みみずのたはこと

Mimizu no tawakoto

徳富蘆花 Tokutomi Roka

都落ちの手帳から

千歳村

一

明治三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家(すみか)を探すべく東京から玉川(たまがわ)の方へ出かけた。

彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇(やそ)の旧跡と、まだ生きて居たトルストイの村居(そんきょ)にぶらりと順礼に出かけて、其八月にぶらりと帰って来た。帰って何を為(す)るのか分からぬが、兎(と)に角(かく)田舎住居をしようと思って帰って来た。先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、往(い)ったら如何だと云う。伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、では何日(なんにち)に案内者をよこそう、と牧師は云うた。

約束の日になった。案内者は影も見せぬ。無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓(したつづみ)をうって、案内者なしに妻と二人(ふたり)西を指して迦南(カナン)の地を探がす可く出かけた。牧師は玉川の近くで千歳村(ちとせむら)だと大束(おおたば)に教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込(こ)んで、例の如くぶらりと出かけた。

二

「家を有つなら草葺(くさぶき)の家、而して一反でも可(いい)、己が自由になる土を有ちたい」

彼は久しく、斯様な事を思うて居た。

東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳(わけ)である。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑(たはた)を有って居たが、其土は銭に化けて追々(おいおい)消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早一撮(ひとつまみ)の土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。

彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後(ひご)の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺(かわらぶき)の一棟が建増されたが、母屋(おもや)は久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨の雫(しずく)の様に、昔(むかし)のなつかし味が彼の頭脳に滲(し)みて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末(すえ)で、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生(ごうせんせい)をする傍、殖産興業の率先をすると謂って、女(むすめ)を製糸場の模範工女にしたり、自家(じか)でも養蚕(ようさん)製糸(せいし)をやったり、桑苗販売(そうびょうはんばい)などをやって、いつも損ばかりして居た。桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛(ほう)り出して、柄(え)の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌(いや)になり、疳癪(かんしゃく)を起してやめてしまうが例であった。

父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹(しんじゅ)などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗(さとうきび)など標本的に試作(しさく)した。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時菓樹(かじゅ)は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効(こう)があると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木(わかき)の膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵(たてきず)をつけて歩いたこともあった。子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻(まわ)り、甘蔗と間違えて西洋箒黍(ほうききび)を噛(か)んで吐き出したり、未熟の水瓜を窃(そっ)と拳固で打破って川に投げ込んで素知(そし)らぬ顔して居たり、悪戯(いたずら)ばかりして居た。十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。其家には十四になる娘があったので、当座は真面目に養蚕稽古(げいこ)もしたが、一年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。但右の養蚕家入門中、桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌(てのひら)の拇指(おやゆび)の根にざっくり切り込んだ其疵痕(きずあと)は、彼が養蚕家としての試みの記念(きねん)として今も三日月形に残って居る。

斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。

三

青山高樹町の家(うち)をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有(とあ)る饂飩屋(うどんや)に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知(きゅうち)の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿(しゅく)のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊(じぞうそん)の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早(もう)千歳村(ちとせむら)であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行に難(なや)む。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。漸(ようや)く小さな流れに出た。流れに沿(そ)うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺(くさぶき)の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処(ここ)は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。

会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家(うち)に寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方(どちら)と云うたら、かみさんはふッと噴(ふ)き出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。

尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴(みはら)しも何も無い桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした五十余の婦(おんな)が、案内を請う彼の声に出て来た。会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。トタン葺(ぶき)の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵(どぞう)など見えた。暫(しばら)くすると、草鞋ばきの人が出て来た。私が石山(いしやま)八百蔵(やおぞう)と名のる。年の頃五十余、頭の毛は大分禿(は)げかゝり、猩々(しょうじょう)の様な顔をして居る。あとで知ったが、石山氏は村の博識(ものしり)口利(くちきき)で、今も村会議員をして居るが、政争の劇(はげ)しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、白刃の間を潜(くぐ)って来た男であった。推参(すいさん)の客は自ら名のり、牧師の紹介(しょうかい)で会堂を見せてもらいに来たと云うた。石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、尊名は初めてだと、飛白(かすり)の筒袖羽織、禿(ち)びた薩摩下駄(さつまげた)、鬚髯(ひげ)もじゃ/\の彼が風采(ふうさい)と、煤竹(すすたけ)色の被布を着て痛そうに靴(くつ)を穿(は)いて居る白粉気も何もない女の容子(ようす)を、胡散(うさん)くさそうにじろじろ見て居た。然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐(じゅっかい)を聞いて、やゝ小首を傾(かし)げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰(もら)い申して、月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚(おうよう)な態度を石山氏はとった。兎に角会堂を見せてもろうた。天井(てんじょう)の低い鮓詰(すしづめ)にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、裏に小さな部屋(へや)があった。もと耶蘇教の一時繁昌した時、村を西へ距(さ)る一里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。

