みみずのたはこと

Mimizu no tawakoto

徳富蘆花 Tokutomi Roka

麦の穂稲穂

村の一年

一

都近い此(この)辺(へん)の村では、陽暦陰暦を折衷(せっちゅう)して一月晩(おく)れで年中行事をやる。陽暦正月は村役場の正月、小学校の正月である。いさゝか神楽(かぐら)の心得ある若者連が、松の内の賑合(にぎわい)を見物かた/″\東京に獅子舞(ししまい)に出かけたり、甲州街道を紅白美々しく飾(かざ)り立てた初荷の荷馬車が新宿さして軋(きし)らしたり、黒の帽子に紫の袈裟(けさ)、白足袋に高足駄の坊さんが、年玉を入れた萌黄(もえぎ)の大風呂敷包を頸(くび)からつるして両手で抱(かか)えた草鞋(わらじ)ばきの寺男を連れて檀家(だんか)の廻礼をしたりする外は、村は餅搗(もちつ)くでもなく、門松一本立つるでなく、至極(しごく)平気な一月である。唯農閑(のうかん)なので、青年の夜学がはじまる。井浚(いどざら)え、木小屋の作事(さくじ)、屋根の葺(ふ)き更え、農具の修繕(しゅうぜん)なども、此隙(すき)にする。日なたぼこりで孫いじりにも飽いた爺の仕事は、啣(くわ)え煙管(ぎせる)の背手(うしろで)で、ヒョイ/\と野らの麦踏(むぎふみ)。若い者の仕事は東京行の下肥(しもごえ)取(と)りだ。寒中の下肥には、蛆(うじ)が涌(わ)かぬ。堆肥(たいひ)製造には持て来いの季節、所謂寒練(かんねり)である。夜永の夜延(よな)べには、親子兄弟大きな炉側(ろばた)でコト/\藁(わら)を擣(う)っては、俺ァ幾括(いくぼ)だ卿(おめえ)は何足(なんぞく)かと競争しての縄綯(なわな)い草履(ぞうり)草鞋(わらじ)作り。かみさんや娘は、油煙(ゆえん)立つランプの傍(はた)でぼろつぎ。兵隊に出て居る自家(うち)の兼公の噂も出よう。東京帰りに兄が見て来た都の嫁入(よめいり)車(ぐるま)の話もあろう。

都では晴(はれ)の春着も夙(とう)に箪笥の中に入って、歌留多会の手疵(てきず)も痕(あと)になり、お座敷(ざしき)つゞきのあとに大妓(だいぎ)小妓のぐったりとして欠伸(あくび)を噛(か)む一月末が、村の師走(しわす)の煤掃(すすは)き、つゞいて餅搗(もちつ)きだ。寒餅(かんもち)はわるくならぬ。水に浸(ひた)して置いて、年中の茶受(ちゃうけ)、忙(せわ)しい時の飯代り、多い家では一石も二石も搗く。縁者(えんじゃ)親類加勢し合って、歌声(うたごえ)賑(にぎ)やかに、東でもぽったん、西でもどったん、深夜(しんや)の眠を驚かして、夜の十二時頃から夕方までも舂(つ)く。陽暦で正月を済(す)ましてとくに餅は食うてしもうた美的(びてき)百姓の家へ、にこ/\顔の糸ちゃん春ちゃんが朝飯前に牡丹餅(ぼたもち)を持て来てくれる。辰爺(じい)さん家(とこ)のは大きくて他家(よそ)の三倍もあるが、搗(つ)きが細かで、上手(じょうず)に紅入の宝袋(たからぶくろ)なぞ拵(こさ)えてよこす。下田の金さん処(とこ)のは、餡(あん)は黒砂糖だが、手奇麗(てぎれい)で、小奇麗な蓋物(ふたもの)に入れてよこす。気取ったおかず婆さんからは、餡がお気に召すまいからと云って、唯搗き立てをちぎったまゝで一重(ひとじゅう)よこす。礼に往って見ると、奥(おく)は正月前らしく奇麗に掃(は)かれて、土間(どま)にはちゃんと塩鮭(しおざけ)の二枚もつるしてある。

二

二月は村の正月だ。松立てぬ家(うち)はあるとも、着物更えて長閑(のどか)に遊ばぬ人は無い。甲州街道は木戸八銭、十銭の芝居(しばい)が立つ。浪花節が入り込む。小学校で幻燈会(げんとうかい)がある。大きな天理教会、小さな耶蘇教会で、東京から人を呼んで説教会がある。府郡の技師が来て、農事講習会がある。節分は豆撒(まめま)き。七日が七草(ななくさ)。十一日が倉開き。十四日が左義長(さぎちょう)。古風にやる家も、手軽でやらぬ家もあるが、要するに年々昔は遠くなって行く。名物は秩父(ちちぶ)颪(おろし)の乾風(からっかぜ)と霜解(しもど)けだ。武蔵野は、雪は少ない。一尺の上も積るは稀(まれ)で、五日と消えぬは珍らしい。ある年四月に入って、二尺の余も積ったのは、季節からも、量からも、井伊(いい)掃部(かもん)さん以来の雪だ、と村の爺さん達も驚いた。武蔵野は霜(しも)の野だ。十二月から三月一ぱいは、夥(おびただ)しい霜解けで、草鞋か足駄(あしだ)長靴でなくては歩かれぬ。霜枯(しもが)れの武蔵野を乾風が飈々(ひゅうひゅう)と吹きまくる。霜と風とで、人間の手足も、土の皮膚(はだ)も、悉く皹(ひび)赤(あか)ぎれになる。乾いた畑の土は直ぐ塵(ちり)に化ける。風が吹くと、雲と舞い立つ。遠くから見れば正(まさ)に火事の煙だ。火事もよくある。乾き切った藁葺(わらぶき)の家は、此(この)上(うえ)も無い火事の燃料、それに竈(へっつい)も風呂も藁屑をぼう/\燃すのだからたまらぬ。火事の少ないのが寧(むしろ)不思議である。村々字々に消防はあるが、無論間に合う事じゃない。夜遊び帰りの誰かが火を見つけて、「おゝい、火事だよゥ」と呼わる。「火事だっさ、火事は何処(どこ)だンべか、――火事だよゥ」と伝える。「火事だよう」「火事だァよゥ」彼方(あち)此方(こち)で消防の若者が聞きつけ、家に帰って火事(かじ)袢纏(ばんてん)を着て、村の真中(まんなか)の火の番小屋の錠(じょう)をあけて消防道具を持出し、わッしょい/\駈(か)けつける頃は、大概の火事は灰(はい)になって居る。人家が独立して周囲に立木(たちき)がある為に、人家(じんか)櫛比(しっぴ)の街道筋を除いては、村の火事は滅多(めった)に大火にはならぬ。然し火の粉(こ)一つ飛んだらば、必焼けるにきまって居る。東京は火事があぶねえから、好い着物は預けとけや、と云って、東京の息子(むすこ)の家の目ぼしい着物を悉皆(すっかり)預って丸焼にした家もある。

梅は中々二月には咲かぬ。尤も南をうけた崖下(がけした)の暖かい隈(くま)なぞには、ドウやらすると菫(すみれ)の一輪、紫に笑んで居ることもあるが、二月は中々寒い。下旬になると、雲雀(ひばり)が鳴きはじめる。チ、チ、チ、ドウやら雲雀が鳴いた様だと思うと、翌日は聞こえず、又の日いと明瞭に鳴き出す。あゝ雲雀が鳴いて居る。例令(たとえ)遠山(とおやま)は雪であろうとも、武蔵野の霜や氷は厚かろうとも、落葉木(らくようぼく)は皆裸(はだか)で松の緑(みどり)は黄ばみ杉の緑は鳶色(とびいろ)に焦(こ)げて居ようとも、秩父(ちちぶ)颪(おろし)は寒かろうとも、雲雀が鳴いて居る。冴(さ)えかえる初春の空に白光(しろびか)りする羽たゝきして雲雀が鳴いて居る。春の驩喜(よろこび)は聞く人の心に涌(わ)いて来る。雲雀は麦の伶人(れいじん)である。雲雀の歌から武蔵野の春は立つのだ。

三

武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかに霞(かす)む。庭の梅の雪とこぼるゝ辺(あたり)に耳珍しくも藪鶯(やぶうぐいす)の初音が響く。然しまだ冴(さ)え返える日が多い。三月もまだ中々寒い月である。初午(はつうま)には輪番(りんばん)に稲荷講の馳走(ちそう)。各自(てんで)に米が五合に銭十五銭宛持寄って、飲んだり食ったり驩(かん)を尽すのだ。まだ/\と云うて居る内に、そろ/\畑(はた)の用が出て来る。落葉(おちば)掻(か)き寄せて、甘藷(さつま)や南瓜(とうなす)胡瓜(きゅうり)の温床(とこ)の仕度もせねばならぬ。馬鈴薯(じゃがいも)も植えねばならぬ。

彼岸前(ひがんまえ)の農家の一大事は、奉公男女の出代(でがわ)りである。田舎も年々人手が尠(すく)なく、良い奉公人は引張り合(あい)だ。近くに東京と云う大渦(おおうず)がある。何処へ往っても直ぐ銭(ぜに)になる種々の工場があるので、男も女も愚図〻〻(ぐずぐず)云われると直ぐぷいと出て往って了う。寺本さんの作代(さくだい)は今年も勤続(つづく)と云うが、盆暮の仕着せで九十円、彼様(あん)な好い作代なら廉(やす)いもンだ、と皆が羨む。亥太郎さんの末の子は今年十二で、下田さんの子守(こもり)に月五十銭で雇(やと)われて行く。下唇(したくちびる)の厚い久(ひさ)さんは、本家で仕事の暇を、大尽の伊三郎さん処(とこ)で、月十日のきめで二十五円。石山さんが隣村の葬式に往って居ると娘が駈(か)けて来て、作代が逃げ出すと云うので、石山さんは遽(あわ)てゝ葬式の場から尻(しり)引(ひ)っからげて作代引とめに走って行く。勘さんの嗣子(あととり)の作さんは草鞋ばきで女中を探してあるいて居る。些(ちと)好(よ)さそうな養蚕(かいこ)傭(やとい)の女なぞは、去年の内に相談がきまってしまう。メレンスの半襟(はんえり)一かけ、足袋の一足、窃(そっ)と他(ひと)の女中の袂(たもと)にしのばせて、来年の餌(えさ)にする家もある。其等の出代りも済んで、やれ一安心と息をつけば、最早彼岸だ。

線香、花、水桶なぞ持った墓参(はかまいり)が続々やって来る。丸髷(まるまげ)や紋付は東京から墓参に来たのだ。寂(さび)しい墓場にも人声(ひとごえ)がする。線香の煙が上る。沈丁花(ちんちょうげ)や赤椿が、竹筒(たけづつ)に插(さ)される。新しい卒塔婆(そとば)が立つ。緋(ひ)の袈裟(けさ)かけた坊さんが畑の向うを通る。中日は村の路普請(みちぶしん)。遊び半分若者総出で、道側(みちばた)にさし出た木の枝を伐り払ったり、些(ちっと)ばかりの芝土を路の真中(まんなか)に抛(ほう)り出したり、路壊(みちこわ)しか路普請か分からぬ。

四

四月になる。愈(いよいよ)春だ。村の三月、三日には雛(ひな)を飾る家もある。菱餅(ひしもち)草餅(くさもち)は、何家でも出来る。小学校の新学年。つい去年まで碌(ろく)に口も利(き)けなかった近所の喜左坊(きさぼう)が、兵隊帽子に新らしいカバンをつるし、今日(きょう)から小学第一年生だと小さな大手を振って行く。五六年前には、式日(しきじつ)以外(いがい)女生の袴(はかま)など滅多に見たこともなかったが、此頃では日々の登校にも海老茶(えびちゃ)が大分殖(ふ)えた。小学校に女教員が来て以来の現象である。桃之(ももの)夭々(ようよう)、其葉蓁々(しんしん)、桃の節句は昔から婚嫁(こんか)の季節だ。村の嫁入(よめいり)婿取(むことり)は多く此頃に行われる。三日三晩村中呼んでの飲明(のみあか)しだの、「目出度(めでた)、〻〻〻(めでた)の若松様(わかまつさま)よ」の歌で十七荷(か)の嫁入荷物を練込(ねりこ)むなぞは、大々尽(だいだいじん)の家の事、大抵は万事手軽の田舎風、花嫁自身髪結の家から島田で帰って着物を更(か)え、車は贅沢(ぜいたく)、甲州街道まで歩いてガタ馬車で嫁入るなぞはまだ好い方だ。足入れと云ってこっそり嫁を呼び、都合(つごう)の好い時あらためて腰入(こしいれ)をする家もある。はずんだところで調布(ちょうふ)あたりから料理を呼んでの饗宴(ふるまい)は、唯親類縁者まで、村方(むらかた)一同へは、婿は紋付で組内若くは親類の男に連れられ、軒別に手拭の一筋半紙の一帖も持って挨拶に廻るか、嫁は真白に塗って、掻巻(かいまき)程(ほど)の紋付の裾(すそ)を赤い太い手で持って、後見(こうけん)の婆(ばあ)さんかかみさんに連れられてお辞儀(じぎ)をして廻れば、所謂顔見せの義理は済む。村は一月晩(ひとつきおく)れでも、寺は案外陽暦(ようれき)で行くのがあって、四月八日はお釈迦様(しゃかさま)の誕生会(たんじょうえ)。寺々の鐘(かね)が子供を呼ぶと、爺(とう)か嬶(かあ)か姉(ねえ)に連れられた子供が、小さな竹筒を提(さ)げて、嬉々(きき)として甘茶(あまちゃ)を汲みに行く。

東京は桜の盛、車も通れぬ程の人出だった、と麹町まで下肥(しもごえ)ひきに往った音吉の話。村には桜は少いが、それでも桃が咲く、李(すもも)が咲く。野はすみれ、たんぽゝ、春竜胆(はるりんどう)、草木瓜(くさぼけ)、薊(あざみ)が咲き乱るゝ。「木瓜薊、旅して見たく野はなりぬ」忙(せわ)しくなる前に、此花の季節(きせつ)を、御岳詣(みたけまいり)、三峰かけて榛名詣(はるなまいり)、汽車と草鞋(わらじ)で遊んで来る講中の者も少くない。子供連れて花見、潮干に出かける村のハイカラも稀にはある。浮かれて蝶(ちょう)が舞いはじめる。意地悪(いじわる)の蛇も穴を出る。空では雲雀(ひばり)がます/\勢よく鳴きつれる。其れに喚(よ)び出される様に、麦(むぎ)がつい/\と伸びて穂(ほ)に出る。子供がぴいーッと吹く麦笛(むぎぶえ)に、武蔵野の日は永くなる。三寸になった玉川の鮎(あゆ)が、密漁者の手から窃(そっ)と旦那の勝手に運ばれる。仁左衛門さん宅(とこ)の大欅(おおけやき)が春の空を摩(な)でて淡褐色(たんかっしょく)に煙りそめる。雑木林の楢(なら)が逸早く、櫟(くぬぎ)はやゝ晩れて、芽を吐(ふ)きそめる。貯蔵(かこい)の里芋(さといも)も芽を吐くので、里芋を植えねばならぬ。月の終は、若葉(わかば)の盛季(さかり)だ。若々とした武蔵野に復活の生気が盈(み)ち溢(あふ)れる。色々の虫が生れる。田圃(たんぼ)に蛙が泥声(だみごえ)をあげる。水がぬるむ。そろ/\種籾(たねもみ)も浸(ひた)さねばならぬ。桑の葉(は)がほぐれる。彼方(あち)も此方(こち)も養蚕前の大掃除(おおそうじ)、蚕具(さんぐ)を乾したり、ばた/\莚(むしろ)をはたいたり。月末には早い処(とこ)では掃(は)き立てる。蚕室を有(も)つ家は少いが、何様(どん)な家でも少くも一二枚飼(か)わぬ家はない。筍(たけのこ)の出さかりで、孟宗藪(もうそうやぶ)を有つ家は、朝々早起きが楽(たのしみ)だ。肥料もかゝるが、一反八十円から百円にもなるので、雑木山は追々(おいおい)孟宗藪に化けて行く。

五

五月だ。来月の忙(せわし)さを見越して、村でも此月ばかりは陽暦(ようれき)で行く。大麦も小麦も見渡す限り穂になって、緑(みどり)の畑は夜の白々と明ける様に、総々(ふさふさ)とした白い穂波(ほなみ)を漂(ただよ)わす。其が朝露を帯(お)びる時、夕日に栄(は)えて白金色に光る時、人は雲雀と歌声(うたごえ)を競(きそ)いたくなる。五日は檞餅(かしわもち)の節句だ。目もさむる若葉の緑から、黒い赤い紙の鯉(こい)がぬうと出てほら/\跳(おど)って居る。五月五日は府中(ふちゅう)大国魂(おおくにたま)神社所謂六所様の御祭礼(ごさいれい)。新しい紺の腹掛、紺股引(こんももひき)、下ろし立てのはだし足袋(たび)、切り立ての手拭を顋(あご)の下でチョッキリ結びの若い衆が、爺(おやじ)をせびった小使の三円五円腹掛に捻込(ねじこ)んで、四尺もある手製の杉の撥(ばち)を担(かつ)いで、勇(いさ)んで府中に出かける。六所様には径(けい)六尺の上もある大太鼓(おおだいこ)が一個、中太鼓が幾個(いくつ)かある。若い逞(たくま)しい両腕が、撥と名づくる棍棒で力任(ちからまか)せに打つ音は、四里を隔てゝ鼕々(とうとう)と遠雷の如く響(ひび)くのである。府中の祭とし云えば、昔から阪東男(ばんどうおとこ)の元気任せに微塵(みじん)になる程御神輿の衝撞(ぶつけ)あい、太鼓の撥のたゝき合、十二時を合図(あいず)に燈明(あかり)と云う燈明を消して、真闇(まっくら)の中に人死が出来たり処女(むすめ)が女(おんな)になったり、乱暴の限を尽したものだが、警察の世話が届いて、此頃では滅多な事はなくなった。

