みみずのたはこと

Mimizu no tawakoto

徳富蘆花 Tokutomi Roka

附録

ひとりごと

蝶の語れる

吾(われ)、毛虫(けむし)たりし時、醜(みにく)かりき。吾、蝶(てふ)となりて舞(ま)へば人(ひと)美(うつく)しと讃(ほ)む。人の美しと云ふ吾は、曩(その)昔(かみ)の醜かりし毛虫ぞや。

吾、醜かりし時、人(ひと)吾(われ)を疎(うと)み、忌(い)み、嫌ひて避け、見る毎(ごと)に吾を殺さんとしぬ。吾、美しと云はるゝに到れば、人(ひと)争(あらそ)うて吾を招く。吾れの変れる乎(か)。人の眼(まなこ)なき乎。

吾、醜しと見られし時、吾(わが)胸(むね)のいたみて、さびしく泣きたることいかばかりぞや。其(その)時(とき)君(きみ)独(ひと)り吾を憐みぬ。

君、吾が毛虫たりし時、吾を憐みて捨てざりき。故に蝶となれる吾は、今翼(つばさ)ある花となりて、願はくは君が為に君の花園に舞はん。

旅の日記から

熊の足跡

勿来

連日(れんじつ)の風雨(ふうう)でとまった東北線が開通したと聞いて、明治四十三年九月七日の朝、上野(うえの)から海岸線の汽車に乗った。三時過ぎ関本(せきもと)駅で下り、車で平潟(ひらがた)へ。

平潟は名だたる漁場(りょうば)である。湾の南方を、町から当面(とうめん)の出島(でしま)をかけて、蝦蛄(しゃこ)の這(は)う様にずらり足杭(あしくい)を見せた桟橋(さんばし)が見ものだ。雨あがりの漁場、唯もう腥(なまぐさ)い、腥い。静海亭(せいかいてい)に荷物を下ろすと、宿の下駄傘を借り、車で勿来関址(なこそのせきあと)見物に出かける。

町はずれの隧道(とんねる)を、常陸(ひたち)から入って磐城(いわき)に出た。大波小波鞺々(どうどう)と打寄する淋しい浜街道(はまかいどう)を少し往って、唯有(とあ)る茶店(さてん)で車を下りた。奈古曾(なこそ)の石碑(せきひ)の刷物(すりもの)、松や貝の化石、画はがきなど売って居る。車夫(くるまや)に鶴子(つるこ)を負(おぶ)ってもらい、余等は滑(すべ)る足元(あしもと)に気をつけ/\鉄道線路を踏切って、山田の畔(くろ)を関跡(せきあと)の方へと上る。道も狭(せ)に散るの歌に因(ちな)んで、芳野桜(よしのざくら)を沢山植えてある。若木(わかき)ばかりだ。路(みち)、山に入って、萩、女郎花(おみなえし)、地楡(われもこう)、桔梗(ききょう)、苅萱(かるかや)、今を盛りの満山(まんざん)の秋を踏み分けて上(のぼ)る。車夫(くるまや)が折ってくれた色濃い桔梗の一枝(ひとえだ)を鶴子は握(にぎ)って負(おぶ)られて行く。

浜街道の茶店から十丁程上ると、関の址(あと)に来た。馬の脊(せ)の様な狭い山の上のやゝ平凹(ひらくぼ)になった鞍部(あんぶ)、八幡(はちまん)太郎(たろう)弓かけの松、鞍かけの松、など云う老大(ろうだい)な赤松黒松が十四五本、太平洋の風に吹かれて、翠(みどり)の梢(こずえ)に颯々(さっさつ)の音を立てゝ居る。五六百年の物では無い。松の外に格別古い物はない。石碑は嘉永(かえい)のものである。茶屋(ちゃや)がけがしてあるが、夏過ぎた今日、もとより遊人(ゆうじん)の影も無く、茶博士(さはかせ)も居ない。弓弭(ゆはず)の清水(しみず)を掬(むす)んで、弓かけ松の下に立って眺める。西(にし)は重畳(ちょうじょう)たる磐城の山に雲霧(くもきり)白く渦(うず)まいて流れて居る。東は太平洋、雲間(くもま)漏(も)る夕日の鈍(にぶ)い光(ひかり)を浮べて唯とろりとして居る。鰹舟(かつおぶね)の櫓拍子(ろびょうし)が仄(ほの)かに聞こえる。昔奥州へ通う浜街道は、此山の上を通ったのか。八幡太郎も花吹雪(はなふぶき)の中を馬で此処(ここ)を通ったのか。歌は残って、関の址と云う程の址はなく、松風(まつかぜ)ばかり颯々(さっさつ)と吟(ぎん)じて居る。人の世の千年は実に造作(ぞうさ)もなく過ぎて了う。茫然(ぼうぜん)と立って居ると、苅草(かりくさ)を背(せ)一(いっ)ぱいにゆりかけた馬を追うて、若い百姓(ひゃくしょう)が二人峠の方から下りて来て、余等の前を通って、また向(むこう)の峰(みね)へ上って往った。

日の暮(くれ)に平潟の宿に帰った。湯はぬるく、便所はむさく、魚は鮮(あたら)しいが料理がまずくて腥(なまぐさ)く、水を飲もうとすれば潟臭(かたくさ)く、加之(しかも)夥(おびただ)しい蚊(か)が真黒(まっくろ)にたかる。早々(そうそう)蚊帳(かや)に逃(に)げ込(こ)むと、夜半(よなか)に雨が降り出して、頭(あたま)の上に漏(も)って来るので、遽(あわ)てゝ床(とこ)を移(うつ)すなど、わびしい旅の第一夜であった。

浅虫

九月九日から十二日まで、奥州(おうしゅう)浅虫(あさむし)温泉滞留(たいりゅう)。

背後(うしろ)を青森行の汽車が通る。枕(まくら)の下で、陸奥湾(むつわん)の緑玉潮(りょくぎょくちょう)がぴた/\言(ものい)う。西には青森の人煙指(ゆびさ)す可く、其背(うしろ)に津軽(つがる)富士の岩木山が小さく見えて居る。

青森から芸妓連(げいしゃづれ)の遊客が歌うて曰く、一夜(いちや)添(そ)うてもチマはチマ。

五歳(いつつ)の鶴子初めて鴎(かもめ)を見て曰く、阿母(おかあさん)、白い烏(からす)が飛んで居るわねえ。

旅泊(りょはく)のつれ/″\に、浜から拾(ひろ)うて来た小石で、子供一人成人(おとな)二人でおはじきをする。余が十歳の夏、父母に伴(ともな)われて舟で薩摩境(さつまざかい)の祖父を見舞に往った時、唯(たった)二十五里の海上を、風が悪くて天草の島に彼此十日も舟(ふな)がかりした。昔話も聞き尽し、永い日を暮らしかねて、六十近い父と、五十近い母と、十歳の自分で、小石を拾(ひろ)うておはじきをした。今日(きょう)不器用な手に小石を数えつゝ、不図其事を思い出した。

海岸を歩けば、帆立貝(ほたてがい)の殻(から)が山の如く積んである。浅虫で食ったものゝ中で、帆立貝の柱の天麩羅(てんぷら)はうまいものであった。海浜随処に玫瑰(まいかい)の花が紫に咲き乱れて汐風に香(かお)る。

野糞(のぐそ)放(ひ)る外(そと)が浜辺(はまべ)や玫瑰花(まいくわいくわ)

大沼

(一)

津軽(つがる)海峡を四時間に駛(は)せて、余等を青森から函館へ運んでくれた梅ヶ香丸は、新造の美しい船であったが、船に弱い妻は到頭酔うて了うた。一夜函館埠頭(ふとう)の朴(きと)旅館に休息しても、まだ頭が痛いと云う。午後の汽車で、直ぐ大沼へ行く。

函館停車場は極(ごく)粗朴(そぼく)な停車場である。待合室では、真赤に喰(くら)い酔うた金襴(きんらん)の袈裟(けさ)の坊さんが、仏蘭西人らしい髯(ひげ)の長い宣教師を捉(つかま)えて、色々管(くだ)を捲いて居る。宣教師は笑いながら好(い)い加減(かげん)にあしらって居る。

札幌(さっぽろ)行の列車は、函館の雑沓(ざっとう)をあとにして、桔梗、七飯(なないい)と次第に上って行く。皮をめくる様に頭が軽くなる。臥牛山(がぎゅうざん)を心(しん)にした巴形(ともえなり)の函館が、鳥瞰図(ちょうかんず)を展(の)べた様に眼下に開ける。「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓(まど)から見ると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮(しゅうちょう)を隔てゝ、遙(はるか)に津軽の地方が水平線上に浮(う)いて居る。本郷へ来ると、彼酔僧(すいそう)は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠(かぶ)り、小形の緑絨氈(みどりじゅうたん)のカバンを提(さ)げて、蹣跚(まんさん)と改札口を出て行くのが見えた。江刺(えさし)へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。函館から一時間余にして、汽車は山を上り終え、大沼駅を過ぎて大沼公園に来た。遊客(ゆうかく)の為に設けた形(かた)ばかりの停車場である。こゝで下車。宿引(やどひき)が二人待って居る。余等は導(みちび)かれて紅葉館の旗(はた)を艫(とも)に立てた小舟に乗った。宿引は一礼(いちれい)して去り、船頭は軋(ぎい)と櫓声(ろせい)を立てゝ漕(こ)ぎ出す。

黄金色(こがねいろ)に藻の花の咲く入江(いりえ)を出ると、広々とした沼の面(おも)、絶えて久しい赤禿(あかはげ)の駒が岳が忽眼前に躍(おど)り出た。東の肩からあるか無いかの煙(けぶり)が立上(のぼ)って居る。余が明治三十六年の夏来た頃は、汽車はまだ森までしかかゝって居なかった。大沼公園にも粗末(そまつ)な料理屋が二三軒水際(みぎわ)に立って居た。駒が岳の噴火も其後の事である。然し汽車は釧路(くしろ)まで通うても、駒が岳は噴火しても、大沼其ものは旧(きゅう)に仍(よ)って晴々(はればれ)した而して寂(しず)かな眺である。時は九月の十四日、然し沼のあたりのイタヤ楓(かえで)はそろ/\染(そ)めかけて居る。処々楢(なら)や白樺(しらかば)にからんだ山葡萄(やまぶどう)の葉が、火の様に燃えて居る。空気は澄み切って、水は鏡の様だ。夫婦島(めおとじま)の方に帆舟が一つ駛(はし)って居る。櫓声静に我舟の行くまゝに、鴨(かも)が飛び、千鳥(ちどり)が飛ぶ。やがて舟は一の入江に入って、紅葉館の下に着いた。女中が出迎える。夥(おびただ)しくイタヤ楓の若木を植えた傾斜を上って、水に向う奥の一間(ひとま)に案内された。

