人はまあ一人もない、お医者がそう言い申すじゃての。よし浪が今死なんにしたとこが、そのうちまたきっとわるくなッはうけあいじゃ。そのうちにはきっと卿に伝染すッなこらうけあいじゃ、なあ武どん。卿にうつる、子供が出来る、子供にうつる、浪ばかいじゃない、大事な主人の卿も、の、大事な家嫡の子供も、肺病持ちなッて、死んでしもうて見なさい、川島家はつぶれじゃなッかい。ええかい、卿がおとっさまの丹精で、せっかくこれまでになッて、天子様からお直々に取り立ててくださったこの川島家も卿の代でつぶれッしまいますぞ。――そいは、も、浪もかあいそう、卿もなかなかきつか、わたしも親でおってこういう事言い出すなおもしろくない、つらいがの、何をいうても病気が病気じゃ、浪がかあいそうじゃて主人の卿にゃ代えられン、川島家にも代えられン。よウく分別のして、ここは一つ思い切ってたもらんとないませんぞ」
黙然と聞きいる武男が心には、今日見舞い来し病妻の顔ありありと浮かみつ。
「母さん、私はそんな事はできないです」
「なっぜ?」母はやや声高になりぬ。
「母さん、今そんな事をしたら、浪は死にます!」
「そいは死ぬかもしれン、じゃが、武どん、わたしは卿の命が惜しい、川島家が惜しいのじゃ!」
「母さん、そうわたしを大事になさるなら、どうかわたしの心をくんでください。こんな事を言うのは異なようですが、実際わたしにはそんな事はどうしてもできないです。まだ慣れないものですから、それはいろいろ届かぬ所はあるですが、しかし母さんを大事にして、私にもよくしてくれる、実に罪も何もないあれを病気したからッて離別するなんぞ、どうしても私はできないです。肺病だッてなおらん事はありますまい、現になおりかけとるです。もしまたなおらずに、どうしても死ぬなら、母さん、どうか私の妻で死なしてください。病気が危険なら往来も絶つです、用心もするです。それは母さんの御安心なさるようにするです。でも離別だけはどうあッても私はできないです!」
「へへへへ、武男、卿は浪の事ばッかいいうがの、自分は死んでもかまわンか、川島家はつぶしてもええかい?」
「母さんはわたしのからだばッかりおっしゃるが、そんな不人情な不義理な事して長生きしたッてどうしますか。人情にそむいて、義理を欠いて、決して家のためにいい事はありません。決して川島家の名誉でも光栄でもないです。どうでも離別はできません、断じてできないです」
難関あるべしとは期しながら思いしよりもはげしき抵抗に出会いし母は、例の癇癖のむらむらと胸先にこみあげて、額のあたり筋立ち、こめかみ顫き、煙管持つ手のわなわなと震わるるを、ようよう押ししずめて、わずかに笑を装いつ。
「そ、そうせき込まんでも、まあ静かに考えて見なさい。卿はまだ年が若かで、世間を知ンなさらンがの、よくいうわ、それ、小の虫を殺しても大の虫は助けろじゃ。なあ。浪は小の虫、卿――川島家は大の虫じゃ、の。それは先方も気の毒、浪もかあいそうなよなものじゃが、病気すっがわるかじゃなッか。何と思われたて、川島家が断絶するよかまだええじゃなッか、なあ。それに不義理の不人情の言いなはるが、こんな例は世間に幾らもあります。家風に合わンと離縁する、子供がなかと離縁する、悪い病気があっと離縁する。これが世間の法、なあ武どん。何の不義理な事も不人情な事もないもんじゃ。全体こんな病気のした時ゃの、嫁の実家から引き取ってええはずじゃ。先方からいわンからこつちで言い出すが、何のわるか事恥ずかしか事があッもンか」
「母さんは世間世間とおっしゃるが、何も世間が悪い事をするから自分も悪い事をしていいという法はありません。病気すると離別するなんか昔の事です。もしまたそれが今の世間の法なら、今の世間は打ちこわしていい、打ちこわさなけりゃならんです。母さんはこっちの事ばっかりおっしゃるが、片岡の家だッてせっかく嫁にやった者が病気になったからッて戻されていい気持ちがしますか。浪だってどの顔さげて帰られますか。ひょっとこれがさかさまで、わたしが肺病で、浪の実家から肺病は険呑だからッて浪を取り戻したら、母さんいい心地がしますか。同じ事です」
「いいえ、そいは違う。男と女とはまた違うじゃなッか」
「同じ事です。情理からいって、同じ事です。わたしからそんな事をいっちゃおかしいようですが、浪もやっと喀血がとまって少し快方に向いたかという時じゃありませんか、今そんな事をするのは実に血を吐かすようなものです。浪は死んでしまいます。きっと死ぬです。他人だッてそんな事はできンです、母さんはわたしに浪を殺せ……とおっしゃるのですか」
武男は思わず熱き涙をはらはらと畳に落としつ。
六の四
母はつと立ち上がって、仏壇より一つの位牌を取りおろし、座に帰って、武男の眼前に押しすえつ。
「武男、卿はな、女親じゃからッてわたしを何とも思わんな。さ、おとっさまの前で今一度言って見なさい、さ言って見なさい。御先祖代々のお位牌も見ておいでじゃ。さ、今一度言って見なさい、不孝者めが!![23]23」
きっと武男をにらみて、続けざまに煙管もて火鉢の縁打ちたたきぬ。
