みみずのたはこと

Mimizu no tawakoto

徳富蘆花 Tokutomi Roka

読者に

(一)

読者諸君。

「みみずのたはこと」の出版は、大正二年の三月でした。それから今大正十二年十二月まで何時しか十年余の月日が立ちました。此十年余の限りない波瀾にも、最近の大震災にも幸に恙(つつが)なく、ここに「みみずのたはこと」の巻末に於て、粕谷の書斎から遙に諸君と相見るを得るは、感謝の至です。

まことに大正の御代になっての斯十余年は、私共に、諸君に、日本に、はた世界にとって、極めて多事多難な十余年でありました。

大正元年暮の二十九日、雪の黄昏を眺めた私の心のやるせない淋しさ――それは世界を掩うて近寄り来る死の蔭の冷(ひい)やりとした歩(あゆ)みをわれ知らず感じたのでした。大正二年「みみずのたはこと」の出版をさながらのきっかけに、日一日、歩一歩、私は死に近づいて来ました。死にたくない。逭(のが)れたい、私は随分もがきました。一家を挙げて秋の三月(みつき)を九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿(けいき)とぶらついた旅行は、近づく運命を躱(かわ)そうとてののたうち廻りでした。然し盃(さかずき)は否応(いやおう)なしに飲まされます。私は阿容〻〻(おめおめ)とまた粕谷の旧巣(ふるす)に帰って来ました。

大正三年が来ました。「死」の年です。五月に私の父が九十三歳で死にました。私は父を捨て、「みみずのたはこと」の看板娘であった鶴子を其父母に返えし、門を閉じ、人を謝して、生きながら墓の中に入りました。八月に独逸を相手の世界戦が始まります。世界は死の蔭に入りました。

其十二月に私は自伝小説「黒い眼と茶色の目」を出しました。私にとって自殺の第一刀です。同時に「生」への安全弁でもありました。然し要するに自他を傷つくる爆弾であった事も諍(あらそ)えません。早速妻が瀕死の大病に罹(かか)り、四ヶ月を病院に送りました。生命を取りとめたが不思議です。

世界が血みどろになって戦う大正四年、大正五年、大正六年、私は閉門生活をつづけて居ました。懊悩(おうのう)は気も狂うばかりです。傍(かたわら)に妻あり踏むに土あって、私は狂わず死なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。

すべてには限(きり)があります。「死の蔭に」が出で、父の三年の喪(も)が果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年に渉(わた)って世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。

世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議がヹルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半は後(あと)で出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡(シンガポオル)まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共は尚(なお)西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。

母なしとなどかは嘆くわれを生みし

国土(こくど)日本(にっぽん)とこしへの母

日本近くなった太平洋船中での私の感懐であります。

帰って丁度一年目の大正十年三月、私共は夫妻共著の「日本から日本へ」を出しました。

中一年置いて、今大正十二年四月に私は「竹崎順子」を出しました。日露戦争中肥後の熊本で八十一で亡くなった私の伯母――母の姉の実伝で、十八年前の遺嘱(いしょく)を果したのであります。

それから九月一日の大震にもお蔭で恙(つつが)なく、五十六歳と五十歳のアダム、イヴは、今年七月秋田から呼んだ、デダツ(モンペの方言)を穿(は)いて「奥様、あれ持って来てやろか」と云う口をきく、アイウエオが十分には読めぬ「今」という十四の女中と、Bと名づくる牝猫一疋、淋しい忙しい生活をつづけて居ります。

