みみずのたはこと

Mimizu no tawakoto

徳富蘆花 Tokutomi Roka

故人に

一

儂(わし)の村住居(むらずまい)も、満六年になった。暦(こよみ)の齢(とし)は四十五、鏡を見ると頭髪(かみ)や満面の熊毛に白いのがふえたには今更(いまさら)の様に驚く。

元来田舎者のぼんやり者だが、近来ます/\杢兵衛(もくべえ)太五作式になったことを自覚する。先日上野を歩いて居たら、車夫(くるまや)が御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。後(あと)でぺろり舌を出されるとは知りながら、上等のを否(いや)極(ごく)上等(じょうとう)のをと気前を見せて言い値(ね)でさっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。然し店硝子(みせがらす)にうつる乃公(だいこう)の風采(ふうさい)を見てあれば、例令(たとえ)其れが背広(せびろ)や紋付羽織袴であろうとも、着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔(ひげがお)の間抜け加減、如何に贔屓眼(ひいきめ)に見ても――いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑(にがわら)いして帰って来る始末。此程村の巡査が遊びに来た。日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、十五歳を満二十歳と偽り軍夫になって澎湖島(ほうことう)に渡った経歴もある男で、今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。其巡査の話に、正服(せいふく)帯剣(たいけん)で東京を歩いて居ると、あれは田舎のお廻(まわ)りだと辻待(つじまち)の車夫がぬかす。如何して分(わ)かるかときいたら、眼(め)で知れますと云ったと云って、大笑した。成程(なるほど)眼で分かる――さもありそうなことだ。鵜(う)の目、鷹の目、掏摸(すり)の眼、新聞記者の眼、其様(そん)な眼から見たら、鈍如(どんより)した田舎者の眼は、嘸(さぞ)馬鹿らしく見えることであろう。実際馬鹿でなければ田舎住居は出来(でき)ぬ。人にすれずに悧巧になる道はないから。

東京に出ては儂(わし)も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。儂の生活状態も大分変った。君が初めて来た頃の彼(あの)あばら家とは雲泥(うんでい)の相違だ。尤も何方が雲か泥(どろ)かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。引越した年の秋、お麁末(そまつ)ながら浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。以前は一切無門関、勝手(かって)に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で驚いて朝寝の眠(ねむり)をさましたもので、乞食(こじき)物貰(ものもら)い話客千客万来であったが、今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬(めがき)や、楆(かなめ)、萩ドウダンの生牆(いけがき)をめぐらし、外から手をさし入れて明けられる様(よう)な形ばかりのものだが、大小(だいしょう)六つの門や枝折戸が出入口を固(かた)めて居る。己(われ)と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑(おか)しくもある。但花や果物を無暗に荒(あら)されたり、無遠慮なお客様に擾(わずら)わさるゝよりまだ可と思うて居る。個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩(けんか)、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。

「後生願わん者は糂粏甕(じんたがめ)一つも持つまじきもの」とは実際だ。物の所有は隔ての原(もと)で、物の執着(しゅうちゃく)は争の根(ね)である。儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、煉瓦塀(れんがべい)上(うえ)に硝子の破片を剣の山と植(う)えたりはせぬつもりだが、何、程度(ていど)の問題だ、これで金でも出来たら案外其様(そん)な事もやるであろうよ。

