都落ちの手帳から
千歳村
一
明治三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家を探すべく東京から玉川の方へ出かけた。
彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇の旧跡と、まだ生きて居たトルストイの村居にぶらりと順礼に出かけて、其八月にぶらりと帰って来た。帰って何を為るのか分からぬが、兎に角田舎住居をしようと思って帰って来た。先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、往ったら如何だと云う。伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、では何日に案内者をよこそう、と牧師は云うた。
約束の日になった。案内者は影も見せぬ。無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓をうって、案内者なしに妻と二人西を指して迦南の地を探がす可く出かけた。牧師は玉川の近くで千歳村だと大束に教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込んで、例の如くぶらりと出かけた。
二
「家を有つなら草葺の家、而して一反でも可、己が自由になる土を有ちたい」
彼は久しく、斯様な事を思うて居た。
東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳である。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑を有って居たが、其土は銭に化けて追々消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早一撮の土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。
彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺の一棟が建増されたが、母屋は久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨の雫の様に、昔のなつかし味が彼の頭脳に滲みて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末で、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生をする傍、殖産興業の率先をすると謂って、女を製糸場の模範工女にしたり、自家でも養蚕製糸をやったり、桑苗販売などをやって、いつも損ばかりして居た。桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛り出して、柄の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌になり、疳癪を起してやめてしまうが例であった。
父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗など標本的に試作した。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時菓樹は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効があると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木の膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵をつけて歩いたこともあった。子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻り、甘蔗と間違えて西洋箒黍を噛んで吐き出したり、未熟の水瓜を窃と拳固で打破って川に投げ込んで素知らぬ顔して居たり、悪戯ばかりして居た。十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。其家には十四になる娘があったので、当座は真面目に養蚕稽古もしたが、一年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。但右の養蚕家入門中、桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌の拇指の根にざっくり切り込んだ其疵痕は、彼が養蚕家としての試みの記念として今も三日月形に残って居る。
斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。
三
青山高樹町の家をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有る饂飩屋に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早千歳村であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行に難む。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。漸く小さな流れに出た。流れに沿うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒とした草葺の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。
会堂がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家に寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方と云うたら、かみさんはふッと噴き出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。
尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴しも何も無い桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした五十余の婦が、案内を請う彼の声に出て来た。会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。トタン葺の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵など見えた。暫くすると、草鞋ばきの人が出て来た。私が石山八百蔵と名のる。年の頃五十余、頭の毛は大分禿げかゝり、猩々の様な顔をして居る。あとで知ったが、石山氏は村の博識口利で、今も村会議員をして居るが、政争の劇しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、白刃の間を潜って来た男であった。推参の客は自ら名のり、牧師の紹介で会堂を見せてもらいに来たと云うた。石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、尊名は初めてだと、飛白の筒袖羽織、禿びた薩摩下駄、鬚髯もじゃ/\の彼が風采と、煤竹色の被布を着て痛そうに靴を穿いて居る白粉気も何もない女の容子を、胡散くさそうにじろじろ見て居た。然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐を聞いて、やゝ小首を傾げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰い申して、月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚な態度を石山氏はとった。兎に角会堂を見せてもろうた。天井の低い鮓詰にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、裏に小さな部屋があった。もと耶蘇教の一時繁昌した時、村を西へ距る一里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。