さすがに武男も少し気色ばみて「なぜ不孝です?」
「なぜ? なぜもあッもンか。妻の肩ばッかい持って親のいう事は聞かんやつ、不孝者じゃなッか。親が育てたからだを粗略にして、御先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなッか。不孝者、武男、卿は不孝者、大不孝者じゃと」
「しかし人情――」
「まだ義理人情をいうッか。卿は親よか妻が大事なッか。たわけめが。何いうと、妻、妻、妻ばかいいう、親をどうすッか。何をしても浪ばッかいいう。不孝者めが。勘当すッど」
武男は唇をかみて熱涙を絞りつつ「母さん、それはあんまりです」
「何があんまいだ」
「私は決してそんな粗略な心は決して持っちゃいないです。母さんにその心が届きませんか」
「そいならわたしがいう事をなぜきかぬ? エ? なぜ浪を離縁せンッか」
「しかしそれは」
「しかしもねもンじゃ。さ、武男、妻が大事か、親が大事か。エ? 家が大事? 浪が――? ――エエばかめ」
「はっしと火鉢をうちたる勢いに、煙管の羅宇はぽっきと折れ、雁首は空を飛んではたと襖を破りぬ。途端に「はッ」と襖のあなたに片唾をのむ人の気はいせしが、やがて震い声に「御免――遊ばせ」
「だれ? ――何じゃ?」
「あの! 電報が……」
襖開き、武男が電報をとりて見、小間使いが女主人の一睨に会いて半ば消え入りつつそこそこに去りしまで、わずか二分ばかりの間――ながら、この瞬間に二人が間の熱やや下りて、しばらくは母子ともに黙然と相対しつ。雨はまたひとしきり滝のように降りそそぐ。
母はようやく口を開きぬ。目にはまだ怒りのひらめけども、語はどこやらに湿りを帯びたり。
「なあ、武どん。わたしがこういうも、何も卿のためわるかごとすっじゃなかからの。わたしにゃたッた一人の卿じゃ。卿に出世をさせて、丈夫な孫抱えて見たかばかいがわたしの楽しみじゃからの」
黙然と考え入りし武男はわずかに頭を上げつ。
「母さん、とにかく私も」電報を示しつつ「この通り出発が急になッて、明日はおそくも帰艦せにゃならんです。一月ぐらいすると帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、私が帰って来るまでは、待っていてください」
*
あくる日武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医を訪いて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて逗子におりつ。
汽車を下れば、日落ちて五日の月薄紫の空にかかりぬ。野川の橋を渡りて、一路の沙はほのぐらき松の林に入りつ。林をうがちて、桔槹の黒く夕空にそびゆるを望める時、思いがけなき爪音聞こゆ。「ああ琴をひいている……」と思えば心の臓をむしらるる心地して、武男はしばし門外に涙をぬぐいぬ。今日は常よりも快かりしとて、浪子は良人を待ちがてに絶えて久しき琴取り出でて奏でしなりき。
顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちて居し晩餐の卓に、浪子は良人と対いしが、二人ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき笑に紛らして、手ずから良人のコートのボタンゆるめるをつけ直し、ブラシもて丁寧にはらいなどするうちに、終列車の時刻迫れば、今はやむなく立ち上がる武男の手にすがりて
「あなた、もういらッしゃるの?」
「すぐ帰ってくる。浪さんも注意して、よくなッていなさい」
互いにしっかと手を握りつ。玄関に出づれば、姥のいくは靴を直し、僕の茂平は停車場まで送るとて手かばんを左手に、月はあれど提燈ともして待ちたり。
「それじゃばあや、奥様を頼んだぞ。――浪さん、行って来るよ」
「早く帰ってちょうだいな」
うなずきて、武男は僕が照らせる提燈の光を踏みつつ門を出でて十数歩、ふりかえり見れば、浪子は白き肩掛けを打ちきて、いくと門にたたずみ、ハンケチを打ちふりつつ「あなた、早く帰ってちょうだいな」
「すぐ帰って来る。――浪さん、夜気にうたれるといかん、早くはいンなさい!」
されど、二度三度ふりかえりし時は、白き姿の朦朧として見えたりしが、やがて路はめぐりてその姿も見えずなりぬ。ただ三たび
「早く帰ってちょうだいな」
という声のあとを慕うてむせび来るのみ。顧みれば片破月の影冷ややかに松にかかれり。
七の一
「お帰り」の前触れ勇ましく、先刻玄関先に二人びきをおりし山木は、早湯に入りて、早咲きの花菖蒲の活けられし床を後ろに、ふうわりとした座ぶとんにあぐらをかきて、さあこれからがようようこっちのからだになりしという風情。欲には酌人がちと無意気と思い貌に、しかし愉快らしく、妻のお隅の顔じろりと見て、まず三四杯傾くるところに、婢が持て来し新聞の号外ランプの光にてらし見つ。