都の紅葉館は知らぬが、此紅葉館は大沼に臨(のぞ)み、駒が岳に面し、名の如く無数の紅葉樹に囲まれて、瀟洒(さっぱり)とした紅葉館である。殊に夏の季節も過ぎて、今は宿もひっそりして居る。薪(まき)を使った鉱泉に入って、古めかしいランプの下、物静かな女中の給仕で沼の鯉(こい)、鮒(ふな)の料理を食べて、物音一つせぬ山の上、水の際(きわ)の静かな夜の眠(ねむり)に入った。

真夜中(まよなか)にごろ/\と雷が鳴った。雨戸の隙(すき)から雷が光った。而して颯(ざあ)と雨の音がした。起きて雨戸を一枚繰(く)って見たら、最早(もう)月が出て、沼の水に螢(ほたる)の様に星が浮いて居た。

(二)

明方(あけがた)にはまたぽつ/\降って居たが、朝食(あさめし)を食うと止んだ。小舟で釣(つり)に出かける。汽車の通うセバットの鉄橋の辺(あたり)に来ると、また一しきりざあと雨が来た。鉄橋の蔭(かげ)に舟を寄せて雨宿(あまやど)りする間もなく、雨は最早過ぎて了うた。此辺は沼の中でもやゝ深い。小沼の水が大沼に流れ入るので、水は川の様に動いて居る。いくら釣っても、目(め)ざす鮒(ふな)はかゝらず、ゴタルと云う魦(はぜ)の様な小魚(こざかな)ばかり釣れる。舟を水草(みずくさ)の岸に着(つ)けさして、イタヤの薄紅葉(うすもみじ)の中を彼方(あち)此方(こち)と歩いて見る。下生(したばえ)を奇麗に払った自然の築山(つきやま)、砂地の踏心地(ふみごこち)もよく、公園の名はあっても、あまり人巧(じんこう)の入って居ないのがありがたい。駒が岳のよく見える処で、三脚を据(す)えて、十八九の青年が水彩写生(すいさいしゃせい)をして居た。駒が岳に雲が去来(きょらい)して、沼の水も林も倏忽(たちまち)の中に翳(かげ)ったり、照ったり、見るに面白く、写生に困難らしく思われた。時が移るので、釣を断念し、また舟に上って島めぐりをする。大沼の周囲(めぐり)八里、小沼を合せて十三里、昔は島の数が大小百四十余もあったと云う。中禅寺の幽凄(ゆうせい)でもなく、霞が浦の淡蕩(たんとう)でもなく、大沼は要するに水を淡水にし松を楢(なら)白樺(しらかば)其他の雑木にした松島である。沼尻は瀑(たき)になって居る。沼には鯉、鮒、鰌(どじょう)ほか産しない。今年銅像を建てたと云う大山島、東郷島がある。昔此辺の領主であったと云う武家の古い墓が幾基(いくつ)も立って居る島もあった。夏は好い遊び場であろう。今は寂しいことである。それでも、学生の漕(こ)いで行く小さなボートの影や、若い夫婦の遊山舟(ゆさんぶね)も一つ二つ見えた。舟を唯有(とあ)る岸に寄せて、殊(こと)に美しい山葡萄の紅葉を摘んで宿に帰った。

午後は画(え)はがきなど書いて、館の表門から陸路停車場に投函(とうかん)に往った。軟(やわ)らかな砂地に下駄を踏(ふ)み込んで、葦(あし)やさま/″\の水草の茂(しげ)った入江の仮橋を渡って行く。やゝ色づいた樺(かば)、楢、イタヤ、などの梢(こずえ)から尖(とが)った頭の赭(あか)い駒が岳が時々顔を出(だ)す。寂(さび)しい景色である。北海道の気が総身(そうみ)にしみて感ぜられる。

夕方館の庭から沼に突き出た岬(みさき)の𡽶(はな)で、細君が石に腰かけて記念に駒が岳の写生をはじめた。余は鶴子と手帖の上を見たり、附近(あたり)の林で草花を折ったり。秋の入り日の瞬(またた)く間に落ちて、山影水光(さんえいすいこう)見るが中に変って行く。夕日の名残(なごり)をとゞめて赭(あか)く輝やいた駒が岳の第一峰が灰がかった色に褪(さ)めると、つい前の小島も紫から紺青(こんじょう)に変って、大沼の日は暮れて了うた。細君はまだスケッチの筆を動かして居る。黯青(あんせい)に光る空。白く光る水。時々ポチャンと音して、魚がはねる。水際(みぎわ)の林では、宿鳥(ねどり)が物に驚いてがさがさ飛び出す。ブヨだか蚊だか小さな声で唸(うな)って居る。

「到頭出来なかった」

ぱたんと画具箱(えのぐばこ)の葢(ふた)をして、細君は立ち上った。鶴子を負(お)う可く、蹲(しゃが)んで後(うしろ)にまわす手先に、ものが冷(ひ)やりとする。最早露が下りて居るのだ。

札幌へ

九月十六日。大沼を立つ。駒が岳を半周(はんしゅう)して、森に下って、噴火湾(ふんかわん)の晴潮を飽(あ)かず汽車の窓から眺める。室蘭通(むろらんがよ)いの小さな汽船が波にゆられて居る。汽車は駒が岳を背(うしろ)にして、ずうと噴火湾に沿(そ)うて走る。長万部(おしゃまんべ)近くなると、湾を隔(へだ)てゝ白銅色の雲の様なものをむら/\と立てゝ居る山がある。有珠山(うずさん)です、と同室の紳士は教えた。

湾をはなれて山路にかゝり、黒松内(くろまつない)で停車(ていしゃ)蕎麦(そば)を食う。蕎麦の風味が好い。蝦夷(えぞ)富士〻〻〻〻と心がけた蝦夷富士を、蘭越(らんごえ)駅で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏(まと)うて、秀潤(しゅうじゅん)の黛色(たいしょく)滴(したた)るばかり。頻(しきり)に登って見たくなった。車中知人O君の札幌(さっぽろ)農科大学に帰るに会った。夏期休暇に朝鮮漫遊して、今其帰途である。余市(よいち)に来て、日本海の片影(へんえい)を見た。余市は北海道林檎(りんご)の名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の様な色彩を見せた。あまり美しいので、売子(うりこ)が持て来た網嚢入(あみぶくろいり)のを二嚢買った。

O君は小樽(おたる)で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊った。

中秋

十八日。朝、旭川(あさひがわ)へ向けて札幌を立つ。

石狩(いしかり)平原は、水田已に黄(き)ばんで居る。其間に、九月中旬まだ小麦の収穫をして居るのを見ると、また北海道の気もちに復(か)えった。

十時、汽車は隧道(とんねる)を出て、川を見下ろす高い崖上(がいじょう)の停車場にとまった。神居古潭(かむいこたん)である。急に思立って、手荷物諸共(もろとも)遽(あわ)てゝ汽車を下りた。

改築中で割栗石(わりぐりいし)狼藉(ろうぜき)とした停車場を出て、茶店(さてん)で人を雇うて、鶴子と手荷物を負(お)わせ、急勾配(きゅうこうばい)の崖を川へ下りた。暗緑色(あんりょくしょく)の石狩川が汪々(おうおう)と流れて居る。両岸から鉄線(はりがね)で吊(つ)ったあぶなげな仮橋が川を跨(また)げて居る。橋の口に立札がある。文言(もんごん)を読めば、曰く、五人以上同時に渡(わた)る可からず。

恐(お)ず/\橋板を踏むと、足の底(そこ)がふわりとして、一足毎(ひとあしごと)に橋は左右に前後に上下に揺(ゆ)れる。飛騨(ひだ)山中、四国の祖谷(いや)山中などの藤蔓(ふじづる)の橋の渡り心地がまさに斯様(こんな)であろう。形ばかりの銕線(はりがね)の欄(てすり)はあるが、つかまってゆる/\渡る気にもなれぬ。下の流れを見ぬ様にして一息(ひといき)に渡った。橋の長さ二十四間。渡り終って一息ついて居ると、炭俵(すみだわら)を負うた若い女が山から下りて来たが、佇(たたず)む余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼吊橋(つりばし)を渡って往った。

山下道(やましたみち)を川に沿うて溯(さかのぼ)ること四五丁余、細い煙突から白い煙を立てゝ居る木羽葺(こっぱぶき)のきたない家に来た。神居古潭の鉱泉宿である。取りあえず裏二階の無縁畳(へりなしだたみ)の一室に導かれた。やがて碁をうって居た旭川の客が帰って往ったので、表二階の方に移った。硫黄の臭(におい)がする鉱泉に入って、二階にくつろぐ。麦稈帽(むぎわらぼう)の書生三人、庇(ひさし)髪の女学生二人、隣室(となりま)に遊びに来たが、次ぎの汽車で直ぐ帰って往った。石狩川の音が颯々(さあさあ)と響く。川向うの山腹の停車場で、鎚音(つちおと)高く石を割って居る。囂(ごう)と云う響をこだまにかえして、稀(まれ)に汽車が向山を通って行く。寂しい。昼飯に川魚をと注文したら、石狩川を前に置(お)いて、罐詰の筍(たけのこ)の卵とじなど食わした。