*

世界一周から帰村した三日目の夜、私共は近所の人人を呼んでおみやげ話をしました。ざっと行程を話したあとで、私は曰いました。

世界を一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。

諸君が手を拍(たた)いて喝采(かっさい)しました。

お世辞ではありません。全然(まったく)です。

私は九州肥後の葦北(あしきた)郡水俣(みなまた)という海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々(てんてん)して、二十二歳で東京に出で、妻は同じ肥後の菊池郡隈府(わいふ)という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒(いっしょ)になり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の明治四十年に初めて一反五畝の土と一棟(ひとむね)のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。戸籍まで引いたは、永住の心算(つもり)でした。然し落ち着きは中々出来ないものです。村居七年目に出した「みみずのたはこと」は、開巻第一に臆面(おくめん)もなく心のぐらつきを告白して居ます。永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、分からぬと言うて居ます。其挙句(あげく)が前述(ぜんじゅつ)の通り十年のドウ/\廻(めぐ)りです。私は自分の幼稚な吾儘(わがまま)と頑固な気まぐれから、思うようにならぬと謂(い)うては第一自分自身がいやになり、周囲がいやになり、日本がいやになり、世界がいやになり、到頭生きる事がいやになり、自己を脱(ぬ)けたい、何処ぞへ移りたい、面倒臭い、いっそ死んでのけたいとまで思いつめ、落ちつく故郷を安住の地をひたもの探がし廻ったのでした。然し駄目でした。一足飛びに自分が聖人にもなれません。一から十まで気に入るような人間にも会えません。またしっくりと身に合うような出来合いの理想郷は此世にありません。然らば如何(どう)する? だらしなく無為に朽(く)ちるか。太く短く反逆の芝居を打って一思いに花やかな死を遂げるか。さもなくば自己に帰って、客観的には謙(へりくだ)ってすべてに顕わるる神を見、主観的には自己を核(かく)にして内にも外にも好きな世界を創造すべく努めるか。私は其一を撰ばねばならなくなりました。而して到頭自己に帰りました。「盍反其本(なんぞそのもとにかえらざる)」で、畢竟(ひっきょう)其本に、自己に、わが衷(うち)に在(いま)す神、やがてすべてに在す神――に帰ったのであります。帰れば其処が故郷でした。安住の地でした。私の母の歌に

西、東、北の果までたづねても

みなみ(南、――皆身(みなみ))にかへる地獄極楽

というのがありますが、正(まさ)にそれです。皆身にかえる外はありません。私も五十年来さま/″\の旅をしつくし、駄目を押し、終に世界を一周(ひとめぐり)して来て見て、いよ/\自己に、而して自己の住む此処日本粕谷にしっかりと腰を据えたのであります。

十七年前、村入当時私は東隣の墓地の株に加入を勧められました。私は生返事して十数年を過ごしました。今年ある村の寄合の場で、私は斯く言いました。

「私共もいよ/\粕谷の土になる事にきめました。何分よろしく」

「世界で日本、日本で粕谷」に拍手喝采した諸君は、此時破顔一笑、会心(かいしん)のさざめきを以て酬(むく)うてくれました。

いよ/\私共も粕谷の土になるにきめました。東隣の墓地は狭いが、四千坪近い所有地は何処にやすらうも自由です。墓地をきめると云う事は、旅行しない意味では無論ありません。何処で死ぬか、私共は知りません。唯何処で死んでもいずれ粕谷の土です。

泊(とまり)がきまると、行手(ゆくて)を急ぐ要はありません。のろ/\歩きましょう。一歩は一歩の楽(たのしみ)です。父は九十三、母は九十一、何卒(どうか)私共もあやかりたい。先頃の大地震に、私はある人に言いました。「借金もちは、天道様(てんとうさま)が中々殺さぬよ」。私も夥(おびただ)しい借金もちです。五十年来幾度となく死地を脱して斯く生かされて居るのも、あの因業爺(いんごうおやじ)が「分厘までも」払わさずには置かぬ心底がまざ/\と読まれます。私も昔は借金とも思わず無暗(むやみ)に重(かさ)ねた時代がありました。借金と気がついて急に悄気(しょげ)た時期もあります。わが借金は棚(たな)にあげ、他(ひと)の少々の貸金をはたって歩いた時もあります。山なす借金、所詮(しょせん)払えそうもないので、ドウセ毒皿だ、クソ、ドシドシ使い込んでやれ、踏倒して逃げてやれ、と悪度胸(わるどきょう)を据(す)えた時もあります。然しもう潔(いさぎよ)く観念しました。返えします。奇麗に返えします。成る事なら利子をつけて返えします。返えさずに居れなくなりました。返えすが楽にさえ悦喜にさえなって来ました。目下整理中です。総(そう)じて義務が道楽にならねば味がない。借金返えしも渋面(じゅうめん)つくって、さっさと返えしては曲(きょく)が無い。『人生は厳粛也、芸術は快活也。』真面目(まじめ)に計算しましょう。笑顔(えがお)で払いましょう。其為にこそ私共は生れて来、生きて来たのです。

(二)

私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯(おおまた)に歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷(ひ)やかしに往って帰る位何の造作(ぞうさ)もなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉(うれ)しいような、また恐(こわ)いような気がします。隣字(となりあざ)の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴(ヴァイオリン)の好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。燈台下暗かった粕谷にも、昨秋から兎に角電燈がつきました。私共が村入当時二十七戸の粕谷が、新家が出来たり、村入があったり、今は三十三戸です。このあたりもう全くの蔬菜村です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、北多摩郡でも一番東部の千歳村、砧(きぬた)村の二村が包含される事になって居ます。此処までお出と私共が十七年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを見れば、切っても切れぬ情縁がやはりあるものと見えます。もう私共は今の粕谷が東京の中心になっても、動きません。村が蔬菜村になって、水瓜などは殆んど番がいらぬまで普通になりました。水瓜好きの私共には特別の恩恵です。農家も追々豊になり、此頃では荷車挽きに牛を飼(か)わぬ家は稀です。本文の「不浄」にも書いた通り、荷出しや下肥引きに村の人人が汗みずくになって、眼を悪くして重い車を引くのを気にして居た私共に、牛車は何と云ううれしい変化でしょう。牛の牟々(もうもう)程農村を長閑(のどか)にするものはありません。道路も追々よくなります。村役場も改築移転し、烏山にも小学が出来、もとの塚戸小学校も新築されて私共に近くなりました。運動時間などはわァわァと子供の声が潮(うしお)の如く私の書斎に響いて来ては、子無しの私共に力をつけます。

