附録
ひとりごと
蝶の語れる
吾、毛虫たりし時、醜かりき。吾、蝶となりて舞へば人美しと讃む。人の美しと云ふ吾は、曩昔の醜かりし毛虫ぞや。
吾、醜かりし時、人吾を疎み、忌み、嫌ひて避け、見る毎に吾を殺さんとしぬ。吾、美しと云はるゝに到れば、人争うて吾を招く。吾れの変れる乎。人の眼なき乎。
吾、醜しと見られし時、吾胸のいたみて、さびしく泣きたることいかばかりぞや。其時君独り吾を憐みぬ。
君、吾が毛虫たりし時、吾を憐みて捨てざりき。故に蝶となれる吾は、今翼ある花となりて、願はくは君が為に君の花園に舞はん。
旅の日記から
熊の足跡
勿来
連日の風雨でとまった東北線が開通したと聞いて、明治四十三年九月七日の朝、上野から海岸線の汽車に乗った。三時過ぎ関本駅で下り、車で平潟へ。
平潟は名だたる漁場である。湾の南方を、町から当面の出島をかけて、蝦蛄の這う様にずらり足杭を見せた桟橋が見ものだ。雨あがりの漁場、唯もう腥い、腥い。静海亭に荷物を下ろすと、宿の下駄傘を借り、車で勿来関址見物に出かける。
町はずれの隧道を、常陸から入って磐城に出た。大波小波鞺々と打寄する淋しい浜街道を少し往って、唯有る茶店で車を下りた。奈古曾の石碑の刷物、松や貝の化石、画はがきなど売って居る。車夫に鶴子を負ってもらい、余等は滑る足元に気をつけ/\鉄道線路を踏切って、山田の畔を関跡の方へと上る。道も狭に散るの歌に因んで、芳野桜を沢山植えてある。若木ばかりだ。路、山に入って、萩、女郎花、地楡、桔梗、苅萱、今を盛りの満山の秋を踏み分けて上る。車夫が折ってくれた色濃い桔梗の一枝を鶴子は握って負られて行く。
浜街道の茶店から十丁程上ると、関の址に来た。馬の脊の様な狭い山の上のやゝ平凹になった鞍部、八幡太郎弓かけの松、鞍かけの松、など云う老大な赤松黒松が十四五本、太平洋の風に吹かれて、翠の梢に颯々の音を立てゝ居る。五六百年の物では無い。松の外に格別古い物はない。石碑は嘉永のものである。茶屋がけがしてあるが、夏過ぎた今日、もとより遊人の影も無く、茶博士も居ない。弓弭の清水を掬んで、弓かけ松の下に立って眺める。西は重畳たる磐城の山に雲霧白く渦まいて流れて居る。東は太平洋、雲間漏る夕日の鈍い光を浮べて唯とろりとして居る。鰹舟の櫓拍子が仄かに聞こえる。昔奥州へ通う浜街道は、此山の上を通ったのか。八幡太郎も花吹雪の中を馬で此処を通ったのか。歌は残って、関の址と云う程の址はなく、松風ばかり颯々と吟じて居る。人の世の千年は実に造作もなく過ぎて了う。茫然と立って居ると、苅草を背一ぱいにゆりかけた馬を追うて、若い百姓が二人峠の方から下りて来て、余等の前を通って、また向の峰へ上って往った。
日の暮に平潟の宿に帰った。湯はぬるく、便所はむさく、魚は鮮しいが料理がまずくて腥く、水を飲もうとすれば潟臭く、加之夥しい蚊が真黒にたかる。早々蚊帳に逃げ込むと、夜半に雨が降り出して、頭の上に漏って来るので、遽てゝ床を移すなど、わびしい旅の第一夜であった。
浅虫
九月九日から十二日まで、奥州浅虫温泉滞留。
背後を青森行の汽車が通る。枕の下で、陸奥湾の緑玉潮がぴた/\言う。西には青森の人煙指す可く、其背に津軽富士の岩木山が小さく見えて居る。
青森から芸妓連の遊客が歌うて曰く、一夜添うてもチマはチマ。
五歳の鶴子初めて鴎を見て曰く、阿母、白い烏が飛んで居るわねえ。
旅泊のつれ/″\に、浜から拾うて来た小石で、子供一人成人二人でおはじきをする。余が十歳の夏、父母に伴われて舟で薩摩境の祖父を見舞に往った時、唯二十五里の海上を、風が悪くて天草の島に彼此十日も舟がかりした。昔話も聞き尽し、永い日を暮らしかねて、六十近い父と、五十近い母と、十歳の自分で、小石を拾うておはじきをした。今日不器用な手に小石を数えつゝ、不図其事を思い出した。
海岸を歩けば、帆立貝の殻が山の如く積んである。浅虫で食ったものゝ中で、帆立貝の柱の天麩羅はうまいものであった。海浜随処に玫瑰の花が紫に咲き乱れて汐風に香る。
野糞放る外が浜辺や玫瑰花
大沼
(一)
津軽海峡を四時間に駛せて、余等を青森から函館へ運んでくれた梅ヶ香丸は、新造の美しい船であったが、船に弱い妻は到頭酔うて了うた。一夜函館埠頭の朴旅館に休息しても、まだ頭が痛いと云う。午後の汽車で、直ぐ大沼へ行く。
函館停車場は極粗朴な停車場である。待合室では、真赤に喰い酔うた金襴の袈裟の坊さんが、仏蘭西人らしい髯の長い宣教師を捉えて、色々管を捲いて居る。宣教師は笑いながら好い加減にあしらって居る。
札幌行の列車は、函館の雑沓をあとにして、桔梗、七飯と次第に上って行く。皮をめくる様に頭が軽くなる。臥牛山を心にした巴形の函館が、鳥瞰図を展べた様に眼下に開ける。「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓から見ると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮を隔てゝ、遙に津軽の地方が水平線上に浮いて居る。本郷へ来ると、彼酔僧は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠り、小形の緑絨氈のカバンを提げて、蹣跚と改札口を出て行くのが見えた。江刺へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。函館から一時間余にして、汽車は山を上り終え、大沼駅を過ぎて大沼公園に来た。遊客の為に設けた形ばかりの停車場である。こゝで下車。宿引が二人待って居る。余等は導かれて紅葉館の旗を艫に立てた小舟に乗った。宿引は一礼して去り、船頭は軋と櫓声を立てゝ漕ぎ出す。
黄金色に藻の花の咲く入江を出ると、広々とした沼の面、絶えて久しい赤禿の駒が岳が忽眼前に躍り出た。東の肩からあるか無いかの煙が立上って居る。余が明治三十六年の夏来た頃は、汽車はまだ森までしかかゝって居なかった。大沼公園にも粗末な料理屋が二三軒水際に立って居た。駒が岳の噴火も其後の事である。然し汽車は釧路まで通うても、駒が岳は噴火しても、大沼其ものは旧に仍って晴々した而して寂かな眺である。時は九月の十四日、然し沼のあたりのイタヤ楓はそろ/\染めかけて居る。処々楢や白樺にからんだ山葡萄の葉が、火の様に燃えて居る。空気は澄み切って、水は鏡の様だ。夫婦島の方に帆舟が一つ駛って居る。櫓声静に我舟の行くまゝに、鴨が飛び、千鳥が飛ぶ。やがて舟は一の入江に入って、紅葉館の下に着いた。女中が出迎える。夥しくイタヤ楓の若木を植えた傾斜を上って、水に向う奥の一間に案内された。
都の紅葉館は知らぬが、此紅葉館は大沼に臨み、駒が岳に面し、名の如く無数の紅葉樹に囲まれて、瀟洒とした紅葉館である。殊に夏の季節も過ぎて、今は宿もひっそりして居る。薪を使った鉱泉に入って、古めかしいランプの下、物静かな女中の給仕で沼の鯉、鮒の料理を食べて、物音一つせぬ山の上、水の際の静かな夜の眠に入った。
真夜中にごろ/\と雷が鳴った。雨戸の隙から雷が光った。而して颯と雨の音がした。起きて雨戸を一枚繰って見たら、最早月が出て、沼の水に螢の様に星が浮いて居た。
(二)