会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。
晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風がさ/\尾花を揺する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。何処やらで夕鴉が唖々と鳴き出した。我儕の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。
甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。唯有る店で、妻は草履を買うて、靴をぬぎ、三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。
都落ち
一
二月ばかり経った。
明治四十年の一月である。ある日田舎の人が二人青山高樹町の彼が僑居に音ずれた。一人は石山氏、今一人は同教会執事角田新五郎氏であった。彼は牧師に招聘されたのである。牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。
彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川は一里の余もあると云う。風景も平凡である。使って居た女中は、江州彦根在の者で、其郷里地方には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、譃の様に廉い地面家作の売物があると云う。江州――琵琶湖東の地、山美しく水清く、松茸が沢山に出て、京奈良に近い――大に心動いて、早速郷里に照会してもらったが、一向に返事が来ぬ。今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込む者があろうか、戯談に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇と乗地になって、幸い三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。
一は上祖師ヶ谷で青山街道に近く、一は品川へ行く灌漑用水の流れに傍うて居た。此等は彼が懐よりも些反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になって、家の後は小杉林から三角形の櫟林になって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字の大工の有であった。其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。
石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。
手金を渡すと、今度は彼があせり出した。万障一排して二月二十七日を都落の日と定め、其前日二十六日に、彼等夫婦は若い娘を二人連れ、草箒と雑巾とバケツを持って、東京から掃除に往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。雲雀の歌が纔に一同の心を慰めた。
来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、先住の人々はまだ仕舞いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。以前石山君の壮士をしたと云う家主の大工とも挨拶を交換した。其妾と云う髪を乱した女は、都の女等を憎くさげに睨んで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩うた。小さな墓場一つ隔てた東隣の石山氏の親類だと云う家のおかみが、莚を二枚貸してくれ、土瓶の茶や漬物の丼を持て来てくれたので、彼等は莚の上に座って、持参の握飯を食うた。
十五六の唖に荷車を挽かして、出る人々はよう/\出て往った。待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。引越しあとの空家は総じて立派なものでは無いが、彼等はわが有になった家のあまりの不潔に胸をついた。腐れかけた麦藁屋根、ぼろ/\崩れ落ちる荒壁、小供の尿の浸みた古畳が六枚、茶色に煤けた破れ唐紙が二枚、蠅の卵のへばりついた六畳一間の天井と、土間の崩れた一つ竈と、糞壺の糞と、おはぐろ色した溷の汚水と、其外あらゆる塵芥を残して、先住は出て往った。掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。彼は憤然として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床の上に飛び上り、ヤケに塵の雲を立てはじめた。女連も是非なく手拭かぶって、襷をかけた。
二月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶と帰途に就いた。今日も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸く新宿に辿り着いた時は、女連はへと/\になって居た。
二
明くれば明治四十年二月二十七日。ソヨとの風も無い二月には珍らしい美日であった。
村から来てもらった三台の荷馬車と、厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、臼田氏、角田勘五郎氏の息子、以上四台の荷車に荷物をのせて、午食過ぎに送り出した。荷物の大部分は書物と植木であった。彼は園芸が好きで、原宿五年の生活に、借家に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立の榛の木まで、駄々を捏ねて車に積んでもろうた。宰領には、原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ。
加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、おの/\告別して出て往った。暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。隣に住む家主は、病院で重態であった。其細君は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別を告げねばならなかった。別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札が張られてあった。
彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、手々に手廻りのものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余ガタくり、馭者に教えてもらって、上高井戸の山谷で下りた。
粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色の光明を浴びた。都落ちの一行三人は、長い影を曳いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車の軋る響がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。人と荷物は両花道から草葺の孤屋に乗り込んだ。
昨日掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁無しの新畳が、六畳二室に敷かれて、流石に人間の住居らしくなって居た。昨日頼んで置いたので、先家主の大工が、六畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏を隠す可く粗末な天井を張って居た。