台湾を取り、樺太の半を収(おさ)め、朝鮮を併(あわ)せ、南満洲に手を出し、布哇を越えて米国まで押寄する日本膨脹の雛型(ひながた)ででもあるように、明治四十年の二月に一反五畝の地面と一棟のあばら家から創(はじ)めた私共の住居(すまい)も、追々買い広げて、今は山林宅地畑地を合わせて四千坪に近く、古家ながら茅葺(かやぶき)の四棟(よむね)もあって、廊下、雪隠、物置、下屋一切を入れて建坪が百坪にも上ります。村の人となって程なく、二尺余の杉苗を買うて私は母屋(おもや)の南面に風よけの杉籬(すぎかき)を結(ゆ)いました。西の端に唯一本木鋏(きばさみ)を免れた其杉苗が、今は高さ二丈五尺、幹(みき)の太(ふと)さは目通り一尺五寸六分になりました。十七年の杉の成長としては思わしくありませんが、二尺の苗の昔を思えば隔世(かくせい)の感があります。私共の村住居(むらずまい)の年標(ねんひょう)として、私は毎々(まいまい)お客に此杉の木を指(ゆびさ)します。年標の杉が太り、屋敷も太りました。巻頭の写真にも其面影は覗(うかが)われます。一町二反余の地主で、文筆による所得税を納めるので、私も今は衆議院議員選挙権の所有者です。已に一回投票というものをして見ました。それは兎に角私も粕谷の住人としてもう新参ではありません。住居の雅名(がめい)が欲(ほ)しくなったので、私の「新春」が出た大正七年に恒春園(こうしゅんえん)と命名しました。台湾の南端に恒春と云う地名があります。其恒春に私共の農園があるという評判がある時立って其処に人を使うてくれぬかとある人から頼まれた事があります。思もかけない事でしたが、縁喜(えんぎ)が好(よ)いので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたのであります。恒春園は荒れました。四千坪の大部分は樹木と萱(かや)、雑草で、畑は一反足らずです。外遊中は人気(ひとけ)がないので野兎(のうさぎ)が安心して園に巣をつくりました。此頃ではペン多忙で、滅多(めった)に鍬(くわ)は取りません。少しばかりの野菜は、懇意な農家に頼んで居ます。金になると云う上からは、恒春園は零(ぜろ)です。毎年堆肥(たいひ)温床用(おんしょうよう)の落葉を四円に売ります。四千坪の年収が金四円です。庭園は荒れに荒れ、家も大分ふるびて、雨漏りがします。明治四十二年の春に買った一棟(ひとむね)なぞは、萱沢山(かやたくさん)の厚さ二尺程にも屋根を葺(ふ)いて、一生大丈夫の気で居ましたら、何時しか木蔭から腐って、骨が出ました。家屋でも、身体(からだ)でも、修繕なしにやって往けよう筈はありません。四十と三十四で東京から越して来た私共夫妻が、五十六と五十になって、眼が薄くなったり、物忘れをしたり、五体の何処かが絶えず修補を促(うなが)します。私共も肝油を飲んだり、歯科眼科に通ったり、腸胃の為に弦斎さんのタラコン散を常薬にして居ます。身体の修繕斯通りで、家屋のそれも決して忘れた訳ではありません。全く住宅と衣服は出来合いで済まされません。洋服の利は分かって居ます。私共も外遊以来一切和服の新調をやめ――以前から碌(ろく)に和服という和服もなかったのですが――内にも外にも簡易な洋服生活です。住居はこれからです。古家ばかり買い込んで、小人数には広過ぎ、手長足長、血のめぐりの悪い此住居を取毀(とりこわ)し、しっくりとした洋式住宅を建てよう心算は夙(とく)に出来て居ますが、実現がまだ出来ません。畳の上に椅子テエブル、障子を硝子にしたり、井を米国式軽快なポンプにしたり、書斎に独逸暖炉を据えたり、室内電話を使ったり、心ばかりの進出をして居ます。先頃の地震でいっそ一思いに潰(つぶ)れるか、焼けるかしたら、借金してもバラック位新築せねばならなかったでしょうが、無理さすまいとてか、地震は御愛想に私共の壁を崩し戸障子の建てつきを悪くしただけで往ってしまったので、当分現状維持です。然し新造が見えすいて居る住居に、大工左官を入れるも馬鹿らしいので、地震後一月あまり私は毎日鎚と鋸と釘抜と釘とを持って、壁の大崩れに板や古障子を打ちつけ、妻や女中が古新聞で張って、兎や角凌いで居ます。書斎も母屋(おもや)も壁の亀裂(ひわれ)もまだ其ままで、母屋に雨のしと降る夜はバケツをたゝく雨漏りの音に東京のバラックを偲(しの)んで居ます。