明方にはまたぽつ/\降って居たが、朝食を食うと止んだ。小舟で釣に出かける。汽車の通うセバットの鉄橋の辺に来ると、また一しきりざあと雨が来た。鉄橋の蔭に舟を寄せて雨宿りする間もなく、雨は最早過ぎて了うた。此辺は沼の中でもやゝ深い。小沼の水が大沼に流れ入るので、水は川の様に動いて居る。いくら釣っても、目ざす鮒はかゝらず、ゴタルと云う魦の様な小魚ばかり釣れる。舟を水草の岸に着けさして、イタヤの薄紅葉の中を彼方此方と歩いて見る。下生を奇麗に払った自然の築山、砂地の踏心地もよく、公園の名はあっても、あまり人巧の入って居ないのがありがたい。駒が岳のよく見える処で、三脚を据えて、十八九の青年が水彩写生をして居た。駒が岳に雲が去来して、沼の水も林も倏忽の中に翳ったり、照ったり、見るに面白く、写生に困難らしく思われた。時が移るので、釣を断念し、また舟に上って島めぐりをする。大沼の周囲八里、小沼を合せて十三里、昔は島の数が大小百四十余もあったと云う。中禅寺の幽凄でもなく、霞が浦の淡蕩でもなく、大沼は要するに水を淡水にし松を楢白樺其他の雑木にした松島である。沼尻は瀑になって居る。沼には鯉、鮒、鰌ほか産しない。今年銅像を建てたと云う大山島、東郷島がある。昔此辺の領主であったと云う武家の古い墓が幾基も立って居る島もあった。夏は好い遊び場であろう。今は寂しいことである。それでも、学生の漕いで行く小さなボートの影や、若い夫婦の遊山舟も一つ二つ見えた。舟を唯有る岸に寄せて、殊に美しい山葡萄の紅葉を摘んで宿に帰った。
午後は画はがきなど書いて、館の表門から陸路停車場に投函に往った。軟らかな砂地に下駄を踏み込んで、葦やさま/″\の水草の茂った入江の仮橋を渡って行く。やゝ色づいた樺、楢、イタヤ、などの梢から尖った頭の赭い駒が岳が時々顔を出す。寂しい景色である。北海道の気が総身にしみて感ぜられる。
夕方館の庭から沼に突き出た岬の𡽶で、細君が石に腰かけて記念に駒が岳の写生をはじめた。余は鶴子と手帖の上を見たり、附近の林で草花を折ったり。秋の入り日の瞬く間に落ちて、山影水光見るが中に変って行く。夕日の名残をとゞめて赭く輝やいた駒が岳の第一峰が灰がかった色に褪めると、つい前の小島も紫から紺青に変って、大沼の日は暮れて了うた。細君はまだスケッチの筆を動かして居る。黯青に光る空。白く光る水。時々ポチャンと音して、魚がはねる。水際の林では、宿鳥が物に驚いてがさがさ飛び出す。ブヨだか蚊だか小さな声で唸って居る。
「到頭出来なかった」
ぱたんと画具箱の葢をして、細君は立ち上った。鶴子を負う可く、蹲んで後にまわす手先に、ものが冷やりとする。最早露が下りて居るのだ。
札幌へ
九月十六日。大沼を立つ。駒が岳を半周して、森に下って、噴火湾の晴潮を飽かず汽車の窓から眺める。室蘭通いの小さな汽船が波にゆられて居る。汽車は駒が岳を背にして、ずうと噴火湾に沿うて走る。長万部近くなると、湾を隔てゝ白銅色の雲の様なものをむら/\と立てゝ居る山がある。有珠山です、と同室の紳士は教えた。
湾をはなれて山路にかゝり、黒松内で停車蕎麦を食う。蕎麦の風味が好い。蝦夷富士〻〻〻〻と心がけた蝦夷富士を、蘭越駅で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏うて、秀潤の黛色滴るばかり。頻に登って見たくなった。車中知人O君の札幌農科大学に帰るに会った。夏期休暇に朝鮮漫遊して、今其帰途である。余市に来て、日本海の片影を見た。余市は北海道林檎の名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の様な色彩を見せた。あまり美しいので、売子が持て来た網嚢入のを二嚢買った。
O君は小樽で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊った。
中秋
十八日。朝、旭川へ向けて札幌を立つ。
石狩平原は、水田已に黄ばんで居る。其間に、九月中旬まだ小麦の収穫をして居るのを見ると、また北海道の気もちに復えった。
十時、汽車は隧道を出て、川を見下ろす高い崖上の停車場にとまった。神居古潭である。急に思立って、手荷物諸共遽てゝ汽車を下りた。
改築中で割栗石狼藉とした停車場を出て、茶店で人を雇うて、鶴子と手荷物を負わせ、急勾配の崖を川へ下りた。暗緑色の石狩川が汪々と流れて居る。両岸から鉄線で吊ったあぶなげな仮橋が川を跨げて居る。橋の口に立札がある。文言を読めば、曰く、五人以上同時に渡る可からず。
恐ず/\橋板を踏むと、足の底がふわりとして、一足毎に橋は左右に前後に上下に揺れる。飛騨山中、四国の祖谷山中などの藤蔓の橋の渡り心地がまさに斯様であろう。形ばかりの銕線の欄はあるが、つかまってゆる/\渡る気にもなれぬ。下の流れを見ぬ様にして一息に渡った。橋の長さ二十四間。渡り終って一息ついて居ると、炭俵を負うた若い女が山から下りて来たが、佇む余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼吊橋を渡って往った。
山下道を川に沿うて溯ること四五丁余、細い煙突から白い煙を立てゝ居る木羽葺のきたない家に来た。神居古潭の鉱泉宿である。取りあえず裏二階の無縁畳の一室に導かれた。やがて碁をうって居た旭川の客が帰って往ったので、表二階の方に移った。硫黄の臭がする鉱泉に入って、二階にくつろぐ。麦稈帽の書生三人、庇髪の女学生二人、隣室に遊びに来たが、次ぎの汽車で直ぐ帰って往った。石狩川の音が颯々と響く。川向うの山腹の停車場で、鎚音高く石を割って居る。囂と云う響をこだまにかえして、稀に汽車が向山を通って行く。寂しい。昼飯に川魚をと注文したら、石狩川を前に置いて、罐詰の筍の卵とじなど食わした。
飯後神居古潭を見に出かける。少し上流の方には夫婦岩と云う此辺の名勝があると云う。其方へは行かず、先刻渡った吊橋の方に往って見る。橋の上手には、楢の大木が五六本川面へ差かゝって居る。其蔭に小さな小屋がけして、杣が三人停車場改築工事の木材を挽いて居る。橋の下手には、青石峨々たる岬角が、橋の袂から斜に川の方へ十五六間突出て居る。余は一人尖った巌角を踏み、荊棘を分け、岬の突端に往った。岩間には其処此処水溜があり、紅葉した蔓草が岩に搦んで居る。出鼻に立って眺める。川向う一帯、直立三四百尺もあろうかと思わるゝ雑木山が、水際から屏風を立てた様に聳えて居る。其中腹を少しばかり切り拓いて、こゝに停車場が取りついて居る。檣の様な支柱を水際の崖から隙間もなく並べ立てゝ、其上に停車場は片側乗って居るのである。停車場の右も左も隧道になって居る。汽車が百足の様に隧道を這い出して来て、此停車場に一息つくかと思うと、またぞろぞろ這い出して、今度は反対の方に黒く見えて居る隧道の孔に吸わるゝ様に入って行く。向う一帯の雑木山は、秋まだ浅くして、見る可き色もない。眼は終に川に落ちる。丁余の上流では白波の瀬をなして騒いだ石狩川も、こゝでは深い青黝い色をなして、其処此処に小さな渦を巻き/\彼吊橋の下を音もなく流れて来て、一部は橋の袂から突出た巌に礙げられてこゝに淵を湛え、余の水は其まゝ押流して、余が立って居る岬角を摩って、また下手対岸の蒼黒い巌壁にぶつかると、全川の水は捩じ曲げられた様に左に折れて、また滔々と流して行く。去年の出水には、石狩川が崖上の道路を越して鉱泉宿まで来たそうだ。此窄い山の峡を深さ二丈も其上もある泥水が怒号して押下った当時の凄じさが思われる。今は其れ程の水勢は無いが、水を見つめて居ると流石に凄い。橋下の水深は、平常二十余尋。以前は二間もある海の鯊がこゝまで上って来たと云う。自然児のアイヌがさゝげた神居古潭の名も似つかわしく思われる。
夕飯後、ランプがついて戸がしまると、深い深い地の底にでも落ちた様で、川音がます/\耳について寂しい。宿から萩の餅を一盂くれた。今宵は中秋十五夜であった。北海道の神居古潭で中秋に逢うも、他日の思出の一であろう。雨戸を少しあけて見たら、月は生憎雲をかぶって、朦朧とした谷底を石狩川が唯颯、颯と鳴って居る。
名寄
九月十九日。朝神居古潭の停車場から乗車。金襴の袈裟、紫衣、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。旭川で乗換え、名寄に向う。旭川からは生路である。
永山、比布、蘭留と、眺望は次第に淋しくなる。紫蘇ともつかず、麻でも無いものを苅って畑に乾してあるのを、車中の甲乙が評議して居たが、薄荷だと丙が説明した。
やがて天塩に入る。和寒、剣淵、士別あたり、牧場かと思わるゝ広漠たる草地一面霜枯れて、六尺もある虎杖が黄葉美しく此処其処に立って居る。所謂泥炭地である。車内の客は何れも惜しいものだと舌鼓うつ。