飯後(はんご)神居古潭を見に出かける。少し上流の方には夫婦岩(めおといわ)と云う此辺の名勝があると云う。其方へは行かず、先刻(さっき)渡った吊橋の方に往って見る。橋の上手(かみて)には、楢(なら)の大木が五六本川面(かわづら)へ差かゝって居る。其蔭(かげ)に小さな小屋がけして、杣(そま)が三人停車場改築工事の木材を挽(ひ)いて居る。橋の下手(しもて)には、青石峨々(がが)たる岬角(こうかく)が、橋の袂から斜(はす)に川の方へ十五六間突出(つきで)て居る。余は一人尖(とが)った巌角(がんかく)を踏み、荊棘(けいきょく)を分け、岬(みさき)の突端に往った。岩間には其処(そこ)此処(ここ)水溜(みずたまり)があり、紅葉した蔓草(つるくさ)が岩に搦(から)んで居る。出鼻に立って眺める。川向う一帯、直立三四百尺もあろうかと思わるゝ雑木山(ぞうきやま)が、水際から屏風(びょうぶ)を立てた様に聳(そび)えて居る。其中腹を少しばかり切り拓(ひら)いて、こゝに停車場が取りついて居る。檣(ほばしら)の様な支柱を水際の崖(がけ)から隙間(すきま)もなく並べ立てゝ、其上に停車場は片側(かたかわ)乗って居るのである。停車場の右も左も隧道(とんねる)になって居る。汽車が百足(むかで)の様に隧道を這(は)い出して来て、此停車場に一息(ひといき)つくかと思うと、またぞろぞろ這い出して、今度は反対の方に黒く見えて居る隧道の孔(あな)に吸(す)わるゝ様に入って行く。向う一帯の雑木山は、秋まだ浅くして、見る可き色もない。眼は終に川に落ちる。丁余(ちょうよ)の上流では白波(しらなみ)の瀬をなして騒いだ石狩川も、こゝでは深い青黝(あおぐろ)い色をなして、其処(そこ)此処に小さな渦(うず)を巻き/\彼吊橋の下を音もなく流れて来て、一部は橋の袂(たもと)から突出た巌(いわ)に礙(さまた)げられてこゝに淵(ふち)を湛(たた)え、余の水は其まゝ押流して、余が立って居る岬角(こうかく)を摩(す)って、また下手対岸の蒼黒い巌壁(がんぺき)にぶつかると、全川の水は捩(ね)じ曲(ま)げられた様に左に折れて、また滔々(とう/\)と流して行(ゆ)く。去年の出水には、石狩川が崖上(がけうえ)の道路を越して鉱泉宿まで来たそうだ。此(この)窄(せま)い山の峡(かい)を深さ二丈も其上もある泥水が怒号(どごう)して押下った当時の凄(すさま)じさが思われる。今は其れ程の水勢は無いが、水を見つめて居ると流石(さすが)に凄(すご)い。橋下の水深は、平常(ふだん)二十余尋(ひろ)。以前は二間もある海の鯊(さめ)がこゝまで上って来たと云う。自然児(しぜんじ)のアイヌがさゝげた神居古潭(かむいこたん)の名も似(に)つかわしく思われる。

夕飯後(ゆうめしご)、ランプがついて戸がしまると、深い深い地の底(そこ)にでも落ちた様で、川音がます/\耳について寂しい。宿から萩(はぎ)の餅を一盂(ひとはち)くれた。今宵(こよい)は中秋(ちゅうしゅう)十五夜であった。北海道の神居古潭で中秋に逢(あ)うも、他日の思出の一であろう。雨戸を少しあけて見たら、月は生憎(あいにく)雲をかぶって、朦朧(もうろう)とした谷底を石狩川が唯颯(さあ)、颯(さあ)と鳴って居る。

名寄

九月十九日。朝神居古潭(かむいこたん)の停車場から乗車。金襴(きんらん)の袈裟(けさ)、紫衣(しえ)、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。旭川で乗換(のりか)え、名寄(なよろ)に向う。旭川からは生路である。

永山(ながやま)、比布(ぴっぷ)、蘭留(らんる)と、眺望(ながめ)は次第に淋しくなる。紫蘇(しそ)ともつかず、麻でも無いものを苅って畑に乾(ほ)してあるのを、車中の甲乙(たれかれ)が評議して居たが、薄荷(はっか)だと丙が説明した。

やがて天塩(てしお)に入る。和寒(わっさむ)、剣淵(けんぶち)、士別(しべつ)あたり、牧場かと思わるゝ広漠(こうばく)たる草地一面霜枯(しもが)れて、六尺もある虎杖(いたどり)が黄葉美しく此処其処に立って居る。所謂泥炭地(でいたんち)である。車内の客は何れも惜しいものだと舌鼓(したつづみ)うつ。

余放吟して曰く、

泥炭地耕すべくもあらぬとふさはれ美し虎杖(いたどり)の秋

士別では、共楽座(きょうらくざ)など看板を上げた木葉葺(こっぱぶき)の劇場が見えた。

午後三時過ぎ、現在の終点駅名寄着。丸石旅館に手荷物を下ろし、茶一ぱい飲んで、直ぐ例(れい)の見物に出かける。

旭川平原をずっと縮(ちぢ)めた様な天塩川の盆地(ぼんち)に、一握(ひとにぎ)りの人家を落した新開町。停車場前から、大通りを鍵(かぎ)の手に折れて、木羽葺が何百か並んで居る。多いものは小間物屋、可なり大きな真宗(しんしゅう)の寺、天理教会、清素(せいそ)な耶蘇教会堂も見えた。店頭(みせさき)で見つけた真桑瓜(まくわうり)を買うて、天塩川に往って見る。可なりの大川、深くもなさそうだが、川幅一ぱい茶色の水が颯々(さあさあ)と北へ流れて居る。鉄線(はりがね)を引張った渡舟がある。余等も渡って、少し歩いて見る。多いものはブヨばかり。倒れ木に腰かけて、路をさし覆う七つ葉の蔭で、真桑瓜を剥(む)いた。甘味の少ないは、争われぬ北である。最早(もう)日が入りかけて、薄(うす)ら寒く、秋の夕(ゆうべ)の淋しさが人少なの新開町を押かぶせる様に四方から包んで来る。二(ふた)たび川を渡って、早々宿に帰る。町の真中(まんなか)を乗馬の男が野の方から駈(かけ)を追うて帰って来る。馬蹄(ばてい)の音が名寄中(なよろじゅう)に響き渡る。

宿の主人は讃岐(さぬき)の人で、晩食(ばんめし)の給仕に出た女中は愛知の者であった。隣室(となりま)には、先刻(さっき)馬を頼んで居た北見の農場に帰る男が、客と碁をうって居る。按摩(あんま)の笛が大道を流して通る。

春光台

明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊(いちやどまり)の飛脚旅行(ひきゃくりょこう)に来た。其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であった。降りしきる雨の中を車で近文(ちかぶみ)に往って、土産話(みやげばなし)にアイヌの老酋(ろうしゅう)の家を訪うて、イタヤのマキリなぞ買って帰った。余は今車の上から見廻(みまわ)して、当年のわびしい記憶を喚起(よびおこ)そうとしたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかった。

余等は市街を出ぬけ、石狩川を渡り、近文のアイヌ部落を遠目に見て、第七師団の練兵場(れんぺいじょう)を横ぎり、車を下りて春光台(しゅんこうだい)に上った。春光台は江戸川を除いた旭川の鴻(こう)の台(だい)である。上川(かみかわ)原野を一目に見て、旭川の北方に連塁の如く蟠居(ばんきょ)して居る。丘上(おかうえ)は一面水晶末の様な輝々(きらきら)する白砂、そろ/\青葉の縁(ふち)を樺(かば)に染(そ)めかけた大きな檞樹(かしわのき)の間を縫うて、幾条の路がうねって居る。直ぐ眼下(がんか)は第七師団である。黒んだ大きな木造(もくぞう)の建物、細長い建物、一尺の馬が走ったり、二寸の兵が歩(ある)いたり、赤い旗が立ったり、喇叭(らっぱ)が鳴ったりして居る。日露戦争凱旋(がいせん)当時、此丘上(おかのうえ)に盛大な師団招魂祭(しょうこんさい)があって、芝居、相撲、割れる様な賑合(にぎわい)の中に、前夜恋人(こいびと)の父から絶縁の一書を送られて血を吐く思の胸を抱いて師団の中尉寄生木(やどりぎ)の篠原良平が見物に立まじったも此春光台であった。

余は見廻わした。丘の上には余等の外に人影も無く、秋風がばさり/\檞(かしわ)の葉を揺(うご)かして居る。

春光台腸(はらわた)断(た)ちし若人(わこうど)を

偲(しの)びて立てば秋の風吹く

余等は春光台を下(お)りて、一兵卒に問うて良平が親友(しんゆう)小田中尉の女気無(おんなげな)しの官舎を訪い、暫(しば)らく良平を語った。それから良平が陸軍大学の予備試験に及第しながら都合上後廻わしにされたを憤(いきどお)って、硝子窓(がらすまど)を打破ったと云う、最後に住んだ官舎の前を通った。其は他の下級将校官舎の如く、板塀(いたべい)に囲われた見すぼらしい板葺(いたぶき)の家で、垣(かき)の内には柳が一本長々と枝(えだ)を垂(た)れて居た。失恋の彼が苦しまぎれに渦巻の如く無暗に歩き廻った練兵場は、曩日(のうじつ)の雨で諸処水溜りが出来て、紅と白の苜蓿(うまごやし)の花が其処此処に叢(むら)をなして咲いて居た。

釧路

(一)

旭川に二夜(ふたよ)寝て、九月二十三日の朝釧路(くしろ)へ向う。釧路の方へは全くの生路である。

昨日石狩岳(いしかりだけ)に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川(かみかわ)原野を南方へ下って行く。水田が黄ばんで居る。田や畑の其処(そこ)此処(ここ)に焼(や)け残りの黒い木の株(かぶ)が立って居るのを見ると、開(ひら)け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀(かなしみ)が身にしみる様だ。下富良野(しもふらの)で青い十勝岳(とかちだけ)を仰ぐ。汽車はいよ/\夕張と背合わせの山路(やまじ)に入って、空知川(そらちがわ)の上流を水に添(そ)うて溯(さかのぼ)る。砂白く、水は玉よりも緑である。此辺は秋已に深く、万樹(ばんじゅ)霜(しも)を閲(けみ)し、狐色になった樹々(きぎ)の間に、イタヤ楓(かえで)は火の如く、北海道の銀杏なる桂は黄の焔(ほのお)を上げて居る。旭川から五時間余走って、汽車は狩勝(かりかつ)駅に来た。石狩(いしかり)十勝(とかち)の境(さかい)である。余は窓から首を出して左の立札(たてふだ)を見た。

狩勝停車場

海抜一千七百五十六呎(フィート)、一二

狩勝トンネル

延長参千九呎(フィート)六吋(インチ)

釧路百十九哩(まいる)八分(ぶ)