(三)

九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道筋(すじ)には潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石が転(ころ)んだ位の事で、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰途(かえり)に立寄って、廊下の壁の大破(たいは)を片づけたり、地蔵様を抱(だ)き起したりしてくれました。後(あと)は前述の如く素人大工で済ませて置きます。九月一日の午餐と夕食は、母屋の庭の株(かぶ)立ちの山楓(やまもみじ)の蔭でしたためました。今夜十二時前後に大震が来るかも知れぬ、世田ヶ谷の砲兵聯隊で二発大砲が鳴ったら、飛び出してくれ、という不思議な言いつぎが来て、三日の夜の十一時半から二時頃まで、庭の檞(かしわ)の木に提灯(ちょうちん)つるして天の河の下で物語りなどして過ごした外は、唯一夜も家の外には寝ませんでした。四日にはもう京王電車が一部分通います。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。村の復旧は早い。済まぬ事ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者(りさいしゃ)です。九月一日、二日、三日と三宵に渉(わた)り、庭の大椎(おおしい)を黒(くろ)く染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天を焦(こが)す猛火の焔(ほのお)は私共の心魂(しんこん)を悸(おのの)かせました。頻繁な余震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷(いた)めます。関心する人人の安否を確(たしか)むるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人の訃(ふ)を伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。然(そう)です。世界戦に日本は手(た)ずさわるとは云う条(じょう)、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱(くげん)を唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外何処(どこ)の国が日本のようにぐいと思うさま国都を衝(つ)かれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けた鞭(むち)は大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父の懲(こ)らしめざる子あらんや」と云う筆法(ひっぽう)から云えば、災禍(さいか)の受け様(よう)にも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまた夥(おびただ)しい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇(まっくら)に逆上(ぎゃくじょう)します。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞(はず)かしい事です。

斯様(こん)な中にもうれしい事はやはりありました。粕谷の人々が相談して、九月の六日に水瓜、玉蜀黍(とうもろこし)、茄子(なす)、夏大根、馬鈴薯(じゃがいも)などを牛車十一台に満載(まんさい)して、東京へお見舞をしました。村の青年達がきりっとした装(なり)をして左腕に一様に赤い布を巻き、牛車毎に「千歳村青年会粕谷支部」と書いた紙札を押立て、世話方数名附添うて、朝早く粕谷から練(ね)り出した時、私は思わず青年会の万歳を三唱しました。慰問隊は専ら麹町区に活動して、先方の青年団の協力の下に、水瓜を截(き)り、馬鈴薯をつかみ、手ずから罹災の人々に頒(わか)ち、玄米と味噌で五日過した人々を「生き返える」と悦ばしたそうです。其報告が私共を喜ばせました。斯くてこそ田舎、十七年前都落ちした私共も都に会わす顔があります。

中一日置いて、九月の八日には千歳村全体から牛車六十台の見舞車が、水気沢山の畑のものをまだ余燼(よじん)の熱い渇き切った東京に持って行きました。私も村人甲斐に馬鈴薯百貫を出しました。私の直接労働の果(み)ではありません。金にして弐拾円です。