余放吟して曰く、
泥炭地耕すべくもあらぬとふさはれ美し虎杖の秋
士別では、共楽座など看板を上げた木葉葺の劇場が見えた。
午後三時過ぎ、現在の終点駅名寄着。丸石旅館に手荷物を下ろし、茶一ぱい飲んで、直ぐ例の見物に出かける。
旭川平原をずっと縮めた様な天塩川の盆地に、一握りの人家を落した新開町。停車場前から、大通りを鍵の手に折れて、木羽葺が何百か並んで居る。多いものは小間物屋、可なり大きな真宗の寺、天理教会、清素な耶蘇教会堂も見えた。店頭で見つけた真桑瓜を買うて、天塩川に往って見る。可なりの大川、深くもなさそうだが、川幅一ぱい茶色の水が颯々と北へ流れて居る。鉄線を引張った渡舟がある。余等も渡って、少し歩いて見る。多いものはブヨばかり。倒れ木に腰かけて、路をさし覆う七つ葉の蔭で、真桑瓜を剥いた。甘味の少ないは、争われぬ北である。最早日が入りかけて、薄ら寒く、秋の夕の淋しさが人少なの新開町を押かぶせる様に四方から包んで来る。二たび川を渡って、早々宿に帰る。町の真中を乗馬の男が野の方から駈を追うて帰って来る。馬蹄の音が名寄中に響き渡る。
宿の主人は讃岐の人で、晩食の給仕に出た女中は愛知の者であった。隣室には、先刻馬を頼んで居た北見の農場に帰る男が、客と碁をうって居る。按摩の笛が大道を流して通る。
春光台
明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊の飛脚旅行に来た。其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であった。降りしきる雨の中を車で近文に往って、土産話にアイヌの老酋の家を訪うて、イタヤのマキリなぞ買って帰った。余は今車の上から見廻して、当年のわびしい記憶を喚起そうとしたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかった。
余等は市街を出ぬけ、石狩川を渡り、近文のアイヌ部落を遠目に見て、第七師団の練兵場を横ぎり、車を下りて春光台に上った。春光台は江戸川を除いた旭川の鴻の台である。上川原野を一目に見て、旭川の北方に連塁の如く蟠居して居る。丘上は一面水晶末の様な輝々する白砂、そろ/\青葉の縁を樺に染めかけた大きな檞樹の間を縫うて、幾条の路がうねって居る。直ぐ眼下は第七師団である。黒んだ大きな木造の建物、細長い建物、一尺の馬が走ったり、二寸の兵が歩いたり、赤い旗が立ったり、喇叭が鳴ったりして居る。日露戦争凱旋当時、此丘上に盛大な師団招魂祭があって、芝居、相撲、割れる様な賑合の中に、前夜恋人の父から絶縁の一書を送られて血を吐く思の胸を抱いて師団の中尉寄生木の篠原良平が見物に立まじったも此春光台であった。
余は見廻わした。丘の上には余等の外に人影も無く、秋風がばさり/\檞の葉を揺かして居る。
春光台腸断ちし若人を
偲びて立てば秋の風吹く
余等は春光台を下りて、一兵卒に問うて良平が親友小田中尉の女気無しの官舎を訪い、暫らく良平を語った。それから良平が陸軍大学の予備試験に及第しながら都合上後廻わしにされたを憤って、硝子窓を打破ったと云う、最後に住んだ官舎の前を通った。其は他の下級将校官舎の如く、板塀に囲われた見すぼらしい板葺の家で、垣の内には柳が一本長々と枝を垂れて居た。失恋の彼が苦しまぎれに渦巻の如く無暗に歩き廻った練兵場は、曩日の雨で諸処水溜りが出来て、紅と白の苜蓿の花が其処此処に叢をなして咲いて居た。
釧路
(一)
旭川に二夜寝て、九月二十三日の朝釧路へ向う。釧路の方へは全くの生路である。
昨日石狩岳に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川原野を南方へ下って行く。水田が黄ばんで居る。田や畑の其処此処に焼け残りの黒い木の株が立って居るのを見ると、開け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀が身にしみる様だ。下富良野で青い十勝岳を仰ぐ。汽車はいよ/\夕張と背合わせの山路に入って、空知川の上流を水に添うて溯る。砂白く、水は玉よりも緑である。此辺は秋已に深く、万樹霜を閲し、狐色になった樹々の間に、イタヤ楓は火の如く、北海道の銀杏なる桂は黄の焔を上げて居る。旭川から五時間余走って、汽車は狩勝駅に来た。石狩十勝の境である。余は窓から首を出して左の立札を見た。
狩勝停車場
海抜一千七百五十六呎、一二
狩勝トンネル
延長参千九呎六吋
釧路百十九哩八分
旭川七十二哩三分
札幌百五十八哩六分
函館三百三十七哩五分
室蘭二百二十哩
三千呎の隧道を、汽車は石狩から入って十勝へ出た。此れからは千何百呎の下りである。最初蝦夷松椴松の翠に秀であるいは白く立枯るゝ峰を過ぎて、障るものなき辺へ来ると、軸物の大俯瞰図のする/\と解けて落ちる様に、眼は今汽車の下りつゝある霜枯の萱山から、青々とした裾野につゞく十勝の大平野を何処までもずうと走って、地と空と融け合う辺にとまった。其処に北太平洋が潜んで居るのである。多くの頭が窓から出て眺める。汽車は尾花の白く光る山腹を、波状を描いて蛇の様にのたくる。北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上に蟠る連嶺が青く見えて来た。南の方には、日高境の青い高山が見える。汽車は此等の山を右の窓から左の窓へと幾回か転換して、到頭平野に下りて了うた。
当分は檞の林が迎えて送る。追々大豆畑が現われる。十勝は豆の国である。旭川平原や札幌深川間の汽車の窓から見る様な水田は、まだ十勝に少ない。帯広は十勝の頭脳、河西支庁の処在地、大きな野の中の町である。利別から芸者雛妓が八人乗った。今日網走線の鉄道が㓐別まで開通した其開通式に赴くのである。池田駅は網走線の分岐点、球燈、国旗、満頭飾をした機関車なども見えて、真黒な人だかりだ。汽車はこゝで乗客の大部分を下ろし、汪々たる十勝川の流れに暫くは添うて東へ走った。時間が晩れて、浦幌で太平洋の波の音を聞いた時は、最早車室の電燈がついた。此処から線路は直角をなして北上し、一路断続海の音を聞きつゝ、九時近くくたびれ切って釧路に着いた。車に揺られて、十九日の欠月を横目に見ながら、夕汐白く漫々たる釧路川に架した長い長い幣舞橋を渡り、輪島屋と云う宿に往った。
(二)
あくる日飯を食うと見物に出た。釧路町は釧路川口の両岸に跨って居る。停車場所在の側は平民町で、官庁、銀行、重なる商店、旅館等は、大抵橋を渡った東岸にある。東岸一帯は小高い丘をなして自から海風をよけ、幾多の人家は水の畔から上段かけて其蔭に群がり、幾多の舟船は其蔭に息うて居る。余等は弁天社から燈台の方に上った。釧路川と太平洋に挾まれた半島の岬端で、東面すれば太平洋、西面すれば釧路湾、釧路川、釧路町を眼下に見て、当面には海と平行して長く延いた丘の上、水色に冴えた秋の朝空に間隔てゝ二つ列んだ雄阿寒、雌阿寒の秀色を眺める。湾には煙立つ汽船、漁舟が浮いて居る。幣舞橋には蟻の様に人が渡って居る。北海道東部第一の港だけあって、気象頗雄大である。今日人を尋ぬ可く午前中に釧路を去らねばならぬので、見物は匇々にして宿に帰る。
茶路
北太平洋の波の音の淋しい釧路の白糠駅で下りて、宿の亭主を頼み村役場に往って茶路に住むと云うM氏の在否を調べて貰うと、先には居たが、今は居ない、行方は一切分からぬと云う。兎も角も茶路に往って尋ねる外はない。妻児を宿に残して、案内者を頼み、ゲートル、運動靴、洋傘一柄、身軽に出かける。時は最早午後の二時過ぎ。茶路までは三里。帰りはドウセ夜に入ると云うので、余はポッケットに懐中電燈を入れ、案内者は夜食の握飯と提灯を提げて居る。