落葉木(らくようぼく)は若葉から漸次青葉になり、杉(すぎ)松(まつ)樫(かし)などの常緑木が古葉を落(おと)し落して最後の衣更(ころもがえ)をする。田は紫雲英(れんげそう)の花ざかり。林には金蘭銀蘭の花が咲く。ぜんまいや、稀に蕨(わらび)も立つが、滅多に見かえる者も無い。八十八夜だ。其れ茶も摘(つ)まねばならぬ。茶は大抵(たいてい)葉のまゝで売るのだ。隠元(いんげん)、玉蜀黍(とうもろこし)、大豆も蒔(ま)かねばならぬ。降って来そうだ。桑は伐(き)ったか。桑つきが悪いはお蚕様(こさま)が如何ぞしたのじゃあるまいか。養蚕(ようさん)教師(きょうし)はまだ廻って来ないか。種籾(たねもみ)は如何した。田の荒(あら)おこしもせねばならぬ。苗代掻(しろか)きもせねばならぬ。最早早生(わせ)の陸稲(おかぼ)も蒔かねばならぬ。何かと云う内、胡瓜(きゅうり)、南瓜(とうなす)、甘藷(さつま)や茄子(なす)も植えねばならぬ。稗(ひえ)や黍(きび)の秋作も蒔かねばならぬ。月の中旬には最早大麦(おおむぎ)が色づきはじめる。三寸の緑から鳴きはじめた麦の伶人(れいじん)の雲雀は、麦が熟(う)れるぞ、起きろ、急げと朝未明(あさまだき)から囀(さえ)ずる。折も折とて徴兵(ちょうへい)の検査。五分苅頭で紋付羽織でも引かけた体は逞しく顔は子供〻〻した若者が、此村からも彼村からも府中に集まる。川端の嘉(かあ)ちゃんは甲種合格だってね、俺(おら)が家(とこ)の忠はまだ抽籤(くじ)は済まねえが、海軍に採(と)られべって事(こん)だ、俺も稼(かせ)げる男の子はなし、忠をとられりゃ作代(さくだい)でも雇うべい、国家の為だ、仕方が無えな、と与右衛門さんが舌鼓(したつづみ)うつ。下田の金さん宅(とこ)では、去年は兄貴(あにき)が抽籤で免(のが)れたが、今年は稲公が彼(あの)体格(たいかく)で、砲兵にとられることになった。当人は勇(いさ)んで居るが、阿母(おふくろ)が今から萎(しお)れて居る。

頓着(とんちゃく)なく日は立って行く。わかれ霜を気遣うたは昨日の様でも、最早春蝉(はるぜみ)が鳴き出して青葉の蔭(かげ)がそゞろ恋(こい)しい日もある。詩人が歌う緑蔭(りょくいん)幽草(ゆうそう)白花(はくか)を点ずるの時節となって、畑(はたけ)の境には雪の様に卯(う)の花が咲きこぼれる。林端(りんたん)には白いエゴの花がこぼれる。田川の畔(くろ)には、花茨(はないばら)が芳(かんば)しく咲き乱れる。然し見かえる者はない。大切(だいじ)の大切のお蚕様(こさま)が大きくなって居るのだ。然し月の中に一度雹祭(ひょうまつり)だけは屹度(きっと)鎮守の宮でする。甲武の山近い三多摩の地は、甲府の盆地から発生する低気圧が東京湾へぬける通路に当って居るので、雹や雷雨は名物である。秋の風もだが、春暮(しゅんぼ)初夏(しょか)の雹が殊に恐ろしいものになって居る。雹の通る路筋(みちすじ)はほゞきまって居る。大抵上流地から多摩川(たまがわ)に沿うて下(くだ)り、此辺の村を掠(かす)めて、東南に過ぎて行く。既に五年前も成人(おとな)の拳大(こぶしほど)の恐ろしい雹を降らした。一昨年も唯十分か十五分の間に地が白くなる程降って、場所によっては大麦小麦は種(たね)も残さず、桑、茶、其外青物(あおもの)一切全滅した処もある。可なりの生活(くらし)をして居ながら、銭(ぜに)になると云えば、井浚(いどざら)えでも屋根葺(ふき)の手伝でも何でもする隣字(となりあざ)の九右衛門爺(じい)さんは、此雹に畑を見舞(みま)われ、失望し切って蒲団(ふとん)をかぶって寝てしもうた。ゾラの小説「土」に、ある慾深(よくふか)の若い百姓が雹に降られて天に向って拳(こぶし)をふり上げ、「何ちゅう事(こつ)をしくさるか」と怒鳴(どな)るところがあるが、無理はない。此辺では「雹乱(ひょうらん)」と云って、雹は戦争(いくさ)よりも恐れられる。そこで雹祭(ひょうまつり)をする。榛名様(はるなさん)に願をかける。然し榛名様も、鎮守の八幡も、如何(どう)ともしかね玉う場合がある。出水の患(うれい)が無い此村も、雹の賜物(たまもの)は折々受けねばならぬ。村の天に納める租税(そぜい)である。

六

六月になった。麦秋(むぎあき)である。「富士一つ埋(うづ)み残して青葉(あをば)かな」其青葉の青闇(あおぐら)い間々を、熟(う)れた麦が一面日の出(で)の様に明るくする。陽暦六月は「農攻(のうこう)五月(ごげつ)急於弦(げんよりもきゅうなり)」と云う農家の五月だ。農家の戦争で最劇戦(さいげきせん)は六月である。六月初旬は、小学校も臨時農繁休(のうはんきゅう)をする。猫の手でも使いたい時だ。子供一人、ドウして中々馬鹿にはならぬ。初旬には最早(もう)蚕(かいこ)が上るのだ。中旬(ちゅうじゅん)には大麦、下旬には小麦を苅(か)るのだ。

最早梅雨(つゆ)に入って、じめ/\した日がつゞく。簑笠(みのかさ)で田も植えねばならぬ。畑勝(はたが)ちの村では、田植は一仕事、「植田(うえだ)をしまうとさば/\するね」と皆が云う。雨間(あまま)を見ては、苅り残りの麦も苅らねばならぬ。苅りおくれると、畑の麦が立ったまゝに粒から芽をふく。油断を見すまして作物(さくもつ)其方退(そっちの)けに増長して来た草もとらねばならぬ。甘藷(さつま)の蔓(つる)もかえさねばならぬ。陸稲(おかぼ)や黍(きび)、稗(ひえ)、大豆の中耕(ちゅうこう)もしなければならぬ。二番茶(にばんちゃ)も摘(つ)まねばならぬ。お屋敷に叱(しか)られるので、東京の下肥(しもごえ)ひきにも行かねばならぬ。時も時とて飯料(はんりょう)の麦をきらしたので、水車に持て行って一晩(ひとばん)寝(ね)ずの番をして搗(つ)いて来ねばならぬ。最早甲州の繭買(まゆかい)が甲州街道に入り込んだ。今年は値(ね)が好くて、川端(かわばた)の岩さん家では、四円十五銭に売ったと云う噂(うわさ)が立つ。隣村の浜田さんも繭買をはじめた。工女の四五人入れて足踏(あしぶみ)器械(きかい)で製糸をやる仙ちゃん、長さんも、即座師(そくざし)の鑑札を受けて繭買をはじめた。自家(うち)のお春っ子お兼っ子に一貫目(いっかんめ)何銭の掻(か)き賃をくれて、大急ぎで掻いた繭を車に積んで、重い車を引張って此処其処相場(そうば)を聞き合わせ、一銭でも高い買手をやっと見つけて、一切合切(いっさいがっさい)屑繭(くずまゆ)まで売ってのけて、手取(てどり)が四十九円と二十五銭。夜の目も寝ずに五十両たらずかと思うても、矢張(やはり)まとまった金だ。持て帰って、古箪笥(ふるだんす)の奥にしまって茶一ぱい飲むと直ぐ畑に出なければならぬ。

空ではまだ雲雀が根気よく鳴いて居る。村の木立の中では、何時の間にか栗の花が咲いて居る。田圃の小川では、葭切(よしきり)が口やかましく終日(しゅうじつ)騒(さわ)いで居る。杜鵑(ほととぎす)が啼(な)いて行く夜もある。梟(ふくろう)が鳴く日もある。水鶏(くいな)がコト/\たゝく宵(よい)もある。螢が出る。蝉(せみ)が鳴く。蛙が鳴く。蚊が出る。ブヨが出る。蠅が真黒(まっくろ)にたかる。蚤(のみ)が跋扈(ばっこ)する。カナブン、瓜蠅(うりばえ)、テントウ虫、野菜につく虫は限もない。皆生命(いのち)だ。皆生きねばならぬのだ。到底(どうせ)取りきれる事ではないが、うっちゃって置けば野菜が全滅になる、取れるだけは取らねばならぬ。此方(こっち)も生きねばならぬ人間である。手が足りぬ。手が足りぬ。自家の人数(にんず)ではやりきれぬ。果ては甲州街道から地所にはなれた百姓を雇(やと)うて、一反何程の請負(うけおい)で、田も植えさす、麦も苅らす。それでもまだやり切れぬ。墓地の骸骨(がいこつ)でも引張り出して来て使いたい此頃には、死人か大病人の外は手をあけて居る者は無い。盲目(めくら)の婆さんでも、手さぐりで茶位(ちゃぐらい)は沸(わ)かす。豌豆(えんどう)や隠元(いんげん)は畑に数珠(じゅず)生(な)りでも、もいで煮(に)て食う暇(ひま)は無い。如才(じょさい)ない東京場末の煮豆屋(にまめや)が鈴(りん)を鳴らして来る。飯の代りに黍(きび)の餅で済ます日もある。近い所は、起きぬけに朝飯前(あさめしまえ)の朝作り、遠い畑へはお春っ子が片手に大きな薬鑵(やかん)、片手に茶受の里芋か餅かを入れた風呂敷包を重そうに提(さ)げ、小さな体を歪(ゆが)めてお八(や)つを持て行く。斯(この)季節(きせつ)に農家を訪えば大抵(たいてい)は門をしめてある。猫一疋居ぬ家もある。何を問うても、くる/\とした眼を睜(みは)って、「知ンねェや」と答うる五六歳(いつつむつ)の女の子が赤ン坊(ぼう)と唯二人留守して居る家(うち)もある。斯様(こん)な時によく子供の大怪我(おおけが)がある。家の内は麦の芒(のげ)だらけ、墓地は草だらけで、お寺や教会では坊さん教師が大欠伸(おおあくび)して居る。後生なんか願うて居る暇が無いのだ。

七

忙(せわ)しい中に、月は遠慮(えんりょ)なく七月に入る。六月は忙しかったが、七月も忙しい。

忙しい、忙しい。何度云うても忙しい。日は永くても、仕事は終(お)えない。夜は短(みじか)くてもおち/\眠ることが出来ぬ。何処(どこ)の娘も赤い眼をして居る。何処のかみさんも、半病人(はんびょうにん)の蒼(あお)い顔をして居る。短気の石山さんが、鈍(どん)な久さんを慳貪(けんどん)に叱りつける。「車の心棒(しんぼう)は鉄(かね)だが、鉄だァて使(つか)や耗(へ)るからナ、俺(おら)ァ段々稼(かせ)げなくなるのも無理はねえや」と、小男(こおとこ)ながら小気味よく稼ぐ辰(たつ)爺さんがこぼす。「違(ちげえ)ねえ、俺ァ辰さんよか年の十も下だンべが、何糞(なにくそ)ッ若け者(もん)に負けるもンかってやり出しても、第一息(いき)がつゞかんからナ」と岩畳(がんじょう)づくりの与右衛門さんが相槌(あいづち)をうつ。然し耗っても錆(さ)びても、心棒は心棒だ。心棒が廻わらぬと家が廻わらぬ。折角(せっかく)苅(か)り入れた麦も早く扱(こ)いて撲(ぶ)って俵にしなければ蝶々(ちょうちょう)になる。今日も雨かと思うたりゃ、さあお天道様(てんとさま)が出なさったぞ、皆(みんな)来(こ)うと呼ばって、胡麻塩頭(ごましおあたま)に向鉢巻、手垢に光るくるり棒(ぼう)押取(おっと)って禾場(うちば)に出る。それっと子供が飛び出す。兄が出る。弟が出る。嫁(よめ)が出る。娘が出る。腰痛(ようつう)でなければ婆さんも出る。奇麗に掃いた禾場(うちば)に一面の穂麦を敷(し)いて、男は男、女は女と相並んでの差向い、片足(かたあし)踏出(ふみだ)し、気合を入れて、一上一下とかわる/″\打下ろす。男は股引(ももひき)に腹かけ一つ、黒(くろ)鉢巻(はちまき)の経木(きょうぎ)真田(さなだ)の帽子を阿弥陀(あみだ)にかぶって、赤銅色(しゃくどういろ)の逞(たくま)しい腕に撚(より)をかけ、菅笠(すげがさ)若くは手拭で姉様冠(あねさまかぶ)りの若い女は赤襷(あかだすき)手甲(てっこう)がけ、腕で額の汗を拭き/\、くるり棒の調子を合わして、ドウ、ドウ、バッタ、バタ、時々(ときどき)群(むれ)の一人が「ヨウ」と勇(いさ)みを入れて、大地も挫(ひし)げと打下ろす。「お前(まえ)さんとならばヨウ、何処(どこ)までもウ、親を離れて彼世(あのよ)までもゥ」若(わか)い女の好い声(こえ)が歌う。「コラコラ」皆が囃(はや)す。禾場(うちば)の日はかん/\照って居る。くるり棒がぴかりと光る。若い男女の顔は、熟した桃の様に紅光(あかびか)って居る。空には白光りする岩雲(いわぐも)が堆(うずたか)く湧(わ)いて居る。

七月中旬、梅雨(つゆ)があけると、真剣に暑くなる。明るい麦が取り去られて、田も畑も緑(みどり)に返える。然し其は春暮(しゅんぼ)の嫩(やわ)らかな緑では無い、日中は緑の焔(ほのお)を吐(は)く緑である。朝夕は蜩(ひぐらし)の声で涼しいが、昼間は油蝉(あぶらぜみ)の音の煎(い)りつく様に暑い。涼しい草屋(くさや)でも、九十度に上る日がある。家の内では大抵誰も裸体(はだか)である。畑ではズボラの武太さんは褌(ふんどし)一つで陸稲(おかぼ)のサクを切って居る。十五六日は、東京のお盆(ぼん)で、此処(ここ)其処に藪入姿(やぶいりすがた)の小さな白足袋があるく。甲州街道の馬車は、此等の小僧さんで満員である。

八

暴風にも静な中心がある。忙(せわ)しい農家の夏の戦闘(いくさ)にも休戦の期(き)がある。

七月末(すえ)か、八月初か、麦も仕舞(しま)い、草も一先ず取りしもうた程(ほど)よい頃を見はからって、月番から総郷上(そうごうあが)り正月のふれを出す。総郷業を休み足を洗うて上るの意である。其(その)期は三日。中日は村総出(そうで)の草苅り路普請(みちぶしん)の日とする。右左から恣(ほしいまま)に公道を侵(おか)した雑草や雑木の枝を、一同磨(と)ぎ耗(へ)らした鎌で遠慮会釈(えしゃく)もなく切払う。人よく道を弘(ひろ)むを、文義(もんぎ)通りやるのである。慾張(よくばり)と名のある不人望な人の畑や林は、此時こそ思い切り切りまくる。昔は兎に角、此の頃では世の中せち辛(から)くなって、物日にも稼(かせ)ぐことが流行する。総郷上り正月にも、畑に田にぽつ/\働く影を見うける。

八月は小学校も休業(やすみ)だ。八月七日は村の七夕(たなばた)、五色の短冊(たんざく)さげた笹(ささ)を立つる家もある。やがて于蘭盆会(うらぼんえ)。苧殻(おがら)のかわりに麦からで手軽に迎火(むかえび)を焚(た)いて、それでも盆だけに墓地も家内(やうち)も可なり賑合(にぎわ)い、緋の袈裟(けさ)をかけた坊さんや、仕着せの浴衣単衣で藪入(やぶいり)に行く奉公男女の影や、断続(だんぞく)して来る物貰いや、盆らしい気もちを見せて通る。然し斯(この)貧(まず)しい小さな野の村では、昔から盆踊(ぼんおど)りと云うものを知らぬ。一年中で一番好い水々(みずみず)しい大きな月が上(あが)っても、其れは断片的(きれぎれ)に若者の歌を嗾(そそ)るばかりである。まる/\とした月を象(かた)どる環(わ)を作って、大勢の若い男女が、白い地を践(ふ)み、黒い影を落して、歌いつ踊(おど)りつ夜を深して、傾(かたぶ)く月に一人(ひとり)減(へ)り二人(ふたり)寝に行き、到頭(とうとう)「四五人に月落ちかゝる踊かな」の趣(おもむき)は、此(この)辺(へん)の村では見ることが出来ぬ。