東京の焼け出されが、続々都落ちして来ます。甲州街道は大部分繃帯(ほうたい)した都落ちの人々でさながら縁日のようでした。途中で根(こん)竭(つ)きて首を縊(くく)ったり、倒れて死んだ者もあります。寿永(じゅえい)の昔の平家都落ち、近くば維新当時の江戸幕府の末路を偲(しの)ぶ光景です。村の何(ど)の家にも避難者の五人三人収容しました。私共の家にも其母者が粕谷出身の縁故から娘の一人を預かりました。田舎が勝ち誇る時が来ました。何と云うても人間は食うて生きる動物です。生きものに食物程大切なものはありません。食物をつくる人は、まさかの時にびくともしない強味があります。東京のあるお邸(やしき)の旦那は、平生権高(けんだか)で、出入りの百姓などに滅多に顔見せたこともありませんでした。今度の震災で、家は焼け残ったが、早速食う物がありません。見舞に来た百姓に旦那がお辞義の百遍もして、何でもよいから食う物を、と拝(おが)むように頼んだものです。ある避難の家族は、麦(むぎ)がまずいと云うて、「贅沢な」と百姓から、頭ごなしに叱りつけられました。去五月の末まで私共の家に働いて居た隣字のS女の家の傭女(やといめ)が水瓜畑に働いて居ると、裏街道を都落ちの人と見えて母子づれが通りかゝり、水瓜を一つ無心しました。傭人の遠慮して小さなのを一つもいでやると、悦んでそれを持って木蔭に去りました。やがてS女が来たので、傭女は其話をして、あの水瓜は未熟だったかも知れぬと言います。S女は直ぐ大きなよく出来たのをもいで、後追いかけました。都落ちの母子は木蔭で未熟の水瓜を白い皮まで喰い尽して居た所でした。「斯様(こんな)にうまい水瓜をはじめて食べました」とS女に悦びをのべたのでした。こんな時にこそ都会住者も自然の懐(ふところ)のうれし味をしみ/″\思い知ります。田舎の懐を都に開かせ、都の頭(ず)を自然に下げさせる――震災の働きの一つはこれでした。

それは東京に住む東京人に限りません。十七年来村住居の私共だって、米麦つくらぬ美的百姓は同様です。「或る百姓の家」を出した江渡幸三郎君のような徹底した百姓と、私共のように米麦を買うて暮らす村落住者の相違は、斯様な時に顕(あら)われます。私共では年来取りつけの東京四谷の米屋の米を食います。震災で直ぐ食料の心配が来ました。不時の避難客で、早速村の糧食不足となります。東京には玄米の配給があっても、田舎は駄目です。当時私共の家族は、夫妻に、朝鮮から遊びに来て居た二十歳(はたち)になる妻の姪(めい)、七月に秋田から呼んだ十四の女中、それから焼け出されの十七娘、外に猫一疋でした。丁度収穫を終えたばかりの馬鈴薯と畑に甘藷があるので、差迫っての餓死は兎に角、粒食(りゅうしょく)は直ぐ危くなりました。私共夫妻は朝夕パンで、米飯は午食だけです。パンが切れる。ふかしパンをつくる。メリケン粉は二升以上売ってはくれず、それも直ぐ尽きました。砂糖も同様です。ついでに蝋燭も同断です。朝は粥にして、玉蜀黍(とうもろこし)で補(おぎな)い、米を食い尽し、少々の糯米(もちごめ)をふかし、真黒い饂飩粉(うどんこ)や素麺(そうめん)や、畑の野菜や食えるものは片端(かたっぱし)から食うて、粒食の終はもう眼の前に来ました。いよ/\馬鈴薯、甘藷に落ちつく外ありません。其処に前顕(ぜんけん)のS女が見舞に来ました。彼女は本文「次郎桜」の主人公には季(すえ)の妹で、私共の外遊帰来三年間恒春園に薪水の労を助けた娘です。其長姉Y女も、私共の外遊前二年足らず私共の為に働いてくれたのでした。S女に相談すると、翌日の夕、彼女の長兄のI君が一担(いったん)の食糧を運んでくれました。I君は「次郎桜」の兄者(あにじゃ)で、十七年前私共が千歳村へ引越す時、荷車引いて東京まで加勢に来てくれた村の耶蘇信者四人の其一人、本文に「角田(つのだ)勘五郎(かんごろう)の息子(むすこ)」とあるのがそれです。其頃は十六七のにこにこした可愛い息子でした。それが適齢になって兵役に出で、満洲守備に行き、帰って結婚してもう四人の子女の父、郷党(きょうとう)のちゃきちゃきです。I君が担(にな)うて来てくれたは、白米一斗、それは自家の飯米(はんまい)を分けてくれたのでした。それから水瓜、甘藍(キャベツ)、球葱(たまねぎ)、球葱は此辺ではよく出来ませんが、青物市場であまり廉(やす)かったからI君が買って来たその裾分(すそわ)けという事でした。玄米でも饂飩粉でもよかった、「働く人の食料を分けてもらうのは気の毒」と私が申すと、「働くから上げられるのです」とI君が昂然(こうぜん)と応(こた)えました。これは確に一本参りました。全くです。働くから自ら養い他を養う事が出来るのです。私共は唯二つ残って居た懐中汁粉(かいちゅうじるこ)をI君に馳走して、色々話しました。千歳村移転当時の話からI君は其時私が諸君に向い、「東京も人間が多過ぎる、あまり頭に血が寄ると日本も脳充血になる、だから私は都を出でて田舎に移る」と申した事を私に想い出さしてくれました。兎に角私共はよくぞ其時都落ちをしました。でなければ私はもうとくに青山あたりの土になって居たかも知れません。十七年を過して、此処(ここ)に斯く在(あ)る事は、本当に感謝です。I君の贈物は肝腎(かんじん)な時に来て、大切なツナギになりました。その一斗の米が終る頃は、四谷の米屋の途(みち)も開けました。