二

畑の物は可なり出来る。昨年は陸穂(おかぼ)の餅米が一俵程出来たので、自家で餅を舂いた。今年は大麦三俵籾(もみ)で六円なにがしに売った。田園生活をはじめてこゝに六年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。去年は月に十日宛(ずつ)きまった作男を入れたが、美的百姓と真物(ほんもの)の百姓とは反(そ)りが合わぬ所から半歳足らずで解雇(かいこ)してしまい、時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。自分も時々やる。少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗(きれい)になり、稀に肥桶を担(かつ)ぐと直ぐ肩が腫(は)れる。元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。最早(もう)地味(ちみ)に合わぬ球葱(たまねぎ)を無理に作ろうともせぬ。最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。甘藷苗の竪植(たてうえ)もせぬ。心(しん)をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減(かげん)も、兎やら角やら先生なしにやって行ける。毎年儂(わし)は蔬菜(そさい)花卉(かき)の種(たね)を何円(なんえん)と云う程買う。無論其れ程の地積(ちせき)がある訳(わけ)でも必要がある訳でも無いが、種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。蒔(ま)いてしまうのも中々骨だから、育(そだ)ったら事だが、幸か不幸か種の大部分は地に入(はい)って消えて了う。其度毎(そのたびごと)に種苗店の不徳義、種子の劣悪(れつあく)を罵(ののし)るが、春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。馬鹿な事さ。然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果(けっか)には活きぬ。馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。

時の経(た)つは速いものだ。越(こ)した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来た。砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。苺(いちご)は毎年移してばかり居たが、今年は毎日喫飽(くいあき)をした上に、苺のシイロップが二合瓶(ごうびん)二十余出来た。生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅(か)られて萩籬の料になったり、林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実になったり、杉籬の剪(はさ)みすてが焚附(たきつけ)になり、落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物(たまもの)である。追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植(いしょく)し、中一年を置いてまた庭の一隅(いちぐう)へ移(うつ)し植えた二尺八寸廻(まわ)りの全手葉椎(マテバシイ)が、此頃では梢の枝葉も蕃茂(はんも)して、何時花が咲いたか、つい此程内(うち)の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。と見て、妻が更に五六粒(つぶ)拾った。「椎が実(な)った! 椎が実った!」驩喜(かんき)の声が家に盈(み)ちた。田舎住居は斯様な事が大(たい)した喜の原になる。一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。儂が植えた樹木は、大抵(たいてい)根づいた。儂自身も少しは村に根を下(おろ)したかと思う。

三

少しはと儂は云うた。実は六年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。固有の背水癖で、最初戸籍(こせき)までひいて村の者になったが、過る六年の成績を省(かえりみ)ると、儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。村のポリチックスには無論超然主義を執る。燈台下暗くして、東京近くの此村では、青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。儂は唯傍観して居る。郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。村の小さな耶蘇教会にすらも殆(ほとん)ど往(い)かぬ。昨年まで年に一回の月番役を勤めたが、月番の提灯を預(あずか)ったきりで、一切の事務は相番(あいばん)の肩に投げかけるので、皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ植木屋の亭主、位なもので、村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。儂は最初一の非望(ひぼう)を懐いて居た。其は吾家の燈火(あかり)が見る人の喜悦になれかしと謂(い)うのであった。多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥(きはず)かしくなって、儂(わし)は一切(いっさい)説法(せっぽう)をよした。而して吾儘一ぱいの生活をして居る。儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅(たび)の人、宿れる人、見物人なのである。然しながら生年百に満たぬ人(ひと)の生(いのち)の六年は、決して短い月日では無い。儂は其六年を已に村に過して居る。儂が村の人になり切れぬのは事実である。然し儂が少しも村を愛(あい)しないと云うのは嘘(うそ)である。ちと長い旅行でもして帰って来る姿(すがた)を見かけた近所の子供に「何処(どけ)へ往ったンだよゥ」と云われると、油然(ゆうぜん)とした嬉しさが心の底(そこ)からこみあげて来る。