夏蚕(なつご)を飼(か)う家はないが、秋蚕を飼う家は沢山(たくさん)ある。秋蚕を飼えば、八月はまだ忙(せわ)しい月だ。然し秋蚕のまだ忙しくならぬ隙(すき)を狙(ねら)って、富士詣(ふじまいり)、大山詣、江の島鎌倉の見物をして来る者も少くない。大山へは、夜立ちして十三里日着(ひづ)きする。五円持て夜徹(よどお)し歩るき、眠たくなれば堂宮(どうみや)に寝て、唯一人富士に上って来る元気な若者もある。夏の命(いのち)は日と水だ。照らねばならず、降らねばならぬ。多摩川遠い此村里では、水害の患(うれい)は無いかわり、旱魃(かんばつ)の恐れがある。大抵は都合よく夕立(ゆうだち)が来てくれる。雨乞(あまごい)は六年間に唯一度あった。降って欲しい時に降れば、直ぐ「おしめり正月」である。伝染病が襲うて来るも此月だ。赤痢(せきり)、窒扶斯(ちぶす)で草葺の避病院が一ぱいになる年がある。真白い診察衣(しんさつい)を着た医員が歩く。大至急清潔法施行の布令(ふれ)が来る。村の衛生係が草鞋ばきの巡査さんと溷(どぶ)、掃溜(はきだめ)を見てあるく。其巡査さんの細君が赤痢になったと云う評判が立つ。鉦(かね)や太鼓で念仏(ねんぶつ)唱(とな)えてねりあるき、厄病禳(やくびょうばら)いする村もある。

其様(そん)な騒(さわ)ぎも何時しか下火になって、暑い/\と云う下から、ある日秋蝉(つくつくぼうし)がせわしく鳴きそめる。武蔵野の秋が立つ。早稲が穂を出す。尾花(おばな)が出て覗(のぞ)く。甘藷を手掘りすると、早生は赤児(あかご)の腕程になって居る。大根、漬菜(つけな)を蒔かねばならぬ。蕎麦、秋馬鈴薯もそろ/\蒔かねばならぬ。暫(しばら)く緑一色であった田は、白っぽい早稲の穂の色になり、畑では稗(ひえ)が黒く、黍(きび)が黄に、粟が褐色(かちいろ)に熟(う)れて来る。粟や黍は餅(もち)にしてもまだ食える。稗は乃木さんでなければ中々食えぬ。此辺では、米を非常、挽割麦(ひきわりむぎ)を常食にして、よく/\の家でなければ純稗(さらひえ)の飯は食わぬ。下肥(しもごえ)ひきの弁当に稗の飯でも持って行けば、冷たい稗はザラ/\して咽(のど)を通らぬ。湯でも水でもぶっかけてざぶ/\流し込むのである。若い者の楽(たのしみ)の一は、食う事である。主人は麦を食って、自分に稗を食わした、と忿(いか)って飛び出した作代(さくだい)もある。

九

九月は農家の厄月(やくづき)、二百十日、二百二十日を眼の前に控えて、朔日(ついたち)には風祭をする。麦桑に雹(ひょう)を気づかった農家は、稲に風を気づかわねばならぬ。九月は農家の鳴戸(なると)の瀬戸だ。瀬戸を過ぐれば秋の彼岸(ひがん)。蚊帳(かや)を仕舞う。おかみや娘の夜延(よなべ)仕事が忙しくなる。秋の田園詩人の百舌鳥(もず)が、高い栗の梢から声高々と鳴きちぎる。栗が笑(え)む。豆の葉が黄ばむ。雁来紅(けいとう)が染(そ)むを相図に、夜は空高く雁(かり)の音(ね)がする。林の中、道草の中、家の中まで入り込んで、虫と云う虫が鳴き立てる。早稲が黄ろくなりそめる。蕎麦の花は雪の様だ。彼岸花と云う曼珠沙華(まんじゅしゃげ)は、此辺に少ない。此あたりの彼岸花は、萩(はぎ)、女郎花(おみなえし)、嫁菜(よめな)の花、何よりも初秋の栄(さかえ)を見せるのが、紅く白く沢々(つやつや)と絹総(きぬぶさ)を靡(なび)かす様な花薄(はなすすき)である。子供が其れを剪(き)って来て、十五夜の名月様に上げる。萱は葺料にして長もちするので、小麦からの一束(ひとたば)五厘に対し、萱は一銭も其上もする。そこで萱野(かやの)を仕立てゝ置く家もある。然し東京がます/\西へ寄って来るので、萱野も雑木山も年々減って行くばかりである。

九月は農家の祭月(まつりづき)、大事な交際季節(シーズン)である。風の心配も兎やら恁(こ)うやら通り越して、先収穫(しゅうかく)の見込がつくと、何処(どこ)の村でも祭をやる。木戸銭御無用、千客万来の芝居、お神楽(かぐら)、其れが出来なければ詮方(せんかた)無しのお神酒(みき)祭(まつり)。今日は粕谷か、明日(あす)は廻沢(めぐりさわ)烏山(からすやま)は何日で、給田が何日、船橋では、上下祖師ヶ谷では、八幡山では、隣村の北沢では、と皆が指折(ゆびおり)数(かぞ)えて浮き立つ。彼方の村には太鼓が鳴る。此方(こち)の字(あざ)では舞台(ぶたい)がけ。一村八字、寄合うて大きくやればよさそうなものゝ、八つの字には八つの意志と感情と歴史があって、二百戸以上の烏山はもとより、二十七戸の粕谷でも、十九軒(けん)の八幡山でも、各自に自家(うち)の祭をせねば気が済(す)まぬ。祭となれば、何様な家でも、強飯(おこわ)を蒸(ふか)す、煮染(にしめ)をこさえる、饂飩(うどん)をうつ、甘酒(あまざけ)を作って、他村の親類縁者を招く。東京に縁づいた娘も、子を抱き亭主や縁者を連れて来る。今日は此方のお神楽(かぐら)で、平生(ふだん)は真白な鳥の糞(ふん)だらけの鎮守の宮も真黒(まっくろ)になる程人が寄って、安小間物屋、駄菓子屋、鮨屋(すしや)、おでん屋、水菓子屋などの店が立つ。神楽は村の能狂言(のうきょうげん)、神官が家元で、村の器用な若者等が神楽師(かぐらし)をする。無口で大兵の鉄さんが気軽に太鼓をうったり、気軽の亀さんが髪髯(かみひげ)蓬々(ぼうぼう)とした面をかぶって真面目に舞台に立ちはだかる。「あ、ありゃ亀さんだよ、まァ」と可笑(おか)しざかりのお島がくつ/\笑う。今日自家の祭酒に酔うた仁左衛門さんが、明日は隣字の芝居で、透綾(すきや)の羽織でも引被(ひっか)け、寸志の紙包(かみづつみ)を懐中して、芝居へ出かける。毎日近所で顔を合して居ながら、畑の畔(くろ)の立話にも、「今日は」「今日は」と抑(そもそも)天気の挨拶からゆる/\とはじめる田舎(いなか)気質(かたぎ)で、仁左衛門さんと隣字の幹部の忠五郎さんとの間には、芝居(しばい)の科白(せりふ)の受取渡しよろしくと云う挨拶が鄭重(ていちょう)に交換される。輪番(りんばん)に主になったり、客になったり、呼びつ喚ばれつ、祭は村の親睦会だ。三多摩は昔から人の気の荒い処で、政党騒ぎではよく血の雨を降らし、気の立った日露戦争時代は、農家の子弟が面籠手(こて)かついで調布まで一里半撃剣の朝稽古に通ったり柔道を習ったりしたものだが、六年前に一度粕谷八幡山対烏山の間に大喧嘩(おおげんか)があって、仕込杖(しこみづえ)が光ったり怪我人が出来たり長い間揉(も)めくった以来、此と云う喧嘩の沙汰も聞かぬ。泰平有象(たいへいしょうあり)村々酒(そんそんのさけ)。祭が繁昌すれば、田舎は長閑(のどか)である。

十

十月だ。稲の秋。地は再び黄金の穂波が明るく照り渡る。早稲(わせ)から米になって行く。性急(せいきゅう)に百舌鳥(もず)が鳴く。日が短くなる。赤蜻蛉(あかとんぼ)が夕日の空に数限りもなく乱れる。柿が好い色に照って来る。ある寒い朝、不図(ふと)見ると富士の北の一角(いっかく)に白いものが見える。雨でも降ったあとの冷たい朝には、水霜がある。

十月は雨の月だ。雨がつゞいたあとでは、雑木林に茸(きのこ)が立つ。野ら仕事をせぬ腰の曲った爺さんや、赤児を負ったお春っ子が、笊(ざる)をかゝえて採りに来る。楢茸(ならたけ)、湿地茸(しめじだけ)、稀に紅茸、初茸は滅多になく、多いのが油坊主(あぶらぼうず)と云う茸だ。一雨一雨に気は冷えて行く。田も林も日に/\色づいて行く。甘藷(さつま)が掘られて、続々都へ運ばれる。田舎は金が乏しい。村会議員の石山さんも、一銭違(ちが)うと謂うて甲州街道の馬車にも烏山から乗らずに山谷(さんや)から乗る。だから、村の者が甘藷を出すにも、一貫目につき五厘も値(ね)がよければ、二里の幡(はた)ヶ谷(や)に下ろすより四里の神田へ持って行く。

茶の花が咲く。雑木林の楢に絡(から)む自然薯(じねんじょ)の蔓(つる)の葉が黄になり、藪(やぶ)からさし出る白膠木(ぬるで)が眼ざむる様な赤(あか)になって、お納戸色(なんどいろ)の小さなコップを幾箇も列(つら)ねて竜胆(りんどう)が咲く。樫(かし)の木の下は、ドングリが箒(ほうき)で掃く程だ。最早豌豆(えんどう)や蚕豆(そらまめ)も蒔(ま)かねばならぬ。蕎麦も霜前に苅(か)らねばならぬ。また其れよりも農家の一大事、月の下旬から来月初旬にかけて、最早麦蒔きがはじまる。後押しの二人もついて、山の如く堆肥(たいひ)を積んだ車が頻(しきり)に通る。先ず小麦を蒔いて、後に大麦を蒔くのである。奇麗に平(なら)した畑は一条(ひとすじ)一条丁寧に尺竹(しゃくだけ)をあて、縄ずりして、真直ぐに西から東へ畝(うね)を立て、堆肥を置いて土をかけ、七蔵が種を振(ふ)れば、赤児を負った若いかみさんが竹杖(たけづえ)ついて、片足かわりに南から北へと足で土をかけて、奇麗に踏んづけて行く。燻炭(くんたん)肥料の、条播(すじまき)のと、農会の勧誘(かんゆう)で、一二年やって見ても、矢張仕来りの勝手がよい方でやって行くのが多い。

十一

霜らしい霜は、例年明治天皇の天長節(てんちょうせつ)、十一月三日頃に来る。手を浄(きよ)めに前夜雨戸をあくれば、鍼先(はりさき)を吹っかくる様な水気(すいき)が面を撲(う)って、遽(あわ)てゝもぐり込む蒲団の中でも足の先が縮(ちぢ)こまる程いやに冷(つめ)たい、と思うと明くる朝は武蔵野一面の霜だ。草屋根と云わず、禾場(うちば)と云わず、檐下(のきした)から転び出た木臼の上と云わず、出し忘れた物干竿の上のつぎ股引(ももひき)と云わず、田も畑も路も烏(からす)の羽の上までも、真白だ。日が出ると、晶々(きらきら)とした白金末(まつ)になり、紫水晶末になるのである。山風をあらしと云えば霜の威力を何に譬(たと)えよう? 地の上の白火事(しろかじ)とでも云おう。大抵のものは爛(ただ)れてしまう。桑と云う桑の葉は、ぐったりとなって、二日もすれば、歯がぬける様にひとりでにぼろりと落ちる。生々(いきいき)として居た甘藷の蔓は、唯一夜に正しく湯煎(うで)られた様に凋(しお)れて、明くる日は最早真黒になり、触(さわ)ればぼろ/\の粉(こな)になる。シャンとして居た里芋(さといも)の茎(くき)も、ぐっちゃりと腐った様になる。畑が斯うだから、園の内も青い物は全滅(ぜんめつ)、色ある物は一夜に爛(ただ)れて了うのである。霜にめげぬは、青々(あおあお)とした大根の葉と、霜で甘くなる漬菜(つけな)の類(たぐい)と、それから緑の縞(しま)を土に織り出して最早ぼつ/\生えて来た大麦小麦ばかりである。

霜は霽(はれ)に伴う。霜の十一月は、日本晴(にっぽんばれ)の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃(へきるり)になる。朝日夕日が美しい。月や星が冴(さ)える。田は黄色から白茶(しらちゃ)になって行く。此処其処の雑木林や村々の落葉木が、最後の栄(さかえ)を示して黄に褐(かち)に紅に照り渡る。緑の葉の中に、柚子(ゆず)が金の珠を掛ける。光明は空(そら)から降(ふ)り、地からも湧(わ)いて来る。小学校の運動会で、父兄が招かれる。村の恵比寿(えびす)講(こう)、白米五合銭十五銭の持寄りで、夜徹(よっぴて)の食ったり飲んだり話したりがある。日もいよ/\短くなる。甘藷や里芋も掘って、土窖(あな)に蔵(しま)わねばならぬ。中稲(なかて)も苅らねばならぬ。其内に晩稲(おくて)も苅らねばならぬ。でも、夏の戦闘(たたかい)に比べては、何を云っても最早しめたものである。朝霜、夜嵐(よあらし)、昼は長閑(のどか)な小春日がつゞく。「小春日や田舎に廻る肴売(さかなうり)」。「鯷(しこ)は? 鯷?」「秋刀魚(さんま)や秋刀魚!」のふれ声が村から村を廻(まわ)ってあるく。牛豚肉は滅多(めった)に食わず、川魚は少(すくな)し、稀(まれ)に鼬(いたち)に吸われた鶏(とり)でも食えば骨(ほね)までたゝいて食い、土の物の外は大抵塩鮭(しおざけ)、めざし、棒鱈にのみ海の恩恵を知る農家も、斯様(こん)な時には炙(あぶ)れば青い焔(ほのお)立(た)つ脂ぎった生魚を買って舌鼓(したつづみ)うつのである。

月の末方(すえがた)には、除隊の兵士が帰って来る。近衛か、第一師団か、せめて横須賀(よこすか)位(ぐらい)ならまだしも、運悪く北海道三界旭川(あさひがわ)へでもやられた者は、二年ぶり三年ぶりで帰って来るのだ。親類(しんるい)縁者(えんじゃ)は遠出の出迎、村では村内少年音楽隊を先に立て、迎何々君之帰還(なになにくんのきかんをむかう)の旗押立てゝ、村界まで迎いに出かける。二年三年の兵営(へいえい)生活(せいかつ)で大分世慣(よな)れ人ずれて来た丑之助君が、羽織袴、靴、中折帽、派手(はで)をする向きは新調のカーキー服にギュウ/\云う磨き立ての長靴、腰の淋(さび)しいのを気にしながら、胸に真新(まあたら)しい在郷軍人徽章(きしょう)をつるして、澄まし返(かえ)って歩いて来る。面々各自(てんで)の挨拶がある。鎮守の宮にねり込んで、取りあえず神酒(みき)一献(いっこん)、古顔の在郷軍人か、若者頭の音頭(おんど)で、大日本帝国、天皇陛下、大日本帝国陸海軍、何々丑之助君の万歳がある。丑之助君が何々有志諸君の万歳を呼ぶ。其れから丑之助君を宅(たく)へ送って、いよ/\飲食(のみくい)だ。赤の飯、刻鰑(きざみするめ)菎蒻(こんにゃく)里芋蓮根の煮染(にしめ)、豆腐に芋の汁、はずんだ家では菰冠(こもかぶ)りを一樽とって、主も客も芽出度(めでたい)と云って飲み、万歳と云っては食い、満腹満足、真赤(まっか)になって祝うのだ。二三日すると帰り新参(しんざん)の丑之助君が、帰った時の服装(なり)で神妙(しんみょう)に礼廻りをする。軒別に手拭か半紙。入営に餞別(せんべつ)でも貰った家へは、隊名姓名を金文字で入れた盃や塗盆(ぬりぼん)を持参する。兵士一人出す家の物入も大抵では無い。

兵隊さんの出代(でがわ)りで、除隊を迎えると、直ぐ入営送りだ。体格がよく、男の子が多くて、陸海軍拡張の今日と来て居るので、何れの字からも二人三人兵士を出さぬ年は無い。白羽(しらは)の箭が立った若者には、勇んで出かける者もある。抽籤(くじ)を遁(のが)れた礼参りに、わざ/\鴻(こう)の巣(す)在(ざい)の何宮さんまで出かける若者もある。二十歳(はたち)前後が一番百姓仕事に実(み)が入る時ですから、とこぼす若い爺(とっ)さんもある。然し全国皆兵の今日だ。一人息子でも、可愛息子でも、云い聞かされた「国家の為」だ、出せとあったら出さねばならぬ。出さぬと云ったら、お上に済まぬ。近所に済まぬ。そこで父の右腕(みぎうで)、母のおもい子の岩吉も、頭は五分刈、中折帽、紋付羽織、袴、靴、凜(りゅう)とした装(なり)で、少しは怯々(おどおど)した然し澄(す)ました顔をして、鎮守の宮で神酒(みき)を飲まされ、万歳の声と、祝入営の旗五六本と、村楽隊と、一字総出の戸主連に村はずれまで見送られ、知らぬ生活に入る可く往ってしまう。二三日、七八日(ななようか)過ぐると、軒別に入営済(にゅうえいずみ)の御礼のはがきが来る。