私は最初「みみずのたはこと」の広告に、斯様な告白をしました。

『著者は田舎を愛すれども、都会を捨つる能わず、心窃(ひそか)に都会と田舎の間に架する橋梁(きょうりょう)の其板の一枚たらん事を期す。』

不徹底な言い分のようですが、それが私の実情でした。今とても同然です。私は土を愛し、田舎を愛し、土の人なる農を愛しますが、私の愛は都市にも海にもあらゆる人間と其営(いとな)みとを忘るゝ事は出来ません。私は慾張りです。私は一切を愛します。総(そう)じて血のめぐりの好い生体(せいたい)は健全です。病は偏(へん)です。不仁が病です。脳貧血のわるいは、脳充血のわるいに劣りません。私共の農村移住は随分吾儘な不徹底なものでしたが、それですら都鄙の間に通う血の一縷(いちる)となったと思えば、自ら慰むるところがあります。「みみずのたはこと」は自嘲気分を帯びた未熟な産物ですが、大正二年以来十年間に版を改むる百〇七、拾余万部を売り尽し、私共の耳目に触るゝ反響から見るも、農村を自愛させ、すべてに農村を愛さす上に幾分の効があったと知る事は、私共にとって大なる悦喜であります。

私も以前は農村に住んで農になり切れず、周囲に同化しきれぬきまり悪さを「美的百姓」などと自から茶かして居ました。然し其懊悩(おうのう)はもう脱(ぬ)けました。私共は粕谷に腰を据えました。私共は農村に骨を埋(うず)めます。然し私共は所謂農ではありません、私共の鍬はペンです。土は米麦も、草木もそだてます。畑の真中にだって、坊主にされながら赤松が立って居たり、碌に実が生(な)らぬ柿の木さえ秋は美しく紅葉し、裸になっては平気に烏(からす)をとまらして居るではありませんか。私共は九州の土に生れて、彼方此方と移植され、到頭此粕谷へ来た雌雄相生の樹です。随分長い間ぐらついて居ましたが、到頭根づきました。もうちっとやそっとの風雨が来ても、びくともする事ではありません。あたりの邪魔にならぬ限り伐(き)って薪(まき)にもされず成長をつづける事が出来ようと思います。

(四)

村の寄合などに稀(たま)に出て、私は諸君の頭の白くなったに毎々(まいまい)驚かされます。驚く私自身が諸君に驚かるゝ程齢(とし)をとりました。全く十七年は短い月日でありません。私共が引越当年生れた赤ン坊が、もう十七になるのです。赤ン坊が青春男女になり、青年が一人前になり、男女ざかりが初老になり、老人が順繰(じゅんぐ)り土の中に入るも自然の推移(うつり)です。「みみずのたはこと」が出てから十年間に、あの書に顔を出して居る人人も、大分(だいぶ)故人になりました。

今年の六月には、村の牧師下曾根(しもぞね)信守(のぶもり)君を葬りました。六十九歳でした。下曾根さんは旧幕名家の出、伊豆韮山(にらやま)の江川太郎左衛門と相並んで高島秋帆門下の砲術の名人であった下曾根金之丞は父でした。砲術家の三男に生れた下曾根さんは、夙(つと)に耶蘇教信者となり、父とは違った意味の軍人―耶蘇教伝道師になりました。先(せん)にも数年間調布町に住んで伝道し、会堂が建つばかりになって、会津へ転任して行きました。其後調布の耶蘇教が衰微(すいび)し、会堂は千歳村の信者が引取り、粕谷に持って来ました。本文の初に、私共が初めて千歳村に来て見た会堂がそれです。随分見すぼらしい会堂でした。村住居はしても、会堂の牧師になる事を私が御免蒙ったので、信者の人々は昔馴染(むかしなじみ)の下曾根さんをあらためて招聘(しょうへい)したのでした。下曾根さんは其時もう五十を過ぎ、耳が遠く、招かれても働きは思うように出来ぬと断ったそうですが、養老の意味で、たって来てもらったとの事です。私共が村入りの二月(ふたつき)目に下曾根さんは来て、信者仲間の歓迎会には私共も共々お客として招かれたのでありました。私共に代って貧乏籤(びんぼうくじ)をひいてくれた下曾根さんは、十七年間会堂裏(うら)に自炊(じすい)生活(せいかつ)をつづけました。下曾根さんは独身で、身よりも少なく、淋しい人でした。寄る年と共にますます耳は遠くなり、貧乏教会の牧師で自身の貯金も使い果した後は、随分(ずいぶん)惨(みじめ)な生活でした。私は個人的に少許(すこし)の出金を気まぐれに続けたばかりで、会堂には一切手も足も出しませんでした。下曾根さんは貧しい羊の群を忠実に牧して、よく職務を尽しました。砲術家の出だけに明晰(めいせき)な頭脳の持主でしたが、趣味があって、書道を嗜(たしな)み、俳句を作り、水彩画をかいたり、園芸を楽しんだり、色々に趣味をもって自ら慰めて居りました。乏(とぼ)しい中から村の出金、教会としての中央への義務寄金も心ばかりはしました。亡(な)くなる前には、自身の履歴、形見分けの目録、後の処分の事まで明細に書き遺(のこ)し、洗(あら)うが如き貧しさの中から葬式万端(ばんたん)の費用を払うて余剰(あまり)ある程の貯蓄をして置いた事が後で分かりました。信仰ある、而して流石(さすが)に武士の子らしい嗜(たしなみ)です。下曾根さんは私共の東隣(ひがしどなり)の墓地に葬られました。其葬式には最初私共に千歳村を教えた「先輩の牧師」も東京から来て、「下曾根信守之墓」「我父の家には住家多し」と云う墓標の文字も其人の筆で書かれました。