「うう朝鮮か……東学党ますます猖獗……なに清国が出兵したと……。さあ大分おもしろくなッて来たぞ。これで我邦も出兵する――戦争になる――さあもうかるぜ。お隅、前祝いだ、卿も一つ飲め」
「あんた、ほんまに戦争になりますやろか」
「なるとも。愉快、愉快、実に愉快。――愉快といや、なあお隅、今日ちょっと千々岩に会ったがの、例の一条も大分捗が行きそうだて」
「まあ、そうかいな。若旦那が納得しやはったのかいな」
「なあに、武男さんはまだ帰って来ないから、相談も納得もありゃしないが、お浪さんがまた血を喀いたンだ。ところで御隠居ももうだめだ、武男が帰らんうちに断行するといっているそうだ。も一度千々岩につッついてもらえば、大丈夫できる。武男さんが帰りゃなかなか断行もむずかしいからね、そこで帰らんうちにすっかり処置をつけてしまおうと御隠居も思っとるのだて。もうそうなりゃアこっちのものだ。――さ、御台所、お酌だ」
「お浪はんもかあいそうやな」
「お前もよっぽど変ちきな女だ。お豊がかあいそうだからお浪さんを退いてもらおうというかと思えば、もうできそうになると今度アお浪さんがかあいそう! そんなばかな事は中止として、今度はお豊を後釜に据える計略が肝心だ」
「でもあんた、留守にお浪はんを離縁して、武男はん――若旦那が承知しなはろまいがな、なああんた――」
「さあ、武男さんが帰ったら怒るだろうが、離縁してしまッて置けば、帰って来てどう怒ってもしようがない。それに武男さんは親孝行だから、御隠居が泣いて見せなさりア、まあ泣き寝入りだな。そっちはそれでよいとして、さて肝心要のお豊姫の一条だが、とにかく武男さんの火の手が少ししずまってから、食糧つきの行儀見習いとでもいう口実で、無理に押しかけるだな。なあに、むずかしいようでもやすいものさ。御隠居の機嫌さえとりアできるこった。お豊がいよいよ川島男爵夫人になりア、彼女は恋がかなうというものだし、おれはさしより舅役で、武男さんはあんな坊ちゃんだから、川島家の財産はまずおれが扱ってやらなけりゃならん。すこぶる妙――いや妙な役を受け持って、迷惑じゃが、それはまあ仕方がないとして、さてお豊だがな」
「あんた、もう御飯になはれな」
「まあいいさ。取るとやるの前祝いだ。――ところでお豊だがの、卿もっと躾をせんと困るぜ。あの通り毎日駄々をこねてばかりいちゃ、先方行ってからが実際思われるぞ。観音様が姑だッて、ああじゃ愛想をつかすぜ」
「それじゃてて、あんた、躾はわたしばかいじゃでけまへんがな。いつでもあんたは――」
「おっとその言い訳が拙者大きらいでござるて。はははははは。論より証拠、おれが躾をして見せる。さ、お豊をここに呼びなさい」
七の二
「お嬢様、お奥でちょいといらッしゃいましッて」
と小間使いの竹が襖を明けて呼ぶ声に、今しも夕化粧を終えてまだ鏡の前を立ち去り兼ねしお豊は、悠々とふりかえり
「あいよ。今行くよ。――ねエ竹や、ここンとこが」
と鬢をかいなでつつ「ちっとそそけちゃいないこと?」
「いいえ、ちっともそそけてはいませんよ。おほほほほ。お化粧がよくできましたこと! ほほほほッ。ほれぼれいたしますよ」
「いやだよ、お世辞なんぞいッてさ」言いながらまた鏡をのぞいてにこりと笑う。
竹は口打ちおおいし袂をとりて、片唾を飲みつつ、
「お嬢様、お待ち兼ねでございますよ」
「いいよ、今行くよ」
ようやく思い切りし体にて鏡の前を離れつつ、ちょこちょこ走りに幾間か通りて、父の居間に入り行きたり。
「おお、お豊か。待っていた。ここへ来な来な。さ母さんに代わって酌でもしなさい。おっと乱暴な銚子の置き方をするぜ。茶の湯生け花のけいこまでした令嬢にゃ似合わンぞ。そうだそうだそう山形に置くものだ」
はや陶然と色づきし山木は、妻の留むるをさらに幾杯か重ねつつ「なあお隅、お豊がこう化粧した所は随分別嬪だな。色は白し――姿はよし。内じゃそうもないが、外に出りゃちょいとお世辞もよし。惜しい事には母さんに肖て少し反歯だが――」
「あんた!」
「目じりをもう三分上げると女っぷりが上がるがな――」
「あんた!」
「こら、お豊何をふくれるのだ? ふくれると嬢っぷりが下がるぞ。何もそう不景気な顔をせんでもいい、なあお豊。卿がうれしがる話があるのだ。さあ話賃に一杯注げ注げ」
なみなみと注がせし猪口を一息にあおりつつ、
「なあお豊、今も母さんと話したことだが、卿も知っとるが、武男さんの事だがの――」
むなしき槽櫪の間に不平臥したる馬の春草の香しきを聞けるごとく、お豊はふっと頭をもたげて両耳を引っ立てつ。
「卿が写真を引っかいたりしたもんだからとうとう浪子さんも祟られて――」
「あんた!」お隅夫人は三たび眉をひそめつ。
「これから本題に入るのだ。とにかく浪子さんが病気が悪い、というンで、まあ離縁になるのだ。いいや、まだ先方に談判はせん、浪子さんも知らんそうじゃが、とにかく近いうちにそうなりそうなのだ。ところでそっちの処置がついたら、そろそろ後釜の売りつけ――いやここだて、おれも母さんも卿をな、まあお浪さんのあとに入れたいと思っているのだ。いや、そうすぐ――というわけにも行くまいから、まあ卿を小間使い、これさ、そうびっくりせんでもいいわ、まあ候補生のつもりで、行儀見習いという名義で、川島家に入り込ますのだ。――御隠居に頼んで、ないいかい、ここだて――」