会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。

晩秋の日は甲州(こうしゅう)の山に傾き、膚寒い武蔵野(むさしの)の夕風がさ/\尾花を揺(ゆ)する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。何処(どこ)やらで夕鴉(ゆうがらす)が唖々と鳴き出した。我儕(われら)の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。

甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。唯有(とあ)る店で、妻は草履(ぞうり)を買うて、靴をぬぎ、三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。

都落ち

一

二月ばかり経(た)った。

明治四十年の一月である。ある日田舎の人が二人青山高樹町の彼(かれ)が僑居(きょうきょ)に音ずれた。一人は石山氏、今一人は同教会執事角田新五郎氏であった。彼は牧師に招聘(しょうへい)されたのである。牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。

彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川(たまがわ)は一里の余もあると云う。風景も平凡(へいぼん)である。使って居た女中(じょちゅう)は、江州(ごうしゅう)彦根在の者で、其郷里地方(きょうりちほう)には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、譃(うそ)の様に廉(やす)い地面家作の売物(うりもの)があると云う。江州――琵琶湖東(びわことう)の地、山美しく水清く、松茸が沢山(たくさん)に出て、京奈良に近い――大に心動いて、早速郷里に照会(しょうかい)してもらったが、一向に返事が来ぬ。今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込(ひきこ)む者があろうか、戯談(じょうだん)に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇(むやみ)と乗地(のりじ)になって、幸(さいわ)い三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。

一は上祖師ヶ谷で青山(あおやま)街道(かいどう)に近く、一は品川へ行く灌漑(かんがい)用水の流れに傍(そ)うて居た。此等(これら)は彼が懐(ふところ)よりも些(ちと)反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所(じしょ)で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫(しらかし)の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑(むぎばたけ)になって、家の後は小杉林から三角形の櫟林(くぬぎばやし)になって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字(となりあざ)の大工の有であった。其大工の妾(めかけ)とやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。

石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。

手金を渡すと、今度は彼があせり出した。万障(ばんしょう)一排(いっぱい)して二月二十七日を都落(みやこおち)の日と定め、其前日二十六日に、彼等夫婦は若い娘を二人連れ、草箒(くさぼうき)と雑巾(ぞうきん)とバケツを持って、東京から掃除(そうじ)に往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。雲雀(ひばり)の歌が纔(わずか)に一同の心を慰めた。

来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、先住(せんじゅう)の人々はまだ仕舞(しま)いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。以前石山君の壮士(そうし)をしたと云う家主(やぬし)の大工とも挨拶(あいさつ)を交換した。其妾と云う髪(かみ)を乱(みだ)した女は、都の女等を憎(に)くさげに睨(にら)んで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩(いこ)うた。小さな墓場一つ隔てた東隣(ひがしどなり)の石山氏の親類だと云う家(うち)のおかみが、莚(むしろ)を二枚貸してくれ、土瓶の茶や漬物の丼(どんぶり)を持て来てくれたので、彼等は莚の上に座(すわ)って、持参の握飯を食うた。

十五六の唖に荷車を挽(ひ)かして、出る人々はよう/\出て往った。待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。引越しあとの空家(あきや)は総じて立派なものでは無いが、彼等はわが有(もの)になった家(うち)のあまりの不潔に胸をついた。腐れかけた麦藁屋根(むぎわらやね)、ぼろ/\崩(くず)れ落ちる荒壁、小供の尿(いばり)の浸(し)みた古畳(ふるだたみ)が六枚、茶色に煤(すす)けた破れ唐紙が二枚、蠅(はえ)の卵(たまご)のへばりついた六畳一間の天井と、土間の崩れた一つ竈(へっつい)と、糞壺(くそつぼ)の糞と、おはぐろ色した溷(どぶ)の汚水(おすい)と、其外あらゆる塵芥(ごみ)を残して、先住は出て往った。掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。彼は憤然(ふんぜん)として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床(ゆか)の上に飛び上り、ヤケに塵の雲を立てはじめた。女連も是非なく手拭(てぬぐい)かぶって、襷(たすき)をかけた。