旭川七十二哩三分

札幌百五十八哩六分

函館三百三十七哩五分

室蘭二百二十哩

三千呎(フィート)の隧道(とんねる)を、汽車は石狩から入って十勝へ出た。此れからは千何百呎の下りである。最初蝦夷松椴松の翠(みどり)に秀(ひい)であるいは白く立枯(たちか)るゝ峰を過ぎて、障るものなき辺(あたり)へ来ると、軸物の大俯瞰図のする/\と解けて落ちる様に、眼は今汽車の下りつゝある霜枯(しもがれ)の萱山(かややま)から、青々とした裾野につゞく十勝の大平野を何処までもずうと走って、地と空(そら)と融(と)け合う辺(あたり)にとまった。其処(そこ)に北太平洋が潜(ひそ)んで居るのである。多くの頭が窓から出て眺める。汽車は尾花(おばな)の白く光る山腹を、波状を描(か)いて蛇の様にのたくる。北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上(きょうじょう)に蟠(わだかま)る連嶺(れんれい)が青く見えて来た。南の方には、日高境の青い高山(こうざん)が見える。汽車は此等の山を右の窓から左の窓へと幾回か転換して、到頭平野に下りて了うた。

当分は檞(かしわ)の林が迎えて送る。追々大豆畑が現われる。十勝は豆の国である。旭川平原や札幌深川間の汽車の窓から見る様な水田は、まだ十勝に少ない。帯広(おびひろ)は十勝の頭脳(ずのう)、河西(かさい)支庁(しちょう)の処在地(しょざいち)、大きな野の中の町である。利別(としべつ)から芸者(げいしゃ)雛妓(おしゃく)が八人乗った。今日網走線(あばしりせん)の鉄道が㓐別(りくんべつ)まで開通した其開通式に赴くのである。池田駅は網走線の分岐点(ぶんぎてん)、球燈、国旗、満頭飾(まんとうしょく)をした機関車なども見えて、真黒な人だかりだ。汽車はこゝで乗客の大部分を下ろし、汪々(おうおう)たる十勝川の流れに暫(しばら)くは添うて東へ走った。時間が晩(おく)れて、浦幌(うらほろ)で太平洋の波の音を聞いた時は、最早車室(しゃしつ)の電燈がついた。此処から線路は直角をなして北上し、一路断続(だんぞく)海の音を聞きつゝ、九時近くくたびれ切って釧路に着いた。車に揺られて、十九日の欠月(けつげつ)を横目に見ながら、夕汐(ゆうしお)白く漫々(まんまん)たる釧路川に架した長い長い幣舞橋(ぬさまいばし)を渡り、輪島屋(わじまや)と云う宿に往った。

(二)

あくる日飯(めし)を食うと見物に出た。釧路町は釧路川口の両岸に跨(またが)って居る。停車場所在の側(かわ)は平民町で、官庁、銀行、重なる商店、旅館等は、大抵橋を渡った東岸にある。東岸一帯は小高い丘(おか)をなして自(おのず)から海風(かいふう)をよけ、幾多の人家は水の畔(はた)から上段かけて其蔭(かげ)に群(むら)がり、幾多の舟船は其蔭に息うて居る。余等は弁天社から燈台の方に上った。釧路川と太平洋に挾(はさ)まれた半島の岬端で、東面すれば太平洋、西面すれば釧路湾、釧路川、釧路町を眼下に見て、当面(とうめん)には海と平行して長く延(ひ)いた丘(おか)の上、水色に冴えた秋の朝空に間(あわい)隔(へだ)てゝ二つ列(なら)んだ雄阿寒(おあかん)、雌阿寒(めあかん)の秀色を眺める。湾には煙立つ汽船、漁舟が浮いて居る。幣舞橋には蟻(あり)の様に人が渡って居る。北海道東部第一の港だけあって、気象頗雄大である。今日(きょう)人を尋(たず)ぬ可く午前中に釧路を去らねばならぬので、見物は匇々(そこそこ)にして宿に帰る。

茶路

北太平洋の波の音の淋しい釧路の白糠(しらぬか)駅で下りて、宿の亭主を頼み村役場に往って茶路(ちゃろ)に住むと云うM氏の在否(ざいひ)を調(しら)べて貰(もら)うと、先には居たが、今は居ない、行方(ゆくえ)は一切分からぬと云う。兎も角も茶路に往って尋ねる外はない。妻児(さいじ)を宿に残して、案内者を頼み、ゲートル、運動靴、洋傘(かさ)一柄(いっぺい)、身軽に出かける。時は最早(もう)午後の二時過ぎ。茶路までは三里。帰りはドウセ夜に入ると云うので、余はポッケットに懐中電燈(かいちゅうでんとう)を入れ、案内者は夜食の握飯(にぎりめし)と提灯(ちょうちん)を提げて居る。

海の音を背(うしろ)に、鉄道線路を踏切(ふみき)って、西へ槍(やり)の柄(え)の様に真直(まっすぐ)につけられた大路を行く。左右は一面じめ/\した泥炭地(でいたんち)で、反魂香(はんごんこう)の黄や沢桔梗(さわぎきょう)の紫や其他名を知らぬ草花が霜枯(しもが)れかゝった草を彩どって居る。煙草(たばこ)の火でも落すと一月も二月もぷす/\燻(くすぶ)って居ます、と案内者が云う。路の一方にはトロッコのレールが敷かれてある。其処(そこ)此処(ここ)で人夫がレールや枕木(まくらぎ)を取りはずして居る。

「如何(どう)するのかね」

「何、安田(やすだ)の炭鉱(たんこう)へかゝってたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山の陰(かげ)になってます。エ、最早廃(よ)しちゃったんです」

案内者は斯(こう)云って、仲に立った者が此レールを請負(うけお)って、一間ばかりの橋一つにも五十円の、枕木一本が幾円のと、不当な儲(もうけ)をした事を話す。枕木は重にドス楢(なら)で、北海道に栗は少なく、釧路などには栗が三本と無いが、ドス楢(なら)は堅硬(けんこう)にして容易に朽(く)ちず栗にも劣らぬそうである。

案内者は水戸(みと)の者であった。五十そこらの気軽(きがる)そうな男。早くから北海道に渡って、近年白糠に来て、小料理屋をやって居る。

「随分(ずいぶん)色々な者が入り込んで居るだろうね」

「エ、其(そ)りゃ色々な手合(てあい)が来てまさァ」

「随分破落戸(ならずもの)も居るだろうね」

「エ、何、其様(そう)でもありませんが。――一人(ひとり)困った奴(やつ)が居ましてな。よく強淫をやりァがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない様にしますからな。何時(いつ)ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅(くさか)りに往ってたのを、奴(やつ)が捉(つらま)えましてな。丁度其処に木を伐(き)りに来た男が見つけて、大騒(おおさわ)ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追い出されて、今では大津に往って、漁場(りょうば)を稼(かせ)いで居るってことです」

山が三方から近く寄って来た。唯有(とあ)る人家(じんか)に立寄って、井戸の水をもらって飲む。桔槹(はねつるべ)の釣瓶(つるべ)はバケツで、井戸側(いどがわ)は径(わたり)三尺もある桂(かつら)の丸木の中をくりぬいたのである。一丈余もある水際(みずぎわ)までぶっ通しらしい。而して水はさながら水晶(すいしょう)である。まだ此辺までは耕地(こうち)は無い。海上のガス即ち霧が襲うて来るので、根菜類(こんさいるい)は出来るが、地上に育(そだ)つものは穀物蔬菜何も出来ず、どうしても三里内地に入らねば麦も何も出来ないのである。

鹿の角を沢山背負(せお)うて来る男に会うた。茶路川(ちゃろかわ)の水涸(か)れた川床が左に見えて来た。

二里も来たかと思う頃、路は殆(ほと)んど直角に右に折れて居る。最早(もう)茶路の入口だ。路傍に大きな草葺の家がある。

「一寸休んで往きましょうかな」と云って、案内者が先に立って入る。

大きな炉(ろ)をきって、自在(じざい)に大薬罐の湯がたぎって居る。煤(すす)けた屋根裏からつりさげた藁苞(わらつと)に、焼いた小魚(こざかな)の串(くし)がさしてある。柱には大きなぼン/\が掛(かか)って居る。広くとった土間の片隅は棚になって、茶碗(ちゃわん)、皿(さら)、小鉢(こばち)の類(るい)が多くのせてある。

額の少し禿げた天神髯(てんじんひげ)の五十位の男が出て来た。案内者と二三の会話がある。

「茶路は誰を御訪(おたず)ねなさるンですかね」

余はMの名を云った。

「あ、Mさんですか。Mさんなれば最早茶路には居ません。昨年越しました。今は釧路に居ます。釧路の西幣舞町(にしぬさまいまち)です。葬儀屋(そうぎや)をやってます。エ、エ、俺(わたし)とは極(ごく)懇意(こんい)で、つい先月も遊びに往って来ました」

と云って、主は戸棚(とだな)から一括(いっかつ)した手紙はがきを取り出し、一枚ずつめくって、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。

「かみさんも一緒(いっしょ)ですかね?」

実は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道(とどう)したきり、音信不通(いんしんふつう)だが、風のたよりに彼地で妻を迎えて居ると云うことが伝えられて居るのであった。

「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが満洲(まんしゅう)に居るとか云うことでしたっけ」

案外早く埒(らち)が明(あ)いたので、余は礼を云って、直ぐ白糠(しらぬか)へ引かえした。

「分かってようございました。エ、彼(あの)人(ひと)ですか、たしか淡路(あわじ)の人だと云います。飯屋(めしや)をして、大分儲けると云うことです」と案内者は云うた。

白糠の宿に帰ると、秋の日が暮れて、ランプの蔭(かげ)に妻児(さいじ)が淋しく待って居た。夕飯を食って、八時過ぎの終列車で釧路に引返えす。

北海道の京都

釧路で尋ぬるM氏に会って所要を果し、翌日池田を経て※別(りくんべつ)[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、下巻-181-2]に往って此行第一の目的なる関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。

往きに一昼二夜、復えりに一昼夜、皮相(ひそう)を瞥見(べっけん)した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかった。耶蘇教(やそきょう)信者が八万の都府(とふ)に八百からあると云う。唯(ただ)一台来た自動車を市の共議で排斥したと云う。二日の夜は独立教会でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大学を見に往った。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである。宮部(みやべ)博士の説明で二三植物標本を見た。樺太(かばふと)の日露国境の辺で採収(さいしゅう)して新に命名された紫のサカイツヽジ、其名は久しく聞いて居た冬虫夏草(とうちゅうかそう)、木の髄(ずい)を腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆虫の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣(ふゆう)の生活等につき面白い話を聞いた。楡(にれ)の蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好(よ)い都府である。

余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨(こさめ)に遊び暮らし、其夜函館に往って、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。