日の暮れ/″\に手車の諸君も着いた。道具の大部分は土間に、残りは外に積んで、荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。兎も角もランプをつけて、東京から櫃ごと持参の冷飯で夕餐を済まし、彼等夫妻は西の六畳に、女中と三吉は頭合せに次の六畳に寝た。
明治の初年、薩摩近い故郷から熊本に引出で、一時寄寓して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、八歳の兄は「破れ家でも吾家が好い」と喜んで踊ったそうである。
生れて四十年、一反五畝の土と十五坪の草葺のあばら家の主になり得た彼は、正に帝王の気もちで、楽々と足踏み伸ばして寝たのであった。
村入
引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。三吉は植木を植えて了うて、「到底一年とは辛抱なさるまい」と女中に囁やいて帰って往った。昨日荷車を挽いた諸君が、今日も来て井戸を浚えてくれた。家主の彼は、半紙二帖、貰物の干物少々持って、近所四五軒に挨拶に廻った。其翌日は、石山氏の息子の案内で、一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両角田君は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃に下りたり、富士大山から甲武連山を色々に見る原に上ったり、霜解の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫欅の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。千歳村は以上三の字の外、船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍い、余は何れも街道の南北一里余の間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子が教えてくれた。
期日は三月一日、一月おくれで年中行事をする此村では二月一日、稲荷講の当日である。礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更めて、午後石山氏に跟いて当日の会場たる下田氏の家に往った。
其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、小高い堤を流るゝ品川堀と云う玉川浄水の小さな分派に沿うて居た。村会議員も勤むる家で、会場は蚕室の階下であった。千歳村でも戸毎に蚕は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。板の間に薄べり敷いて、大きな欅の根株の火鉢が出て居る。十五六人も寄って居た。石山氏が、
「これは今度東京から来されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某さんで」
と紹介する。其尾について、彼は両手をついて鄭重にお辞儀をする。皆が一人〻〻来ては挨拶する。石山氏の注意で、樽代壱円仲間入のシルシまでに包んだので、皆がかわる/″\みやげの礼を云う。粕谷は二十六軒しかないから、東京から来て仲間に入ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。会衆中で唯一人チョン髷に結った腫れぼったい瞼をした大きな爺さんが「これははァ御先生様」と挨拶した。
やがてニコ/\笑って居る恵比須顔の六十許の爺さんが来た。石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。
二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。煙草の烟。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合もある。米の値段の話から、六十近い矮い真黒な剽軽な爺さんが、若かった頃米が廉かったことを話して、
「俺と卿は六合の米よ、早くイッショ(一緒、一升)になれば好い」
なんか歌ったもンだ、と中音に節をつけて歌い且話して居る。
腰の腫物で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛の石山氏の注意で、雑談会はやおら相談会に移った。慰兵会の出金問題、此は隣字から徴兵に出る時、此字から寸志を出す可きや否の問題である。馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、結局出すと云う事に決する。
其れから衛生委員の選挙、消防長の選挙がある。テーブルが持ち出される。茶盆で集めた投票を、咽仏の大きいジャ/\声の仁左衛門さんと、むッつり顔の敬吉さんと立って投票の結果を披露する。彼が組頭の爺さんが、忰は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、皆が寄ってたかって無理やりに納得さす。
此れで事務はあらかた終った。これからは肝心の飲食となるのだが、新村入の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末なので、一座に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人達に遠ながら目礼して引揚げた。
*
日ならずして彼は原籍地肥後国葦北郡水俣から戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。子供の頃、自分は士族だと威張って居た。戸籍を見れば、平民とある。彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。それを知らなかったのである。吾れから捨てぬ先きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、魯智深の髯ではないが、些惜しい気もちがせぬでもなかった。兎に角彼は最早浪人では無い。無宿者でも無い。天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。
水汲み
玉川に遠いのが第一の失望で、井の水の悪いのが差当っての苦痛であった。
井は勝手口から唯六歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根が通路と井を覆うて居る。上窄りになった桶の井筒、鉄の車は少し欠けてよく綱がはずれ、釣瓶は一方しか無いので、釣瓶縄の一端を屋根の柱に結わえてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨を下ろして見たら、渇水の折からでもあろうが、水深が一尺とはなかった。
移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚えをやってくれた。鍋蓋、古手拭、茶碗のかけ、色々の物が揚がって来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁り水で、如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。近隣の水を当座は貰って使ったが、何れも似寄った赤土水である。墓向うの家の水を貰いに往った女中が、井を覗いたら芥だらけ虫だらけでございます、と顔を蹙めて帰って来た。其向う隣の家に往ったら、其処の息子が、此家の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、と得意になって吹聴したが、其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。
使い水は兎に角、飲料水だけは他に求めねばならぬ。