東京が大分(だいぶ)攻め寄せて来た。東京を西に距(さ)る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮(しお)ひく汐(しお)の余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使う様(よう)になって、薪の需用が減った結果か、村の雑木山が大分拓(ひら)かれて麦畑(むぎばたけ)になった。道側の並木の櫟(くぬぎ)楢(なら)なぞ伐られ掘られて、短冊形の荒畑(あらばた)が続々出来る。武蔵野の特色なる雑木山を無惨〻〻(むざむざ)拓かるゝのは、儂にとっては肉を削(そ)がるゝ思(おもい)だが、生活がさすわざだ、詮方(せんかた)は無い。筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、要するに曩時(むかし)の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。儂が最初買うた地所は坪四十銭位であったが、此頃は壱円以上二円も其上もする様になった。地所買いも追々入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込(こ)まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見(わきみ)する毎に、儂は眉を顰(ひそ)めて居る。要するに東京が日々攻め寄せる。以前聞かなかった工場(こうば)の汽笛なぞが、近来(きんらい)明け方の夢を驚かす様になった。村人も寝(ね)ては居られぬ。十年前の此村を識って居る人は、皆が稼ぎ様の猛烈(もうれつ)になったに驚いて居る。政党騒(せいとうさわ)ぎと賭博は昔から三多摩の名物(めいぶつ)であった。此頃では、選挙争に人死(ひとじに)はなくなった。儂が越して来た当座(とうざ)は、まだ田圃向うの雑木山に夜灯(よるあかり)をとぼして賭博をやったりして居た。村の旧家の某が賭博に負(ま)けて所有地一切勧業銀行の抵当(ていとう)に入れたの、小農の某々が宅地(たくち)までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。然し此の数年来(すうねんらい)賭博風(とばくかぜ)は吹き過ぎて、遊人と云う者も東京に往ったり、比較的(ひかくてき)堅気(かたぎ)になったりして、今は村民一同真面目(まじめ)に稼いで居る。其筋の手入れが届くせいもあるが、第一遊(あそ)んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。