一息つきて、山木は妻と娘の顔をかれよりこれと見やりつ。
「ここだて、なお豊。少し早いようだが――いって聞かして置く事があるがの。卿も知っとる通り、あの武男さんの母さん――御隠居は、評判の癇癪持ちの、わがまま者の、頑固の――おっと卿が母さんを悪口しちゃ済まんがの――とにかくここにすわっておいでのこの母さんのように――やさしくない人だて。しかし鬼でもない、蛇でもない、やっぱり人間じゃ。その呼吸さえ飲み込むと、鬼の[24]24※でも蛇の女房にでもなれるものじゃ。なあに、あの隠居ぐらい、おれが女なら二日もそばへいりゃ豆腐のようにして見せる。――と自慢した所で、仕方ないが、実際あんな老人でも扱いようじゃ何でもないて。ところで、いいかい、お豊、卿がいよいよ先方へ、まあ小間使い兼細君候補生として入り込む時になると、第一今のようになまけていちゃならん、朝も早く起きて――老人は目が早くさめるものじゃ――ほかの事はどうでもいいとして、御隠居の用をよく達すのだ。いいかい。第二にはだ、今のように何といえばすぐふくれるようじゃいけない、何でもかでも負けるのだ。いいかい。しかられても負ける、無理をいわれても負ける、こっちがよけりゃなお負ける、な。そうすると先方で折れて来る、な、ここがよくいう負けて勝つのだ。決して腹を立っちゃいかん、よしか。それから第三にはだ、――これは少し早過ぎるが、ついでだからいっとくがの、無事に婚礼が済んだッて、いいかい、決して武男さんと仲がよすぎちゃいけない。何さ、内々はどうでもいいが、表面の所をよく注意しなけりゃいけんぜ。姑御にはなれなれしくさ、なるたけ近くして、婿殿にゃ姑の前で毒にならんくらいの小悪口もつくくらいでなけりゃならぬ。おかしいもンで、わが子の妻だから夫婦仲がいいとうれしがりそうなもんじゃが、実際あまりいいと姑の方ではおもしろく思わぬ。まあ一種の嫉妬――わがままだな。でなくも、あまり夫婦仲がいいと、自然姑の方が疎略になる――と、まあ姑の方では思うだな。浪子さんも一つはそこでやりそこなったかもしれぬ。仲がよすぎての――おッと、そう角が生えそうな顔しちゃいけない、なあお豊、今いった負けるのはそこじゃぞ。ところで、いいかい、なるたけ注意して、この女は真にわたしの[25]25※だ、子息の妻じゃない、というように姑に感じさせなけりゃならん。[26]26姑※のけんかは大抵この若夫婦の仲がよすぎて、姑に孤立の感を起こさすから起こるのが多いて。いいかい、卿は御隠居の[27]27※だ、とそう思っていなけりゃならん。なあに御隠居が追っつけめでたくなったあとじゃ、武男さんの首ッ玉にかじりついて、ぶら下がッてあるいてもかまわンさ。しかし姑の前では、決して武男さんに横目でもつかっちゃならんぞ。まだあるが、それはいざ乗り込みの時にいって聞かす。この三か条はなかなか面倒じゃが、しかし卿も恋しい武男さんの奥方になろうというンじゃないか、辛抱が大事じゃぞ。明日といわずと今夜からそのけいこを始めるのだ」
言葉のうちに、襖開きて、小間使いの竹「御返事がいるそうでございます」
と一封の女筆の手紙を差し出しぬ。
封をひらきてすうと目を通したる山木は、手紙を妻と娘の目さきにひけらかしつつ
「どうだ、川島の御隠居からすぐ来てくれは!」
七の三
武男が艦隊演習におもむける二週の後、川島家より手紙して山木を招ける数日前、逗子に療養せる浪子はまた喀血して、急に医師を招きつ。幸いにして喀血は一回にしてやみ、医師は当分事なかるべきを保証せしが、この報は少なからぬ刺激を武男が母に与えぬ。間両三日を置きて、門を出づることまれなる川島未亡人の尨大なる体は、飯田町なる加藤家の門を入りたり。
離婚問題の母子の間に争われつるかの夜、武男が辞色の思うにましてはげしかりしを見たる母は、さすがにその請いに任せて彼が帰り来るまでは黙止すべき約をばなしつれど、よしそれまでまてばとて武男が心は容易に移すべくもあらずして、かえって時たつほど彼の愛着のきずなはいよいよ絶ち難かるべく、かつ思いも寄らぬ障礙の出で来たるべきを思いしなり。さればその子のいまだ帰らざるに乗じて、早く処置をつけ置くのむしろ得策なるを思いしが、さりとてさすがにかの言質もありこの顧慮もまたなきにあらずして、その心はありながら、いまだ時々来てはあおる千々岩を満足さすほどの果断なる処置をばなさざるなり。浪子が再度喀血の報を聞くに及びて、母は決然としてかつて媒妁をなしし加藤家を訪いたるなり。
番町と飯田町といわば目と鼻の間に棲みながら、いつなりしか媒妁の礼に来しよりほとんど顔を見せざりし川島未亡人が突然来訪せし事の尋常にあらざるべきを思いつつ、ねんごろに客間に請ぜし加藤夫人もその話の要件を聞くよりはたと胸をつきぬ。そのかつて片岡川島両家を結びたる手もて、今やそのつなげる糸を絶ちくれよとは!