家から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水がある。玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓の洗濯もする、肥桶も洗う。何ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲む役を引受けた。起きぬけに、手桶と大きなバケツとを両手に提げて、霜を䠖んで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水摩擦をやる。日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、面籠手かついで朝稽古から帰って来る村の若者が「冷たいでしょう」と挨拶することもあった。摩擦を終って、膚を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々と水を汲み上げると、ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。耐えかねて下ろす。腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七分に減って居る。其れから半丁に一休、また半丁に一憩、家を目がけて幾休みして、やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。両腕はまさに脱ける様だ。斯くして持ち込まれた水は、細君女中によって金漿玉露と惜み/\使われる。
余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂で天秤棒を買って来た。丁度股引尻からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、理想を実行すると笑止な顔で笑われた。買って戻った天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けに担うて、汐汲みならぬ髯男の水汲と出かけた。両手に提げるより幾何か優だが、使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。天秤棒に肩を入れ、曳やっと立てば、腰がフラ/\する。膝はぎくりと折れそうに、体は顛倒りそうになる。呍と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。思い切って蹌踉とよろけ出す。十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷を下ろす。尻餅舂く様に、捨てる様に下ろす。下ろすのではない、荷が下りるのである。撞と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。下ろすのも厄介だが、また担ぎ上げるのが骨だ。路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。鼻息は暴風の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、脊髄から後頭部にかけ強直症にかゝった様に一種異様の熱気がさす。眼が真暗になる。頭がぐら/\する。勝手もとに荷を下ろした後は、失神した様に暫くは物も言われぬ。
早速右の肩が瘤の様に腫れ上がる。明くる日は左の肩を使う。左は勝手が悪いが、痛い右よりまだ優と、左を使う。直ぐ左の肩が腫れる。両肩の腫瘤で人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日は何で担ごうやら。夢の中にも肩が痛い。また水汲みかと思うと、夜の明くるのが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。天秤棒の下にはさんで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体誰に頼まれた訳でもなく、誰誉めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様事をするのか、と内々愚痴をこぼしつゝ、必要に迫られては渋面作って朝々通う。度重なれば、次第に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力が出来、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。今日は八分だ、今日は九分だ、と成績の進むが一の楽になる。
然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛に井浚をすることにした。赤土からヘナ、ヘナから砂利と、一丈余も掘って、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚ってしまって、井筒にもたれ、井底深く二つ三つの涌き口から潺々と清水の湧く音を聴いた時、最早水汲みの難行苦行も後になったことを、嬉しくもまた残惜しくも思った。
憶出のかず/\
一
跟いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。
意気地の無い亭主に連添うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯は可なり持馴れた。自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方ならず悩まされた。一番近い隣が墓地に雑木林、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母は「若い女なぞ、一人で留守は出来ない所ですねえ」と云った。それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣があって、破落戸漢が多く出入した。一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。「今晩は」と彼が答えた。雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、先刻帰ったことを知らなかったのである。大にドキマギした容子であったが、調子を更えて「宮前のお広さん処へは如何参るのです?」と胡魔化した。宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸る其賭博の巣なのである。主の彼は可笑しさを堪え、素知らぬ振して、宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍うて、ずッと往って、と馬鹿叮嚀に教えてやった。「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。門戸あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。ある時彼が縁に背向けて読書して居ると、後に撞と物が落ちた。彼はふりかえって大きな青大将を見た。葺きっぱなしの屋根裏の竹に絡んで衣を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。今一尺縁へ出て居たら、正しく彼が頭上に蛇が降るところであった。