其葬式には、塚戸小学校の前校長H君も来て居ました。Hさんは越後の人、上野(うえの)の音楽学校の出で、漢文が得意です。明治二十九年に千歳村に来て小学校長となり、在職二十五年の長きに及びました。村人として私共より十二年も前です。私共夫妻が最初千歳村に来て、ある小川の流れに菜(な)を洗う女の人に道問うた其れはH夫人であったそうです。私共が外遊から帰って来ると、H君は二十五年の小学校奉仕を罷(や)めて、六十近く新に進出の路を求めねばならぬ苦境に居ました。其後帝大に仕事を見出し、日々村から通うて居ましたが、このたび都合により吉祥寺の長男の家と一つになると謂(い)うて告別に来たのは、つい此新甞祭の当日でした。地下に他郷に古い顔馴染(かおなじみ)が追々遠くなるのは淋しいものです。

村の名物が段々無くなります。本文の「葬式」に出た粕谷で唯一人の丁髷(ちょんまげ)の佐平(さへい)爺(じい)さんも亡くなり、好人の幸さんも亡くなりました。文ちゃんの爺(じい)さんも亡くなりました。文ちゃんは稼(かせ)ぎ人(にん)で、苦しい中から追々工面(くめん)をよくし、古家ながら大きな家を建てゝ、其家から阿爺(おやじ)の葬式も出しました。「斯様(こん)な家から葬式を出してもらうなんて、殿様だって出来ねえ事だ」と皆が文ちゃんの孝行をほめました。「腫物」に出た石山の婆さんも本家で亡くなりました。それは大正七年でしたが、其前年の暮(くれ)に「腫物」の女主人公、莫連(ばくれん)お広(ひろ)も亡くなりました。お広さんは石山新家を奇麗に潰(つぶ)して了うた後、馴染(なじみ)の親分と東京に往って居ました。「草とりしても、東京ではおやつに餅菓子が出るよ」なんか村の者に自慢して居ました。其内親分がある寡家(ごけ)に入り浸(びた)りになって、お広さんが其処に泣きわめきの幕を出したり、かかり子の亥之吉が盲唖学校を卒業して一本立になっても母親を構(かま)いつけなかったり、お広さんの末路は大分困難になって来ました。金に窮すると、石山家に来ては、石山さんの所謂『四両五両といたぶって』行きました。到頭腎臓(じんぞう)が悪くなり、水腫(みずばれ)が出て、調布在の実家で死にました。死ぬまで大きな声で話したりして、見舞に往った天理教信者のおかず媼(ばあ)さんを驚かしたものです。離縁になってなかったので、お広さんの体(からだ)は矢張石山さんが引取って、こっそり隣の墓地に葬りました。葬式の翌日往って見ると、新しい土饅頭(どまんじゅう)の前に剥(は)げ膳が据(す)えられ、茶碗の水には落葉が二枚浮いて居ました。白木の位配に「新円寂慈眼院恵光大姉(しんえんじゃくじげんいんえこうだいし)」と書いてあります。慈眼院恵光大姉――其処に現われた有無の皮肉に、私は微笑を禁じ得ませんでした。而して寂(さび)しい初冬の日ざしの中に立って、莫連お広の生涯を思い、もっと良い婦人(おんな)になるべき素質をもちながら、と私は残念に思うのでありました。お広さんが死んで、法律上にもいよいよ鱞(やもお)になった厚い唇の久(ひさ)さんは真白い頭をして、本家で働いて居ます。唖の巳代吉は貧しい牧師の金を盗んだり、五宿の女郎を買ったりして居ましたが、今は村に居ません。盲の亥之吉も、季(すえ)の弟も居ません。一人女(ひとりむすめ)のお銀は、立派に莫連の後を嗣いで、今は何処ぞに活躍して居ます。