いかなる顔のいかなる口あればさる事は言わるるかと、加藤夫人は今さらのように客のようすを打ちながめぬ。見ればいつにかわらぬ肥満の体格、太き両手を膝の上に組みて、膚たゆまず、目まじろがず、口を漏るる薩弁の淀みもやらぬは、戯れにあらず、狂気せしにもあらで、まさしく分別の上と思えば、驚きはまた胸を衝く憤りにかわりつ。あまり勝手な言条と、罵倒せんずる言のすでに咽もとまで出でけるを、実の娘とも思う浪子が一生の浮沈の境と、わずかに飲み込みて、まず問いつ、また説きつ、なだめもし、請いもしつれど、わが事をのみ言い募る先方の耳にはすこしも入らで、かえってそれは入らぬ繰り言、こっちの話を浪の実家に伝えてもらえば要は済むというふうの明らかに見ゆれば、話聞く聞く病める姪の顔、亡き妹――浪子の実母――の臨終、浪子が父中将の傷心、など胸のうちにあらわれ来たり乱れ去りて、情けなく腹立たしき涙のわれ知らず催し来たれる夫人はきっと容をあらため、当家においては御両家の結縁のためにこそ御加勢もいたしつれ、さる不義非情の御加勢は決してできぬこと、良人に相談するまでもなくその義は堅くお断わり、ときっぱりとはねつけつ。
忿然として加藤の門を出でたる武男が母は、即夜手紙して山木を招きつ。(篤実なる田崎にてはらち明かずと思えるなり)。おりもおりとて主人の留守に、かつはまどい、かつは怒り、かつは悲しめる加藤子爵夫人と千鶴子と心を三方に砕きつつ、母はさ言えどいかにも武男の素意にあるまじと思うより、その乗艦の所在を糺して至急の報を発せる間に、いらちにいらちし武男が母は早直接談判と心を決して、その使節を命ぜられたる山木の車はすでに片岡家の門にかかりしなり。
八の一
山木が車赤坂氷川町なる片岡中将の門を入れる時、あたかも英姿颯爽たる一将軍の栗毛の馬にまたがりつつ出で来たれるが、車の駆け込みし響にふと驚きて、馬は竿立ちになるを、馬上の将軍は馬丁をわずらわすまでもなく、[28]28※を絞りて容易に乗り静めつつ、一回圏を画きて、戞々と歩ませ去りぬ。
みごとの武者ぶりを見送りて、声づくろいしていかめしき中将の玄関にかかれる山木は、幾多の権門をくぐりなれたる身の、常にはあるまじく胆落つるを覚えつ。昨夜川島家に呼ばれて、その使命を託されし時も、頭をかきつるが、今現にこの場に臨みては彼は実に大なりと誇れる胆のなお小にして、その面皮のいまだ十分に厚からざるを憾みしなり。
名刺一たび入り、書生二たび出でて、山木は応接間に導かれつ。テーブルの上には清韓の地図一葉広げられたるが、まだ清めもやらぬ火皿のマッチ巻莨のからとともに、先座の話をほぼ想わしむ。げにも東学党の乱、清国出兵の報、わが出兵のうわさ、相ついで海内の注意一に朝鮮問題に集まれる今日このごろは、主人中将も予備にこそおれおのずから事多くして、またかの英文読本を手にするの暇あるべくも思われず。
山木が椅子に倚りて、ぎょろぎょろあたりをながめおる時、遠雷の鳴るがごとき足音次第に近づきて、やがて小山のごとき人はゆるやかに入りて主位につきぬ。山木は中将と見るよりあわてて起てる拍子に、わがかけて居し椅子をば後ろざまにどうと蹴倒しつ。「あっ、これは[29]29疎※を」と叫びつつ、あわてて引き起こし、しかる後二つ三つ四つ続けざまに主人に向かいて叮重に辞儀をなしぬ。今の疎忽のわびも交れるなるべし。
「さあ、どうかおかけください。あなたが山木君――お名は承知しちょったですが」
「はッ。これは初めまして……手前は山木兵造と申す不調法者で(句ごとに辞儀しつ、辞儀するごとに椅子はききときしりぬ、仰せのごとくと笑えるように)……どうか今後ともごひいきを……」
避け得られぬ閑話の両三句、朝鮮のうわさの三両句――しかる後中将は言をあらためて、山木に来意を問いつ。
山木は口を開かんとしてまず片唾をのみ、片唾をのみてまた片唾をのみ、三たび口を開かんとしてまた片唾をのみぬ。彼はつねに誇るその流滑自在なる舌の今日に限りてひたと渋るを怪しめるなり。
八の二
山木はわずかに口を開き、
「実は今日は川島家の御名代でまかりいでましたので」
思いがけずといわんがごとく、主人の中将はその体格に似合わぬ細き目を山木が面に注ぎつ。
「はあ?」
「実は川島の御隠居がおいでになるところでございますが――まあ私がまかりいでました次第で」
「なるほど」
山木はしきりににじみ出づる額の汗押しぬぐいて「実は加藤様からお話を願いたいと存じましたンでございますが、少し都合もございまして――私がまかりいでました次第で」
「なるほど。で御要は?」
「その要と申しますのは、――申し兼ねますが、その実は川島家の奥様浪子様――」
主人中将の目はまばたきもせずしばし話者の面を打ちまもりぬ。
「はあ?」
「その、浪子様でございますが、どうもかような事は実もって申し上げにくいお話でございますが、御承知どおりあの御病気につきましては、手前ども――川島でも、よほど心配をいたしまして、近ごろでは少しはお快い方ではございますが――まあおめでとうございますが――」