四

儂の家族は、主人夫婦(あるじふうふ)の外明治四十一年の秋以来兄の末女をもらって居る。名を鶴(つる)と云う。鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。三歳の年貰(もら)って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱(ひよわ)い児であったが、此の頃は中々強健(きょうけん)になった。もらい立(たて)は、儂が結(ゆ)いつけ負(おん)ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽(らく)に歩いたものだが、此の頃では身長三尺五寸、体量(たいりょう)四貫余。友達が無いが淋(さび)しいとも云わず育(そだ)って居る。子供は全く田舎で育てることだ。紙鳶(たこ)すら自由に飛ばされず、毬(まり)さえ思う様にはつけず、電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車(にぐるま)、馬と怪俄(けが)させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育(そだ)つ子供は、本当に惨(みじめ)なものだ。雨にぬれて跣足(はだし)で跑(か)けあるき、栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。儂等(わしら)親子(おやこ)三人の外に、女中が一人。阿爺(おやじ)が天理教に凝って資産を無くし、母に死別れて八歳から農家の奉公に出て、今年二十歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。東郷大将(とうごうたいしょう)の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。明治天皇(めいじてんのう)崩御(ほうぎょ)の際、妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込(うちこ)むべく大骨折った。天皇陛下を知らぬ程(ほど)だから、無論皇后陛下(こうごうへいか)や皇太子殿下を知る筈が無い。明治天皇崩御の合点(がてん)が行くと、曰(いわ)くだ、ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸(さぞ)困るでしょうねェ。御維新後四十五年、帝都(ていと)を離(はな)るゝ唯三里、加之(しかも)二十歳の若い女に、まだ斯様な葛天氏(かつてんし)無懐氏の民が居ると思えば、イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。斯無懐氏の女の外(ほか)に、テリアル種の小さな黒(くろ)牝犬(めいぬ)が一匹。名をピンと云う。鶴子より一月(ひとつき)前(まえ)にもらって、最早(もう)五歳(いつつ)、顎(あご)のあたりの毛が白くなって、大分(だいぶ)お婆(ばあ)さんになった。毎年二度三疋四疋宛(ずつ)子を生む。ピンの子孫(しそん)が近村に蕃殖した。近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。徒歩でも車でも出さえすると屹度跟(つ)いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨(ほね)らしい。一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。今一疋デカと云うポインタァ種(しゅ)の牡犬(おいぬ)が居る。甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。デカダンを意味(いみ)したのでは無い。獰猛(どうもう)な相貌をした虎毛(とらげ)の犬で、三四疋位の聯合軍(れんごうぐん)は造作もなく噛(か)み伏せる猛犬(もうけん)だったので、競争者を追払ってずる/\にピンの押入聟(むこ)となった訳(わけ)である。儂も久しく考(かんが)えた末、届と税を出し、天下(てんか)晴(は)れて彼を郎等(ろうどう)にした。郎等先生此頃では非常に柔和になった。第一眼光が違う。尤も悪(わる)い癖(くせ)があって、今でも時々子供を追(おい)かける。噛みはせぬが、威嚇(いかく)する。彼が流浪(るろう)時代に子供に苛(いじ)められた復讎心(ふくしゅうしん)が消えぬのである。子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛(かあい)がらぬのであろう。直ぐ畜生(ちきしょう)と云っては打ったり石を投げたりする。矢張大人の真似を子供はするのであろう。禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格(しかく)が無い。犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人(ちょうせんじん)台湾人(たいわんじん)をいじめる大人である。ある犬通の話に、野犬(やけん)の牙は飼犬(かいいぬ)のそれより長くて鋭く、且外方(そっぽう)へ向(む)くものだそうだ。生物(せいぶつ)には飢(うえ)程恐ろしいものは無い。食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。野武士(のぶし)のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。其かわり以前の強味はなくなった。富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱(よわ)くなったのも逭(のが)れぬ処であろう。以上二頭の犬の外、トラと云う雄猫(おねこ)が居る。犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳(たたみ)の上より土に寝(ね)るが好きで、儂等が出あるくと兎(うさぎ)の如(ごと)くピョン/\はねて跟(つ)いて来る。米の飯(めし)より麦(むぎ)の飯、魚(さかな)よりも揚豆腐が好きで、主人を見真似たか梨や甜瓜(まくわ)の喰い残りをがり/\噛(かじ)ったり、焼いた玉蜀黍(とうもろこし)を片手で押えてわんぐり噛(か)みつきあの鋭い牙で粒を食(く)いかいてはぼり/\噛ったり、まさに田園(でんえん)の猫である。来客があって、珍(めず)らしく東京から魚を買ったら、トラ先生早速(さっそく)口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎(よだれ)をたらし、人騒(さわ)がせをしてよう/\命だけは取りとめた。犬猫の外に鶏が十羽。蜜蜂は二度飼(か)って二度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。天井(てんじょう)の鼠、物置の青大将(あおだいしょう)、其他無断同居のものも多いが、此等(これら)は眷族(けんぞく)の外である。(著者追記。犬のデカは大正二年の二月自動車に轢(ひ)かれて死に、猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)

猫の話で思い出したが、儂(わし)は明治四十二年の春、塩釜(しおがま)の宿で牡蠣(かき)を食った時から菜食(さいしょく)を廃(よ)した。明治三十八年十二月から菜食をはじめて、明治三十九、四十、四十一、と満三年の精進(しょうじん)、云わば昔の我に対する三年の喪(も)をやったようなものだ。以前はダシにも昆布(こんぶ)を使った。今は魚鳥獣肉何でも食(く)う。猪肉や鯛は尤も好物だ。然し葷酒(くんしゅ)(酒はおまけ)山門(さんもん)に入るを許したばかりで、平素の食料(しょくりょう)は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食(にくじき)はせぬから、折角の還俗(げんぞく)も頗る甲斐(かい)がない訳である。甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、都会(とかい)に溢るゝ鯷(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。ある時、東京式に若者が二人威勢(いせい)よく盤台を担(かつ)いで来たので、珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節(なまりぶし)が五六本に鮪(まぐろ)の切身が少々、それから此はと驚かされたのは血(ち)だらけの鯊(さめ)の頭だ。鯊の頭にはギョッとした。蒲鉾屋(かまぼこや)からでも買い出して来たのか。誰が買うのか。ダシにするのか。煮(に)て食うのか。儂は泣きたくなった。一生の思出に、一度は近郷(きんごう)近在(きんざい)の衆を呼んで、ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪(ゆき)の様(よう)な米の飯(めし)で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。実際此処では魚(さかな)と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖(さば)や鮪に酔(よ)うたのである。此頃は、儂の健啖(けんたん)も大に減った。而して平素菜食の結果、稀(まれ)に東京で西洋料理なぞ食っても、甘(うま)いには甘いが、思う半分も喰(く)えぬ。最早儂の腸胃も杢兵衛式(もくべえしき)になった。