人烟稀薄な武蔵野は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。中塗もせぬ荒壁は恣に崩れ落ち、床の下は吹き通し、唐紙障子も足らぬがちの家の内は、火鉢の火位で寒さは防げなかった。農家の冬は大きな炉が命である。農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。炉の焚火、自在の鍋は、彼が田園生活の重なる誘因であった。然し彼が吾有にした十五坪の此草舎には、小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、周囲が狭くて三人とは座れなかった。加之其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、熾な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。彼は一月ばかりして面白くない此型ばかりの炉を見捨てた。先家主の大工や他の人に頼み、代々木新町の古道具屋で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、肥車の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。次の六畳の天井は、煤埃にまみれた古葭簀で、腐れ屋根から雨が漏ると、黄ろい雫がぼて/\畳に落ちた。屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、盥やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。驚いたのは風である。三本の大きなはりがねで家を樫の木にしばりつけてあるので、風当りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。西南は右の樫以外一本の木もない吹きはらしなので、南風西風は用捨もなくウナリをうってぶつかる。はりがねに縛られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。富士川の瀬を越す舟底の様に床が跳る。それに樫の直ぐ下まで一面の麦畑である。武蔵野固有の文言通り吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。彼は前年蘇士運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわか劣る可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る日は、眼鼻口はもとより、押入、箪笥の抽斗の中まで会釈もなく舞い込み、歩けば畳に白く足跡がつく。取りも直さず畑が家内に引越すのである。
都をば塵の都と厭ひしに
田舎も土の田舎なりけり
あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴える、水が荒い。四拍子揃って、妻の手足は直ぐ皸、霜やけ、あかぎれに飾られる。オリーヴ油やリスリンを塗った位では、血が止まらぬ。主人の足裏も鯊の顋の様に幾重も襞をなして口をあいた。あまり手荒い攻撃に、虎伏す野辺までもと跟いて来た糟糠の御台所も、ぽろ/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留に来て見ては、零落と思ったのであろ、台所の隅で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。
二
主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。何よりも先ず宮益の興農園から柄の長い作切鍬、手斧鍬、ホー、ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌など百姓の武器と、園芸書類の六韜三略と、種子と苗とを仕入れた。一反五畝の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、大麦小麦が一ぱいで、空地と云っては畑の中程に瘠せこけた桑樹と枯れ茅枯れ草の生えたわずか一畝に足らぬ位のものであった。彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝を作って、原肥無し季節御構いなしの人蔘二十日大根など蒔くのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様するのかと眼を瞠って眺めて居た。作ってある麦は、墓の向うの所謂賭博の宿の麦であった。彼は其一部を買って、邪魔になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。通りかゝりの百姓衆に、棕櫚縄を蠅頭に結ぶ事を教わって、畑中に透籬を結い、風よけの生籬にす可く之に傍うて杉苗を植えた。無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役をした。あらゆる不便と労力とを歓迎した。家から十丁程はなれた塚戸の米屋が新村入を聞きつけて、半紙一帖持って御用聞きに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚不興気な顔をした。
手脚を少し動かすと一廉勉強した様で、汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶を担いだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破してしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広で、北海道にも此れで行き、富士で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜へも此れで往って、トルストイの家でも持参の袷と此洋服を更代に着たものだ。西伯利亜鉄道の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石無頓着な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物である。此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹で担いで帰って来ると、八幡様に寄合をして居た村の衆がドッと笑った。引越後間もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路が悪いので、矢張此洋服で甲州街道まで車の後押しをして行くと、小供が見つけてわい/\囃し立てた。よく笑わるゝ洋服である。此洋服で、鍔広の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢を買いに往ったら、小学校中の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。彼の好物の中に、雪花菜汁がある。此洋服着て、味噌漉持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、流石剛の者も髯と眼鏡と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人珍らしいので、妻なぞ出かけると、女子供が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾の居た家に越して来た東京のおかみさんが通るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚き立てゝ大騒ぎしたものだ。