「なるほど」
「手前どもから、かような事は誠に申し上げられぬのでございますが、はなはだ勝手がましい申し条でございますが、実は御病気がらではございますし――御承知どおり川島の方でも家族と申しましても別にございませんし、男子と申してはまず当主の武男――様だけでございますンで、実は御隠居もよほど心配もいたしておりまして、どうも実もって申しにくい――いかにも身勝手な話でございますが、御病気が御病気で、その、万一伝染――まあそんな事もめったにございますまいが――しかしどちかと申しますとやはりその、その恐れもないではございませンので、その、万一武男――川島の主人に異変でもございますと、まあ川島家も断絶と申すわけで、その断絶いたしてもよろしいようなものでございますが、何分にもその、実もってどうもその、誠に済みませんがその、そこの所をその、御病気が御病気――」
言いよどみ言いそそくれて一句一句に額より汗を流せる山木が顔うちまもりて黙念と聞きいたる主人中将は、この時右手をあげ、
「よろしい。わかいました。つまり浪が病気が険呑じゃから、引き取ってくれと、おっしゃるのじゃな。よろしい。わかいました」
うなずきて、手もと近く燃えさがれる葉巻をテーブルの上なる灰皿にさし置きつつ、腕を組みぬ。
山木は踏み込めるぬかるみより手をとりて引き出されしように、ほっと息つきて、額上の汗をぬぐいつ。
「さようでございます。実もって申し上げにくい事でございますが、その、どうかそこの所をあしからず――」
「で、武男君はもう帰られたですな?」
「いや、まだ帰りませんでございますが、もちろんこれは同人承知の上の事でございまして、どうかあしからずその――」
「よろしい」
中将はうなずきつ。腕を組みて、しばし目を閉じぬ。思いのほかにたやすくはこびけるよ、とひそかに笑坪に入りて目をあげたる山木は、目を閉じ口を結びてさながら睡れるごとき中将の相貌を仰ぎて、さすがに一種の畏れを覚えつ。
「山木君」
中将は目をみひらきて、山木の顔をしげしげと打ちながめたり。
「はッ」
「山木君、あなたは子を持っておいでかな」
その問いの見当を定めかねたる山木はしきりに頭を下げつつ「はッ。愚息が一人に――娘が一人でございまして、何分お引き立てを――」
「山木君、子というやつはかわい者じゃ」
「はッ?」
「いや、よろしい。承知しました。川島の御隠居にそういってください、浪は今日引き取るから、御安心なさい。――お使者御苦労じゃった」
使命を全うせしをよろこぶか、さすがに気の毒とわぶるにか、五つ六つ七八つ続けざまに小腰を屈めて、どぎまぎ立ち上がる山木を、主人中将は玄関まで送り出して、帰り入る書斎の戸をばはたと閉したり。
九の一
逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さやるせなく思うほどいよいよ長き日一日のさすがに暮らせば暮らされて、はや一月あまりたちたれば、麦刈り済みて山百合咲くころとなりぬ。過ぐる日の喀血に、一たびは気落ちしが、幸いにして医師の言えるがごとくそのあとに著しき衰弱もなく、先日函館よりの良人の書信にも帰来の近かるべきを知らせ来つれば、よし良人を驚かすほどにはいたらぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自ら気を励まし浪子は薬用に運動に細かに医師の戒めを守りて摂生しつつ、指を折りて良人の帰期を待ちぬ。さるにてもこの四五日、東京だよりのはたと絶え、番町の宅よりも、実家よりも、飯田町の伯母よりすらも、はがき一枚来ぬことの何となく気にかかり、今しも日ながの手すさびに山百合を生くとて下葉を剪みおれる浪子は、水さし持ちて入り来たりし姥のいくに
「ねエ、ばあや、ちょっとも東京のたよりがないのね。どうしたのだろう?」
「さようでございますねエ。おかわりもないンでございましょう。もうそのうちにはまいりましょうよ。こう申しておりますうちにどなたぞいらっしゃるかもわかりませんよ。――ほんとに何てきれいな花でございましょう、ねエ、奥様。これがしおれないうちに旦那様がお帰り遊ばすとようございますのに、ねエ奥様」
浪子は手に持ちし山百合の花うちまもりつつ「きれい。でも、山に置いといた方がいいのね、剪るのはかあいそうだわ!」
二人が問答の間に、一輛の車は別荘の門に近づきぬ。車は加藤子爵夫人を載せたり。川島未亡人の要求をはねつけしその翌日、子爵夫人は気にかかるままに、要を託して車を片岡家に走らせ、ここに初めて川島家の使者が早くも直接談判に来たりて、すでに中将の承諾を得て去りたる由を聞きつ。武男を待つの企ても今はむなしくなりて、かつ驚きかつ嘆きしが、せめては姪の迎え(手放し置きて、それと聞かさば不慮の事の起こりもやせん、とにかく膝下に呼び取って、と中将は慮れるなり)にと、すぐその足にて逗子には来たりしなり。
「まあ。よく……ちょうど今うわさをしてましたの」
「本当によくまあ……いかがでございます、奥様、ばあやが言は当たりましてございましょう」