お広さんを愛したり捨てたりした親分七右衛門爺(じい)さんは、今年亡(な)くなり、而してやはり隣の墓地に葬られました。大きな男でしたが、火葬されたので、送葬(そうそう)の輿(こし)は軽く、あまりに軽く、一盃機嫌で舁(か)く人、送る者、笑い、ざわめき、陽気な葬式が皮肉でした。可惜(あたら)男(おとこ)をと私はまた残念に思うたのでありました。

「村入」の条に書いた私共の五人組の組頭(くみがしら)浜田の爺さんも、今年の正月八十で亡くなりました。律義な爺さんの一代にしっかり身上(しんしょう)を持ち上げ、偕白髪(ともしらが)の老夫婦、子、孫、曾孫の繁昌を見とどけてのめでたい往生でした。いつも莞爾々々(にこにこ)して、亡くなる前日まで縄(なわ)を綯(な)うたりせっせと働いて居ました。入棺前、別れに往って見ると、死顔(しがお)もにこやかに、生涯労働した手は節(ふし)くれ立って土まみれのまま合掌して居ました。これは代田(だいだ)街道(かいどう)側(わき)の墓地に葬られました。

それから与右衛門さんとこのお婆さん、「信心なんかしませんや」と言うて居たお婆さんも亡くなりました。根気のよいお婆さんで、私も妻も毎々(まいまい)話しこまれて弱ったものです。居なくなって、淋しくなりました。「否(いな)と云へど強(し)ふるしひのがしひがたり、ちかごろ聞かずてわれ恋(こ)ひにけり」と万葉(まんよう)の歌人が曰(い)うた通りです。私共が外遊から帰ると、お婆さんは「四国(しこく)西国(さいごく)しなすったってねえ」と感にたえたように妻に云うて居ましたが、今は彼女自身遠く旅立ってしまいました。彼女は文ちゃんの爺さんが葬られて居る北の小さな墓地に葬られました。其処にはお婆さんには孫、与右衛門さんには嗣子(あととり)であったきつい気の忠(ちゅう)さん、海軍の機関兵にとられ、肺病になって死んだ忠さんも葬られて居ます。

草履作りが名人の莞爾々々(にこにこ)した橋本のお爺さん、お婆さん、其隣の大尽の杉林のお婆さん、亡くなった人人も二三に止まりません。年寄りが逝(ゆ)くのは順ですが、老少不定の世の中、若い者、子供、赤ン坊の亡くなったのも一人や二人でありません。前に言うた忠さん、それから千歳村墓地敷地買収問題の時、反対側(がわ)の頭目(とうもく)となって草鞋(わらじ)がけになって真先に働いたしっかり者の作さんも亡くなりました。半歳立たぬに、作さんの十六になる一人女も亡くなりました。私共が粕谷へ引越しの前日、東京からバケツと草箒(くさぼうき)持参で掃除に来た時、村の四辻(よつつじ)で女の子を負(おぶ)った色の黒い矮(ちいさ)い六十爺さんに道を教えてもらいました。お爺さんは「村入」で「わしとおまえは六合の米よ、早く一しょになればよい」と中音(ちゅうおん)に歌うた寺本の勘さん、即ち作さんの阿爺(おとっさん)で、背の女児は十六で亡くなった其孫女でした。

まだ気の毒な亡者(もうじゃ)も、より気の毒な生き残りも二三あります。

それ等を外にしては、石山さん、勘爺さん、其弟の辰爺さん、仁左衛門さん、与右衛門さん、武太さん、田圃向うの信心家のお琴婆さん、天理教のおかず婆さん、其他の諸君も皆無事です。土の下、土の上、私共の択んだ故郷粕谷は上にも下にも追々と栄えて行きます。都落ちして其粕谷にすでに十七年を過ごして、私が五十六、妻が五十、頭は追々白くなって、気は恒春園の恒に若く、荒れた園圃と朽ち行く家の中にやがて一陽来復の時を待ちつゝ日一日と徐に私共の仕事をすすめて居ます。

書きたい事に切りがありませんが、其は他日の機会に譲って、読者諸君の健康を祝しつつここに一先(ひとま)ず此手紙の筆を擱(さしお)きます。

大正十二年十二月三十日

東京府 北多摩郡

千歳村 粕谷

恒春園に於て

徳冨健次郎

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Last Modified: Wednesday, February 03, 2016
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