津軽

青森に一夜明(あか)して、十月六日の朝弘前(ひろさき)に往った。

津軽(つがる)は今林檎(りんご)王国の栄華時代である。弘前の城下町を通ると、ケラを被(き)て目かご背負うた津軽女(つがるめ)も、草履はいて炭馬をひいた津軽男も、林檎喰(く)い/\歩いて居る。代官町(だいかんまち)の大一と云う店で、東京に二箱仕出す。奥深(おくぶか)い店は、林檎と、箱と、巨鋸屑(おがくず)と、荷造りする男女で一ぱいであった。

古い士族町、新しい商業町、場末(ばすえ)のボロ町を通って、岩木川(いわきがわ)を渡り、城北三里板柳(いたやぎ)村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山は、十月の朝日に桔梗の花の色をして居る。山を繞(めぐ)って秋の田が一面に色づいて居る。街道は断続榲桲(まるめろ)の黄(き)な村、林檎の紅い畑を過ぎて行く。二時間ばかりにして、岩木川の長橋を渡り、田舎町には家並(やなみ)の揃(そろ)うて豊らしい板柳村に入った。

板柳村のY君は、林檎園の監督をする傍、新派の歌をよみ文芸を好む人である。一二度粕谷の茅廬にも音ずれた。余等はY君の家に一夜厄介(やっかい)になった。文展(ぶんてん)で評判の好かった不折(ふせつ)の「陶器つくり」の油絵、三千里の行脚(あんぎゃ)して此処にも滞留(たいりゅう)した碧梧桐「花林檎」の額、子規、碧、虚の短冊、与謝野夫妻、竹柏園社中の短冊など見た。十五町歩の林檎園に、撰屑(よりくず)の林檎の可惜(あたら)転(ころ)がるのを見た。種々の林檎を味わうた。夜はY君の友にして村の重立たる人々にも会うた。余はタァナァ水彩画帖をY君に贈り、其フライリーフに左の出たらめを書きつけた。

林檎朱(あけ)に榲桲(まるめろ)黄なる秋の日を

岩木山下(いわきさんか)に君とかたらふ

あくる朝は早く板柳村を辞した。岩木川の橋を渡って、昨夜会面した諸君に告別し、Y君の案内により大急ぎで舞鶴城へかけ上り、津軽家祖先の甲冑(かっちゅう)の銅像の辺から岩木山を今一度眺め、大急ぎで写真をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君も大鰐(おおわに)まで送って来て、こゝに袂(たもと)を分(わか)った。余等はこれから秋田、米沢、福島を経(へ)て帰村す可く汽車の旅をつゞけた。

紅葉狩

紅葉

嫁(とつ)いで京都に往って居る季(すえ)の女(むすめ)の家を訪うべく幾年か心がけて居た母と、折よく南部(なんぶ)から出て来た寄生木(やどりぎ)のお新お糸の姉妹を連れて、余の家族を合せて同勢(どうぜい)六人京都に往った。松蕈(まつだけ)に晩(おそ)く、紅葉には盛りにちと早いと云う明治四十三年の十一月中旬。

京都に着いて三日目に、高尾(たかお)槇尾(まきのお)栂尾(とがのお)から嵐山(あらしやま)の秋色を愛ずべく、一同車を連(つら)ねて上京の姉の家を出た。堀川(ほりかわ)西陣(にしじん)をぬけて、坦々(たんたん)たる白土の道を西へ走る。丹波から吹いて来る風が寒い。行手には唐人(とうじん)の冠(かむり)を見る様に一寸青黒い頭(あたま)の上の頭をかぶった愛宕山(あたごやま)が、此辺一帯の帝王貌(がお)して見下ろして居る。御室(おむろ)でしばらく車を下りる。株立ちの矮(ひく)い桜は落葉し尽して、からんとした中に、山門(さんもん)の黄が勝った丹塗(にぬり)と、八分の紅を染めた楓(もみじ)とが、何とも云えぬ趣(おもむき)をなして居る。余は御室が大好きである。直ぐ向うのならびが岡の兼好(けんこう)が書いた遊びずきの法師達が、児(ちご)を連れて落葉に埋(うず)めて置いた弁当を探して居やしないか、と見廻(みま)わしたが、人の影はなくて、唯小鳥の囀(さえず)る声ばかりした。

車は走せて梅が畑へ来た。柴車(しばぐるま)を挽(ひ)いて来るおばさんも、苅田(かりた)をかえして居る娘も、木綿着ながらキチンとした身装(みなり)をして、手甲(てっこう)かけて、足袋はいて、髪は奇麗(きれい)に撫(な)でつけて居る。労働が余所目(よそめ)に美しく見られる。日あたり風あたりが暴(あら)く、水も荒く、軽い土が耳の中鼻の中まで舞(ま)い込(こ)む余の住む武蔵野の百姓女なぞは中々、斯(こ)う美しくはして居られぬ。八年前余は独歩(どっぽ)嵐山から高尾に来た時、時雨(しぐれ)に降られて、梅が畑の唯有(とあ)る百姓家に跑(か)け込んで簑(みの)を借りた。山吹の花さし出す娘はなくて、婆(ばあ)さんが簑を出して呉れたが、「おべゝがだいなしになるやろ」と云うので、余は羽織(はおり)を裏返えしに着て、其上に簑を被(はお)り、帽子を傾けて高尾に急いだ。瓢箪(ひょうたん)など肩にして芸子と番傘の相合傘(あいあいがさ)で帰って来る若い男等が、「ヨウ、勘平猪打(ししうち)の段か」などゝ囃(はや)した。

いよ/\高尾に来た。車を下りて、車夫(くるまや)に母を負うてもらい、白雲橋を渡って、神護寺内(じんごじない)の見晴らしに上った。紅葉(もみじ)はまだ五六分と云う処である。かけ茶屋の一に上(あが)って、姉が心尽しの弁当を楽(たの)しく開いた。余等はまた土皿投(かわらけな)げを試みた。手をはなれた土皿は、ヒラ/\/\と宙返(ちゅうがえ)りして手もとに舞い込む様に此方(こなた)の崖に落ち、中々谷底(たにそこ)へは届(とど)かぬ。色々の色に焦(こが)れて居る山と山との間の深い谷底を清滝川(きよたきがわ)が流れて居る。川下が堰(せ)きとめられて緑礬色(りょくばんいろ)の水が湛え、褐色(かっしょく)の落葉が点々として浮いて居る。

「水を堰(せ)いて如何(どう)するのかな」

「水力電気たら云うてな、あんたはん」と茶を持て来たおばこのかみさんが云う。

余は舌鼓(したつづみ)をうった。

余等は高尾を出て、清滝川に沿うて遡(さかのぼ)り、槇の尾を経て、栂の尾に往った。

栂(とが)の尾は高尾に比して瀟洒(しょうしゃ)として居る。高尾から唯少し上流に遡(さかのぼ)るのであるが、此処の楓(もみじ)は高尾よりも染(そ)めて居る。寺畔の茶屋から見ると、向う山の緑青(ろくしょう)で画(か)いた様な杉の幾本(いくもと)に映(うつ)って楓の紅が目ざましく美しい。斯栂の尾の寺に、今は昔先輩の某が避暑(ひしょ)して居たので、余は同窓(どうそう)の友と二三日泊りがけに遊びに来たものだ。其は余が十二の夏であった。余等は毎日寺の下の川淵(かわぶち)に泳(およ)ぎ、三度〻〻南瓜(とうなす)で飯を食わされた。村から水瓜(すいか)を買うて来て、川に浸(ひた)して置いて食ったりした。余は今記念の為に、川に下りて川水の中から赤い石と白い石とを拾(ひろ)った。清滝川は余にとりて思出(おもいで)多い川である。栂尾に居た年から八年程後、斯少し下流愛宕(あたご)の麓(ふもと)清滝の里に、余は脚気(かっけ)を口実に、実は学課をなまけて、秋の一月を遊び暮らし、ミゼラブルばかり読んで居たことがある。

栂の尾から余等は広沢(ひろさわ)の池を経(へ)て嵐山に往った。広沢の池の水が乾(ほ)されて、鮒(ふな)や、鰌(どじょう)が泥の中にばた/\して居た。

嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川(かつらがわ)とは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸(こなた)には風流に屋根は萩(はぎ)で葺(ふ)いてあったが自働電話所が出来たり、電車が通い、汽車が通い、要するに殺風景(さっぷうけい)なものになり果てた。最早三船の才人(さいじん)もなければ、小督(こごう)や祇王(ぎおう)祇女仏御前(ほとけごぜん)もなく、お半長右衛門すらあり得ない。

「暮れて帰れば春の月」と蕪村(ぶそん)の時代は詩趣満々(ししゅまんまん)であった太秦(うずまさ)を通って帰る車の上に、余は満腔(まんこう)の不平を吐(は)く所なきに悶々(もんもん)した。

斯く云う自分も其仲間だが、何故(なぜ)我日本国民は斯く一途(いちず)になるであろう乎。彼は中々感服家で、理想実行家である。趣味の民かと思うたら、中々以て実利実功の民である。東叡山を削平(さくへい)して、不忍(しのばず)の池を埋めると意気込み、西洋人の忠告によって思いとまった日本人は、其功利の理想を盛に上方(かみがた)に実行して居る。億万円にも代えられぬ東山の胴(どう)をくりぬいて琵琶湖の水を引張(ひっぱ)って見たり、鴨東(おうとう)一帯を煙と響(おと)と臭(におい)に汚(けが)してしまったり、狭(せま)い町内に殺人電車をがたつかせたり、嵐山へ殺風景を持込(もちこ)んだり、高尾の山の中まで水力電気でかき廻(ま)わしたり、努力、実益、富国、なんかの名の下に、物質的偏狂人(へんきょうじん)の所為(しょい)を平気にして居る。心ある西洋人は何と見るだろう乎(か)。

京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たらしむ可きで、其処(そこ)に煙突の一本も能う可くば設(もう)けたくないものである。再び得難い天然を破壊し、失い易き歴史の跡(あと)を一掃して、其結果に得る所は何であろう乎。殺風景なる境と人と、荒寥(こうりょう)たる趣味の燃え屑(くず)を残すに過ぎないのではあるまい乎。

日本国は譬(たと)えば主人が無くて雇人が乱暴する家の様だ。邦家千年の為にはかる主脳と云うものがあるならば、斯様(こん)な馬鹿げた仕打はせまい。余は日本を愛するが故に、日本が無趣味の邦(くに)となり果つるを好まぬ。余は京畿(けいき)を愛する故に、所謂文明に乱暴されつゝある京畿を見るのが苦痛である。