海の音を背に、鉄道線路を踏切って、西へ槍の柄の様に真直につけられた大路を行く。左右は一面じめ/\した泥炭地で、反魂香の黄や沢桔梗の紫や其他名を知らぬ草花が霜枯れかゝった草を彩どって居る。煙草の火でも落すと一月も二月もぷす/\燻って居ます、と案内者が云う。路の一方にはトロッコのレールが敷かれてある。其処此処で人夫がレールや枕木を取りはずして居る。
「如何するのかね」
「何、安田の炭鉱へかゝってたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山の陰になってます。エ、最早廃しちゃったんです」
案内者は斯云って、仲に立った者が此レールを請負って、一間ばかりの橋一つにも五十円の、枕木一本が幾円のと、不当な儲をした事を話す。枕木は重にドス楢で、北海道に栗は少なく、釧路などには栗が三本と無いが、ドス楢は堅硬にして容易に朽ちず栗にも劣らぬそうである。
案内者は水戸の者であった。五十そこらの気軽そうな男。早くから北海道に渡って、近年白糠に来て、小料理屋をやって居る。
「随分色々な者が入り込んで居るだろうね」
「エ、其りゃ色々な手合が来てまさァ」
「随分破落戸も居るだろうね」
「エ、何、其様でもありませんが。――一人困った奴が居ましてな。よく強淫をやりァがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない様にしますからな。何時ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅りに往ってたのを、奴が捉えましてな。丁度其処に木を伐りに来た男が見つけて、大騒ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追い出されて、今では大津に往って、漁場を稼いで居るってことです」
山が三方から近く寄って来た。唯有る人家に立寄って、井戸の水をもらって飲む。桔槹の釣瓶はバケツで、井戸側は径三尺もある桂の丸木の中をくりぬいたのである。一丈余もある水際までぶっ通しらしい。而して水はさながら水晶である。まだ此辺までは耕地は無い。海上のガス即ち霧が襲うて来るので、根菜類は出来るが、地上に育つものは穀物蔬菜何も出来ず、どうしても三里内地に入らねば麦も何も出来ないのである。
鹿の角を沢山背負うて来る男に会うた。茶路川の水涸れた川床が左に見えて来た。
二里も来たかと思う頃、路は殆んど直角に右に折れて居る。最早茶路の入口だ。路傍に大きな草葺の家がある。
「一寸休んで往きましょうかな」と云って、案内者が先に立って入る。
大きな炉をきって、自在に大薬罐の湯がたぎって居る。煤けた屋根裏からつりさげた藁苞に、焼いた小魚の串がさしてある。柱には大きなぼン/\が掛って居る。広くとった土間の片隅は棚になって、茶碗、皿、小鉢の類が多くのせてある。
額の少し禿げた天神髯の五十位の男が出て来た。案内者と二三の会話がある。
「茶路は誰を御訪ねなさるンですかね」
余はMの名を云った。
「あ、Mさんですか。Mさんなれば最早茶路には居ません。昨年越しました。今は釧路に居ます。釧路の西幣舞町です。葬儀屋をやってます。エ、エ、俺とは極懇意で、つい先月も遊びに往って来ました」
と云って、主は戸棚から一括した手紙はがきを取り出し、一枚ずつめくって、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。
「かみさんも一緒ですかね?」
実は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道したきり、音信不通だが、風のたよりに彼地で妻を迎えて居ると云うことが伝えられて居るのであった。
「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが満洲に居るとか云うことでしたっけ」
案外早く埒が明いたので、余は礼を云って、直ぐ白糠へ引かえした。
「分かってようございました。エ、彼人ですか、たしか淡路の人だと云います。飯屋をして、大分儲けると云うことです」と案内者は云うた。
白糠の宿に帰ると、秋の日が暮れて、ランプの蔭に妻児が淋しく待って居た。夕飯を食って、八時過ぎの終列車で釧路に引返えす。
北海道の京都
釧路で尋ぬるM氏に会って所要を果し、翌日池田を経て※別[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、下巻-181-2]に往って此行第一の目的なる関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。
往きに一昼二夜、復えりに一昼夜、皮相を瞥見した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかった。耶蘇教信者が八万の都府に八百からあると云う。唯一台来た自動車を市の共議で排斥したと云う。二日の夜は独立教会でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大学を見に往った。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである。宮部博士の説明で二三植物標本を見た。樺太の日露国境の辺で採収して新に命名された紫のサカイツヽジ、其名は久しく聞いて居た冬虫夏草、木の髄を腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆虫の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣の生活等につき面白い話を聞いた。楡の蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好い都府である。
余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨に遊び暮らし、其夜函館に往って、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。
津軽
青森に一夜明して、十月六日の朝弘前に往った。
津軽は今林檎王国の栄華時代である。弘前の城下町を通ると、ケラを被て目かご背負うた津軽女も、草履はいて炭馬をひいた津軽男も、林檎喰い/\歩いて居る。代官町の大一と云う店で、東京に二箱仕出す。奥深い店は、林檎と、箱と、巨鋸屑と、荷造りする男女で一ぱいであった。
古い士族町、新しい商業町、場末のボロ町を通って、岩木川を渡り、城北三里板柳村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山は、十月の朝日に桔梗の花の色をして居る。山を繞って秋の田が一面に色づいて居る。街道は断続榲桲の黄な村、林檎の紅い畑を過ぎて行く。二時間ばかりにして、岩木川の長橋を渡り、田舎町には家並の揃うて豊らしい板柳村に入った。
板柳村のY君は、林檎園の監督をする傍、新派の歌をよみ文芸を好む人である。一二度粕谷の茅廬にも音ずれた。余等はY君の家に一夜厄介になった。文展で評判の好かった不折の「陶器つくり」の油絵、三千里の行脚して此処にも滞留した碧梧桐「花林檎」の額、子規、碧、虚の短冊、与謝野夫妻、竹柏園社中の短冊など見た。十五町歩の林檎園に、撰屑の林檎の可惜転がるのを見た。種々の林檎を味わうた。夜はY君の友にして村の重立たる人々にも会うた。余はタァナァ水彩画帖をY君に贈り、其フライリーフに左の出たらめを書きつけた。
林檎朱に榲桲黄なる秋の日を
岩木山下に君とかたらふ
あくる朝は早く板柳村を辞した。岩木川の橋を渡って、昨夜会面した諸君に告別し、Y君の案内により大急ぎで舞鶴城へかけ上り、津軽家祖先の甲冑の銅像の辺から岩木山を今一度眺め、大急ぎで写真をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君も大鰐まで送って来て、こゝに袂を分った。余等はこれから秋田、米沢、福島を経て帰村す可く汽車の旅をつゞけた。