十二

兵隊さんの出代りを村の一年最後の賑合にして、あとは寂(さび)しい初冬の十二月に入る。

「稼収(かおさまって)平野濶(へいやひろし)」晩稲も苅られて、田圃(たんぼ)も一望ガランとして居る。畑の桑は一株ずつ髻(もとどり)を結(ゆ)われる。一束ずつ奇麗に結わえた新藁(しんわら)は、風よけがわりにずらりと家の周囲(まわり)にかけられる。ざら/\と稲を扱(こ)く音。カラ/\と唐箕車(とうみぐるま)を廻す響(おと)。大根引、漬菜洗い、若い者は真赤な手をして居る。昼(ひる)は北を囲うた南向きの小屋の蓆(むしろ)の上、夜は炉(ろ)の傍(はた)で、かみさんはせっせと股引、足袋を繕(つくろ)う。夜は晩くまで納屋(なや)に籾(もみ)ずりの響がする。突然(だしぬけ)にざあと時雨(しぐれ)が来る。はら/\と庇(ひさし)をうって霰(あられ)が来る。ちら/\と風花(かざはな)が降る。北から凩(こがらし)が吹いて来て、落葉した村の木立を騒々しく鳴らす。乾いた落葉が、遽(あわ)てゝカラカラと舞い奔(はし)る。箒を逆(さかさ)に立てた様な雑木山に、長い鋸(のこ)を持った樵夫(さきやま)が入って、啣(くわ)え煙管(ぎせる)で楢(なら)や櫟(くぬぎ)を薪に伐(き)る。海苔疎朶(のりそだ)を積んだ車が村を出る。冬至までは、日がます/\つまって行く。六時にまだ小暗(おぐら)く、五時には最早(もう)闇(くら)い。流しもとに氷が張る。霜が日に/\深くなる。

十五日が世田(せた)ヶ谷(や)のボロ市。世田ヶ谷のボロ市は見ものである。松陰(しょういん)神社(じんじゃ)の入口から世田ヶ谷の上宿(かみじゅく)下宿を打通して、約一里の間は、両側にずらり並んで、農家日用の新しい品々は素より、東京中の煤掃(すすは)きの塵箱(ごみばこ)を此処へ打ち明けた様なあらゆる襤褸(ぼろ)やガラクタをずらりと並べて、売る者も売る、買う者も買う、と唯驚かるゝばかりである。見世物が出る。手軽な飲食店が出る。咽(のど)を稗(ひえ)が通る様に、店の間を押し合いへし合いしてぞろ/\人間(にんげん)が通る。近郷(きんごう)近在の爺さん婆さん若い者女子供が、股引(ももひき)草鞋(わらじ)で大風呂敷を持ったり、荷車を挽(ひ)いたり、目籠(めかご)を背負ったりして、早い者は夜半から出かける。新しい莚(むしろ)、筍掘器(たけのこほり)、天秤棒を買って帰る者、草履(ぞうり)の材料やつぎ切れにする襤褸(ぼろ)を買う者、古靴を値切(ねぎ)る者、古帽子、古洋燈、講談物(こうだんもの)の古本を冷かす者、稲荷鮨(いなりずし)を頬張(ほおば)る者、玉乗の見世物の前にぽかんと立つ者、人さま/″\物さま/″\の限を尽す。世田ヶ谷のボロ市を観(み)て悟(さと)らねばならぬ、世に無用のものは無い、而(そう)して悲観は単に高慢であることを。

ボロ市過ぎて、冬至もやがてあとになり、行く/\年も暮(くれ)になる。蛇(へび)は穴に入り人は家に籠(こも)って、霜枯(しもがれ)の武蔵野は、静かな昼(ひる)にはさながら白日(まひる)の夢に定(じょう)に入る。寂しそうな烏が、此樫(かし)の村から田圃を唖々(ああ)と鳴きながら彼欅(けやき)の村へと渡る。稀には何処から迷い込んだか洋服ゲートルの猟者が銃先(つつさき)に鴫(しぎ)や鵯(ひよ)のけたゝましく鳴いて飛び立つこともあるが、また直ぐともとの寂しさに返える。凩(こがらし)の吹く夜は、海の様な響(ひびき)が武蔵野に起って、人の心を遠く遠く誘(さそ)うて行く。但東京の屋敷に頼(たの)まれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂(もちつ)きに東京に出る若者はあっても、村其ものには何処(どこ)に師走(しわす)の忙(せわ)しさも無い。二十五日、二十八日、晦日(みそか)、大晦日、都の年の瀬は日一日と断崖(だんがい)に近づいて行く。三里東の東京には、二百万の人の海、嘸(さぞ)さま/″\の波も立とう。日頃(ひごろ)眺むる東京の煙も、此四五日は大息(おおいき)吐息(といき)の息巻荒く颺(あが)る様に見える。然し此処(ここ)は田舎である。都の師走(しわす)は、田舎の霜月(しもつき)。冬枯(ふゆがれ)の寂しい武蔵野は、復活の春を約して、麦が今二寸に伸びて居る。気に入りの息子を月の初に兵隊にとられて、寂しい心の辰(たつ)爺(じい)さんは、冬至が過ぎれば日が畳の目一つずつ永くなる、冬のあとには春が来る、と云う信仰の下に、時々竹箆(たけべら)で鍬の刃につく土を落しつゝ、悠々(ゆうゆう)と二寸になった麦のサクを切って居る。

媒妁

結婚の媒妁(なかだち)を頼まれた。式は宜い様にやってくれとの事である。新郎(しんろう)とは昨今の知合で、新婦は初めて名を聞いた。媒妁なンか経験もなし、断ったが、是非との頼(たの)み、諾(よし)と面白半分引受けてしもうた。

明治四十年の九月某日(それのひ)、媒妁夫妻は小婢(こおんな)と三人がかりで草屋の六畳二室を清(きよ)め、赤、白、鼠、婢の有(もの)まで借りて、あらん限りの毛布を敷きつめた。家のまわりも一(ひと)わたり掃(は)いた。隔ての唐紙(からかみ)を取払い、テーブルを一脚(いっきゃく)東向きに据(す)え、露ながら折って来た野の草花を花瓶(かへい)一ぱいに插(さ)した。女郎花(おみなえし)、地楡(われもこう)、水引、螢草、うつぼ草、黄碧紫紅(こうへきしこう)入り乱れて、あばら家も為に風情(ふぜい)を添えた。媒妁夫妻は心嬉しく、主人は綿絽(めんろ)の紋付羽織に木綿茶縞の袴、妻は紋服(もんぷく)は御所持なしで透綾(すきや)の縞の単衣にあらためて、徐(しずか)に新郎新婦の到着を待った。

正午過ぎ、村を騒がして八台の車が来た。新郎新婦及縁者の人々である。新婦は初めて見た。眼のきれの長い佳人(かじん)である。更衣室も無いので、仕切りの障子をしめ、二畳の板の間を半分(はんぶん)占(し)めた古長持の上に妻の鏡台(きょうだい)を置いた。鏡台の背には、破簾(やれみす)を下げて煤(すす)だらけの勝手を隔てた。二十分の後此楽屋(がくや)から現われ出た花嫁君(はなよめぎみ)を見ると、秋草の裾模様(すそもよう)をつけた淡紅色(ときいろ)絽(ろ)の晴着で、今咲いた芙蓉(ふよう)の花の様だ。花婿も黒絽紋付、仙台平の袴、凜(りゅう)として座って居る。

媒妁は一咳(いちがい)してやおら立上った。

「勝田慶三郎」

「松居千代」

卒業免状でも渡す時の様に、声(こえ)厳(おごそか)に新郎新婦を呼び出して、テーブルの前に立たせた。而(そう)して媒妁は自身愛読する創世記(そうせいき)イサク、リベカ結婚の条を朗々(ろうろう)と読み上げた。

「祈祷(きとう)を致します」

斯く云って、媒妁がやゝ久しく精神を統一すべく黙って居ると、

「祈祷を致すのでございますか」

と新郎がやゝ驚いた様に小声できく。媒妁は頓着(とんじゃく)なく祝祷(しゅくとう)をはじめた。

祈祷が終る。妻が介抱(かいほう)して、新郎新婦を握手させる。一旦新婦の手からぬいて置いた指環を新郎に渡し、あらためて新郎の手ずから新婦の指に嵌(は)めさす。二人ながら震えて居る。

屋敷に門無く、障子は穴だらけである。村あってより見たこともない夥(おびただ)しい車の入来(じゅらい)に眼を驚かした村の子供が、草履(ぞうり)ばた/\大勢(おおぜい)縁先(えんさき)に入り込んで、ぽかんとした口だの、青涕(あおばな)の出入する鼻だの、驚いた様な眼だのが、障子の穴から覗(のぞ)いて居る。「何だ、ありゃ」。「あ、あ、あら、如何(どう)するだンべか」なンか云って居る。

六畳の大広間には、新郎新婦相並んで正面赤毛布の上に座(すわ)って居る。結婚証書を三通新婦(はなよめ)の兄者人に書いてもらって、新郎新婦をはじめ其尊長達(そんちょうたち)、媒妁夫妻も署名した。これで結婚式は芽出度終った。小婢(こおんな)が茶を運んで来た。菓子が無いので、有り合せの梨(なし)を剥(む)き、数が無いので小さく切って、小楊枝(こようじ)を添(そ)えて出した。

四時過ぎお開きとなった。

媒妁(なかだち)の役目相済んだつもりで納まって居ると、神田(かんだ)の料理屋で披露の宴をするとの事で、連れて来られた車にのせられ、十台の車は静かな村を犇(ひし)めかして勢よく新宿に向った。新宿から電車でお茶の水に下り、某と云う料理店に案内された。

媒妁は滅多に公会祝儀の席なぞに出た事のない本当の野人(やじん)である。酒がはじまった。手をついたり、お辞儀(じぎ)をしたり、小むつかしい献酬(けんしゅう)の礼が盛に行われる。酒を呑まぬ媒妁は、ぽかんとして皆の酒を飲むのを眺めて居る。料理が出たが、菜食主義の彼は肉食をせぬ。腹は無闇(むやみ)に減る。新郎の母者人が「ドウカお吸物(すいもの)を」との挨拶(あいさつ)が無い前に、勝手に吸物(すいもの)椀(わん)の蓋をとって、鱚(きす)のムスビは残して松蕈(まつだけ)とミツバばかり食った。

九時過ぎやっとお開きになった。媒妁夫婦は一同に礼して、寿(じゅ)の字の風呂敷に包んだ引き物の鰹節籠(かつぶしかご)を二つ折詰(おりづめ)を二つもらって、車で送られてお茶の水停車場に往った。媒妁の家は菜食で、ダシにも昆布(こんぶ)を使って居るので、二つの鰹節包は二人の車夫にやった。車夫は眼を円(まる)くして居た。

新宿に下りると、雨が盛(さかん)に降って居る。夜も最早(もう)十時、甲州街道口に一台の車も居ない。媒妁夫婦は、潜(くぐ)りの障子だけあかりのさした店に入って、足駄(あしだ)と傘とブラ提灯(ちょうちん)と蝋燭とマッチと糸経(いとだて)を買った。而(そう)しておの/\糸経を被(かぶ)り、男が二人のぬいだ日和下駄を風呂敷包(ふろしきづつみ)にして腰につけ、小婢(こおんな)にみやげの折詰二箇(ふたつ)半巾(はんかち)に包んで片手にぶら下げて、尻高々とからげれば、妻は一張羅(いっちょうら)の夏帯を濡(ぬ)らすまいとて風呂敷を腰に巻き、単衣の裾短に引き上げて、提灯ぶら提げ、人通りも絶え果てた甲州街道三里の泥水をピチャリ/\足駄に云わして帰った。

「如何(どう)だ、此(この)態(ざま)を勝田君に書いてもらったら、一寸(ちょっと)茶番(ちゃばん)の道行が出来ようじゃないか」

夫が笑えば、妻も噴(ふ)き出し、

「本当にね」

と相槌(あいづち)をうった。

新郎(しんろう)勝田君は、若手で錚々(そうそう)たる劇作家(ドラマチスト)である。

螢

先刻(さっき)から田圃(たんぼ)に呼びかわす男の子の声がして居たと思うたら、闇(やみ)の門口から小さな影が二つ三つ四つ縁先にあらわれた。小さな握拳(にぎりこぶし)の指の間から、ちら/\碧(あお)い光を見せて居る。

皆近所の子で、先夜主人(あるじ)が「ミゼラーブル」の話を聞いて息をのんだ連中(れんじゅう)である。

「螢を捕(と)ったね」

「え」

と一人が云ったが、

「あ、此れに這(は)わせて見べいや」

と云って、縁先(えんさき)に据(す)えてある切株の上の小さな姫蘆(ひめあし)の橢円形(だえんけい)の水盤(すいばん)へ、窃(そっ)と拳(こぶし)の中のものを移した。

すると、余(よ)の子供が吾も吾もと皆手を水盤の上に解(と)いた。水を吹いた小さな姫蘆の葉の上、茎の間、蘆の根ざす小さな岩の上に、生きた、緑玉(りょくぎょく)、碧玉、孔雀石(くじゃくせき)の片がほろ/\とこぼれて、其数約二十余、葉末の露にも深さ一分の水盤の水にも映(うつ)って、光ったり、消えたり、嬉(うれ)しそうに明滅(めいめつ)して、飛び立とうともしない。

「綺麗(きれい)だ喃(なあ)」

「綺麗だ喃」

皆嬉々(きき)としてしたり貌(がお)にほめそやす。

「皆何してるだか」

云って、また二人(ふたり)男の子が草履(ぞうり)の音をさせて入って来た。

「あッ綺麗だな、俺(おら)がのも明けてやるべ」

と云って、また二人して八九疋(ひき)螢の島へ螢を放(はな)った。

主人(あるじ)と妻と逗留(とうりゅう)に来て居る都の娘と、ランプを隅へ押(お)しやって、螢と螢を眺むる子供を眺める。田圃(たんぼ)の方から涼しい風が吹いて来る。其風に瞬(またた)く小さな緑玉(エメラルド)の灯でゞもあるように、三十ばかりの螢がかわる/″\明滅する。縁にかけたり蹲(しゃが)んだりして、子供は黙って見とれて居る。

斯涼しい活画(いきえ)を見て居る彼の眼前に、何時(いつ)とはなしにランプの明るい客間(パーラー)があらわれた。其処に一人の沈欝(ちんうつ)な顔をして丈高(たけたか)い西洋人が立って居る。前には学生が十五六人腰かけて居る。学生の中に十二位の男の子が居る。其は彼自身である。彼は十二の子供で、京都同志社の生徒である。彼は同窓諸子と宣教師デビス先生に招かれて、今茶菓と話の馳走になって居るのである。米国南北戦争に北軍の大佐であったとか云うデビス先生は、軍人だけに姿勢が殊に立派で、何処やら武骨(ぶこつ)な点もあって、真面目な時は頗る厳格(げんかく)沈欝(ちんうつ)な、一寸畏(おそ)ろしい様な人であったが、子供の眼からも親切な、笑えば愛嬌の多い先生だった。何かと云うと頭を掉(ふ)るのが癖だった。毎度先生に招かるゝ彼等学生は、今宵(こよい)も蜜柑やケークの馳走になった。赤い碁盤縞(ごばんじま)のフロックを着た先生の末子(ばっし)が愛想(あいそ)に出て来たが、うっかり放屁(ほうひ)したので、学生がドッと笑い出した。其子が泣き出した。デビス先生は左の手で泣く子の頭を撫(な)で、右手の金網の炮烙(ほうろく)でハゼ玉蜀黍(もろこし)をあぶりつゝ、プチヽヽプチヽヽ其はぜる響(おと)を口真似して笑いながら頭を掉られた。其つゞきである。先生は南北戦争の逸事(いつじ)を話して、ある夜火光(あかり)を見さえすれば敵が射撃するので、時計を見るにマッチを擦(す)ることもならず、恰(ちょうど)飛んで居た螢を捉(つかま)えて時計にのせて時間を見た、と云う話をされた。

其れは彼が今此処に居る子供の一番小さなの位の昔であった。其後彼はデビス先生に近しくする機会を有たなかった。先生の夫人は其頃から先生よりも余程ふけて居られた。後(のち)気が変になり、帰国の船中太平洋の水屑(みくず)になられたと聞いて居る。デビス先生は男らしく其苦痛に耐え、宣教師排斥(はいせき)が一の流行になった時代に処(しょ)して、恚(いか)らず乱れず始終一貫同志社にあって日本人の為に尽し、「吾生涯即吾遺言也」との訣辞(けつじ)を残して、先年終に米国に逝(ゆ)かれた。

螢を見れば常に憶(おも)い出すデビス先生を、彼は今宵(こよい)も憶い出した。

夕立雲

畑のものも、田のものも、林のものも、園のものも、虫も、牛馬も、犬猫も、人も、あらゆる生きものは皆雨を待ち焦(こが)れた。

「おしめりがなければ、街道は塵埃(ほこり)で歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。

「これでおしめりさえあれば、本当に好いお盆(ぼん)ですがね」と内の婢(おんな)もこぼして居た。

両三日来非常に蒸(む)す。東の方に雲が立つ日もあった。二声(ふたこえ)三声雷鳴(らいめい)を聞くこともあった。

「いまに夕立が来る」

斯く云って幾日か過ぎた。

今日早夕飯を食って居ると、北から冷(ひ)やりと風が来た。眼を上げると果然(はたして)、北に一団紺靛色(インジゴーいろ)の雲が蹲踞(しゃが)んで居る。其紺靛の雲を背(うしろ)に、こんもりした隣家の杉樫の木立、孟宗竹の藪(やぶ)などが生々(なまなま)しい緑を浮(う)かして居る。

「夕立が来るぞ」

主人(あるじ)は大声に呼んで、手早く庭の乾し物、履物(はきもの)などを片づける。裏庭では、婢が駈けて来て洗濯物を取り入れた。

やがて食卓から立って妻児が下りて来た頃は、北天の一隅に埋伏(まいふく)し居た彼濃い紺靛色(インジゴーいろ)の雲が、倏忽(たちまち)の中にむら/\と湧(わ)き起(た)った。何の艶(つや)もない濁った煙色に化(な)り、見る/\天穹(てんきゅう)を這(は)い上り、大軍の散開する様に、東に、西に、天心に、ず、ずうと広がって来た。