「浪さん、あんばいはどうです? もうあれから何も変わった事もないのかい?」
と伯母の目はちょっと浪子の面をかすめて、わきへそれぬ。
「は、快方ですの。――それよりも伯母様はどうなすッたの。たいへんに顔色が悪いわ」
「わたしかい、何ね、少し頭痛がするものだから。――時候のせいだろうよ。――武男さんから便がありましたか、浪さん?」
「一昨日、ね、函館から。もう近々に帰りますッて――いいえ、何日という事は定まらないのですよ。お土産があるなンぞ書いてありましたわ」
「そう? おそい――ねエ――もう――もう何時? 二時だ、ね!」
「伯母様、何をそんなにそわそわしておいでなさるの? ごゆっくりなさいな。お千鶴さんは?」
「あ、よろしくッて、ね」言いつついくが持て来し茶を受け取りしまま、飲みもやらず沈吟じつ。
「どうぞごゆるりと遊ばせ。――奥様、ちょいとお肴を見てまいりますから」
「あ、そうしておくれな」
伯母は打ち驚きたるように浪子の顔をちょっと見て、また目をそらしつつ
「およしな。今日はゆっくりされないよ。浪さん――迎えに来たよ」
「エ? 迎え?」
「あ、おとうさまが、病気の事で医師と少し相談もあるからちょいと来るようにッてね、――番町の方でも――承知だから」
「相談? 何でしょう」
「――病気の件ですよ、それからまた――おとうさんも久しく会わンからッてね」
「そうですの?」
浪子は怪訝な顔。いくも不審議に思える様子。
「でも今夜はお泊まり遊ばすンでございましょう?」
「いいえね、あちでも――医師も待ってたし、暮れないうちがいいから、すぐ今度の汽車で、ね」
「へエー!」
姥は驚きたるなり。浪子も腑に落ちぬ事はあれど、言うは伯母なり、呼ぶは父なり、姑は承知の上ともいえば、ともかくもいわるるままに用意をば整えつ。
「伯母様何を考え込んでいらッしゃるの? ――看護婦は行かなくもいいでしょうね、すぐ帰るのでしょうから」
伯母は起ちて浪子の帯を直し襟をそろえつつ「連れておいでなさいね、不自由ですよ」
*
四時ごろには用意成りて、三挺の車門に待ちぬ。浪子は風通御召の単衣に、御納戸色繻珍の丸帯して、髪は揚巻に山梔の花一輪、革色の洋傘右手につき、漏れ出づるせきを白綾のハンカチにおさえながら、
「ばあや、ちょっと行って来るよ。あああ、久しぶりに帰京るのね。――それから、あの――お単衣ね、もすこしだけども――あ、いいよ、帰ってからにしましょう」
忍びかねてほろほろ落つる涙を伯母は洋傘に押し隠しつ。
九の二
運命の坑黙々として人を待つ。人は知らず識らずその運命に歩む。すなわち知らずというとも、近づくに従うて一種冷ややかなる気はいを感ずるは、たれもしかる事なり。
伯母の迎え、父に会うの喜びに、深く子細を問わずして帰京の途に上りし浪子は、車に上るよりしきりに胸打ち騒ぎつ。思えば思うほど腑に落ちぬこと多く、ただ頭痛とのみ言い紛らしし伯母がようすのただならぬも深く蔵せる事のありげに思われて、問わんも汽車の内人の手前、それもなり難く、新橋に着くころはただこの暗き疑心のみ胸に立ち迷いて、久しぶりなる帰京の喜びもほとんど忘れぬ。
皆人のおりしあとより、浪子は看護婦にたすけられ伯母に従いてそぞろにプラットフォームを歩みつつ、改札口を過ぎける時、かなたに立ちて話しおれる陸軍士官の一人、ふっとこなたを顧みてあたかも浪子と目を見合わしつ。千々岩! 彼は浪子の頭より爪先まで一瞥に測りて、ことさらに目礼しつつ――わらいぬ。その一瞥、その笑いの怪しく胸にひびきて、頭より水そそがれし心地せし浪子は、迎えの馬車に打ち乗りしあとまで、病のゆえならでさらに悪寒を覚えしなり。
伯母はもの言わず。浪子も黙しぬ。馬車の窓に輝きし夕日は落ちて、氷川町の邸に着けば、黄昏ほのかに栗の花の香を浮かべつ。門の内外には荷車釣り台など見えて、脇玄関にランプの火光さし、人の声す。物など運び入れしさまなり。浪子は何事のあるぞと思いつつ、伯母と看護婦にたすけられて馬車を下れば、玄関には婢にランプとらして片岡子爵夫人たたずみたり。
「おお、これは早く。――御苦労さまでございました」と夫人の目は浪子の面より加藤子爵夫人に走りつ。
「おかあさま、お変わりも……おとうさまは?」
「は、書斎に」
おりから「姉さまが来たよ姉さまが」と子供の声にぎやかに二人の幼弟妹走り出で来たりて、その母の「静かになさい」とたしなむるも顧みず、左右より浪子にすがりつ。駒子もつづいて出で来たりぬ。
「おお道ちゃん、毅一さん。どうだえ? ――ああ駒ちゃん」
道子はすがれる姉の袂を引き動かしつつ「あたしうれしいわ、姉さまはもうこれからいつまでも此家にいるのね。お道具もすっかり来てよ」
はッと声もなし得ず、子爵夫人も、伯母も、婢も、駒子も一斉に浪子の面をうちまもりつ。
「エ?」
おどろきし浪子の目は継母の顔より伯母の顔をかすめて、たちまち玄関わきの室も狭しと積まれたるさまざまの道具に注ぎぬ。まさしく良人宅に置きたるわが箪笥! 長持ち! 鏡台!