紅葉狩
紅葉
嫁いで京都に往って居る季の女の家を訪うべく幾年か心がけて居た母と、折よく南部から出て来た寄生木のお新お糸の姉妹を連れて、余の家族を合せて同勢六人京都に往った。松蕈に晩く、紅葉には盛りにちと早いと云う明治四十三年の十一月中旬。
京都に着いて三日目に、高尾槇尾栂尾から嵐山の秋色を愛ずべく、一同車を連ねて上京の姉の家を出た。堀川西陣をぬけて、坦々たる白土の道を西へ走る。丹波から吹いて来る風が寒い。行手には唐人の冠を見る様に一寸青黒い頭の上の頭をかぶった愛宕山が、此辺一帯の帝王貌して見下ろして居る。御室でしばらく車を下りる。株立ちの矮い桜は落葉し尽して、からんとした中に、山門の黄が勝った丹塗と、八分の紅を染めた楓とが、何とも云えぬ趣をなして居る。余は御室が大好きである。直ぐ向うのならびが岡の兼好が書いた遊びずきの法師達が、児を連れて落葉に埋めて置いた弁当を探して居やしないか、と見廻わしたが、人の影はなくて、唯小鳥の囀る声ばかりした。
車は走せて梅が畑へ来た。柴車を挽いて来るおばさんも、苅田をかえして居る娘も、木綿着ながらキチンとした身装をして、手甲かけて、足袋はいて、髪は奇麗に撫でつけて居る。労働が余所目に美しく見られる。日あたり風あたりが暴く、水も荒く、軽い土が耳の中鼻の中まで舞い込む余の住む武蔵野の百姓女なぞは中々、斯う美しくはして居られぬ。八年前余は独歩嵐山から高尾に来た時、時雨に降られて、梅が畑の唯有る百姓家に跑け込んで簑を借りた。山吹の花さし出す娘はなくて、婆さんが簑を出して呉れたが、「おべゝがだいなしになるやろ」と云うので、余は羽織を裏返えしに着て、其上に簑を被り、帽子を傾けて高尾に急いだ。瓢箪など肩にして芸子と番傘の相合傘で帰って来る若い男等が、「ヨウ、勘平猪打の段か」などゝ囃した。
いよ/\高尾に来た。車を下りて、車夫に母を負うてもらい、白雲橋を渡って、神護寺内の見晴らしに上った。紅葉はまだ五六分と云う処である。かけ茶屋の一に上って、姉が心尽しの弁当を楽しく開いた。余等はまた土皿投げを試みた。手をはなれた土皿は、ヒラ/\/\と宙返りして手もとに舞い込む様に此方の崖に落ち、中々谷底へは届かぬ。色々の色に焦れて居る山と山との間の深い谷底を清滝川が流れて居る。川下が堰きとめられて緑礬色の水が湛え、褐色の落葉が点々として浮いて居る。
「水を堰いて如何するのかな」
「水力電気たら云うてな、あんたはん」と茶を持て来たおばこのかみさんが云う。
余は舌鼓をうった。
余等は高尾を出て、清滝川に沿うて遡り、槇の尾を経て、栂の尾に往った。
栂の尾は高尾に比して瀟洒として居る。高尾から唯少し上流に遡るのであるが、此処の楓は高尾よりも染めて居る。寺畔の茶屋から見ると、向う山の緑青で画いた様な杉の幾本に映って楓の紅が目ざましく美しい。斯栂の尾の寺に、今は昔先輩の某が避暑して居たので、余は同窓の友と二三日泊りがけに遊びに来たものだ。其は余が十二の夏であった。余等は毎日寺の下の川淵に泳ぎ、三度〻〻南瓜で飯を食わされた。村から水瓜を買うて来て、川に浸して置いて食ったりした。余は今記念の為に、川に下りて川水の中から赤い石と白い石とを拾った。清滝川は余にとりて思出多い川である。栂尾に居た年から八年程後、斯少し下流愛宕の麓清滝の里に、余は脚気を口実に、実は学課をなまけて、秋の一月を遊び暮らし、ミゼラブルばかり読んで居たことがある。
栂の尾から余等は広沢の池を経て嵐山に往った。広沢の池の水が乾されて、鮒や、鰌が泥の中にばた/\して居た。
嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川とは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸には風流に屋根は萩で葺いてあったが自働電話所が出来たり、電車が通い、汽車が通い、要するに殺風景なものになり果てた。最早三船の才人もなければ、小督や祇王祇女仏御前もなく、お半長右衛門すらあり得ない。
「暮れて帰れば春の月」と蕪村の時代は詩趣満々であった太秦を通って帰る車の上に、余は満腔の不平を吐く所なきに悶々した。
斯く云う自分も其仲間だが、何故我日本国民は斯く一途になるであろう乎。彼は中々感服家で、理想実行家である。趣味の民かと思うたら、中々以て実利実功の民である。東叡山を削平して、不忍の池を埋めると意気込み、西洋人の忠告によって思いとまった日本人は、其功利の理想を盛に上方に実行して居る。億万円にも代えられぬ東山の胴をくりぬいて琵琶湖の水を引張って見たり、鴨東一帯を煙と響と臭に汚してしまったり、狭い町内に殺人電車をがたつかせたり、嵐山へ殺風景を持込んだり、高尾の山の中まで水力電気でかき廻わしたり、努力、実益、富国、なんかの名の下に、物質的偏狂人の所為を平気にして居る。心ある西洋人は何と見るだろう乎。
京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たらしむ可きで、其処に煙突の一本も能う可くば設けたくないものである。再び得難い天然を破壊し、失い易き歴史の跡を一掃して、其結果に得る所は何であろう乎。殺風景なる境と人と、荒寥たる趣味の燃え屑を残すに過ぎないのではあるまい乎。
日本国は譬えば主人が無くて雇人が乱暴する家の様だ。邦家千年の為にはかる主脳と云うものがあるならば、斯様な馬鹿げた仕打はせまい。余は日本を愛するが故に、日本が無趣味の邦となり果つるを好まぬ。余は京畿を愛する故に、所謂文明に乱暴されつゝある京畿を見るのが苦痛である。
義仲寺
三井寺で弁慶の力餅を食って、湖上の風光を眺める。何と云っても琵琶湖は好い。
「彼が叡山です。彼が比良です。彼処に斯う少し湖水に出っぱった所に青黒いものが見えましょう――彼が唐崎の松です」
余は腰かけを離れて同行の姉妹に指した。時計を見れば、最早二時過ぎて居る。唐崎の松を遠見で済まして、三井寺を下り、埠頭から石山行の小蒸汽に乗った。
丁度八年前の此月である。今朝鮮に居る義兄と、余は同車して唐崎の松に往った。彼は夫婦仲好の呪と云って誰でも探すと笑いつゝ、松に攀じ上り、松葉の二対四本一頭に括り合わされたのを探し出してくれた。それから車で大津に帰り、小蒸汽で石山に往って、水際の宿で鰉と蜆の馳走になり、相乗車で義仲寺に立寄って宿に帰った。秋雨の降ったり止んだり淋しい日であった。
斯様な事を彼が妹なる妻に話す間に、小蒸汽は汽笛を鳴らしつゝ湖水を滑べって、何時見ても好い水から湧いて出た様な膳所の城を掠め、川となるべく流れ出した湖の水と共に鉄橋をくゞり、瀬田の長橋を潜り、石山の埠頭に着いた。
手荷物を水畔の宿に預けて、石山の石に靴や下駄の音をさせつゝ、余等は石を拾い、紅葉を拾いつゝ、石山寺に詣った。うど闇い内陣の宝物も見た。源氏之間は嘘でも本当にして置きたい様な処であった。余等は更に観月堂に上った。川を隔てゝ薄桃色に禿げた雞冠山を眺め、湖水の括れて川となるあたりに三上山の蜈蚣が這い渡る様な瀬田の橋を眺め、月の時を思うて良久しく立去りかねた。
秋の日は用捨なく傾いた。今夜は宇治ときめたので、余等は山を下ると、川畔の宿にも憩わず、車を雇うた。二人乗が二台。最早上方でなければ滅多に二人乗は見られぬ。姉妹は生れてはじめてである。
姉妹を乗せた車は先きに、余等三人を乗せた車は之につゞいて、瀬田川の岸に沿いつゝ平な道を馬場の方へ走る。日は入りかけて、樺色に曛じた雲が一つ湖天に浮いて居る。湖畔の村々には夕けぶりが立ち出した。鴉が鳴く。粟津に来た時は、並樹の松に碧い靄がかゝった。
「此れがねえ、木曾義仲が討死した粟津が原です」
と余は大きな声して先きの車を呼んだ。ふりかえった姉妹の顔も、唯ぼんやりと白かった。