三人は芝生に立って、驚嘆(きょうたん)の眼を瞪(みは)って斯夥(おびただ)しい雨雲の活動を見た。

あな夥しの雲の勢や。黙示録に「天は巻物を捲(ま)くが如く去り行く」と歌うたも無理はない。青空は今南の一軸に巻き蹙(ちぢ)められ、煤煙(ばいえん)の色をした雲の大軍は、其青空をすら余(あま)さじものをと南を指してヒタ押しに押寄(おしよ)せて居る。つい今しがたまで雨を恋しがって居た乾き切った真夏(まなつ)の喘(あえ)ぎは何処へ往ったか。唯十分か十五分の中に、大地は恐ろしい雨雲の下に閉じこめられて、冷たい黯(くら)い冥府(よみ)になった。

雲の運動は秒一秒劇(はげ)しくなった。南を指して流るゝ雲、渦(うず)まく雲、真黒に屯(とま)って動かぬ雲、雲の中から生るゝ雲、雲を摩(さす)って移り行く雲、淡くなり、濃くなり、淡くなり、北から東へ、東から西へ、北から西へ、西から南へ、逆流(ぎゃくりゅう)して南から東へ、世界中の煙突(えんとつ)と云う煙突をこゝに集めて煤煙の限りなく涌(わ)く様に、眼を驚かす雲の大行軍(だいこうぐん)、音響(おと)を聞かぬが不思議である。

彼等は驚異の眼を瞪って、此活動する雲の下に魅せられた様に彳(たたず)んだ。冷たい風がすうっすうっと顔に当る。後(おく)れ馳せに雷(かみなり)がそろ/\鳴り出した。北の方で、条(すじ)をなさぬ紅(くれない)や紫の電光(いなずま)が時々ぱっぱっと天の半壁(はんぺき)を輝(てら)して閃(ひら)めく。近づく雷雨を感じつゝ、彼等は猶頭上の雲から眼を離し得なかった。薄汚(うすぎたな)い煤煙色をした満天の雲はます/\南に流れる、水の様に、霧の様に、煙の様に。空は皆動いて居る。濶(ひろ)い空の何(ど)の一寸四方として動いて居ないのはない。皆恐ろしい勢を以て動いて居る。仰ぎ見る彼等は、流るゝ雲に引きずられてやゝもすれば駈(か)け出しそうになる足を踏(ふ)みしめ踏みしめ立って居なければならなかった。時々西の方で、或(ある)一処雲が薄(うす)れて、探照燈(たんしょうとう)の光めいた生白(なまじろ)い一道の明(あかり)が斜(ななめ)に落ちて来て、深い深い井(いど)の底でも照す様に、彼等と其足下の芝生(しばふ)だけ明るくする。彼等ははっと驚惶(おどろき)の眼を見合わす。と思うと、怒れる神の額(ひたい)の如く最早真闇(まっくら)に真黒になって居る。妻児(さいじ)の顔は土色になった。草木も人も息を屏(ひそ)めたかの様に、一切の物音は絶えた。何処(どこ)から来たか、犬のデカが不安の眼つきをして見上げつゝ、大きな体を主人の脚にすりつける。

空は到頭雲をかぶって了った。著しく水気(すいき)を含んだ北風が、ぱっ/\と顔を撲(う)って来た。やがて粒だった雨になる。雷(らい)も頭上近くなった。雲見(くもみ)の一群(ひとむれ)は、急いで家に入った。母屋(おもや)の南面の雨戸だけ残して、悉く戸をしめた。暗いのでランプをつけた。

ざあっと降り出した。雷が鳴る。一庭(いってい)の雨脚を凄(すさま)じく見せて、ピカリと雷が光る。颯(ざあ)、颯と烈しく降り出した。

見る/\庭は川になる。雨が飛石(とびいし)をうって刎(は)ねかえる。目に入る限りの緑葉(あおば)が、一葉々々に雨を浴(あ)びて、嬉(うれ)しげにぞく/\身を震わして居る。

「あゝ好いおしめりだ」

斯く云った彼等は、更に

「まだ七時前だよ、まあ」

と婢(おんな)の云う声に驚かされた。

夕立から本降りになって、雨は夜すがら降った。

(大正元年 八月十四日)

葬式

一

午前十時と云う触込(ふれこ)みなので、十一時に寺本さんの家に往って見ると、納屋(なや)と上塗せぬ土蔵(どぞう)の間の大きな柿の木の蔭に村の衆(しゅう)がまだ五六人、紙旗を青竹(あおだけ)に結(ゆ)いつけて居る。

「ドウも御苦労さま、此方様(こちらさま)でも御愁傷(ごしゅうしょう)な」

と云う慣例(かんれい)の挨拶を交(か)わして、其の群(むれ)に入る。一本の旗には「諸行無常(しょぎょうむじょう)」、一本には「是生滅法(ぜしょうめっぽう)」、一本には「皆滅々己(かいめつめっき)」、今一本には何とか書いてある。其上にはいずれも梵字(ぼんじ)で何か書いてある。

「お寺は東覚院(とうがくいん)ですか」

「否(いや)、上祖師ヶ谷の安穏寺(あんのんじ)です」

其安穏寺の坊(ぼう)さんであろう、紫紺(しこん)の法衣で母屋(おもや)の棺の前に座って居るのが、此方(こち)から見える。棺は緑色の簾(すだれ)をかけた立派な輿(こし)に納めて、母屋の座敷の正面に据(す)えてある。洋服の若い男が坊さんと相対して座(すわ)って居る。医者であろう。左の腕(うで)に黒布を巻いた白衣(はくい)の看護婦の姿が見える。

「看護婦さんも、癒(なお)って帰るじゃ帰り力があるが」と誰やらが嘆息する。

時分(じぶん)だから上れと云わるゝので、諸君の後について母屋の表(おもて)縁側(えんがわ)から上って、棺の置いてある十畳の次ぎの十畳に入る。頭の禿(は)げた石山氏が、黒絽の紋付、仙台平の袴で、若主人に代って応対(おうたい)する。諸君と共に二列に差向って、饌(ぜん)に就く。大きな黒塗の椀に堆(うずたか)く飯を盛ってある。汁椀(しるわん)は豆腐と茄子(なす)と油揚(あぶらあげ)のつゆで、向うに沢庵(たくあん)が二切つけてある。眼の凹(くぼ)い、鮫の歯の様な短い胡麻塩(ごましお)髯(ひげ)の七右衛門爺さんが、年増(としま)の婦人と共に甲斐〻〻しく立って給仕(きゅうじ)をする。一椀をやっと食い終えて、すべり出る。

二

柿の木蔭(こかげ)は涼しい風が吹いて居る。青苔(あおごけ)蒸(む)した柿の幹から花をつけた雪の下が長くぶら下って居る。若い作男が其処にあった二台の荷車を引きのけ、大きな鍵(かぎ)で土蔵の戸前を開けて、蓆(むしろ)を七八枚出して敷いてくれた。其れに座(すわ)った者もある。足駄ばきのまゝ蹲(しゃが)んで話して居る者もある。彼は納屋(なや)の檐下(のきした)にころがって居る大きな木臼(きうす)の塵を払って腰かけた。追々人が殖(ふ)えて、柿の下は十五六人になった。

「何(なん)しろむつかしい事がありゃ一番に飛び込もうと云うンだからエライや」

「全くだね。寺本さんはソノ粕谷の人物ばかりじゃねえ、千歳村の人物だからね」

と紺飛白(こんがすり)で何処やら品(ひん)の好い昨年母(おふくろ)をなくした仁左衛門さんが相槌をうつ。「俺(おら)ァ全くがっかりしちまった。コウ兄か伯父(おじ)見たいで、何と云いや来ちゃ相談したもンだからな。今後(これから)何処へ往って相談したらいゝんだか――勘さん、卿(おめえ)の所へでも往くだね」と縞(しま)の夏羽織を着た矮(ちいさ)い真黒な六十爺さんの顔を仁左衛門さんは見る。爺さんは黙って左の掌(てのひら)にこつ/\煙管(きせる)をはたいて居る。

「寺本さんも、こちとら見たいに銭(ぜに)が無かったから何だが、あれで金でも持って居たらソラエライ事をやる人だったが」と隅の方から誰やら云うた。

「他(ひと)が死にゃ働くなンか全くいやになっちまうね」まだ若い組の浜田の金さんが云う。

「いやになったって、死にゃえゝが、生命(いのち)がありゃ困っちまうからな」

故人の弟達や縁者の志(こころざし)だと云って、代々木の酒屋の屋号(やごう)のついた一升徳利が四本持ち出された。茶碗と箸と、それから一寸五分角程に切った冷豆腐(ひやどうふ)に醤油をぶっかけた大皿と、輪ぎりにした朝漬(あさづけ)の胡瓜(きゅうり)の皿が運ばれた。皆蓆(むしろ)の上に車座になった。茶碗になみ/\と酒が注(つ)がれた。彼も座って胡瓜の漬物をつまむ。羽織袴の幸吉さんが挨拶に来た。故人の弟である。故人は丈高い苦(にが)み走った覇気満々たる男であったが、幸さんは人の好さそうな矮(ちいさ)い男だ。一戸から一銭出した村香奠(むらこうでん)の礼を丁寧に述べて、盃を重ぬべく挨拶して立つ。

「幸さん一つ」と誰やらが茶碗をさす。

「酒どころかよ、兄貴が死んだンだ、本当に」と来た時から已(すで)に真赤な顔して居た辰爺さん――勘さんの弟――が怒鳴る。皆がドッと笑う。

「兄貴が死んだンだ、本当に、酒どころかよ」と辰爺さんは呟(つぶや)く様に繰りかえす。

皆好い顔になって立上った。村中で唯一人(ただひとり)のチョン髷の持主、彼に対してはいつも御先生(ごせんせい)と挨拶する佐平爺さんは、荒蓆(あらむしろ)の上にころり横になって、肱枕(ひじまくら)をしたが、風がソヨ/\吹くので直ぐ快(い)い気もちに眠ってしまったと見え、其腫(は)れぼったい瞼(まぶた)はヒタと押(おっ)かぶさって、浅葱縞(あさぎじま)の単衣の脇(わき)がすう/\息つく毎に高くなり低くなりして居る。

三

母屋の方では、頻に人が出たり入ったりして居る。白襦袢、白の半股引、紺の腹掛、手拭を腰にさげた跣足(はだし)の若い衆は、忙しそうに高張の白提灯(しらちょうちん)の仕度をしたり、青竹のもとを鉈(なた)で削(そ)いだりして居る。

二人挽(びき)の車が泥塗(どろまみれ)になって、入って来た。車から下りた銀杏返の若い女は、鼠色のコオトをぬいで、草色の薄物(うすもの)で縁に上り、出て来た年増(としま)の女と挨拶して居る。

「井(いど)は何処ですかな」

抓(つか)んだ手拭で額の汗を拭き/\、真赤になった白襦袢の車夫(くるまや)の一人が、柿の木の下の群(むれ)に来て尋ねる。

「井かね、井は直ぐ其(その)裏(うら)にあるだよ、それ其処をそう往ってもえゝ、彼方(あっち)へ廻ってもいかれるだ」辰爺さんが顋(あご)でしゃくる。

美的百姓は木臼(きうす)に腰かけたまゝ、所在(しょざい)なさに手近にある大麦の穂を摘んでは、掌で籾(もみ)を摺(す)って噛(かじ)って居る。不図気がつくと、納屋の檐下(のきした)には、小麦も大麦も刈入れた束(たば)のまゝまだ扱(こ)きもせずに入れてある。他所(よそ)では最早棒打(ぼううち)も済んだ家もある。此家の主人の病気が、如何に此家の機関を停止して居たかが分(わ)かる。美的百姓も、黯(くら)い気分になった。此家の若主人に妻君(かみさん)があったか如何(どう)か、と辰爺さんに尋ねて見た。

「まだ何もありませんや。ソラ、去年の暮に帰(けえ)って来たばかりだからね」

然(そう)だ。若主人は二年の兵役にとられて、去年の十二月初やっと帰って来たのであった。一人息子だったので、彼を兵役に出したあと、五十を越した主人は分外に働かねばならなかった。彼の心臓病(しんぞうびょう)は或は此無理の労働の結果であったかも知れぬ。尤も随分酒は飲んで居た。故人は村の兵事係(へいじがかり)であった。一人子でも、兵役に出すは国家に対する義務ですからと、毎(つね)に云うて居た。若主人の留守中、彼の手助けは若い作男であった。故人は其作代が甲斐々々しく骨身を惜まず働く事を人毎(ひとごと)に誉(ほ)めて居た。

時が大分移った。酔った辰爺さんは煙管と莨入(たばこいれ)を両手に提げながら、小さな体をやおら起して、相撲が四股(しこ)を踏む様に前を明けはたげ、「のら番は何しとるだんべ。のら番を呼んで来(こ)う」と怒鳴った。

「野良番を呼んで来う。のら番は何しとるだンべ。酔っぱらって寝てしまったンべ」と辰爺さんは重ねて怒鳴った。

「何(なあに)、銀平さんに文ちゃんだから、酔っぱらってなンか居るもンか。最早(もう)来る時分だ」仁左衛門さんが宥(なだ)める。

「いや野ら番ばかりァ酒が無えじゃやりきれねえナ。彼(あの)臭(にお)いがな」と誰やらが云う。

「来た、来た、噂をすりゃ影だ、野ら番が来た」

墓掘番(はかほりばん)の四人が打連れて来た。

「御苦労様でしたよ」皆が挨拶する。

「棺が重いぞ。四人じゃ全くやりきれねえや。八人舁(か)きだもの」と云う声がする。

勘爺さんが頷(うなず)いた。「然だ/\、手代(てがわ)りでやるだな。野良番が四人(よったり)に、此家の作代に、俺(おら)が家の作代に、それから石山さんの作代に、それから、七ちゃんでも舁(か)いてもらうべい」

野良番四人の為に蓆の上に膳が運ばれた。赤児の風呂桶大(ふろおけほど)の飯櫃(おはち)が持て来られる。食事半(なかば)に、七右衛門爺さんが来て切口上で挨拶し、棺を舁(かつ)いで御出の時襷(たすき)にでもと云って新しい手拭を四筋置いて往った。粕谷で其子を中学二年までやった家は此家(ここ)ばかりと云う程万事派手(はで)であった故人が名残(なごり)は、斯様(こん)な事にまであらわれた。

四

「念仏でもやるべいか」

と辰爺さんが言い出した。「おい、幸さんとこの其児、鉦(かね)を持て来いよ」

呼ばれた十二三の子が紐(ひも)をつけた鉦と撞木(しゅもく)を持て来た。辰爺さんはガンと一つ鳴らして見た。「こらいけねえな、斯様(こん)な響(おと)をすらァ」ガン/\と二つ三つ鳴らして見る。冴(さ)えない響がする。

「さあ、念仏は何にしべいか。南(な)ァまァ陀(だ)ァ仏(ぶつ)にするか。ジンバラハラバイタァウンケンソバギャアノベイロシャノにするか」

「ジンバラハラバイタァが後生(ごしょう)になるちゅうじゃねいか」仁左衛門さんが真面目に口を入れた。「辰さん、お前(めえ)音頭(おんどう)をとるンだぜ」

「呍(うん)、乃公(おら)が音頭とるべい。音頭とるべいが、皆であとやらんといけねえぞ。音頭取りばかりにさしちゃいけねえぞ――ソラ、ジンバラハラバイタァ」ガーンと鉦が鳴る。

「ジンバラハラバイタァ――」仁左衛門さんが真面目について行く。多くは唯笑って居る。

「いかん/\、今時の若けい者ァ念仏一つ知んねえからな。昔は男は男、女は女、月に三日宛寄っちゃ念仏の稽古したもンだ」辰爺さん躍起(やっき)となった。

「教えて置かねえからだよ」若い者の笑声が答える。

「炬火(たいまつ)は如何(どう)だな。おゝ、久(ひさ)さんが来た。久さん/\、済まねえが炬火を拵(こさ)えてくんな」

唇の厚い久さんは、やおら其方(そち)を向いて「炬火かね、炬火は幾箇(いくつ)拵えるだね?」

「短くて好(え)えからな、四つも拵えるだな。そ、其処の麦からが好いよ」

「呍(うん)」と久さんは答えて、のそり/\檐下(のきした)から引き出して、二握三握一つにして、トンと地につき揃(そろ)えて、無雑作(むぞうさ)に小麦からで縛(しば)って、炬火をこさえた。

「まだかな」先刻(さっき)から焦々(いらいら)して居る辰爺さんが大声に唸(つぶ)やく。

「今本膳が出てる処だからな」母屋の方を見ながら一人が辰さんを宥(なだ)める。

「それはソウと、上祖師(かみそし)ヶ谷(や)の彦さんは分ったかな」

「分からねえとよ。中隊でも大騒ぎして、平服で出る、制服で出る、何でも空井戸(からいど)を探してるちゅうこンだ」

「窘(いじ)められたンですかね?」

「ナニ、中隊では評判がよかったンですよ。正直でね」

「正直者が一番危(あぶ)ねえだ。少し時間に後(おく)れたりすると、直ぐ無分別をやるからな」

「違えねえ」

皆一寸黙った。

辰爺さんは、美的百姓に大きな声で囁(ささ)やいた。「岩もね、上等兵の候補者になりましたってね」

「然(そう)かね。岩さんは何処に往っても可愛がられる男だよ」

「毎月ね、」辰爺さんは声を落して囁いた。「毎月ね、三円(りょう)宛(ずつ)やりますよ。それから兄の所から三円(りょう)宛ね、くれますよ。ソレ小遣(こづかい)が足りねえと、上祖師ヶ谷の様にならァね」

「月に六円宛、其れは大変だね」

「岩もね、其当座は腹が減って困ったてこぼして居ましたっけ。何(なん)しろ麦飯の七八杯(はい)もひっかけて居ったンだからね。酒保(しゅほ)に飛んで行き/\したって話してました。今じゃ大きに楽(らく)になったってますよ。最早(もう)あと一年半で帰(けえ)って来ますだよ」