二月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶(そそくさ)と帰途に就いた。今日(きょう)も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸(ようや)く新宿に辿(たど)り着いた時は、女連はへと/\になって居た。

二

明くれば明治四十年二月二十七日。ソヨとの風も無い二月には珍らしい美日(びじつ)であった。

村から来てもらった三台の荷馬車と、厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、臼田(うすだ)氏、角田勘五郎氏の息子、以上四台の荷車に荷物をのせて、午食(ひる)過ぎに送り出した。荷物の大部分は書物と植木であった。彼は園芸(えんげい)が好きで、原宿五年の生活に、借家(しゃくや)に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立(かぶだち)の榛(はん)の木まで、駄々を捏(こ)ねて車に積んでもろうた。宰領(さいりょう)には、原宿住居の間よく仕事に来た善良(ぜんりょう)な小男の三吉と云うのを頼んだ。

加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、おの/\告別して出て往った。暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。隣に住む家主は、病院で重態であった。其細君(さいくん)は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別(わかれ)を告げねばならなかった。別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札(かしやふだ)が張られてあった。

彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、手々に手廻(てまわ)りのものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余ガタくり、馭者(ぎょしゃ)に教えてもらって、上高井戸(かみたかいど)の山谷(さんや)で下りた。

粕谷田圃に出る頃、大きな夕日(ゆうひ)が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色(こんじき)の光明を浴(あ)びた。都落ちの一行三人は、長い影(かげ)を曳(ひ)いて新しい住家(すみか)の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車(くるま)の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。人と荷物は両花道(りょうはなみち)から草葺の孤屋(ひとつや)に乗り込んだ。

昨日(きのう)掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁(へり)無しの新畳が、六畳二室に敷かれて、流石に人間の住居らしくなって居た。昨日頼んで置いたので、先家主の大工(だいく)が、六畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏(やねうら)を隠す可く粗末な天井を張って居た。

日の暮れ/″\に手車(てぐるま)の諸君も着いた。道具(どうぐ)の大部分は土間に、残りは外に積(つ)んで、荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。兎も角もランプをつけて、東京から櫃(おはち)ごと持参(じさん)の冷飯で夕餐(ゆうげ)を済まし、彼等夫妻は西の六畳に、女中と三吉は頭合せに次の六畳に寝た。

明治の初年、薩摩近い故郷(こきょう)から熊本に引出で、一時寄寓(きぐう)して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、八歳の兄は「破れ家でも吾家(わがいえ)が好い」と喜んで踊ったそうである。

生れて四十年、一反(たん)五畝(せ)の土と十五坪の草葺のあばら家(や)の主(ぬし)になり得た彼は、正に帝王(ていおう)の気もちで、楽々(らくらく)と足踏み伸ばして寝たのであった。

村入

引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速(さっそく)田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。三吉は植木(うえき)を植えて了うて、「到底一年とは辛抱(しんぼう)なさるまい」と女中に囁(ささ)やいて帰って往った。昨日荷車を挽(ひ)いた諸君が、今日も来て井戸を浚(さら)えてくれた。家主の彼は、半紙二帖、貰物(もらいもの)の干物少々持って、近所四五軒に挨拶に廻(まわ)った。其翌日は、石山氏の息子の案内で、一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両(りょう)角田君(つのだくん)は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家(うち)は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下(お)りたり、富士大山から甲武連山(こうぶれんざん)を色々に見る原に上ったり、霜解(しもどけ)の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。千歳村は以上三の字(あざ)の外、船橋(ふなばし)、廻沢(めぐりさわ)、八幡山(はちまんやま)、烏山(からすやま)、給田(きゅうでん)の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍(そ)い、余は何れも街道の南北一里余の間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早(もう)そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子(むすこ)が教えてくれた。

期日は三月一日、一月おくれで年中行事をする此村では二月一日、稲荷講(いなりこう)の当日である。礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更(あらた)めて、午後石山氏に跟(つ)いて当日の会場たる下田氏の家に往った。