車は一走りして、燈火明るい町の唯有る家の前に梶棒を下ろした。
「何だ」
「義仲寺どす」
余は呆気にとられた。八年前秋雨の寂しい日に来て見た義仲寺は、古風な巷に嵌まって、小さな趣ある庵だった。
余は舌鼓うって、門をたゝいて、強て開けてもらって内に入った。内は真闇である。車夫に提灯を持て来させて、妻や姉妹に木曾殿とばせをの墓を紹介した。
外には汽関車の響や人声が囂々と騒いで居る。
宇治の朝
宇治に着いたのが夜の九時。万碧楼菊屋に往って、川沿いの座敷に導かれた。近水楼台先得月、と中井桜洲山人の額がかゝって居る。
此処は余にも縁浅からぬ座敷である。余の伯父はすぐれた大食家で、維新の初年こゝに泊って鰻の蒲焼を散々に食うた為、勘定に財布の底をはたき、淀川の三十石に乗る銭もないので、頬冠して川堤を大阪までてく/\歩いたものだ。伯父の血をひいた余とても御多分に洩れぬ。八年前の秋、此万碧楼に泊った余は、霜枯時の客で過分の扱いを受け、紫縮緬の夜具など出された。御馳走も伯父の甥たるに恥じざる程食うた。食うてしまったあとで、蟇口を覗いて見た余は非常に不安を感じた。そこで翌朝宿の者には遊んで来ると云い置いて、汽車で京都に帰った。少し都合もあって其日は行かれず、電報、手紙も臆劫だし、黙って打置き、あくる日になって宇治に往った。万碧楼では喰逃げが帰って来たと云う顔をして、茶代も少し奮発したに関せず、紫縮緬の夜具は雲がくれて、あまり新しくもない木綿の夜具に寝かされた。主の方では無論覚えて居る由もない。余は独笑坪に入った。
腰硝子の障子を立てたきり、此座敷に雨戸はなかった。二つともした燭台の百目蝋燭の火は瞬かぬが、白い障子越しに颯々と云う川瀬の響が寒い。障子をあけると、宇治の早瀬に九日位の月がきら/\砕けて居る。ピッ/\ピッ/\千鳥が鳴いて居る。
*
朝起きて顔を洗うと、余は宿の褞袍を引かけ、一同は旅の着物になって、茶ものまず見物に出かけた。宇治橋は雪の様な霜だ。ザクリ/\下駄の二の字のあとをつけて渡る。昔太閤様は此処から茶の水を汲ませたものだ、と案内者の口まねをしつゝ、彼出張った橋の欄間によりかゝって見下ろす。矢を射る如き川面からは、真白に水蒸気が立って居る。今も変らぬ柴舟が、見る/\橋の下を伏見の方へ下って行く。朝日山から朝日が出かゝった。橋を渡ってまだ戸を開けたばかりの通円茶屋の横手から東へ切れ込み、興聖寺の方に歩む。美しい黄の色が眼を射ると思えば、小さな店に柚子が小山と積んである。何と云う種類か知らぬが、朱欒程もある大きなものだ。旅先ながら看過し難くて、二銭五厘宛で五個買い、万碧楼に届けてもらう。
興聖寺の石門は南面して正に宇治の急流に対して居る。岩を截り開いた琴阪とか云う嶝道を上って行く。左右の崖から紅に黄に染みた槭が枝をさしのべ落葉を散らして、頭上は錦、足も錦を踏んで行く。一丁も上って唐風の小門に来た。此処から来路を見かえると、額縁めいた洞門に劃られた宇治川の流れの断片が見える。金剛不動の梵山に趺座して、下界流転の消息は唯一片、洞門を閃めき過ぐる川水の影に見ると云う趣。心憎い結構の寺である。
槖駝師が剪裁の手を尽した小庭を通って、庫裡に行く。誰も居ない。尾の少し欠けた年古りた木魚と小槌が掛けてある。二つ三つたゝいたが、一向出て来ぬ。四つ五つ破れよと敲く。無作法の響がやっと奥に通じて、雛僧が一人出て来た。別に宝物を見るでもなく、記念に画はがきなど買って出る。
雲上から下界に降る心地して、惜しい嶝道を到頭下り尽した。石門を出ると、川辺に幾艘の小舟が繋いである。小旗など立てた舟もある。船頭が上って来て乗れとすゝめる。
「如何だ、舟で渡って見ようか」
「えゝ、渡りましょう」
一同舟に乗った。
川上を見ると、獅子飛び、米漉など云う難所に窘められて来た宇治川は、今山開け障るものなき所に流れ出て、弩をはなれた箭の勢を以て、川幅一ぱいの勾配ある水を傾けて流して来る。紅に黄に染めた上流両岸の山は、碧い朝靄を被て、山蔭の水も千反の花色綸子をはえたらん様に、一たび山蔭を出て朝日が射すあたりに来ると、水も目がさめた様に麗々と光り渡って、滔々と推し流して来る。瀬の音がごう/\/\、ざあ/\ざあと川面一面に響く。
「好いなァ」思わず声をあげる。
船頭は軋々と櫓の響をさせて、ほゞ山形に宇治川を渡す。
「何て奇麗な水でしょう」妻は舷側の水を両手に掬い上げて川を讃める。鶴子が真似る。
平等院の岸近く細長い島がある。浮島と云うそうだ。島を蔽う枯葭の中から十三層の石輪塔が見える。
「あの塔は何かね、先には見かけなかった様だが」
「近頃掘り出したンどす。宝塔たら云うてナ、あんたはん」
と船頭が説明する。水は早し、川幅は一丁には越えぬ。惜しと思うまに渡してしまって、舟は平等院上手の岸についた。
舟賃を払うて、其処に三つ四つ設けられた茶店の前を過ぎて、美しい紅葉を拾いつゝ余等は平等院に入った。
嫩草山の夕
奈良は奠都千百年祭で、町は球燈、見せ物、人の顔と声とで一ぱいであった。往年泊った猿沢池の三景楼に往ったら、主が変って、名も新猫館と妙なものに化けて居る。うんざりしたが、思い直して、こゝに車を下りた。
茶一碗、直ぐ見物に出かける。
上方客、東京っ子、芸者、学生の団体、西洋人、生きた現代は歴史も懐古も詩も歌も蹂躙して、鹿も驚いた顔をして居る。其雑沓の中を縫うて、先ず春日祠に詣でた。田舎みやげの話し草に、若宮前で御神楽をあげて、ねじり廊の横手を通ると、種々の木の一になって育って居る木がある。寄木、と札を立てゝある。大阪あたりの娘らしいのが、「良平さんよ」と云う。お新さんがお糸さんと顔見合わせて莞爾した。お新さんは窃と其内の椿の葉を記念の為にちぎった。
嫩草山の麓の茶屋に来た頃は、秋の日が入りかけた。草履をはいた娘子供が五六人、たら/\と滑る様に山から下りて来た。
「如何だ、上って見ようか」
「え、上りましょう」
足の悪いお新さんと鶴子を茶店に残して、余は靴のまゝ、二人の女は貸草履に穿き更えて上りはじめた。
名を聞いてだに優にやさしい嫩草山は、見て美しく思うてなつかしい山である。八年前の十一月初めて奈良に来た夕、三景楼の二階から紺青にけぶる春日山に隣りして、貂の皮もて包んだ様な暖かい色の円満とした嫩草山の美しい姿を見た時、余の心は如何様に躍ったであろう。丁度誂えたように十五夜のまん丸な月が其上に出て居た。然し其時は遽たゞしい旅、山に上るも果さなかった。今はじめて其懐を辿るのである。
霜枯れそめた矮い薄や苅萱や他の枯草の中を、人が踏みならした路が幾条か麓から頂へと通うて居る。余等は其一を伝うて上った。打見たよりも山は高く、思うたよりも路は急に、靴の足は滑りがちで、約十五分を費やして上り果てた時は、額も背も汗ばんで居た。頂はやゝ平坦になって、麓からは見えなかった絶頂が、まだ二重になって背に控えて居る。唯一つある茶店は最早店をしまいかけて、頂には遊客の一人もなかった。
余等は額の汗を拭うて、嫩草山の頂から大和の国の国見をすべく眼を放った。
夕である。
日はすでに河内の金剛山と思うあたりに沈んで、一抹殷紅色の残照が西南の空を染めて居る。西生駒、信貴、金剛山、南吉野から東多武峰初瀬の山々は、大和平原をぐるりと囲んで、蒼々と暮れつゝある。此暮山の屏風に包まれた大和の国原には、夕けぶり立つ紫の村、黄ばんだ田、明るい川の流れ、神武陵、法隆寺、千年二千年の昔ありしもの、今生けるものゝ総てが、夜の安息に入る前に、日に名残を惜んで居る。
余等は麓の方に向うて、「おゝい」と声をかけた。一つの影が縁台をはなれて、山をのぼりはじめた。それは鶴子を負うた車夫であった。やがて上りついて、鶴子は下り立った。
余等は更に眺めた。最早麓に一人残ったお新さんの影もよくは見えない。
直ぐ後の方でがさ/\と草が鳴ったと思うたら、夕空に映って大きな黒い影が二つぬうと立って居る。其れは鹿であった。
足の下で、奈良の町の火が美しくつき出した。蜂の群れの唸呍の様な人声物音が響く。
ぼうン!