東京客が沢山来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取りに来た。遠足半分の学生も来た。演説依頼の紳士も来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶でもすると、彼はます/\得意であった。彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突を喰わした。芝居気も衒気も彼には沢山にあった。華美の中に華美を得為ぬ彼は渋い中に華美をやった。彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、抑もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。小さな草屋のぬれ縁に立って、田圃を見渡す時、彼は本郷座の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、ふッと噴き出す事さえもあった。彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾も忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町へ買った地所と家作の登記に往った帰途、同伴の石山氏が彼を誘うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介して今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多に欠員があるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっと癪に障り、斯う見えても憚りながら文字の社会では些は名を知られた男だ、其様な喰詰め者と同じには見て貰うまい、と腹の中では大に啖呵を切ったが、虫を殺して彼は俯いて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人に其家をきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然として「大尽さんの家だよゥ」と答えた。要するに彼等は辛うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様に威張っても、東京の喰詰者であった。但字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵の二三本、小松菜の一二把礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫の師匠をやれと勧められた。自身上州の糸屋から此村の農家に嫁いで来た媼さんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕をしろの、何の角のと親切に世話をやいた。
三
東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州街道に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀であった。彼等が千歳村に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義を執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋、ある時は高足駄をはいて三里の路を往復した。しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便りに夜晩く帰ったりした。丸の内三菱が原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原に足投げ出して、悠々と握飯食った時、彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余の筍を二本担って往ったり、よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄を道々折っては、親類へのみやげにした。親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷を洗ったり、外竈を焚いて見たり、実地の飯事を面白がったが、然し東京の玄関から下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物脊負うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、都の子女として至って平民的な彼等も流石に羞かしそうな笑止な顔をした。
彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切の角を隠して、周囲に同化す可く努めた。彼はあらゆる村の集会に出た。諸君が廉酒を飲む時、彼は肴の沢庵をつまんだ。葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。月番になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身役場に持参した。村の耶蘇教会にも日曜毎に参詣して、彼が村入して程なく招かれて来た耳の遠い牧師の説教を聴いた。荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、椎蕈ムロを拵えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。都の客に剣突喫わすことはある共、田舎の客に相手にならぬことはなかった。誰にでもヒョコ/\頭を下げ、いざとなれば尻軽に走り廻った。牛にひかれた妻も、外竈の前に炭俵を敷いて座りながら、かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして「大分話せる」と良人にほめられた。
玉川に遠いのが毎も繰り返えされる失望であったが、井水が清んだのでいさゝか慰めた。農家は毎夜風呂を立てる。彼等も成る可く立てた。最初寒い内は土間に立てた。水をかい込むのが面倒で、一週間も沸かしては入り沸かしては入りした。五日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、風呂の底がぬる/\になった。それでも入らぬよりましと笑って、我慢して入った。夏になってから外で立てた。井も近くなったので、水は日毎に新にした。青天井の下の風呂は全く爽々して好い。「行水の捨て処なし虫の声」虫の音に囲まれて、月を見ながら悠々と風呂に浸る時、彼等は田園生活を祝した。時々雨が降り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。夏休に逗留に来て居る娘なども、キャッ/\笑い興じて傘風呂に入った。
四
彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢から真白な富士を見て居た武蔵野は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日〻〻其月〻〻の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた。彼等は周囲の自然と人とに次第に親しみつゝ、一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。東と北に一間の下屋をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、外に小さな浴室を建て、井筒も栗の木の四角な井桁に更えることにした。畑も一反四畝程買いたした。観賞樹木も家不相応に植え込んだ。夏から秋の暮にかけて、間歇的だが、小婢も来た。十月の末、八十六の父と七十九の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の十月二十五日に浴室の使用初をして、「日々新」と父が其板壁に書いてくれた。
斯くて千歳村の一年は、馬車馬の走る様に、さっさと過ぎた。今更の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令此創業の一年が、稚気乃至多少の衒気を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁ぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。
彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。