其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、小高い堤(どて)を流るゝ品川堀(しながわぼり)と云う玉川浄水の小さな分派(わかれ)に沿うて居た。村会議員も勤むる家(うち)で、会場は蚕室(さんしつ)の階下であった。千歳村でも戸毎に蚕(かいこ)は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。板の間に薄べり敷(し)いて、大きな欅の根株(ねっこ)の火鉢が出て居る。十五六人も寄って居た。石山氏が、

「これは今度東京から来(き)されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某(なにがし)さんで」

と紹介(しょうかい)する。其尾について、彼は両手(りょうて)をついて鄭重(ていちょう)にお辞儀(じぎ)をする。皆が一人〻〻(ひとりひとり)来ては挨拶する。石山氏の注意で、樽代(たるだい)壱円仲間入のシルシまでに包んだので、皆がかわる/″\みやげの礼(れい)を云う。粕谷は二十六軒しかないから、東京から来て仲間に入(はい)ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。会衆中で唯(ただ)一人チョン髷(まげ)に結った腫(は)れぼったい瞼(まぶた)をした大きな爺(じい)さんが「これははァ御先生様(ごせんせいさま)」と挨拶した。

やがてニコ/\笑って居る恵比須顔(えびすがお)の六十許(ばかり)の爺さんが来た。石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。

二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。煙草(たばこ)の烟(けむり)。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合(てあい)もある。米の値段の話から、六十近い矮(ちいさ)い真黒な剽軽(ひょうきん)な爺さんが、若かった頃米が廉(やす)かったことを話して、

「俺(わし)と卿(おまえ)は六合の米よ、早くイッショ(一緒(いっしょ)、一升(しょう))になれば好い」

なんか歌ったもンだ、と中音(ちゅうおん)に節(ふし)をつけて歌い且話して居る。

腰の腫物(はれもの)で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛(くつう)の石山氏の注意で、雑談会(ざつだんかい)はやおら相談会に移った。慰兵会の出金問題(しゅっきんもんだい)、此は隣字から徴兵(ちょうへい)に出る時、此字から寸志を出す可きや否の問題である。馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、結局出すと云う事に決する。

其れから衛生委員(えいせいいいん)の選挙、消防長の選挙がある。テーブルが持ち出される。茶盆(ちゃぼん)で集めた投票(とうひょう)を、咽仏(のどぼとけ)の大きいジャ/\声(ごえ)の仁左衛門さんと、むッつり顔の敬吉(けいきち)さんと立って投票の結果を披露(ひろう)する。彼が組頭の爺さんが、忰(せがれ)は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、皆が寄ってたかって無理やりに納得(なっとく)さす。

此れで事務はあらかた終った。これからは肝心(かんじん)の飲食(のみくい)となるのだが、新村入(しんむらいり)の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末(しまつ)なので、一座(いちざ)に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人達(だち)に遠(とお)ながら目礼して引揚げた。

*

日ならずして彼は原籍地(げんせきち)肥後国葦北郡水俣から戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。子供の頃、自分は士族だと威張(いば)って居た。戸籍を見れば、平民とある。彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。それを知らなかったのである。吾れから捨(す)てぬ先(さ)きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、魯智深(ろちしん)の髯(ひげ)ではないが、些(ちと)惜しい気もちがせぬでもなかった。兎に角彼は最早浪人(ろうにん)では無い。無宿者でも無い。天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。

水汲み

玉川に遠いのが第一の失望で、井(いど)の水の悪いのが差当っての苦痛であった。

井は勝手口(かってぐち)から唯六歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根(むぎわらやね)が通路と井を覆(おお)うて居る。上窄(うえすぼま)りになった桶(おけ)の井筒(いづつ)、鉄の車(くるま)は少し欠(か)けてよく綱がはずれ、釣瓶(つるべ)は一方しか無いので、釣瓶縄(つるべなわ)の一端を屋根の柱に結(ゆ)わえてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨(いかり)を下ろして見たら、渇水(かっすい)の折からでもあろうが、水深(すいしん)が一尺とはなかった。

移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚(いどさら)えをやってくれた。鍋蓋(なべぶた)、古手拭(ふるてぬぐい)、茶碗のかけ、色々の物が揚(あ)がって来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁(にご)り水で、如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。近隣の水を当座(とうざ)は貰(もら)って使ったが、何れも似寄(によ)った赤土水である。墓向うの家の水を貰いに往った女中が、井を覗(のぞ)いたら芥(ごみ)だらけ虫だらけでございます、と顔を蹙(しか)めて帰って来た。其向う隣の家に往ったら、其処(そこ)の息子が、此(この)家(うち)の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、と得意になって吹聴したが、其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。