麓の方で晩鐘が鳴り出した。其鐘の音に促がさるゝかの如く、鴉が唖〻〻と鳴いて、山の暮から野の黄昏へと飛んで行く。
余等は今一度眼を平原に放った。最早日の名残も消えて、眼に入る一切のものは蒼い靄に包まれた。
大和は今暮るゝのである。
「みみずのたはこと」に関する著者の文章
みゝずのたはこと
黒い眼と茶色の目
――の引越について――
新橋堂 鈴助野村さん。
福永書店 一良福永さん。
私の「みみずのたはこと」並に「黒い眼と茶色の目」がこのたび生みの親なる私の同意の下に、野村さんの手から福永さんの手に移って世話をされるについては、悲喜相半ばすと云ったような感があります。
「みみずのたはこと」と云えば服部書店国太郎さんの蒼い顔がまさ/\と其処に見えて来ます。私は最初あの人の為に「みみずのたはこと」を書いたのでした。が、悦んだあの人は書が出て九ヶ月目に消えてしまいました。服部さんの殁後一手に引受けて百版まで売り弘めた野村さんの手を「みみずのたはこと」が今更離れると云うは、嬉しい事ではありません。また私にとっては切腹の皮切りであった「黒い眼と茶色の目」が血が滴り姿で出雲町から尾張町までのこ/\煉瓦の通を引越して行くなども異な気がします。
然し無常が原則で一切の物が動産である見地からは、書の複製権が時の都合で此れから彼に渡るのは普通の事ですし、真実と愛が生命の有機体として書と云うものを見る時は、境遇の変化は生命の成長に伴う自然の結果とも云えます。譬えば旅客が長途の汽車を下りて、大洋の汽船に乗り移るようなもので其処に何の無理もありません。過去に向っては感謝があり、将来に向っては希望があるばかりです。
私は大正二年三月から大正九年九月までの間に於て「みみずのたはこと」の百版、大正三年十二月から大正九年九月までの間に於て「黒い眼と茶色の目」の二十六版を売り弘めた野村さんの熱心に対しあらためて感謝を表します。殊に野村さんが帝都の出版者も数ある中に、福永書店を択んで該二書の世話役を譲った事に対し、而して福永さんが快くこれを引受けた事に対し、私は深いよろこびを感じます。福永書店は私の「新春」と共に生れた書店です。「新春」は小さなものながら私が半生の総計で、「みみずのたはこと」も「黒い眼と茶色の目」も要するに「新春」に達する道程の所産なので、野村さんが斯二書を福永書店に譲られたのは、是れ正に祝福された自然の導きでなくて何でありましょうか?
私は今まさに新橋堂の汽車を下りて福永書店の船に上ろうとする私の二子に代って、岸壁の方をふりかえって、
「服部さん、おやすみ。」
「野村さん、長々ありがとう。随分御達者で」
と挨拶し、
「何分よろしく」
と福永船長に目礼します。
大正九年九月廿三日
武蔵野粕谷の里にて
徳富健次郎
百〇一版の巻首に
「みみずのたはこと」が此たび福永書店の手に移って百〇一版を出すについて、私は今昔の感に堪えぬものがある。
「みみずのたはこと」はもと/\私が服部書店国太郎君の為に書いたものである。約束をしてから四年待たせて、大正二年の春やっと世に出した。蒼い顔を崩して服部君は悦んでくれたが、書が出てから九ヶ月目「みみずのたはこと」が第三十二版を売って居る頃、著者の私が「死の蔭」の旅にさすろうて居る中、服部君は消ゆるが如く死んだ。
服部君の死後は新橋堂野村君の一手に「みみずのたはこと」は扱われた。服部君より野村君の関係が私には旧かった。明治三十九年の秋、私が露西亜から帰るとやがて、野村君は新聞雑誌に散らばって居る私の書き捨てを集めて出版の許諾を求めたが、私は拒絶して使者の眼の前で其切りぬきの綴じ込みを引裂いてしもうた。然し野村君は中々めげなかった。服部君と共同で「みみずのたはこと」を引受くるに到って君は初志の一半を貫ぬき、服部君の死後一手に「みみずのたはこと」を引受くるに到って其熱心は正に酬われたのである。大正二年三月から大正九年九月に到るまで、八年未満の間に「みみずのたはこと」が百版を重ねたのは、何を云うても野村君の熱心を推さねばならぬ。
その「みみずのたはこと」が今度福永書店の手に移って百〇一版を出す。服部書店に生れ、新橋堂書店に長じた「みみずのたはこと」は更に福永書店に移って其処に新しい運命を拓こうとして居る。流転を悲しみ無常をはかなめば、一つの書店に死なれ、一つの書店を後にする「みみずのたはこと」に涙無くてはかなわぬ。生命を信じ成長を悦べば、過去に向っては唯感謝、将来に向っては唯希望があるばかりである。
数多い帝都の出版者の中に就て、私は野村君が殊に福永書店を択んで「みみずのたはこと」を譲った事を喜ぶ。福永書店は私の「新春」と共に生れ出でた書店である。「新春」は小さいながらも私にとりては半生の総計である。「新春」は何処から生れる? 土から生れる。私を「新春」に導いたのは土の生活である。私の土の生活の第一所産が「みみずのたはこと」である。「みみずのたはこと」を花とすれば、「新春」が実である。花が実になる、これ程自然な事があろうか。「みみずのたはこと」は「新春」の書店に於て当さに其行く可き所に行ったものと云わねばならぬ。更に縁起を云えば「新春」は「百〇一の歌」を以て結ばれて居る。「百〇一」の歌を以て結ばれた「新春」の書店に移った「みみずのたはこと」が百〇一版から始まるも面白い因縁ではあるまいか。生命はまことに環の端なきものである。
私は「みみずのたはこと」が「新春」と共に尚読まれんことを望む。
大正九年九月二十三日
徳富健次郎
復活百〇八版
「みみずのたはこと」の巻首に
大正十二年九月一日東京の大震大火で、銀座尾張町の福永書店も丸焼になり、同書店版の私の著書一切及び諸処に預けてあった紙型の大部分が焼けました。
其緑の蔭に大震の日の半日を私共一家が避難した庭の山楓が、三日三夜東京横浜を焼いた焔の色の朱に染めかけた頃、ある日その楓を横に見る客室で、私と福永書店主人の間に左の会話が交わされました。
「先生、復活に着手したいと思いますが、先生は何書からお始めになります?」
「君は何から出したい?」
「『みみずのたはこと』は如何でしょう?」
「『みみず』―『みみず』は好い。みみずは土の福音だ。すべては土からはじまる。『みみずのたはこと』からやろう。」
斯くて『みみずのたはこと』が最初に灰の中から甦る事になりました。
「みみずのたはこと」は私共が東京を去り村の人となってから七年目の大正二年三月に出した土の生活の記録です。書きはじめは明治四十五年の六月、七月には明治天皇の崩御があって明治四十五年は直ぐ今上の大正元年になり、元年が二年になると間もなく本書は出たので、これは私にとって明治大正の過渡を記念の作物となりました。最初服部書店国太郎君の懇請にほだされて書き、後では新橋堂書店野村鈴助君が肩を入れ、「みみずのたはこと」が出て八月目に服部君が亡くなった後は専ら新橋堂の手に扱われ、大正二年から大正九年までの間に百版を重ねました。其後、新橋堂の都合で、私の承諾の下に「みみずのたはこと」は他の新橋堂版の私の小説「黒い眼と茶色の目」と共に「新春」の版元福永書店に譲られました。百〇一版から福永書店の手で出し、大地震の火に焼けたのが百〇七版、復活が百〇八版であります。百八は旧を送り新を迎うる除夜の鐘の数であるのも面白い。