農家から大切な働き男を取って、其上間接に小使としての税金を金の乏しい農村から月々六円もとる兵役と云うものについて、美的百姓は大に考えざるを得なかった。

五

母屋では、最早(もう)仕度が出来たと見え、棺が縁の方に舁(か)き出された。柿の木の下では、寝た者も起き、総立になった。手々(てんで)に白張提灯を持ったり、紙の幟(はた)を握ったり、炬火(たいまつ)をとったりした。辰爺さんはやおら煙草入を腰に插して鉦(かね)と撞木(しゅもく)をとった。

「旗が先に行くかね、提灯(ちょうちん)かね?」

「冥土(めいど)の案内じゃ提灯が先だんべ」

「東京じゃ旗が先きに行くようだね、ねえ先生」

「東京は東京、粕谷は粕谷流で行こうじゃねえか」と誰やらの声。

「炬火が一番先だよ」

「応、然(そう)だ、炬火が一番先だ」

白無垢(しろむく)を着た女達が、縁から下りて草履をはいた。其草履は墓地でぬぎ棄てるので、帰途(かえり)の履物(はきもの)がいる。大きな目籠(めかご)に駒下駄も空気草履も泥だらけの木履も一つにぶち込んで、久さんが背負(せお)って居る。

「南無阿弥陀(なむあみだ)ァ仏(ぶつ)」

辰爺さんが音頭(おんど)をとりながら先に立つ。鉦がガァンと鳴る。講中(こうじゅう)が「南無阿弥陀ァ仏」と和する。鉦、炬火、提灯、旗、それから兵隊帰りの喪主(もしゅ)が羽織袴で位牌を捧(ささ)げ、其後から棺を蔵(おさ)めた輿(こし)は八人で舁(か)かれた。七さんは着流(きなが)しに新しい駒下駄で肩を入れて居る。此辺には滅多に見た事も無い立派な輿だ。白無垢の婦人、白衣の看護婦、黒い洋服の若い医師、急拵(きゅうごしら)えの紋を透綾(すきや)の羽織に張(は)った親戚の男達、其等が棺の前後に附添うた。大勢の子供や、子守が跟(つ)いて来る。婆さんかみさんが皆出て見る。

昨夜(ゆうべ)の豪雨(ごうう)は幸にからり霽(は)れて、道も大抵乾いて居る。風が南からソヨ/\吹いて、「諸行無常」「是生滅法」の紙幟(はた)がヒラ/\靡(なび)く。「南無阿弥陀ァ仏――南無阿弥陀ァ仏」単調(たんちょう)な村の哀(かなしみ)の譜(ふ)は、村の静寂の中に油の様に流れて、眠れよ休めよと云う様に棺を墓地へと導く。

葬列は滞(とどこおり)なく、彼が家の隣の墓地に入った。此春墓地拡張の相談がきまって、三畝(せ)余(あま)りの小杉山を拓(ひら)いた。其杉を買った故人外二名の人々が、大きな分は伐(き)って売り、小さなのは三人で持って来て彼の家に植えてくれた。其れは唯三月前の四月の事であった。其れから最早墓が二つも殖えた。二番目が寺本さんである。

墓地の樒(しきみ)の木に障(さわ)るので、若い洋服の医師が手を添えて枝を擡(もた)げたりして、棺は掘られた墓の前に据えられた。輿を解くのが一仕事、東京から来た葬儀社の十七八の若者は、真赤になってやっと輿をはずした。白木綿(しろもめん)で巻かれた柩(ひつぎ)は、荒縄(あらなわ)で縛(しば)られて、多少の騒ぎと共に穴の中に下(おろ)された。野良番は鍬(くわ)をとった。どさりと赤土の塊(くれ)が柩の上に落ちはじめた。

「皆入れてしまうとよ」囁(ささや)き合うて、行列の先頭に来た紙幟は青竹からはずして、柩の上に投げ込まれた。

土がまたドサ/\落ちる。

*

葬式の五日目に、話題に上った上祖師ヶ谷の行衛不明の兵士の消息を乳屋(ちちや)が告げた。兵士の彦さんは縊死(いっし)したのであった。代々木の山の中に、最早腐(くさ)りかけて、両眼は烏(からす)につゝかれ、空洞(うろ)になって居たそうだ。原因は分らぬが、彦さんの実父は養子で、彦さんの母に追出され、今の爺(おやじ)は後夫(あといり)と云う事であった。

田川

最初近いと聞いた多摩川(たまがわ)が、家から一里の余もある。玉川上水すら半里からある。好い水の流れに遠いのが、幾度(いくたび)も繰り返えさるゝ失望であった。つい其まゝに住むことになったが、流水(りゅうすい)があったらと思わぬことは無い。せめて掘抜井(ほりぬきいど)でも掘ろうかと思うが、経験ある人の言によると、此附近では曾て多額の費用をかけて掘った人があって、水は地面まで来るには来たが、如何しても噴(ふ)き上らぬと云うのである。水の楽(たのしみ)は、普通の井と、家内に居ては音は聞こえぬ附近の田川(たがわ)で満足しなければならぬ。

彼の家から五六丁はなれて品川堀がある。品川へ行く灌漑専用の堀川で、村の為には洗滌(あらいすすぎ)の用にしかならぬ。一昨々年の夏の出水に、村内で三間ばかり堤防が崩れ、堤(つつみ)から西は一時首まで浸(つか)る程の湖水になり、村総出で防水工事をやった。曾て村の小児が溺死したこともあって、村の為にはあまり有り難くもない水である。品川堀の外には、彼が家の下なる谷を西から東へ流るゝ小さな田川と、八幡田圃(たんぼ)を北から南東に流るゝ大小二筋(ふたすじ)の田川がある。

彼の屋敷下の小さな谷を流るゝ小川は、何処から来るのか知らぬが、冬は大抵涸(か)れて了う。其かわり夏の出水には堤を越して畑に溢(あふ)れる。其様な時には、村の子供が大喜悦(おおよろこび)で、キャッ/\騒いで泳いで居る。本当の畑水練である。農としては出水を憂うべきだが、遊び好きなる事に於て村の悪太郎(あくたろう)等に劣るまじい彼は、畑を流るゝ濁水(だくすい)の音颯々(さっさつ)として松風の如く心耳(しんじ)一爽(いっそう)の快を先ず感じて、尻(しり)高々とからげ、下駄ばきでざぶ/\渡って見たりして、其日限(ぎ)りに水が落ちて了うのを毎(つね)に残念に思うのである。兎に角此気まぐれな小川でも、これあるが為に少しは田も出来る。堤(つつみ)の萱(かや)や葭(よし)は青々と茂(しげ)って、殊更(ことさら)丈(たけ)も高い。これあるが為に、夏は螢(ほたる)の根拠地(こんきょち)ともなる。朝から晩までべちゃくちゃ囀(さえず)る葭原雀(よしわらすずめ)の隠れ家(が)にもなる。五月雨(さみだれ)の夜にコト/\叩(たた)く水鶏(くいな)の宿にもなる。

八幡田圃(たんぼ)を流るゝ田川の大きな方を、此辺では大川と云う。一間幅(はば)しかない大川で、玉川浄水(じょうすい)を分った灌漑用水である。此水あるが為に、千歳村から世田(せた)ヶ谷(や)かけて、何百町の田が出来る。九十一歳になる彼の父は、若い頃は村吏(そんり)県官(けんかん)として農政には深い趣味と経験を有って居る。其子の家に滞留中此田川の畔(くろ)を歩いて、熟々(つくづく)と水を眺め、喟然(きぜん)として「仁水(じんすい)だ喃(なあ)」と嘆じた。趣味を先ず第一に見る其子の為にも不仁の水とは云われない。此水あるが為に田圃がある。春は紫雲英(れんげそう)の花氈(はなむしろ)を敷く。淋しい村を賑(にぎ)わして蛙(かわず)が鳴く。朝露白い青田の涼しさも、黄なる日の光を震わして蝗(いなご)飛ぶ秋の田の豊けさに伴うさま/″\の趣も、此水の賜ものである。こゝにこの水流るゝがために、水を好む野茨(のばら)も心地(ここち)よく其の涯(ほとり)に茂って、麦が熟(う)れる頃は枝も撓(たわ)に芳(かんば)しい白い花を被(かぶ)る。薄紫の嫁菜(よめな)の花や、薄紅の犬蓼(いぬたで)や、いろ/\の秋の草花も美しい。鮒(ふな)や鰌(どじょう)を子供が捕る。水底(みなそこ)に影を曳(ひ)いて、メダカが游(およ)ぐ。ドブンと音して蛙が飛び込む。稀(まれ)にはしなやかな小さな十六盤橋(そろばんばし)を見せて、二尺五寸の蛇が渡る。田に入るとて水を堰(せ)く頃は、高八寸のナイヤガラが出来て、蛙の声にまぎらわしい音を立てる。玉川に行くかわりに子供はこゝで浴びる。「蘆の芽や田に入る水も隅田川」然(そう)だ。彼の村を流るゝ田川も、やはり玉川、玉川の孫(まご)であった。祖父様の玉川の水が出る頃は、この孫川(まごがわ)の水も灰(はい)がゝった乳色になるのである。乞食は時々こゝに浴びる。去年の夏は照(てり)がつゞいたので、村居六年はじめて雨乞(あまごい)を見た。八幡に打寄って村の男衆が、神酒(みき)をあげ、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)………………懺悔〻〻(さんげさんげ)」と叫んだあとで若い者が褌(ふんどし)一つになって此二間幅(はば)の大川に飛び込み、肩から水を浴びて「六根清浄」……何とかして「さんげ〻〻〻」と口々に叫んだ。其声は舜旻天(しゅんびんてん)に号泣(ごうきゅう)する声の如くいじらしく耳に響いた。霜の朝など八幡から眺めると、小川の上ばかり水蒸気がほうっと白く騰(た)って、水の行衛(ゆくえ)が田圃はるかに指(ゆび)さゝれる。

田川
田川

筧(かけひ)の水音を枕に聞く山家(やまが)の住居。山雨常に来るかと疑う渓声(けいせい)の裡(うち)。平時は汪々(おうおう)として声なく音なく、一たび怒る時万雷の崩るゝ如き大河の畔(ほとり)。裏に鳧(ふ)を飼い門に舟を繋(つな)ぐ江湖の住居。色と動と音と千変万化の無尽蔵たる海洋の辺(ほとり)。野に饜(あ)いた彼には、此等のものが時々幻(まぼろし)の如く立現われる。然しながら仮(かり)にサハラ、ゴビの一切水に縁遠い境に住まねばならぬとなったら如何(どう)であろう。また竈(かまど)に蛭(ひる)這(は)い蛇(へび)寝床(ねどこ)に潜(もぐ)る水国(すいごく)卑湿(ひしつ)の地に住まねばならぬとなったら如何であろう。中庸は平凡である。然し平凡には平凡の意味があり強味(つよみ)がある。

田川の水よ。儞(なんじ)に筧の水の幽韻(ゆういん)はない。雪氷を融(と)かした山川の清冽(せいれつ)は無い。瀑布(ばくふ)の咆哮(ほうこう)は無い。大河の溶々(ようよう)は無い。大海の汪洋(おうよう)は無い。儞は謙遜な農家の友である。高慢な心の角(つの)を折り、騒がしい気の遽(あわ)たゞしさを抑(おさ)えて、心静(こころしずか)に儞の声低く語る教訓を聴かねばならぬ。

驟雨浴

両三日来、西の地平線上、甲相武信の境を造くる連山の空に当って、屡々(しばしば)黒雲が立った。遠寄(とおよせ)の太鼓の様に雷も時々鳴る。黒雲の幕の中で、ぱっ/\と火花を散す様に、電光も射す。夕立が来ると云いながら、一滴も落ちずして二三日過ぎた。

土用太郎(どようたろう)は涼しい彼の家でも九十一度と云う未曾有の暑気であった。土用二郎の今日(きょう)は、朝来少し曇ったが、風と云うものはたと絶え、気温は昨日程上って居ないにも拘わらず、脂汗(あぶらあせ)が流れた。

昼飯を食って汗になったので、天日で湯と沸(わ)いて居る庭の甕(かめ)の水を浴び、籐(とう)の寝台に横になって新聞を見て居る内に、快(い)い心地になって眠って了うた。

一寝入して眼をさますと、室内が暗くなって居る。時計を見ると、まだ二時廻ったばかりである。縁側に出て見た。南の方は明るく、午後二時の日がかん/\照って居るが、西の方が大分暗い。近村の二本松を前景(ぜんけい)にして、いつも近くは八王子在の高尾小仏、遠くて甲州東部の連峰が見ゆるあたりだけ、卵色の横幕を延いた様に妙に黄色になり、其上層は人を脅(おど)す様な真黯(まっくら)い色をして居る。西北の空が真暗になって、甲州の空の根方のみ妙(みょう)に黄朱(おうしゅ)を抹(なす)った様になる時は、屹度何か出て来る。已(すで)に明治四十一年の春の暮、成人(おとな)の握掌大(にぎりこぶしほど)の素晴しい雹が降った時も然(そう)だった。斯う思いながら縁から見て居ると、頭上(ずじょう)の日はカン/\照りながら、西の方から涼しいと云うより寧(むしろ)冷(つめ)たい気が吻々(ふつふつ)と吹っかけて来る。彼の家から、東は東京、南は横浜、夕立は滅多に其方からは来ぬ。夕立は矢張西若くは北の山から来る。山から都へ行く途中、彼が住む野の村を過(よ)ぎるのである。

西は本気に曇った。雷様も真面目に鳴り出した。最早多摩川の向うは降って居るのであろう。彼は大急ぎで下りて、庭に乾してあった仕事着やはだし足袋(たび)を取り入れた。帰って北の窓をあけると、面(つら)が冷やりとした。北の空は一面鼠色になって居る。日傭(ひよう)のおかみが大急ぎで乾し麦や麦からを取り入れて居る。

北の硝子窓(がらすまど)をしめて、座敷の南縁に立って居ると、ぽつりと一つ大きな白い粒(つぶ)が落ちて、乾いて黄粉(きなこ)の様になった土にころりところんだ。

「来たぞ、来たぞ」

四十五歳の髯男(ひげおとこ)、小供か小犬の様に嬉(うれ)しい予期(よき)気分(きぶん)になって見て居ると、そろそろ落ち出した。大粒小粒、小粒大粒、かわる/″\斜(はす)に落ちては、地上にもんどりうって団子(だんご)の様にころがる。二本松のあたり一抹(いちまつ)の明色は薄墨色(うすずみいろ)に掻(か)き消されて、推し寄せて来る白い驟雨(ゆうだち)の進行(マアチ)が眼に見えて近づいて来る。

彼は久しく羨(うらや)んで居た。熱帯を過ぐる軍艦の甲板で、海軍の将卒が折々やると云う驟雨浴(しゅううよく)「総員入浴用意!」の一令で、手早く制服(ふく)をぬぎすて、石鹸(しゃぼん)とタオルを両手に抓(つか)んで、真黒の健児共がずらり甲板に列んだ処は、面白い見ものであろう。やがて雷鳴電光よろしくあって、錨索大(いかりづなだい)の雨の棒が瀑布落(たきおと)しに撞々(どうどう)と来る。さあ、今だ。総員鶩(あひる)の如くきゃッ/\笑い騒いで、大急ぎで石鹸を塗る、洗う。大洋の真中で大無銭湯が開かれるのだ。愚図々々すれば、石鹸を塗ったばかりの斑人形(まだらにんぎょう)を残して、いたずらな驟雨(しゅうう)はざあと駈(か)けぬけて了う。四方水の上に居ながら、バケツ一ぱいの淡水(まみず)にも中々ありつかれぬ海の子等に、蒸溜水の天水浴(てんすいよく)とは、何等贅沢の沙汰であろう。世界一の豪快(ごうかい)は、甲板の驟雨浴であらねばならぬ。

不幸にして美的百姓氏は、海上ならぬ陸上に居る。熱帯ならぬ温帯に居る。壮快限り無い甲板の驟雨浴に真似られぬが、自己流の驟雨浴なら出来ぬことは無い。やって見るかな、と思うて居ると、妻児が来た。彼は手早(てばや)く浴衣をぬいで真裸になり、突(つ)と走り出て、芝生の真中に棒立ちに立った。

ポトリ肩をうつ。脳天まで冷やりとする。またぽとり。ぽと/\ぽと/\。其たびに肩や腹や背が冷やり/\とする。好い気もちだ。然しまだ夕立の先手で、手痛くはやって来(こ)ぬ。

「此れをかぶっていらっしゃいな」

と云って、妻は硝子(がらす)の大きな盂(はち)を持て来た。硝子は電気を絶縁する、雷よけのまじないにかぶれと謂うのだ。諾(よし)と受取って、いきなり頭にかぶった。黒眼鏡をかけた毛だらけの裸男(はだかおとこ)が、硝子鉢(がらすばち)を冠って、直立不動の姿勢をとったところは、新式の河童(かっぱ)だ。不図思いついて、彼は頭上の硝子盂を上向けにし、両手で支(ささ)えて立った。一つ二つと三十ばかり数(かぞ)うると、取り下ろして、ぐっと一気に飲み乾(ほ)した。やわらかな天水である。二たび三たび興に乗じて此大觴(さかずき)を重ねた。

「もう上(あが)っていらっしゃいよ」

妻児が呼ぶ頃は、夕立の中軍(ちゅうぐん)まさに殺到(さっとう)して、四囲(あたり)は真白い闇(やみ)になった。電がピカリとする。雷(らい)が頭上で鳴る。ざあざあっと落ち来る太い雨に身の内撲(う)たれぬ処もなく、ぐっと息が詰まる。驟雨浴(しゅううよく)もこれまでと、彼は滝(たき)の如く迸(ほとばし)る樋口(といぐち)の水に足を洗わして、身震いして縁に飛び上った。