使い水は兎に角、飲料水(いんりょうすい)だけは他に求めねばならぬ。

家(うち)から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水(ながれ)がある。玉川上水(たまがわじょうすい)の分派で、品川方面の灌漑専用(かんがいせんよう)の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓(おしめ)の洗濯もする、肥桶も洗う。何(な)ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲(みずく)む役を引受けた。起きぬけに、手桶(ておけ)と大きなバケツとを両手に提げて、霜を䠖(ふ)んで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水摩擦(まさつ)をやる。日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、面(めん)籠手(こて)かついで朝稽古から帰って来る村の若者が「冷たいでしょう」と挨拶することもあった。摩擦を終って、膚(はだ)を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々(なみなみ)と水を汲み上げると、ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。耐(こら)えかねて下ろす。腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七分(ぶ)に減って居る。其れから半丁に一休(ひとやすみ)、また半丁に一憩(ひといこい)、家を目がけて幾休みして、やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。両腕はまさに脱(ぬ)ける様だ。斯くして持ち込まれた水は、細君(さいくん)女中(じょちゅう)によって金漿(きんしょう)玉露(ぎょくろ)と惜(おし)み/\使われる。

余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂(どうげんざか)で天秤棒(てんびんぼう)を買って来た。丁度(ちょうど)股引(ももひき)尻(しり)からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、理想を実行すると笑止(しょうし)な顔で笑われた。買って戻(もど)った天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けに担(にの)うて、汐汲(しおく)みならぬ髯男の水汲と出かけた。両手に提げるより幾何(いくら)か優(まし)だが、使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。天秤棒に肩を入れ、曳(えい)やっと立てば、腰がフラ/\する。膝はぎくりと折(お)れそうに、体は顛倒(ひっくりかえ)りそうになる。呍(うん)と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。思い切って蹌踉(ひょろひょろ)とよろけ出す。十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷(に)を下(お)ろす。尻餅舂(つ)く様に、捨てる様に下ろす。下ろすのではない、荷が下りるのである。撞(どう)と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。下ろすのも厄介だが、また担(かつ)ぎ上げるのが骨だ。路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。鼻息は暴風(あらし)の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、脊髄(せきずい)から後頭部にかけ強直症(きょうちょくしょう)にかゝった様に一種異様の熱気(ねつけ)がさす。眼が真暗になる。頭がぐら/\する。勝手もとに荷を下ろした後(のち)は、失神した様に暫くは物も言われぬ。

早速右の肩が瘤(こぶ)の様に腫(は)れ上がる。明くる日は左の肩を使う。左は勝手(かって)が悪いが、痛い右よりまだ優(まし)と、左を使う。直ぐ左の肩が腫れる。両肩(りょうかた)の腫瘤(こぶ)で人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日(あす)は何で担ごうやら。夢の中にも肩が痛い。また水汲みかと思うと、夜(よ)の明(あ)くるのが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。天秤棒(てんびんぼう)の下にはさんで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体(ぜんたい)誰に頼まれた訳でもなく、誰誉(ほ)めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様(こんな)事(こと)をするのか、と内々愚痴(ぐち)をこぼしつゝ、必要に迫られては渋面(じゅうめん)作って朝々通う。度重(たびかさ)なれば、次第(しだい)に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力(ちから)が出来(でき)、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。今日(きょう)は八分だ、今日は九分だ、と成績(せいせき)の進むが一の楽(たのしみ)になる。

然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛(おおじかけ)に井浚(いどさらえ)をすることにした。赤土(あかつち)からヘナ、ヘナから砂利(じゃり)と、一丈(じょう)余(よ)も掘って、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚(さら)ってしまって、井筒にもたれ、井底(せいてい)深く二つ三つの涌き口から潺々(せんせん)と清水(しみず)の湧く音を聴いた時、最早(もう)水汲みの難行苦行(なんぎょうくぎょう)も後(あと)になったことを、嬉(うれ)しくもまた残惜しくも思った。