初版は五号活字の四六版でした。第三十九版から縮刷六号になりました。復活の百〇八版は五号四六版に復します。本文にはあまり添削を加えません。但前版巻尾の北海道紀行「熊の足跡」、京都紀行「紅葉狩」の二文は、もとよりあらずもがなの蛇足だったので、此機会に削除し、其あとに新に「読者に」の一篇を書きました。それは「みみずのたはこと」が出た大正二年から今大正十二年にわたる十年間の私共の消息なり述懐なりで、即ちまた私共がみみずのたはことに捺く奥印であります。それから巻頭百〇一版の序を省き、斯新序を入れました。
插画は、前版の「書斎の窓から」、「門の前」、「蛙声」「勿来関跡」「嫩草山」をぬき、「恒春園南面」、「門」、「鍬取りて」を加え、他は旧による事にしました。
大正十二年十二月三十日
東京郊外
粕谷
恒春園に於て
徳冨健次郎
みゝづのたわこと(新刊予告)
『みゝづのたはこと』は、著者が過る六年間田舎に引込み、みゝづの真似して、土ほじくりする間に、折にふれて吐き出したるたわ言共をかき集めたるものなり。其内容には村落生活の即興写生あり鍬とるひまの偶感偶想あり、短篇小説見たようなものあり、日記の断片あり、長短の手紙あり、稀に村より這い出してのろ/\と旅しまわりたる紀行あり。著者居村の風物を撮影したる印画数葉を插みて、趣を助く。
みみずのたはこと(新刊)
過る六年間土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせし即興のスケッチ、短篇小説、瞑想、書翰、紀行等を集む。清新なる田園の小景、涙を含む笑に満てる物語、平淡の中戦慄す可き恐ろしき説話、詩化せられたる教訓、有象より無象に通う神秘の暗示、巻中に充満す。都会住者は読んで麦の穂末を渡り来る暮春の薫風の如き自然の気息に接せよ。田舎に住む人は此に依りて新に吾周囲を見るの眼を開け。九葉の写真版は、本文を助けて、説話の舞台を読者の眼前に躍如たらしむ。
みゝずのたはこと(廿八版)
秋漸く深く自然も粛して人も自ずから真面目なる季節、燈下書に親しむ都門の読書生も、短日を愛しむ地方の勤労者も、課余業間時に『みみずのたはこと』を把りて其一二節を誦し見よ、自己及び自己の周囲に対し恒に新にして親切なる或る啓示と情味と従って力とを与えられん。
武蔵野の土の産物みゝずのたはこと
武蔵野の霜の中から抜け出した白い大根や紅い甘藷が盛んに都人士の口に入る季節となりました。新漬の沢庵に辛い舌鼓を打ちやきいもの甘いけぶりに頬をやく方々は練馬大根や川越藷と同じく武蔵野の土の産物なる『みゝずのたはこと』の一本を身近に具えて時々其一二葉を咀嚼し恒に真に新な生活の趣味を噛み出して下さい。
みゝずのたはこと(ポイント改版)
過る六年間土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせし即興のスケッチ、短篇小説、瞑想、書翰、紀行等を集む。
語に曰く 神は田舎を造り、人間は都府を作ると。著者は田舎を愛すれども、都会を捨つる能わず、心窃に都会と田舎の間に架する橋梁の其板の一枚たらん事を期すされば本書は信仰と趣味、理想と煩悩の間に徘徊徬徨せる著者が懴悔の一片とも見るべく、又多感多情の著者なるレンズを透かして印象せられたる田園生活の印画とも見るを得べし。清新なる田園の小景、涙を含む笑に満てる物語、平淡の中戦慄すべき恐ろしき説話、詩化せられたる教訓、有象より無象に通う神秘の暗示、巻中に充満す。都会住者は読んで麦の穂末を渡り来る暮春の薫風の如き自然の気息に接せよ、田舎に住む人は之れに依りて新に吾周囲を見るの眼を開け。九葉の写真版は本文を助けて説話の舞台を読者の眼前に躍如たらしむ。
(縮刷)みゝずのたはこと(七十四版)
日露役後戦勝日本の浮かれ心地を尻眼にかけて逸早く都門を去り、土の生活に入った著者が、大自然の直接教授を日々夜々に受けつゝ目睹耳聞体験心閲を筆にまかせて書き留めた『みゝずのたはこと』は、大正初年に於ける土の文学の一名著として已に七十四版を重ね、ます/\新しい読者を牽きつけつゝあります。四十年来空想天を舞いあるいた夢見がちの著者を否応なしに現実の大地に引きずり下ろし、潔癖の彼に頭から土の洗礼を浴びせて有無を云わさず一切を愛せしめ、嚏をしても赤面した小胆の彼を真昼中生れたまゝの赤裸になって堂々と大手をふって濶歩する自然男アダムにしてのけたは、何はともあれ土の生活の賜物で、其生活の最初の産物が即ち『みゝずのたはこと』であります。
今帝都の西三里、人目には平凡きわまる粕谷の荘に自家の埃田を発見して、五十男が新春の驩喜に手の舞い足の踏む所を知らぬ快活の境地には如何にして達し得たでしょう乎。
ピラミッドは一塊石ではありません。級々にして上る石の堆積です。『新春』の著者は、正に『みゝずのたはこと』の階段を登って来たのであります。
『新春』の読者にして初めて『みゝずのたはこと』を味うべく『みゝずのたはこと』の読者にして『新春』の喜を深く感ずることが出来ます。何となれば生命は共通、人生の味は歩々の汗と血と涙にして同時に歩々の春なる登攀にあるのですから。
みみずのたはこと(八十三版)
私が今後書きたいと思うもの書かねばならぬものを私の力限り書き得たとするも『みゝずのたはこと』は矢張私に取って可愛子であると思う。何故なれば之れは私が初めて大地に脚を立てゝ生活しはじめた其生活の最初の所産であるから。私は十三年前の順礼行には一冊の自著も携えなかったが今度は旅鞄に「新春」と縮刷「死の蔭に」と「順礼紀行」と而して縮刷『み〻ずのたはこと』を入れて来た。
(世界週遊の途中に、著者白す)
みみずのたはこと(百〇一版)
百〇一版から「新春」と同じく福永書店で発行する「みゝずのたはこと」は私が土の生活の第一所産で、私には煩悩子だ。「みゝずのたはこと」あって初めて「新春」がある。土の上に生活して生あり、死あり、而して復生ある生命の連鎖に人が繋がる限り『みゝずのたはこと』は読まるべきものだ。
大正九年十一月 著者記
みみずのたはこと(百〇五版)
著者が順礼紀行の旅から帰って、武蔵野に田園生活をはじめた最初の収穫。天にあこがれた霊魂が、はじめてしっかと大地に脚を立てた第一の人間記録。
復活した「みみずのたはこと」(百〇八版)
「先生、御本の復興にかゝりたいと思いますが、先生は何からお出しになります?」
「君は何からやる?」
「『みみずのたはこと』は如何でしょう?」
「みみず?――みみずは好い。あれは土の福音だ。すべての復興は土からはじまる。好、みみずからやろう」
著者と出版元と話の結果が復活第百〇八版みみずのたはことであります。
「みみずのたはこと」は著者が年四十にして初めてしかと大地に脚を立てた最初の生活記録です。大正二年の出版で、年を経る十一、版を重ぬる百〇七、十万余部を出して、いまだに凜々と生きて居ます。それは土に注がれた愛のしたゝりで、土は所謂地久、而して「愛は何時までも堕つる事がない」からでありましょう。前版は縮刷六号でしたが、復活版は最初に復えって四六型五号とし、插画を新にし、巻末に著者の最近消息を報ずる一長文を添えました。「みみずのたはこと」に著者のつく奥印です。