上ると土砂降(どしゃぶ)りになった。庭の平たい甕(かめ)の水を雨が乱れ撲って、無数の魚児の噞喁(げんぎょう)する様に跳(は)ね上って居たが、其れさえ最早見えなくなった。

「呀(あっ)、縁(えん)が」

と妻(つま)が叫んだ。南西からざァっと吹かけて来て、縁は忽(たちまち)川になった。妻と婢(おんな)は遽(あわ)てゝ書院の雨戸をくる。主人は障子、廊下の硝子窓(がらすまど)をしめてまわる。一切の物音は絶えて、唯ざあと降る音、ざあっと吹く響(おと)ばかりである。忽珂瓈(からん)と硝子戸が響(ひび)いた。また一つ珂瓈と響いた。雹(ひょう)である。彼はまだ裸であった。飛び下りて、雨の中から七八つ白いのを拾った。あまり大きなのではない。小指の尖(さき)位なのである。透明、不透明、不透明の核(かく)をもった半透明のもある。主人は二つ食った。妻は五六個食った。歯が痛い程冷たい。

座敷の縁は川になった。母屋(おもや)の畳は湿(しと)る程吹き込んだ。家内は奥の奥まで冷たい水気がほしいまゝにかけ廻(ま)わる。

「あゝ好(い)い夕立だ。降れ、降れ、降れ」

斯う呼わって居る内、夜の明くる様に西の空が明るくなり出した。霽際(あがりぎわ)の繊(ほそ)い雨が、白い絹糸を閃(ひら)めかす。一足(ひとあし)縁へ出て見ると、東南の空は今真闇である。最早夕立の先手が東京に攻め寄せた頃である。二百万の人の子の遽(あわ)てふためく状(さま)が見える様だ。

何時(いつ)の間にかばったり雨は止んで、金光(こんこう)厳(いかめ)しく日が現われた。見る/\地面を流るゝ水が止まった。風がさあっと西から吹いて来る。庭の翠松がばら/\と雫(しずく)を散らす。何処かでキリン/\と蜩(ひぐらし)が心地よく鳴き出した。

時計を見ると、二時三十分。夕立は唯三十分つゞいたのであった。

浴衣(ゆかた)を引かけ、低い薩摩下駄を突かけて畑に出た。さしもはしゃいで居た畑の土がしっとりと湿(うるお)うて、玉蜀黍(とうもろこし)の下葉やコスモスの下葉や、刎(は)ね上げた土まみれになって、身重げに低れて居る。何処(どこ)を見ても、うれしそうに緑(みどり)がそよいで居る。東の方では雷(らい)がまだ鳴って居る。

「虹収仍白雨(にじおさまってなおはくう)、雲動忽青山(くもうごいてたちまちせいざん)」

斯く打吟(うちぎん)じつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡の碧(みどり)鮮(あざ)やかに、富士も一筋(ひとすじ)白い竪縞(たてじま)の入った浅葱(あさぎ)の浴衣を着て、すがすがしく笑(え)んで居る。

「キリン、キリンキリン!」

蜩(ひぐらし)がまた一声鳴いた。

隣家(となり)の主人が女児(こども)を負って畑廻わりをして居る。

「好いおしめりでございました」

と云う挨拶を透垣越(すいがきご)しに取りかわす。

二時間ばかりすると、明日(あす)は「おしめり正月」との言いつぎが来た。

詩篇(しへん)を出して、大声に第六十五篇を朗詠(ろうえい)する。

『爾(なんぢ)地にのぞみて水そゝぎ、大に之をゆたかにし玉へり。神の川に水満ちたり。爾(なんぢ)かくそなへをなして、穀物(たなつもの)をかれらにあたへたまへり。爾(なんぢ)畎(たみぞ)を大にうるほし、畝(うね)をたひらにし、白雨(むらさめ)にてこれをやはらかにし、その萌(も)え出づるを祝し、また恩恵(めぐみ)をもて年の冕弁(かんむり)としたまへり。爾(なんぢ)の途には膏(あぶら)したゝれり。その恩滴(したゝり)は野の牧場(まき)をうるほし、小山はみな歓(よろこ)びにかこまる。牧場は皆(みな)羊(ひつじ)の群を衣(き)、もろ/\の谷は穀物(たなつもの)におほはれたり。彼等は皆(みな)よろこびてよばはりまた謳(うた)ふ』

(明治四十五年 七月廿一日)

村芝居

裏(うら)の八幡で村芝居(むらしばい)がある。

一昨日(おとつい)は、一字の男総出で、隣村の北沢から切組(きりくみ)舞台(ぶたい)を荷車で挽いて来た。昨日は終日舞台かけで、村で唯一人(ただひとり)の大工は先月来仕かけて居る彼が家の仕事を休(やす)んで舞台や桟敷(さじき)をかけた。今夜は愈芝居である。

十一月も深い夜の事だ。外套(がいとう)を着て、彼等夫妻は家を空虚(からあき)にして出かけた。

平生から暗くて淋(さび)しい八幡界隈(かいわい)が、今夜は光明世界人間の顔の海に化けて居る。八幡横手の阪道から、宮裏(みやうら)の雑木林をかけて、安小間物屋、鮨屋(すしや)、柿蜜柑屋、大福駄菓子店、おでん店、ずらりと並んで、カンテラやランプの油煙(ゆえん)を真黒に立てゝ、人声がや/\噪(さわ)いで居る。其中を縫(ぬ)うて、宮の横手に行くと、山茶花(さざんか)小さな金剛纂(やつで)なぞ植え込んだ一寸した小庭が出来て居て、ランプを入れた燈籠(とうろう)が立ち、杉皮葺(すぎかわぶき)の仮屋根の下に墨黒々と「彰忠(しょうちゅう)」の二大字を書いた板額(いたがく)が掲(かか)って居る。然る可き目的がなければ村芝居の興行は許されぬと云う其筋の御意だそうで、此度の芝居も村の諸君が智慧(ちえ)をしぼって、日露戦役記念の為とこじつけ、漸(ようや)く役場や警察の許可を得た。其れについて幸い木目(もくめ)見事(みごと)の欅板(けやきいた)があるので、戦役記念の題字を書いてくれと先日村の甲乙(たれかれ)が彼に持込んで来たが、書くが職業と云う条あまりの名筆故(めいひつゆえ)彼は辞退した。そこで何処(どこ)かの坊さんに頼んだそうだが、坊さんは佳(いい)墨(すみ)がなければ書けぬと云うたそうで、字を書かぬなら墨を貸してくれと村の人達が墨を借りに来た。幸い持合せの些(ちと)泥臭(どろくさ)いが見かけは立派な円筒形(えんとうけい)の大きな舶来(はくらい)唐墨(とうぼく)があったので、快(こころよ)く用立てた。今夜見れば墨痕(ぼくこん)美わしく「彰忠(しょうちゅう)」の二字に化(な)って居る。

拝殿には、村の幹部が、其ある者は紋付羽織など引かけて、他村から来る者に挨拶したり、机に向って奉納寄進のビラを書いたりして居る。「さあ此方(こち)へ」と招かれる。ビラを書いてくれと云う。例の悪筆を申立てゝ逃げる。

拝殿から見下ろすと、驚く可し、東向きのだら/\坂になって居た八幡の境内(けいだい)が、何時の間にか歌舞伎座か音楽学校の演奏室の様な次第高の立派な観劇場になり済ました。坂の中段もとに平生(ふだん)並んで居る左右二頭の唐獅子(からじし)は何処へか担(かつ)ぎ去られ、其あとには中々馬鹿にはならぬ舞台花道が出来て居る。桟敷(さじき)も左右にかいてある。拝殿下(はいでんした)から舞台下までは、次第下りに一面莚(むしろ)を敷きつめ、村はもとより他村の老若男女彼此四五百人も、ぎっしり詰まって、煙草を喫(す)ったり、話したり、笑ったり、晴れと着飾った銀杏返(いちょうがえ)しの娘が、立って見たり座(すわ)ったり、桟敷からつるした何十と云うランプの光の下にがや/\どよめいて居る。無論屋根が無いので、見物の頭の上には、霜夜(しもよ)の星(ほし)がキラ/\光って居る。舞台横手のチョボの床(ゆか)には、見た様な朝鮮簾(ちょうせんみす)が下って居ると思うたは、其れは若い者等が彼の家から徴発(ちょうはつ)して往った簾であった。花道には、一(ひとつ)金(きん)何十銭也船橋何某様、一金何十銭也廻沢何某様と隙間(すきま)もなくびらを貼(は)った。引切りなしに最寄(もより)の村々から紋付羽織位引かけた人達がやって来る。拝殿の所へ来て、「今晩(こんばん)は御芽出度(おめでと)う、此はホンの何ですが」と紙包を出す。幹部が丁寧に答礼して、若い者を呼び、桟敷や土間に案内さす。ビラを書く紙がなくなった、紙を持て来(こ)うと幹部が呼ぶ。素通(すどお)し眼鏡をかけたイナセな村の阿哥(あにい)が走る。「ありゃ好い男だな」と他村の者が評する。耳の届く限り洋々たる歓声(かんせい)が湧(わ)いて、理屈屋の石山さんも今日(きょう)はビラを書き/\莞爾〻〻(にこにこ)上機嫌で居る。

彼等の来様(きよう)が些(ちと)晩(おそ)かったので、三番叟(さんばそう)は早や済んで居た。伊賀越(いがごえ)の序幕は、何が何やら分からぬ間に過ぎた。彼等夫妻も拝殿から下りて、土間に割(わ)り込み、今幕があいた沼津の場面を眺める。五十円で買われて来た市川某尾上某の一座が、団十菊五芝翫(しかん)其方退(そっちの)けとばかり盛に活躍する。お米は近眼の彼には美しく見えた。お米の手に持つ菊の花、飾(かざ)った菊の植木鉢、それから借金取が取って掃(は)き出す手箒(てぼうき)も、皆彼の家から若者等が徴発(ちょうはつ)して往ったのである。分かるも、分からぬも、観客(けんぶつ)は口あんごりと心も空(そら)に見とれて居る。平作(へいさく)は好かった。隣に座って居る彼が組頭(くみがしら)の恵比寿顔(えびすがお)した爺さんが眼を霑(うる)まして見て居る。頭上(ずじょう)の星も、霜夜も、座下の荒莚(あらむしろ)も忘れて、彼等もしばし忘我の境に入った。やがてきり〻〻と舞台が廻る。床下(ゆかした)で若者が五人がゝりで廻すのである。村芝居に廻り舞台は中々贅沢(ぜいたく)なものだ。

次ぎは直ぐ仇討(かたきうち)の幕になった。狭い舞台にせゝこましく槍をしごいたり眉尖刀(なぎなた)を振ったり刀を振り廻したりする人形が入り乱れた。唐木(からき)政右衛門(まさえもん)が二刀を揮って目ざましく働く。「あの腰付(こしつき)を御覧なさい」と村での通人(つうじん)仁左衛門さんが嘆美する。「星合団四郎なンか中々強いやつが向う方に居るのですからナ」と講談物(こうだんもの)仕入れの智識をふり廻す。

夜は最早十二時。これから中幕の曾我対面がある。彼等は見残して、留守番も火の気も無い家に帰った。平作やお米が踊(おど)る彼等が夢の中にも、八幡の賑合(にぎわい)は夜すがら海の音の様に響いて居た。

(明治四十年 十一月)

夏の頌

一

夏は好い。夏が好い。夏ばかりでも困ろうが、四時春なンか云う天国は平に御免を蒙る。米国加州人士の中には、わざ〻〻夏を迎えに南方に出かける者もあるそうな。不思議はない。

夏は放胆(ほうたん)の季節だ。小心(しょうしん)怯胆(きょうたん)屑々乎(せつせつこ)たる小人の彼は、身をめぐる自然の豪快を仮って、纔(わずか)に自家の気焔を吐くことが出来る。排外的に立籠めた戸障子を思いきり取り払う。小面倒な着物なンか脱いでしもうて、毛深い体丸出しの赤裸々黒条々をきめ込む。大抵の客には裸体若くは半裸体で応接する。一夏過ぎると、背も腹も手足も、海辺に一月も過した様に真黒になる。臆病者も頗英雄になった気もちだ。夏の快味は裸の快味だ。裸の快味は懺悔(ざんげ)の快味だ。さらけ出した体(からだ)の土用干(どようぼし)、霊魂(れいこん)の煤掃(すすは)き、あとの清々(すがすが)しさは何とも云えぬ。起きぬけに木の下で冷たい水蜜桃をもいでがぶりと喰いついたり、朝露に冷え切った水瓜(すいか)を畑で拳固(げんこ)で破(わ)って食うたり、自然の子が自然に還る快味は言葉に尽せぬ。

彼が家では、夏の夕飯(ゆうめし)をよく芝生でやる。椅子テーブルのこともあり、蓆(むしろ)を敷いて低い食卓の事もある。金を爍(とら)かす日影椎の梢に残り、芝生はすでに蔭に入り、蜩(ひぐらし)の声何処からともなく流れて来ると、成人(おとな)も子供も嬉々(きき)として青芝の上の晩餐(ばんさん)の席に就くのである。犬や猫が、主人も大分開けて我党に近くなった、頗話せると云った様な顔をして、主人の顔と食卓の上を等分に見ながら、おとなしく傍に附いて居る。毎常(いつも)の夕飯がうまく喰われる、永くなる。梢に残った夕日が消えて、樺色(かばいろ)の雲が一つ波立たぬ海の様な空に浮いて居る。夏の夕明(ゆうあかり)は永い。まだ暮れぬ、まだ暮れぬ、と思う間に、其まゝすうと明るくなりまさる、眼をあげると、何時の間にか頭の上にまん丸な月が出て居て、団欒(だんらん)の影黒く芝生に落ちて居る。

二

強烈な日光の直射程痛快なものは無い。日蔭(ひかげ)幽(ゆう)に笑む白い花もあわれ、曇り日に見る花の和(やわら)かに落ちついた色も好いが、真夏の赫々(かくかく)たる烈日を存分受けて精一ぱい照りかえす花の色彩の美は何とも云えぬ。彼は色が大好きである。緋でも、紅でも、黄でも、紫でも、碧でも、凡そ色と云う色皆焔(ほのお)と燃え立つ夏の日の花園を、経木(きょうぎ)真田(さなだ)の帽一つ、真裸でぶらつく彼は、色の宴(うたげ)、光の浴(バス)に恍惚とした酔人である。彼は一滴の酒も飲まぬが、彼は色にはタワイもなく酔う。曾て戯れにある人のはがき帖(じょう)に、

此身蝶(てふ)にもあるまじけれど

わけもなくうれしかりけり日は午(ご)なる

真夏(まなつ)の園(その)の花のいろ/\

三

変化の鮮やかは夏の特色である。彼の郷里熊本などは、昼間(ひるま)は百度近い暑さで、夜も油汗(あぶらあせ)が流れてやまぬ程蒸暑(むしあつ)い夜が少くない。蒲団(ふとん)なンか滅多に敷かず、蓙(ござ)一枚で、真裸に寝たものだ。此様(こんな)でも困る。朝顔の花一ぱいにたまる露の朝涼(ちょうりょう)、岐阜(ぎふ)提灯(ちょうちん)の火も消えがちの風の晩冷(ばんれい)、涼しさを声にした様な蜩(ひぐらし)に朝涼(あさすず)夕涼(ゆうすず)を宣(の)らして、日間(ひるま)は草木も人もぐったりと凋(しお)るゝ程の暑さ、昼夜の懸隔(けんかく)する程、夏は好いのである。

ヒマラヤを五(いつつ)も積み重ねた雲の峰が見る間に崩(くず)れ落ちたり、濃(こ)いインキの一点を天の一角にうった雲が十分間に全天空(ぜんてんくう)を鼠色に包んだり、電を閃(ひらめ)かしたり、雹(ひょう)を撒(ま)いたり、雷を鳴らしたり、夕立になったり、虹(にじ)を見せたり。而(そう)して急に青空になったり、分秒を以てする天空の変化は、眼にもとまらぬ早わざである。夏の天に目ざましい変化があれば、夏の地にも鮮やかな変化がある。尺を得れば尺、寸を獲(う)れば寸と云う信玄流(しんげんりゅう)の月日を送る田園の人も、夏ばかりは謙信流(けんしんりゅう)の一気呵成(いっきかせい)を作物の上に味(あじ)わうことが出来る。生憎(あいにく)草も夏は育つが、さりとて草ならぬものも目ざましく繁(しげ)る。煙管(きせる)啣(くわ)えて、後手(うしろで)組んで、起きぬけに田の水を見る辰(たつ)爺(じい)さんの眼に、露だらけの早稲(わせ)が一夜に一寸も伸びて見える。昨日花を見た茄子(なす)が、明日はもうもげる。瓜の蔓(つる)は朝々伸びて、とめてもとめても心(しん)をとめ切れぬ。二三日打っちゃって置くと、甘藷(さつまいも)の蔓は八重がらみになる。如何に一切を天道様に預けて、時計に用がない百姓でも、時には斯様(こん)なはき/\した成績(せいせき)を見なければ、だらけてしまう。夏は自然の「ヤンキーズム」だ。而(そう)して此夏が年が年中で、正月元日浴衣がけで新年御芽出度も困りものだが、此処(ここ)らの夏はぐず/\するとさっさと過ぎてしまう位なので、却ってよいのである。

四

夏の命(いのち)は水だが、川らしい川に遠く、海に尚遠い斯(この)野の村では、水の楽(たのしみ)が思う様にとれぬ。

昨年(さくねん)の夏、彼は大きな甕(かめ)を買った。径(わたり)三尺、深さは唯(たった)一尺五寸の平たい甕である。これを庭の芝生の端(はし)に据えて、毎朝水晶の様な井(いど)の水を盈(み)たして置く。大抵大きなバケツ八はいで溢(あふ)るゝ程になる。水気の少い野の住居は、一甕(ひとかめ)の水も琵琶(びわ)洞庭(どうてい)である。太平洋大西洋である。書斎(しょさい)から見ると、甕の水に青空が落ちて、其処に水中の天がある。時々は白雲(しらくも)が浮く。空を飛ぶ五位鷺(ごいさぎ)の影も過(よ)ぎる。風が吹くと漣(さざなみ)が立つ。風がなければ琅玕(ろうかん)の如く凝(こ)って居る。