憶出のかず/\

一

跟(つ)いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。

意気地の無い亭主に連添(つれそ)うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯(びんぼうじょたい)は可なり持馴れた。自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方(ひとかた)ならず悩(なや)まされた。一番近い隣(となり)が墓地に雑木林(ぞうきばやし)、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母(おば)は「若い女なぞ、一人で留守(るす)は出来ない所ですねえ」と云った。それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣(す)があって、破落戸漢(ならずもの)が多く出入した。一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。「今晩は」と彼が答えた。雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、先刻(さっき)帰ったことを知らなかったのである。大にドキマギした容子(ようす)であったが、調子を更えて「宮前(みやまえ)のお広さん処へは如何(どう)参るのです?」と胡魔化した。宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸(びた)る其賭博(とばく)の巣なのである。主の彼は可笑しさを堪(こら)え、素知らぬ振(ふり)して、宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍(そ)うて、ずッと往(い)って、と馬鹿叮嚀(ばかていねい)に教えてやった。「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。門戸(もんこ)あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。ある時彼が縁に背向(そむ)けて読書して居ると、後(うしろ)に撞(どう)と物が落ちた。彼はふりかえって大きな青大将(あおだいしょう)を見た。葺(ふ)きっぱなしの屋根裏の竹に絡(から)んで衣(から)を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。今一尺縁へ出て居たら、正(まさ)しく彼が頭上に蛇が降(ふ)るところであった。

人烟稀薄な武蔵野(むさしの)は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。中塗(なかぬり)もせぬ荒壁は恣(ほしいまま)に崩れ落ち、床の下は吹き通し、唐紙障子(からかみしょうじ)も足らぬがちの家の内は、火鉢の火位で寒さは防げなかった。農家の冬は大きな炉(ろ)が命(いのち)である。農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。炉の焚火(たきび)、自在(じざい)の鍋は、彼が田園生活の重(おも)なる誘因(ゆういん)であった。然し彼が吾有にした十五坪の此草舎には、小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、周囲(あたり)が狭(せま)くて三人とは座(すわ)れなかった。加之(しかも)其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、熾(さかん)な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。彼は一月(ひとつき)ばかりして面白くない此(この)型(かた)ばかりの炉を見捨てた。先家主の大工や他の人に頼み、代々木新町の古道具屋(ふるどうぐや)で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、肥車(こえぐるま)の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。次の六畳の天井は、煤埃(すすほこり)にまみれた古葭簀(ふるよしず)で、腐(くさ)れ屋根から雨が漏(も)ると、黄ろい雫(しずく)がぼて/\畳に落ちた。屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、盥(たらい)やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。驚いたのは風である。三本の大きなはりがねで家を樫(かし)の木にしばりつけてあるので、風当(かぜあた)りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。西南は右の樫以外一本の木もない吹きはらしなので、南風西風は用捨(ようしゃ)もなくウナリをうってぶつかる。はりがねに縛(しば)られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。富士川の瀬を越す舟底の様に床(ゆか)が跳(おど)る。それに樫の直ぐ下まで一面(いちめん)の麦畑(むぎばたけ)である。武蔵野固有の文言通(もんごんどお)り吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。彼は前年蘇士(スエズ)運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわか劣(おと)る可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る日は、眼鼻口はもとより、押入(おしいれ)、箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)の中まで会釈(えしゃく)もなく舞い込み、歩けば畳に白く足跡がつく。取りも直さず畑が家内(やうち)に引越すのである。

都をば塵の都と厭(いと)ひしに

田舎も土の田舎なりけり

あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴(さ)える、水が荒い。四拍子揃(そろ)って、妻の手足は直ぐ皸(ひび)、霜やけ、あかぎれに飾られる。オリーヴ油(ゆ)やリスリンを塗(ぬ)った位では、血が止まらぬ。主人の足裏(あしうら)も鯊(さめ)の顋(あご)の様に幾重(いくえ)も襞(ひだ)をなして口をあいた。あまり手荒(てあら)い攻撃に、虎伏す野辺までもと跟(つ)いて来た糟糠(そうこう)の御台所(みだいどころ)も、ぽろ/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留(とうりゅう)に来て見ては、零落(れいらく)と思ったのであろ、台所の隅(すみ)で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。