浪子はわなわなと震いつ。倒れんとして伯母の手をひしととらえぬ。
皆泣きつ。
重やかなる足音して、父中将の姿見え来たりぬ。
「お、おとうさま!![30]30」
「おお、浪か。待って――いた。よく、帰ってくれた」
中将はその大いなる胸に、わなわなと震う浪子をばかき抱きつ。
半時の後、家の内しんとなりぬ。中将の書斎には、父子ただ二人、再び帰らじと此家を出でし日別れの訓戒を聞きし時そのままに、浪子はひざまずきて父の膝にむせび、中将は咳き入る女の背をおもむろになでおろしつ。
十
「号外! 号外! 朝鮮事件の号外!」と鈴の音のけたたましゅう呼びあるく新聞売り子のあとより、一挺の車がらがらと番町なる川島家の門に入りたり。武男は今しも帰り来たれるなり。
武男が帰らば立腹もすべけれど、勝ちは畢竟先の太刀、思い切って武男が母は山木が吉報をもたらし帰りしその日、善は急げと[31]31※が箪笥諸道具一切を片岡家に送り戻し、ちと殺生ではあったれど、どうせそのままには置かれぬ腫物、切ってしまって安心とこの二三日近ごろになき好機嫌のそれに引きかえて、若夫婦方なる僕婢は気の毒とも笑止ともいわん方なく、今にもあれ旦那がお帰りなさらば、いかに孝行の方とて、なかなか一通りでは済むまじとはらはら思っていたりしその武男は今帰り来たれるなり。加藤子爵夫人が急を報ぜしその書は途中に往き違いて、もとより母はそれと言い送らねば、知る由もなき武男は横須賀に着きて暇を得るやいな急ぎ帰り来たれるなり。
今奥より出で来たりし仲働きは、茶を入れおりし小間使いを手招き、
「ねエ松ちゃん。旦那さまはちっともご存じないようじゃないか。奥様にお土産なんぞ持っていらッしたよ」
「ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまう母さんがあるものかね。旦那様の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼婆め」
「あれくらいいやな婆っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。そのはずだよ、ねエ、昔は薩摩でお芋を掘ってたンだもの。わたしゃもうこんな家にいるのが、しみじみいやになッちゃった」
「でも旦那様も旦那様じゃないか。御自分の奥様が離縁されてしまうのもちょっとも知らんてえのは、あんまり七月のお槍じゃないかね」
「だッて、そらア無理ゃないわ。遠方にいらっしたンだもの。だれだって、下女じゃあるまいし、肝心な子息に相談もしずに、さっさと[32]32※を追い出してしまおうた思わないわね。それに旦那様もお年が若いからねエ。ほんとに旦那様もおかあいそう――奥様はなおおかあいそうだわ。今ごろはどうしていらッしゃるだろうねエ。ああいやだ――ほウら、婆あが怒鳴りだしたよ。松ちゃんせッせとしないと、また八つ当たりでおいでるよ」
奥の一間には母子の問答次第に熱しつ。
「だッて、あの時あれほど申し上げて置いたです。それに手紙一本くださらず、無断で――実にひどいです。実際ひどいです。今日もちょいと逗子に寄って来ると、浪はおらんでしょう、いくに尋ねると何か要があって東京に帰ったというです。変と思ったですが、まさか母さんがそんな事を――実にひどい――」
「それはわたしがわるかった。わるかったからこの通り親がわびをしておるじゃなッかい。わたしじゃッて何も浪が悪かというじゃなし、卿がかあいいばッかいで――」
「母さんはからだばッかり大事にして、名誉も体面も情もちょっとも思ってくださらんのですな。あんまりです」
「武男、卿はの、男かい。女じゃあるまいの。親にわび言いわせても、やっぱい浪が恋しかかい。恋しかかい。恋しかか」
「だッて、あんまりです、実際あんまりです」
「あんまいじゃッて、もう後の祭じゃなッか。あっちも承知して、きれいに引き取ったあとの事じゃ。この上どうすッかい。女々しか事をしなはッと、親の恥ばッかいか、卿の男が立つまいが」
黙然と聞く武男は断れよとばかり下くちびるをかみつ。たちまち勃然と立ち上がって、病妻にもたらし帰りし貯林檎の籠をみじんに踏み砕き、
「母さん、あなたは、浪を殺し、またそのうえにこの武男をお殺しなすッた。もうお目にかかりません」
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武男は直ちに横須賀なる軍艦に引き返しぬ。
韓山の風雲はいよいよ急に、七月の中旬廟堂の議はいよいよ清国と開戦に一決して、同月十八日には樺山中将新たに海軍軍令部長に補せられ、武男が乗り組める連合艦隊旗艦松島号は他の諸艦を率いて佐世保に集中すべき命を被りつ。捨てばちの身は砲丸の的にもなれよと、武男はまっしぐらに艦とともに西に向かいぬ。
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片岡陸軍中将は浪子の帰りしその翌日より、自らさしずして、邸中の日あたりよく静かなるあたりをえらびて、ことに浪子のために八畳一間六畳二間四畳一間の離家を建て、逗子より姥のいくを呼び寄せて、浪子とともにここに棲ましつ。九月にはいよいよ命ありて現役に復し、一夕夫人繁子を書斎に呼びて懇々浪子の事を託したる後、同十三日大纛に扈従して広島大本営におもむき、翌月さらに大山大将山路中将と前後して遼東に向かいぬ。
われらが次を逐うてその運命をたどり来たれる敵も、味方も、かの消魂も、この怨恨も、しばし征清戦争の大渦に巻き込まれつ。
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