義仲寺

三井寺で弁慶の力餅を食って、湖上の風光を眺める。何と云っても琵琶湖は好い。

「彼(あれ)が叡山(えいざん)です。彼が比良です。彼処(あすこ)に斯(こ)う少し湖水に出っぱった所に青黒(あおぐろ)いものが見えましょう――彼が唐崎(からさき)の松です」

余は腰(こし)かけを離れて同行の姉妹(しまい)に指(ゆびさ)した。時計を見れば、最早二時過ぎて居る。唐崎の松を遠見で済(す)まして、三井寺を下り、埠頭(はとば)から石山行の小蒸汽に乗った。

丁度八年前の此月である。今朝鮮に居る義兄と、余は同車して唐崎の松に往った。彼は夫婦仲好の呪(まじない)と云って誰でも探すと笑いつゝ、松に攀(よ)じ上り、松葉の二対(つい)四本一頭に括(くく)り合わされたのを探し出してくれた。それから車で大津に帰り、小蒸汽で石山に往って、水際(みぎわ)の宿で鰉(ひがい)と蜆(しじみ)の馳走になり、相乗車で義仲寺(ぎちゅうじ)に立寄って宿に帰った。秋雨(あきさめ)の降ったり止んだり淋しい日であった。

斯様(こん)な事を彼が妹なる妻に話す間に、小蒸汽は汽笛を鳴らしつゝ湖水を滑べって、何時見ても好い水から湧いて出た様な膳所(ぜぜ)の城を掠(かす)め、川となるべく流れ出した湖(みずうみ)の水と共に鉄橋をくゞり、瀬田(せた)の長橋を潜(くぐ)り、石山の埠頭(はとば)に着いた。

手荷物を水畔(すいはん)の宿に預けて、石山の石に靴や下駄の音をさせつゝ、余等は石を拾(ひろ)い、紅葉を拾いつゝ、石山寺に詣(まい)った。うど闇(くら)い内陣の宝物も見た。源氏之間(げんじのま)は嘘でも本当にして置きたい様な処であった。余等は更に観月堂(かんげつどう)に上った。川を隔てゝ薄桃色に禿(は)げた雞冠山を眺め、湖水の括(くく)れて川となるあたりに三上山(みかみやま)の蜈蚣(むかで)が這(は)い渡る様な瀬田の橋を眺め、月の時を思うて良(やや)久(ひさ)しく立去りかねた。

秋の日は用捨なく傾(かたむ)いた。今夜は宇治ときめたので、余等は山を下ると、川畔(かわばた)の宿にも憩(いこ)わず、車を雇うた。二人乗(ににんのり)が二台。最早上方でなければ滅多に二人乗は見られぬ。姉妹は生れてはじめてである。

姉妹を乗せた車は先きに、余等三人を乗せた車は之につゞいて、瀬田川(せたがわ)の岸に沿(そ)いつゝ平な道を馬場の方へ走る。日は入りかけて、樺色(かばいろ)に曛(くん)じた雲が一つ湖天に浮(う)いて居る。湖畔の村々には夕けぶりが立ち出した。鴉(からす)が鳴く。粟津(あわづ)に来た時は、並樹の松に碧(あお)い靄(もや)がかゝった。

「此れがねえ、木曾(きそ)義仲(よしなか)が討死した粟津が原です」

と余は大きな声して先きの車を呼んだ。ふりかえった姉妹の顔も、唯ぼんやりと白かった。

車は一走(ひとはし)りして、燈火(ともしび)明(あか)るい町の唯有(とあ)る家の前に梶棒(かじぼう)を下ろした。

「何だ」

「義仲寺どす」

余は呆気(あっけ)にとられた。八年前秋雨(あきさめ)の寂しい日に来て見た義仲寺は、古風な巷(ちまた)に嵌(はさ)まって、小さな趣ある庵(いおり)だった。

余は舌鼓(したつづみ)うって、門をたゝいて、強(しい)て開けてもらって内に入った。内は真闇(まっくら)である。車夫に提灯(ちょうちん)を持て来させて、妻や姉妹に木曾殿(きそどの)とばせをの墓を紹介(しょうかい)した。

外には汽関車の響や人声が囂々(ごうごう)と騒いで居る。

宇治の朝

宇治(うじ)に着いたのが夜の九時。万碧楼(まんぺきろう)菊屋に往って、川沿いの座敷に導かれた。近水楼台先得月、と中井桜洲山人の額(がく)がかゝって居る。

此処(ここ)は余にも縁浅からぬ座敷である。余の伯父はすぐれた大食家(たいしょくか)で、維新の初年こゝに泊って鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)を散々に食うた為、勘定に財布(さいふ)の底をはたき、淀川の三十石に乗る銭(ぜに)もないので、頬冠(ほおかむり)して川堤を大阪までてく/\歩いたものだ。伯父の血をひいた余とても御多分に洩(も)れぬ。八年前の秋、此万碧楼に泊った余は、霜枯時(しもがれどき)の客で過分の扱いを受け、紫縮緬(むらさきちりめん)の夜具など出された。御馳走(ごちそう)も伯父の甥たるに恥(は)じざる程食うた。食うてしまったあとで、蟇口(がまぐち)を覗(のぞ)いて見た余は非常に不安を感じた。そこで翌朝宿の者には遊んで来ると云い置いて、汽車で京都に帰った。少し都合もあって其日は行かれず、電報、手紙も臆劫(おっくう)だし、黙って打置(うちお)き、あくる日になって宇治に往った。万碧楼では喰逃(くいに)げが帰って来たと云う顔をして、茶代も少し奮発(ふんぱつ)したに関せず、紫縮緬の夜具は雲がくれて、あまり新しくもない木綿の夜具に寝かされた。主の方では無論覚えて居る由もない。余は独笑坪(えつぼ)に入った。

腰硝子(こしがらす)の障子を立てたきり、此座敷に雨戸はなかった。二つともした燭台(しょくだい)の百目蝋燭の火は瞬(またた)かぬが、白い障子越しに颯々(さあさあ)と云う川瀬の響(おと)が寒い。障子をあけると、宇治の早瀬(はやせ)に九日位の月がきら/\砕(くだ)けて居る。ピッ/\ピッ/\千鳥(ちどり)が鳴(な)いて居る。

*

朝起きて顔を洗うと、余は宿の褞袍(どてら)を引かけ、一同は旅の着物になって、茶ものまず見物に出かけた。宇治橋は雪の様な霜(しも)だ。ザクリ/\下駄の二の字のあとをつけて渡る。昔太閤様(たいこうさま)は此処から茶の水を汲ませたものだ、と案内者の口まねをしつゝ、彼出張った橋の欄間(らんま)によりかゝって見下ろす。矢を射る如き川面(かわづら)からは、真白に水蒸気が立って居る。今も変らぬ柴舟(しばぶね)が、見る/\橋の下を伏見(ふしみ)の方へ下って行く。朝日山から朝日が出かゝった。橋を渡ってまだ戸を開けたばかりの通円茶屋(つうえんぢゃや)の横手から東へ切れ込み、興聖寺(こうしょうじ)の方に歩む。美しい黄の色が眼を射ると思えば、小さな店に柚子(ゆず)が小山と積んである。何と云う種類(しゅるい)か知らぬが、朱欒(ざぼん)程もある大きなものだ。旅先(たびさき)ながら看過(みすご)し難くて、二銭五厘宛で五個買い、万碧楼に届けてもらう。

興聖寺の石門(せきもん)は南面して正に宇治の急流(きゅうりゅう)に対して居る。岩を截(き)り開いた琴阪とか云う嶝道(とうどう)を上って行く。左右の崖(がけ)から紅に黄に染みた槭(もみじ)が枝をさしのべ落葉を散らして、頭上は錦(にしき)、足も錦を踏んで行く。一丁も上って唐風(からふう)の小門に来た。此処から来路(らいろ)を見かえると、額縁(がくぶち)めいた洞門(どうもん)に劃(しき)られた宇治川の流れの断片が見える。金剛不動の梵山(ほんざん)に趺座(ふざ)して、下界流転(るてん)の消息は唯一片、洞門を閃(ひら)めき過ぐる川水の影に見ると云う趣。心憎(こころにく)い結構の寺である。

槖駝師(うえきや)が剪裁(せんさい)の手を尽した小庭を通って、庫裡(くり)に行く。誰も居ない。尾の少し欠(か)けた年(とし)古(ふ)りた木魚と小槌(こづち)が掛けてある。二つ三つたゝいたが、一向出て来ぬ。四つ五つ破(わ)れよと敲(たた)く。無作法の響(おと)がやっと奥に通じて、雛僧(すうそう)が一人出て来た。別に宝物(ほうもつ)を見るでもなく、記念に画はがきなど買って出る。

雲上(うんじょう)から下界に降る心地して、惜しい嶝道(とうどう)を到頭下り尽した。石門を出ると、川辺に幾艘の小舟が繋(つな)いである。小旗など立てた舟もある。船頭が上って来て乗れとすゝめる。

「如何(どう)だ、舟で渡って見ようか」

「えゝ、渡りましょう」

一同舟に乗った。

川上を見ると、獅子飛(ししと)び、米漉(こめかし)など云う難所に窘(いじ)められて来た宇治川は、今山開け障(さわ)るものなき所に流れ出て、弩(いしゆみ)をはなれた箭(や)の勢を以て、川幅一ぱいの勾配(こうばい)ある水を傾けて流して来る。紅に黄に染めた上流両岸の山は、碧(あお)い朝靄(あさもや)を被(き)て、山蔭の水も千反(せんたん)の花色綸子(はないろりんず)をはえたらん様に、一たび山蔭を出て朝日が射(さ)すあたりに来ると、水も目がさめた様に麗々(れいれい)と光り渡って、滔々(とうとう)と推し流して来る。瀬の音がごう/\/\、ざあ/\ざあと川面(かわつら)一面に響く。