二

主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。何よりも先ず宮益(みやます)の興農園から柄(え)の長い作切鍬、手斧鍬(ちょうなぐわ)、ホー、ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌(しばかりがま)など百姓の武器と、園芸書類(えんげいしょるい)の六韜三略(りくとうさんりゃく)と、種子と苗(なえ)とを仕入れた。一反五畝(せ)の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、大麦小麦が一ぱいで、空地(あきち)と云っては畑の中程に瘠(や)せこけた桑樹と枯れ茅(かや)枯れ草の生えたわずか一畝に足らぬ位のものであった。彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝(うね)を作って、原肥無し季節御構いなしの人蔘(にんじん)二十日大根(はつかだいこん)など蒔(ま)くのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様(ああ)するのかと眼を瞠(みは)って眺(なが)めて居た。作ってある麦は、墓の向うの所謂(いわゆる)賭博(とばく)の宿の麦であった。彼は其一部を買って、邪魔(じゃま)になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。通りかゝりの百姓衆(ひゃくしょうしゅう)に、棕櫚縄(しゅろなわ)を蠅頭(はえがしら)に結ぶ事を教わって、畑中に透籬(すいがき)を結い、風よけの生籬(いけがき)にす可く之に傍(そ)うて杉苗を植えた。無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役(ぞうえき)をした。あらゆる不便と労力とを歓迎した。家から十丁程はなれた塚戸(つかど)の米屋が新村入を聞きつけて、半紙一帖持って御用聞(ごようき)きに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚(はなはだ)不興気(ふきょうげ)な顔をした。

手脚を少し動かすと一廉(いっかど)勉強した様で、汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌(いっぱいきげん)で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶を担(かつ)いだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革(あずきかわ)の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破(うちこわ)してしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広(せびろ)で、北海道にも此れで行き、富士(ふじ)で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜(ろしあ)へも此れで往って、トルストイの家でも持参(じさん)の袷(あわせ)と此洋服を更代(こうたい)に着たものだ。西伯利亜鉄道(シベリアてつどう)の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石(さすが)無頓着(むとんちゃく)な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円(まる)く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物(しろもの)である。此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹(あおだけ)で担いで帰って来ると、八幡様に寄合をして居た村の衆(しゅう)がドッと笑った。引越後(ひっこしご)間(ま)もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路が悪(わる)いので、矢張此洋服で甲州(こうしゅう)街道(かいどう)まで車の後押しをして行くと、小供が見つけてわい/\囃(はや)し立てた。よく笑わるゝ洋服である。此洋服で、鍔広(つばびろ)の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢(す)を買いに往ったら、小学校中(じゅう)の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。彼の好物(こうぶつ)の中に、雪花菜汁(おからじる)がある。此洋服着て、味噌漉(みそこし)持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、流石剛(ごう)の者も髯と眼鏡(めがね)と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人(とうきょうじん)珍(めず)らしいので、妻なぞ出かけると、女子供(おんなこども)が、

「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾(めかけ)の居た家(うち)に越して来た東京のおかみさんが通(とお)るから、出て来て見なァよゥ」

と、すばらしい長文句で喚(わめ)き立てゝ大騒(おおさわ)ぎしたものだ。

東京客が沢山(たくさん)来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取(たねと)りに来た。遠足半分(えんそくはんぶん)の学生も来た。演説依頼の紳士(しんし)も来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶(あいさつ)でもすると、彼はます/\得意であった。彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突(けんつく)を喰(く)わした。芝居気(しばいげ)も衒気(げんき)も彼には沢山にあった。華美(はで)の中に華美を得為(せ)ぬ彼は渋い中に華美をやった。彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、抑(そもそ)もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。小(ちい)さな草屋のぬれ縁(えん)に立って、田圃(たんぼ)を見渡す時、彼は本郷座(ほんごうざ)の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、ふッと噴(ふ)き出す事さえもあった。彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾(しゅゆ)も忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町(ふちゅうまち)へ買った地所と家作の登記(とうき)に往った帰途、同伴の石山氏が彼を誘(さそ)うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介(しょうかい)して今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々(つくづく)彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何(どう)して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多(めった)に欠員(けついん)があるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっと癪(しゃく)に障(さわ)り、斯(こ)う見えても憚りながら文字の社会では些(ちっと)は名を知られた男だ、其様な喰詰(くいつ)め者と同じには見て貰うまい、と腹の中では大(おおい)に啖呵(たんか)を切ったが、虫を殺して彼は俯(うつむ)いて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人に其(その)家(うち)をきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然(ごうぜん)として「大尽(だいじん)さんの家(うち)だよゥ」と答えた。要するに彼等は辛(かろ)うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様(どんな)に威張(いば)っても、東京の喰詰者であった。但(ただ)字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵(たくわん)の二三本、小松菜の一二把(わ)礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫(さいほう)の師匠をやれと勧められた。自身(じしん)上州(じょうしゅう)の糸屋から此村の農家に嫁(とつ)いで来た媼(ばあ)さんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕(ようさん)をしろの、何の角のと親切に世話をやいた。