五

書(ほん)が沢山(たくさん)ある家(うち)、学を読む家、植木が好きな家、もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。儂を最初村に手引した石山君は、村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村(ちとせむら)を風靡する心算(つもり)であったらしい。然し其は石山君の失望であった。儂は何処までも自己本位の生活をした。ある学生は、あなたの故郷(こきょう)は此処(ここ)では無い、大きな樹木(じゅもく)を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。儂は顧みなかった。古い家ながら小人数(こにんず)には広過ぎる家(うち)を建て、盛に果樹観賞木を植え、一切(いっさい)永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕(てんと)であらねばならぬことを知らぬでは無かった。また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否(いな)むことは出来なかった。従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。だから儂は落ちつきたかった。執着(しゅうちゃく)がして見たかった。自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。而して六年間孜々(しし)として吾巣を構えた。其結果は如何である? 儂が越して程なく要(よう)あって来訪した東京の一紳士(しんし)は、あまり見すぼらしい家の容子(ようす)に掩い難い侮蔑を見せたが、今年来て見た時は、眼色に争(あらそ)われぬ尊敬を現わした。其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井(くるまい)の釣瓶なぞに随喜したが、此頃ではつい近所に来て泊っても寄(よ)っても往(い)かなくなった。即儂(わし)の田園生活は、或眼からは成功で、或眼からは堕落に終ったのである。

堕落か成功か、其様(そん)な屑々(けち)な評価は如何でも構わぬ。儂は告白する、儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌(いや)ではない。儂はヨリ多く田舎を好むが、都会(とかい)を捨(す)てることは出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居(すまい)は武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐(かい)東部の山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場(たちば)と慾望を示して居るとも云える。斯慾望が何処まで衝突なく遂(と)げ得らるゝかは、疑問である。此両趣味の結婚は何ものを生(う)み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。唯儂一個人としては、六年の田舎住居(いなかずまい)の後、いさゝか獲(え)たものは、土に対する執着の意味をやゝ解(かい)しはじめた事である。儂は他郷から此村に入って、唯六年を過ごしたに過ぎないが、それでも吾(わ)が樹木(じゅもく)を植え、吾が種を蒔(ま)き、我が家を建て、吾が汗を滴(た)らし、吾(わが)不浄(ふじょう)を培(つちか)い、而してたま/\死(し)んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭(いくとう)幾羽(いくわ)を葬った一町にも足らぬ土が、今は儂にとりて着物(きもの)の如く、寧(むしろ)皮膚(ひふ)の如く、居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪(た)えぬ程愛着を生じて来た。己(おのれ)を以て人を推せば、先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其一端(いったん)を覗(うかが)うことが出来る。斯(この)執着(しゅうちゃく)の意味を多少とも解し得る鍵(かぎ)を得たのは、田舎住居の御蔭(おかげ)である。

然しながら己(わ)が造った型(かた)に囚(とら)われ易いのが人の弱点である。執着は常に力であるが、執着は終に死である。宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。蛇が衣(から)を脱ぐ如く、人は昨日(きのう)の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生(うま)れねばならぬ。儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、果して此処(ここ)に永住し得るや否、疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。

大正元年十二月二十九日

都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕

武蔵野粕谷の里にて

徳冨健次郎

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Last Modified: Wednesday, February 03, 2016
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