「好いなァ」思わず声をあげる。

船頭は軋々(ぎいぎい)と櫓の響(おと)をさせて、ほゞ山形(やまなり)に宇治川を渡す。

「何て奇麗な水でしょう」妻は舷側(ふなばた)の水を両手に掬(すく)い上げて川を讃(ほ)める。鶴子が真似(まね)る。

平等院(びょうどういん)の岸近く細長い島がある。浮島と云うそうだ。島を蔽(おお)う枯葭(かれよし)の中から十三層の石輪塔(せきりんとう)が見える。

「あの塔は何かね、先には見かけなかった様だが」

「近頃掘り出したンどす。宝塔(ほうとう)たら云うてナ、あんたはん」

と船頭が説明する。水は早し、川幅(かわはば)は一丁には越えぬ。惜しと思うまに渡してしまって、舟は平等院上手(かみて)の岸についた。

舟賃(ふなちん)を払うて、其処(そこ)に三つ四つ設けられた茶店の前を過ぎて、美(うつく)しい紅葉を拾(ひろ)いつゝ余等は平等院に入った。

嫩草山の夕

奈良は奠都(てんと)千百年祭で、町は球燈(きゅうとう)、見せ物、人の顔と声とで一ぱいであった。往年(おうねん)泊(とま)った猿沢池(さるさわのいけ)の三景楼に往ったら、主が変(かわ)って、名も新猫館(しんねこかん)と妙なものに化(ば)けて居る。うんざりしたが、思い直して、こゝに車を下りた。

茶一碗(わん)、直ぐ見物に出かける。

上方客(かみがたきゃく)、東京っ子、芸者、学生の団体、西洋人、生きた現代は歴史も懐古も詩も歌も蹂躙(じゅうりん)して、鹿も驚いた顔をして居る。其雑沓(ざっとう)の中を縫(ぬ)うて、先ず春日祠(かすがし)に詣(もう)でた。田舎みやげの話し草に、若宮前で御神楽(おかぐら)をあげて、ねじり廊(ろう)の横手を通ると、種々の木の一になって育って居る木がある。寄木(やどりぎ)、と札を立てゝある。大阪あたりの娘らしいのが、「良平(りょうへい)さんよ」と云う。お新さんがお糸さんと顔見合わせて莞爾(にっこり)した。お新さんは窃(そっ)と其内の椿の葉を記念の為にちぎった。

嫩草山(わかくさやま)の麓の茶屋に来た頃は、秋の日が入りかけた。草履(ぞうり)をはいた娘子供が五六人、たら/\と滑(すべ)る様に山から下りて来た。

「如何(どう)だ、上って見ようか」

「え、上りましょう」

足の悪いお新さんと鶴子を茶店(ちゃみせ)に残して、余は靴(くつ)のまゝ、二人の女は貸草履に穿(は)き更(か)えて上りはじめた。

名を聞いてだに優にやさしい嫩草山は、見て美しく思うてなつかしい山である。八年前の十一月初めて奈良に来た夕(ゆうべ)、三景楼の二階から紺青(こんじょう)にけぶる春日山に隣りして、貂(てん)の皮もて包んだ様な暖かい色の円満(ふっくら)とした嫩草山の美しい姿を見た時、余の心は如何様(どんな)に躍(おど)ったであろう。丁度誂(あつら)えたように十五夜のまん丸な月が其上に出て居た。然し其時は遽(あわ)たゞしい旅、山に上るも果(はた)さなかった。今はじめて其懐(ふところ)を辿(たど)るのである。

霜枯(しもが)れそめた矮(ひく)い薄(すすき)や苅萱(かるかや)や他の枯草の中を、人が踏みならした路が幾条(いくすじ)か麓(ふもと)から頂(いただき)へと通うて居る。余等は其一を伝うて上った。打見たよりも山は高く、思うたよりも路は急に、靴の足は滑りがちで、約十五分を費やして上り果てた時は、額(ひたい)も背(せな)も汗(あせ)ばんで居た。頂はやゝ平坦(へいたん)になって、麓からは見えなかった絶頂が、まだ二重になって背(うしろ)に控(ひか)えて居る。唯一つある茶店は最早(もう)店をしまいかけて、頂には遊客(ゆうかく)の一人もなかった。

余等(よら)は額の汗を拭(ぬぐ)うて、嫩草山の頂から大和の国の国見をすべく眼を放(はな)った。

夕(ゆうべ)である。

日はすでに河内(かわち)の金剛山(こんごうせん)と思うあたりに沈んで、一抹(いちまつ)殷紅色(あんこうしょく)の残照(ざんしょう)が西南の空を染めて居る。西生駒(いこま)、信貴(しぎ)、金剛山、南吉野から東多武峰(とうのみね)初瀬(はつせ)の山々は、大和平原をぐるりと囲(かこ)んで、蒼々(そうそう)と暮れつゝある。此暮山(ぼざん)の屏風(びょうぶ)に包まれた大和の国原(くにはら)には、夕けぶり立つ紫の村、黄ばんだ田、明るい川の流れ、神武陵、法隆寺、千年二千年の昔ありしもの、今生けるものゝ総(すべ)てが、夜の安息に入る前に、日に名残を惜んで居る。

余等は麓の方に向うて、「おゝい」と声をかけた。一つの影が縁台(えんだい)をはなれて、山をのぼりはじめた。それは鶴子を負(お)うた車夫であった。やがて上りついて、鶴子は下り立った。

余等は更に眺(なが)めた。最早麓に一人残ったお新さんの影もよくは見えない。

直ぐ後の方でがさ/\と草が鳴ったと思うたら、夕空(ゆうぞら)に映(うつ)って大きな黒い影が二つぬうと立って居る。其れは鹿であった。

足の下で、奈良(なら)の町の火が美しくつき出した。蜂(はち)の群(む)れの唸呍(つぶやき)の様な人声物音が響く。

ぼうン!

麓の方で晩鐘(いりあい)が鳴り出した。其鐘の音(ね)に促(うな)がさるゝかの如く、鴉(からす)が唖〻〻(あああ)と鳴いて、山の暮から野の黄昏(たそがれ)へと飛んで行く。

余等は今一度眼を平原(へいげん)に放った。最早日の名残も消えて、眼に入る一切のものは蒼(あお)い靄(もや)に包まれた。

大和は今暮るゝのである。

「みみずのたはこと」に関する著者の文章

みゝずのたはこと

黒い眼と茶色の目

――の引越について――

新橋堂 鈴助野村さん。

福永書店 一良福永さん。

私の「みみずのたはこと」並に「黒い眼と茶色の目」がこのたび生みの親なる私の同意の下に、野村さんの手から福永さんの手に移って世話をされるについては、悲喜相半ばすと云ったような感があります。

「みみずのたはこと」と云えば服部書店国太郎さんの蒼い顔がまさ/\と其処に見えて来ます。私は最初あの人の為に「みみずのたはこと」を書いたのでした。が、悦んだあの人は書が出て九ヶ月目に消えてしまいました。服部さんの殁後一手に引受けて百版まで売り弘めた野村さんの手を「みみずのたはこと」が今更離れると云うは、嬉しい事ではありません。また私にとっては切腹の皮切りであった「黒い眼と茶色の目」が血が滴り姿で出雲町から尾張町までのこ/\煉瓦の通を引越して行くなども異な気がします。

然し無常が原則で一切の物が動産である見地からは、書の複製権が時の都合で此れから彼に渡るのは普通の事ですし、真実と愛が生命の有機体として書と云うものを見る時は、境遇の変化は生命の成長に伴う自然の結果とも云えます。譬えば旅客が長途の汽車を下りて、大洋の汽船に乗り移るようなもので其処に何の無理もありません。過去に向っては感謝があり、将来に向っては希望があるばかりです。

私は大正二年三月から大正九年九月までの間に於て「みみずのたはこと」の百版、大正三年十二月から大正九年九月までの間に於て「黒い眼と茶色の目」の二十六版を売り弘めた野村さんの熱心に対しあらためて感謝を表します。殊に野村さんが帝都の出版者も数ある中に、福永書店を択んで該二書の世話役を譲った事に対し、而して福永さんが快くこれを引受けた事に対し、私は深いよろこびを感じます。福永書店は私の「新春」と共に生れた書店です。「新春」は小さなものながら私が半生の総計(サムトータル)で、「みみずのたはこと」も「黒い眼と茶色の目」も要するに「新春」に達する道程の所産なので、野村さんが斯二書を福永書店に譲られたのは、是れ正に祝福された自然の導きでなくて何でありましょうか?

私は今まさに新橋堂の汽車を下りて福永書店の船に上ろうとする私の二子に代って、岸壁の方をふりかえって、

「服部さん、おやすみ。」

「野村さん、長々ありがとう。随分御達者で」

と挨拶し、

「何分よろしく」

と福永船長に目礼します。

大正九年九月廿三日

武蔵野粕谷の里にて

徳富健次郎

百〇一版の巻首に

「みみずのたはこと」が此たび福永書店の手に移って百〇一版を出すについて、私は今昔の感に堪えぬものがある。

「みみずのたはこと」はもと/\私が服部書店国太郎君の為に書いたものである。約束をしてから四年待たせて、大正二年の春やっと世に出した。蒼い顔を崩して服部君は悦んでくれたが、書が出てから九ヶ月目「みみずのたはこと」が第三十二版を売って居る頃、著者の私が「死の蔭」の旅にさすろうて居る中、服部君は消ゆるが如く死んだ。

服部君の死後は新橋堂野村君の一手に「みみずのたはこと」は扱われた。服部君より野村君の関係が私には旧かった。明治三十九年の秋、私が露西亜から帰るとやがて、野村君は新聞雑誌に散らばって居る私の書き捨てを集めて出版の許諾を求めたが、私は拒絶して使者の眼の前で其切りぬきの綴じ込みを引裂いてしもうた。然し野村君は中々めげなかった。服部君と共同で「みみずのたはこと」を引受くるに到って君は初志の一半を貫ぬき、服部君の死後一手に「みみずのたはこと」を引受くるに到って其熱心は正に酬われたのである。大正二年三月から大正九年九月に到るまで、八年未満の間に「みみずのたはこと」が百版を重ねたのは、何を云うても野村君の熱心を推さねばならぬ。

その「みみずのたはこと」が今度福永書店の手に移って百〇一版を出す。服部書店に生れ、新橋堂書店に長じた「みみずのたはこと」は更に福永書店に移って其処に新しい運命を拓こうとして居る。流転を悲しみ無常をはかなめば、一つの書店に死なれ、一つの書店を後にする「みみずのたはこと」に涙無くてはかなわぬ。生命を信じ成長を悦べば、過去に向っては唯感謝、将来に向っては唯希望があるばかりである。