三

東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州(こうしゅう)街道(かいどう)に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀(まれ)であった。彼等が千歳村(ちとせむら)に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷(しぶや)から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義(とほしゅぎ)を執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋(わらじ)、ある時は高足駄(たかあしだ)をはいて三里の路を往復した。しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便(たよ)りに夜(よる)晩(おそ)く帰ったりした。丸(まる)の内(うち)三菱(みつびし)が原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原(くさはら)に足投げ出して、悠々(ゆうゆう)と握飯食った時、彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時(いつ)も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余の筍(たけのこ)を二本担(にな)って往ったり、よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄(はなすすき)を道々折っては、親類へのみやげにした。親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷(いも)を洗ったり、外竈(そとへっつい)を焚(た)いて見たり、実地の飯事(ままごと)を面白がったが、然し東京の玄関(げんかん)から下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物脊負(せお)うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、都(みやこ)の子女(しじょ)として至って平民的な彼等も流石に羞(はず)かしそうな笑止(しょうし)な顔をした。

彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切(いっさい)の角(つの)を隠して、周囲に同化す可く努(つと)めた。彼はあらゆる村の集会(しゅうかい)に出た。諸君が廉酒(やすざけ)を飲む時、彼は肴(さかな)の沢庵をつまんだ。葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。月番(つきばん)になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身役場に持参(じさん)した。村の耶蘇教会にも日曜毎(にちようごと)に参詣して、彼が村入して程なく招(まね)かれて来た耳の遠い牧師の説教(せっきょう)を聴いた。荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、椎蕈ムロを拵(こしら)えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。都の客に剣突(けんつく)喫(く)わすことはある共、田舎の客に相手(あいて)にならぬことはなかった。誰(たれ)にでもヒョコ/\頭を下げ、いざとなれば尻軽(しりがる)に走り廻った。牛にひかれた妻も、外竈(そとへっつい)の前に炭俵を敷いて座りながら、かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして「大分(だいぶ)話(はな)せる」と良人にほめられた。

玉川に遠いのが毎(いつ)も繰り返えされる失望であったが、井水が清(す)んだのでいさゝか慰めた。農家は毎夜風呂を立てる。彼等も成る可く立てた。最初寒い内は土間に立てた。水をかい込むのが面倒で、一週間も沸(わ)かしては入(はい)り沸かしては入りした。五日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、風呂の底がぬる/\になった。それでも入らぬよりましと笑って、我慢(がまん)して入った。夏になってから外で立てた。井(いど)も近くなったので、水は日毎に新にした。青天井(あおてんじょう)の下の風呂は全く爽々(せいせい)して好い。「行水(ぎょうずい)の捨て処なし虫の声」虫の音(ね)に囲まれて、月を見ながら悠々と風呂に浸(つか)る時、彼等は田園生活を祝した。時々雨が降(ふ)り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。夏休(なつやすみ)に逗留に来て居る娘なども、キャッ/\笑い興(きょう)じて傘風呂(からかさぶろ)に入った。

四

彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢(こずえ)から真白(まっしろ)な富士を見て居た武蔵野(むさしの)は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日〻〻其月〻〻の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物(まきもの)の如くのべて見せた。彼等は周囲(あたり)の自然と人とに次第に親しみつゝ、一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。東と北に一間の下屋(げや)をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、外に小さな浴室(よくしつ)を建(た)て、井筒(いづつ)も栗の木の四角な井桁(いげた)に更(か)えることにした。畑も一反(たん)四畝(せ)程買いたした。観賞樹木も家不相応に植え込んだ。夏から秋の暮にかけて、間歇的(かんけつてき)だが、小婢(こおんな)も来た。十月の末、八十六の父と七十九の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の十月二十五日に浴室の使用初(つかいぞめ)をして、「日々新」と父が其(その)板壁(いたかべ)に書いてくれた。

斯くて千歳村(ちとせむら)の一年は、馬車馬の走る様(よう)に、さっさと過ぎた。今更(いまさら)の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令(たとえ)此(この)創業(そうぎょう)の一年が、稚気乃至多少の衒気(げんき)を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁(からさわ)ぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。

彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。

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Last Modified: Wednesday, February 03, 2016
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