数多い帝都の出版者の中に就て、私は野村君が殊に福永書店を択んで「みみずのたはこと」を譲った事を喜ぶ。福永書店は私の「新春」と共に生れ出でた書店である。「新春」は小さいながらも私にとりては半生の総計(サムトータル)である。「新春」は何処から生れる? 土から生れる。私を「新春」に導いたのは土の生活である。私の土の生活の第一所産が「みみずのたはこと」である。「みみずのたはこと」を花とすれば、「新春」が実である。花が実になる、これ程自然な事があろうか。「みみずのたはこと」は「新春」の書店に於て当さに其行く可き所に行ったものと云わねばならぬ。更に縁起を云えば「新春」は「百〇一の歌」を以て結ばれて居る。「百〇一」の歌を以て結ばれた「新春」の書店に移った「みみずのたはこと」が百〇一版から始まるも面白い因縁ではあるまいか。生命はまことに環(たまき)の端なきものである。

私は「みみずのたはこと」が「新春」と共に尚読まれんことを望む。

大正九年九月二十三日

徳富健次郎

復活百〇八版

「みみずのたはこと」の巻首に

大正十二年九月一日東京の大震大火で、銀座尾張町の福永書店も丸焼になり、同書店版の私の著書一切及び諸処に預けてあった紙型の大部分が焼けました。

其緑の蔭に大震の日の半日を私共一家が避難した庭の山楓(やまもみじ)が、三日三夜東京横浜を焼いた焔の色の朱(あけ)に染めかけた頃、ある日その楓を横に見る客室で、私と福永書店主人の間に左の会話が交(か)わされました。

「先生、復活に着手したいと思いますが、先生は何書(どれ)からお始めになります?」

「君は何から出したい?」

「『みみずのたはこと』は如何(いかが)でしょう?」

「『みみず』―『みみず』は好い。みみずは土の福音だ。すべては土からはじまる。『みみずのたはこと』からやろう。」

斯くて『みみずのたはこと』が最初に灰の中から甦る事になりました。

「みみずのたはこと」は私共が東京を去り村の人となってから七年目の大正二年三月に出した土の生活の記録です。書きはじめは明治四十五年の六月、七月には明治天皇の崩御があって明治四十五年は直ぐ今上の大正元年になり、元年が二年になると間もなく本書は出たので、これは私にとって明治大正の過渡(かと)を記念の作物となりました。最初服部書店国太郎君の懇請にほだされて書き、後では新橋堂書店野村鈴助君が肩を入れ、「みみずのたはこと」が出て八月目に服部君が亡くなった後は専ら新橋堂の手に扱われ、大正二年から大正九年までの間に百版を重ねました。其後、新橋堂の都合で、私の承諾の下に「みみずのたはこと」は他の新橋堂版の私の小説「黒い眼と茶色の目」と共に「新春」の版元(はんもと)福永書店に譲られました。百〇一版から福永書店の手で出し、大地震の火に焼けたのが百〇七版、復活が百〇八版であります。百八は旧を送り新を迎うる除夜の鐘の数であるのも面白い。

初版は五号活字の四六版でした。第三十九版から縮刷六号になりました。復活の百〇八版は五号四六版に復します。本文にはあまり添削(てんさく)を加えません。但前版巻尾の北海道紀行「熊の足跡」、京都紀行「紅葉狩」の二文は、もとよりあらずもがなの蛇足だったので、此機会に削除(さくじょ)し、其あとに新に「読者に」の一篇を書きました。それは「みみずのたはこと」が出た大正二年から今大正十二年にわたる十年間の私共の消息なり述懐なりで、即ちまた私共がみみずのたはことに捺(つ)く奥印(おくいん)であります。それから巻頭百〇一版の序を省(はぶ)き、斯新序を入れました。

插画は、前版の「書斎の窓から」、「門の前」、「蛙声」「勿来関跡(なこそせきあと)」「嫩草山(わかくさやま)」をぬき、「恒春園南面」、「門」、「鍬取りて」を加え、他は旧による事にしました。

大正十二年十二月三十日

東京郊外

粕谷

恒春園に於て

徳冨健次郎

みゝづのたわこと(新刊予告)

『みゝづのたはこと』は、著者が過る六年間田舎に引込み、みゝづの真似して、土ほじくりする間に、折にふれて吐き出したるたわ言共をかき集めたるものなり。其内容には村落生活の即興写生あり鍬とるひまの偶感偶想あり、短篇小説見たようなものあり、日記の断片あり、長短の手紙あり、稀に村より這い出してのろ/\と旅しまわりたる紀行あり。著者居村の風物を撮影したる印画数葉を插みて、趣を助く。

みみずのたはこと(新刊)

過る六年間土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせし即興のスケッチ、短篇小説、瞑想、書翰、紀行等を集む。清新なる田園の小景、涙を含む笑に満てる物語、平淡の中戦慄す可き恐ろしき説話、詩化せられたる教訓、有象より無象に通う神秘の暗示、巻中に充満す。都会住者は読んで麦の穂末を渡り来る暮春の薫風の如き自然の気息に接せよ。田舎に住む人は此に依りて新に吾周囲を見るの眼を開け。九葉の写真版は、本文を助けて、説話の舞台を読者の眼前に躍如たらしむ。

みゝずのたはこと(廿八版)

秋漸く深く自然も粛して人も自ずから真面目なる季節、燈下書に親しむ都門の読書生も、短日を愛しむ地方の勤労者も、課余業間時に『みみずのたはこと』を把りて其一二節を誦し見よ、自己及び自己の周囲に対し恒に新にして親切なる或る啓示と情味と従って力とを与えられん。

武蔵野の土の産物みゝずのたはこと

武蔵野の霜の中から抜け出した白い大根や紅い甘藷が盛んに都人士の口に入る季節となりました。新漬の沢庵に辛い舌鼓を打ちやきいもの甘いけぶりに頬をやく方々は練馬大根や川越藷と同じく武蔵野の土の産物なる『みゝずのたはこと』の一本を身近に具えて時々其一二葉を咀嚼し恒に真に新な生活の趣味を噛み出して下さい。

みゝずのたはこと(ポイント改版)

過る六年間土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせし即興のスケッチ、短篇小説、瞑想、書翰、紀行等を集む。

語に曰く 神は田舎を造り、人間は都府を作ると。著者は田舎を愛すれども、都会を捨つる能わず、心窃に都会と田舎の間に架する橋梁の其板の一枚たらん事を期すされば本書は信仰と趣味、理想と煩悩の間に徘徊徬徨せる著者が懴悔の一片とも見るべく、又多感多情の著者なるレンズを透かして印象せられたる田園生活の印画とも見るを得べし。清新なる田園の小景、涙を含む笑に満てる物語、平淡の中戦慄すべき恐ろしき説話、詩化せられたる教訓、有象より無象に通う神秘の暗示、巻中に充満す。都会住者は読んで麦の穂末を渡り来る暮春の薫風の如き自然の気息に接せよ、田舎に住む人は之れに依りて新に吾周囲を見るの眼を開け。九葉の写真版は本文を助けて説話の舞台を読者の眼前に躍如たらしむ。

(縮刷)みゝずのたはこと(七十四版)

日露役後戦勝日本の浮かれ心地を尻眼にかけて逸早く都門を去り、土の生活に入った著者が、大自然の直接教授を日々夜々に受けつゝ目睹耳聞体験心閲を筆にまかせて書き留めた『みゝずのたはこと』は、大正初年に於ける土の文学の一名著として已に七十四版を重ね、ます/\新しい読者を牽きつけつゝあります。四十年来空想天を舞いあるいた夢見がちの著者を否応なしに現実の大地に引きずり下ろし、潔癖の彼に頭から土の洗礼を浴びせて有無を云わさず一切を愛せしめ、嚏をしても赤面した小胆の彼を真昼中生れたまゝの赤裸になって堂々と大手をふって濶歩する自然男アダムにしてのけたは、何はともあれ土の生活の賜物で、其生活の最初の産物が即ち『みゝずのたはこと』であります。

今帝都の西三里、人目には平凡きわまる粕谷の荘に自家の埃田を発見して、五十男が新春の驩喜に手の舞い足の踏む所を知らぬ快活の境地には如何にして達し得たでしょう乎。

ピラミッドは一塊石ではありません。級々にして上る石の堆積です。『新春』の著者は、正に『みゝずのたはこと』の階段を登って来たのであります。

『新春』の読者にして初めて『みゝずのたはこと』を味うべく『みゝずのたはこと』の読者にして『新春』の喜を深く感ずることが出来ます。何となれば生命は共通、人生の味は歩々の汗と血と涙にして同時に歩々の春なる登攀にあるのですから。

みみずのたはこと(八十三版)

私が今後書きたいと思うもの書かねばならぬものを私の力限り書き得たとするも『みゝずのたはこと』は矢張私に取って可愛子であると思う。何故なれば之れは私が初めて大地に脚を立てゝ生活しはじめた其生活の最初の所産であるから。私は十三年前の順礼行には一冊の自著も携えなかったが今度は旅鞄に「新春」と縮刷「死の蔭に」と「順礼紀行」と而して縮刷『み〻ずのたはこと』を入れて来た。

(世界週遊の途中に、著者白す)

みみずのたはこと(百〇一版)

百〇一版から「新春」と同じく福永書店で発行する「みゝずのたはこと」は私が土の生活の第一所産で、私には煩悩子だ。「みゝずのたはこと」あって初めて「新春」がある。土の上に生活して生あり、死あり、而して復生ある生命の連鎖に人が繋がる限り『みゝずのたはこと』は読まるべきものだ。

大正九年十一月 著者記

みみずのたはこと(百〇五版)

著者が順礼紀行の旅から帰って、武蔵野に田園生活をはじめた最初の収穫。天にあこがれた霊魂が、はじめてしっかと大地に脚を立てた第一の人間記録。

復活した「みみずのたはこと」(百〇八版)

「先生、御本の復興にかゝりたいと思いますが、先生は何からお出しになります?」

「君は何からやる?」

「『みみずのたはこと』は如何でしょう?」

「みみず?――みみずは好い。あれは土の福音だ。すべての復興は土からはじまる。好、みみずからやろう」

著者と出版元と話の結果が復活第百〇八版みみずのたはことであります。

「みみずのたはこと」は著者が年四十にして初めてしかと大地に脚を立てた最初の生活記録です。大正二年の出版で、年を経る十一、版を重ぬる百〇七、十万余部を出して、いまだに凜々と生きて居ます。それは土に注がれた愛のしたゝりで、土は所謂地久、而して「愛は何時までも堕つる事がない」からでありましょう。前版は縮刷六号でしたが、復活版は最初に復えって四六型五号とし、插画を新にし、巻末に著者の最近消息を報ずる一長文を添えました。「みみずのたはこと」に著者のつく奥印です。

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