日は段々高く上り、次第に熱して来る。一切の光熱線(こうねつせん)が悉く此径三尺の液体(えきたい)天地に投射(とうしゃ)せらるゝかと思われる。冷たく井を出た水も、日の熱心にほだされて、段々冷たくなくなる。生温(なまぬる)くなる。所謂日なた水になる。正午の頃は最早湯だ。非常に暑い日は、甕の水もうめ水が欲しい程に沸く。

午後二時三時の交(あいだ)は、涼しいと思う彼の家でも、九十度にも上る日がある。風がぱったり止まる日がある。昼寝にも飽きる。新聞を見るすらいやになる。此時だ、此時彼は例の通り素裸(すっぱだか)で薩摩下駄をはき、手拭(てぬぐい)を持って、突(つ)と庭に出る。日ざかりの日は、得たりや応(おう)と真裸の彼を目がけて真向から白熱箭(はくねつせん)を射かける。彼は遽(あわ)てず騒がず悠々と芝生を歩んで、甕の傍に立つ。先(まず)眼鏡(めがね)をとって、ドウダンの枝にのせる。次ぎに褌(したおび)をとって、春モミジの枝にかける。手拭を右の手に握り、甕から少しはなれた所に下駄を脱いで、下駄から直に大胯(おおまた)に片足を甕に踏み込む。呀(あ)、熱(あつ)、と云いたい位。つゞいて一方の足も入れると、一気に撞(どう)と尻餅(しりもち)搗(つ)く様に坐(す)わる。甕の縁(ふち)を越して、水がざあっと溢(あふ)れる。彼は悠然と甕の中に坐って、手拭を濡(ぬ)らして、頭から面(つら)、胸から手と、ゆる/\洗う。水はます/\溢れて流れる。乾いた庭に夕立のあとの如く水が流れる。油断をした蟻(あり)や螻(けら)が泡(あわ)を喰(く)って逃げる。逃げおくれて流される。彼は好い気もちになって、じいと眼をつぶる。眼を開(あ)いて徐に見廻わす。上には青天がある。下には大地がある。中には赤裸(あかはだか)の彼がある。見物人は、太陽と雀と虫と樹と草と花と家ばかりである。時々は褌の洗濯もする。而してそれを楓(かえで)の枝に曝(さ)らして置く。五分間で火熨斗(ひのし)をした様に奇麗に乾く。

十分十五分ばかりして、甕を出る。濡手拭(ぬれてぬぐい)を頭にのせたまゝ、四体は水の滴(た)るゝまゝに下駄をはいて、今母の胎内を出た様に真裸で、天上天下唯我独尊と云う様な大踏歩(だいとうほ)して庭を歩いて帰る。帰って縁に上って、手拭で悉皆体を拭いて、尚暫くは縁に真裸で立って居る。全く一皮(ひとかわ)脱(ぬ)いだ様で、己(わ)が体のあたりばかり涼しい気がそよぐ。縁から見ると、七分目に減(へ)った甕の水がまだ揺々(ゆらゆら)して居る。其れは夕蔭に、乾(かわ)き渇(かわ)いた鉢の草木にやるのである。稀には彼が出たあとで、妻児(さいじ)が入ることもある。青天白日、庭の真中で大びらに女が行水(ぎょうずい)するも、田舎住居のお蔭である。

夏は好い。夏が好い。

低い丘の上から

一

彼は毎(つね)に武蔵野の住民と称して居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末(ばすえ)で、景が小さく、豪宕(ごうとう)な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当って居る中央東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕莽蒼(もうそう)の気を領(りょう)することが出来ず、且居常(きょじょう)流水の音を耳にすることが出来ぬのが、彼の毎々繰り返えす遺憾である。然し縁なればこそ来て六年も住んだ土地だ。平凡は平凡ながら、平凡の趣味も万更捨てたものでもない。

彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字粕谷(かすや)の南耕地(みなみこうち)と云って、昔は追剥(おいはぎ)が出たの、大蛇が出て婆(ばば)が腰をぬかしたのと伝説がある徳川の御林(おはやし)を、明治近くに拓(ひら)いたものである。林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前株(かぶ)を分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家が殊(こと)に疎(まばら)な方面である。就中(なかんずく)彼の家は此新部落の最南端に一つ飛び離れて、直ぐ東隣は墓地、生きた隣は背戸(せど)の方へ唯一軒、加之(しかも)小一丁からある。田圃(たんぼ)向うの丘の上を通る青山街道から見下ろす位の低い丘だが、此方から云えば丘の南端に彼の家はあって、東一帯は八幡の森、雑木林、墓地の木立に塞(ふさ)がれて見えぬが、南と西とは展望に障るものなく、小さなパノラマの様な景色が四時朝夕眺められる。

二

三鷹村(みたかむら)の方から千歳村を経(へ)て世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の小さな枝(えだ)が、入江(いりえ)の如く彼が家の下を東から西へ入り込んで居る。其西の行きどまりは築(つ)き上げた品川堀の堤(つつみ)の藪(やぶ)だたみになって、其上から遠村近落の樫(かし)の森や松原を根占(ねじめ)にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。冬は白く、春は夢の様に淡(あわ)く、秋の夕(ゆうべ)は紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。近景の大きな二本松が此山の鏈(くさり)を突破(とっぱ)して居る。

此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠(かん)した相州連山の御国山(みくにやま)から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林(ぼうふうりん)の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦(じ)らす様にちら/\透(す)いて見えるのが、却て懊悩(おうのう)の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝(したえだ)を払った百尺もある杉の八九十本、欝然(うつぜん)として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。春雨(はるさめ)の明けの朝、秋霧(あきぎり)の夕、此杉の森の梢(こずえ)がミレージの様に靄(もや)から浮いて出たり、棚引く煙を紗(しゃ)の帯の如く纏(まと)うて見たり、しぶく小雨に見る/\淡墨(うすずみ)の画になったり、梅雨には梟(ふくろう)の宿、晴れた夏には真先に蜩(ひぐらし)の家になったり、雪霽(ゆきばれ)には青空に劃然(くっきり)と聳(そび)ゆる玉樹の高い梢に百点千点黒い鴉(からす)をとまらして見たり、秋の入日の空(そら)樺色に曛(くん)ずる夕は、濃紺(のうこん)濃紫(のうし)の神秘な色を湛(たた)えて梢を距(さ)る五尺の空に唯一つ明星を煌(きら)めかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。

三

彼の家の下なる浅い横長の谷は、畑が重(おも)で、田は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足(はだし)の女の子が、小目籠(めかい)と庖刀を持って、芹(せり)、嫁菜(よめな)、薺(なずな)、野蒜(のびる)、蓬(よもぎ)、蒲公英(たんぽぽ)なぞ摘みに来る。紫雲英(れんげそう)が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾(たにしひろ)いに来る。簑笠(みのかさ)の田植は骨でも、見るには画である。螢には赤い火が夏の夜にちら/\するのは、子供が鰌突(どじょうつ)きして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横に潜(くぐ)って、彼の家の下の谷を其南側に添うて東へ大田圃の方へと流れて居る。最初は女竹(めだけ)の藪の中を流れ、それから稀に葭(よし)を交えた萱(かや)の茂る土堤(どて)の中を流れる。夏は青々として眼がさめる。葭切(よしきり)、水鶏(くいな)の棲家(すみか)になる。螢が此処からふらりと出て来て、田面に乱れ、墓地を飛んでは人魂(ひとだま)を真似て、時々は彼が家の蚊帳(かや)の天井まで舞い込む。夏は翡翠(ひすい)の屏風(びょうぶ)に光琳(こうりん)の筆で描いた様に、青萱(あおかや)まじりに萱草(かんぞう)の赭(あか)い花が咲く。萱、葭の穂が薄紫に出ると、秋は此小川の堤(つつみ)に立つ。それから日に/\秋風(あきかぜ)をこゝに見せて、其薄紫の穂が白く、青々とした其葉が黄ばみ、更に白らむ頃は、漬菜(つけな)を洗う七ちゃんが舌鼓(したつづみ)うつ程、小川の水は浅くなる。行く/\年(とし)闌(た)けて武蔵野の冬深く、枯るゝものは枯れ、枯れたものは乾き、風なき日には光り、風ある日にはがさ/\と人が来るかの様に響(ひび)く。其内ある日近所の辰さん兼さんが簌々(さくさく)簌々と音さして悉皆堤の上のを苅(か)って、束(たば)にして、持って往って了(しま)う。あとは苅り残されの枯尾花(かれおばな)や枯葭(かれよし)の二三本、野茨(のばら)の紅い実まじりに淋(さび)しく残って居る。覗(のぞ)いて見ると、小川の水は何処へ潜(くぐ)ったのか、窪(くぼ)い水道だけ乾いたまゝに残される。

四

谷の向う正面は、雑木林、小杉林、畑などの入り乱れた北向きの傾斜である。此頃は其筋の取締も厳重(げんじゅう)になったが、彼が引越して来た当座は、まだ賭博(とばく)が流行して、寒い夜向うの雑木林に不思議の火を見ることもあった。其火を見ぬ様になったはよいが、真正面(ましょうめん)に彼が七本松と名づけて愛(め)でゝ居た赤松が、大分伐られたのは、惜しかった。此等の傾斜を南に上りつめた丘(おか)の頂(いただき)は、隣字の廻沢(めぐりさわ)である。雑木林に家がホノ見え、杉の森に寺が隠れ、此程並木の櫟(くぬぎ)を伐ったので、畑の一部も街道も見える。彼が粕谷(かすや)に住んだ六年の間に、目通りに木羽葺(こっぱぶき)が一軒、麦藁葺(むぎわらぶき)が一軒出来た。最初はけば/\しい新屋根が気障(きざ)に見えたが、数年の風日は一を燻(くす)んだ紫に、一を淡褐色(たんかっしょく)にして、あたりの景色としっくり調和して見せた。此(この)丘(おか)を甲州街道の滝阪(たきざか)から分岐(ぶんき)して青山へ行く青山街道が西から東へと這(は)って居る。青山に出るまでには大きな阪の二つもあるので、甲州街道の十分の一も往来は無いが、街道は街道である。肥車(こやしぐるま)が通う。馬士(まご)が歌うて荷馬車を牽(ひ)いて通る。自転車が鈴を鳴(な)らして行く。稀に玉川行の自動車が通る。年に幾回か人力車が通る。道は面白い。座(すわ)って居て行路の人を眺(なが)むるのは、断片(だんぺん)の芝居を見る様に面白い。時々は緑(みどり)の油箪(ゆたん)や振りの紅(くれない)を遠目に見せて嫁入りが通る。附近に寺があるので、時々は哀しい南無阿弥陀(なむあみだ)ァ仏(ぶつ)の音頭念仏に導かれて葬式が通る。

街道は此丘を東に下りて、田圃を横ぎり、また丘に上って、東へ都(みやこ)へと這って行く。田圃をはさむ南北の丘が隣字の船橋(ふなばし)で、幅四丁程の此田圃は長く世田ヶ谷の方へつゞいて居る。田圃の遙(はるか)東に、いつも煙が幾筋か立って居る。一番南が目黒の火薬製造所の煙で、次が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙である。一度東京から逗留(とうりゅう)に来た幼(おさ)ない姪(めい)が、二三日すると懐家病(ホームシック)に罹って、何時(いつ)も庭の端に出ては右の煙を眺めて居た。五月雨(さみだれ)で田圃が白くなり、雲霧(くもきり)で遠望が煙にぼかさるゝ頃は、田圃の北から南へ出る岬(みさき)と、南から北へと差出る𡽶(はな)とが、宛(さ)ながら入江を囲(かこ)む崎の如く末は海かと疑われる。廻沢(めぐりさわ)と云い、船橋と云い、地形から考えても、昔は此田圃は海か湖(みずうみ)かであったろうと思われる。

五

谷から向うの丘(おか)にかけて、麦と稲とが彼の為に一年両度緑になり黄になってくれる。雑木林が、若葉と、青葉と、秋葉と、三度の栄(さかえ)を見せる。常見てはありとも見えぬ辺(あたり)に、春来れば李(すもも)や梅が白く、桃が紅く、夏来れば栗の花が黄白く、秋は其処此処に柿紅葉、白膠木(ぬるで)紅葉(もみじ)、山紅葉が眼ざましく栄(は)える。雪も好い。月も好い。真暗い五月闇(さつきやみ)に草舎(くさや)の紅い火を見るも好い。雨も好い。春陰(しゅんいん)も好い。秋晴も好い。降(ふ)る様な星の夜も好い。西の方甲州境の山から起って、玉川を渡り、彼が住む村を過ぎて東京の方へ去る夕立を目迎(まむか)えて見送るに好い。向うの村の梢(こずえ)に先ず訪(おと)ずれて、丘の櫟林、谷の尾花が末、さては己が庭の松と、次第に吹いて来る秋風を指点(してん)するに好い。翳(かげ)ったり、照ったり、躁(さわ)いだり、黙(だま)ったり、雲と日と風の丘と谷とに戯るゝ鬼子っこを見るにも好い。白鯉(しろこい)の鱗(うろこ)を以て包んだり、蜘蛛(くも)の糸を以て織りなした縮羅(しじら)の巾(きぬ)を引きはえたり、波なき海を縁(ふち)どる夥(おびただ)しい砂浜を作ったり、地上の花を羞(は)じ凋(しぼ)ます荘厳(そうごん)偉麗(いれい)の色彩を天空に輝(かがや)かしたり、諒闇(りょうあん)の黒布を瞬く間に全天に覆(おお)うたり、摩天(まてん)の白銅塔(はくどうとう)を見る間に築き上げては奈翁(なぽれおん)の雄図よりも早く微塵(みじん)に打崩したり、日々眼を新にする雲の幻術(げんじゅつ)天象(てんしょう)の変化を、出て見るも好い。

四辺(あたり)が寂(さび)しいので、色々な物音が耳に響く。鄙(ひな)びて長閑(のどか)な鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛(むぎぶえ)。うなりをうって吹く二百十日の風。音(おと)なくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙(しじま)。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺(もみず)りの響(おと)。凱旋の爆竹(ばくちく)を聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋(あめや)の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨(しぐれ)のさゝやき。東京の午砲(どん)につゞいて横浜の午砲。湿(しめ)った日の電車汽車の響(ひびき)。稀に聞く工場の汽笛。夜は北から響く烏山の水車。隣家(となり)で井汲(いどく)む音。向うの街道を通る行軍兵士の靴音(くつおと)や砲車の響。小学校の唱歌。一丁はなれた隣家の柱時計が聞こゆる日もある。一番好いのは、春四月の末、隣の若葉した雑木林に朝日が射す時、ぽたり……ぽたりと若葉を辷(すべ)る露の滴(したた)りを聴くのである。

夏秋の虫の音の外に、一番嬉しいのは寺の鐘(かね)。真言宗の安穏寺(あんのんじ)。其れはずッと西南へ寄って、寺は見えぬが、鐘の音(ね)は聞こえる。東覚院(とうがくいん)、これも真言宗、つい向うの廻沢(めぐりさわ)にあって、寺は見えぬが、鐘の音は一番近い。尤も東にあるのが船橋の宝性寺(ほうしょうじ)、日蓮宗で、其草葺の屋根と大きな目じるしの橡(とち)の木は、小さく彼の縁から指さゝれる。

大木は地の栄(さかえ)である。彼の周囲に千年の古木(こぼく)は無い。甲州の山鏈(さんれん)を突破する二本松と、豪農の杉の森の外、木らしい木は、北の方三丁ばかり畑を隔(へだ)てゝ欅(けやき)の杜(もり)の大欅が亭々と天を摩して聳(そび)えて居る。其若葉は此あたりで春の目じるし、其鳶色(とびいろ)は秋も深い目じるしである。北の方は、此欅の中の欅と下枝を払った数本のはら/\松を点景にして、林から畑、畑から村と、遠く武蔵野につゞいて居る。

六

家の門口は東にある。出ると直ぐ雑木林。彼の有(もの)ではないが、千金啻(ただ)ならず彼に愛される。彼が家の背(うしろ)に、三角形をなす小さな櫟林(くぬぎばやし)と共に、春夏の際は若葉青葉の隧道(とんねる)を造る。青空から降る雨の様に落葉(おちば)する頃は、人の往来(ゆきき)の足音が耳に立つ。蛇の巣(す)でもあるが、春は香の好いツボスミレ、金蘭銀蘭、エゴ、ヨツドヽメ、夏は白百合、撫子花、日おうぎ、秋は萩、女郎花、地楡(われもこう)、竜胆(りんどう)などが取々(とりどり)に咲く。ヨツドヽメの実も紅(くれない)の玉を綴(つづ)る。楢茸(ならたけ)、湿地茸(しめじだけ)も少しは立つ。秋はさながらの虫籠(むしかご)で、松虫鈴虫の好い音(ね)はないが、轡虫(くつわむし)などは喧しい程で、ともすれば家の中まで舞い込んでわめき立てる。今は無くなったが、先年まで其林の南、墓地の東隣に家があって、十五六の唖の兄と十二三になる盲の弟が、兄が提灯(ちょうちん)つけて見る眼を働かすれば、弟(おとうと)が聞く耳を立てゝ虫の音を指し、不具二人寄って一人前の虫採(むしとり)をしたものだ。最早(もう)其家はつぶれ、弟は東京で一人前の按摩(あんま)になり、兄は本家に引取られて居るが、虫は秋毎に依然として鳴いて居る。家がさながら虫の音に溺(おぼ)れる様な宵(よい)がある。

地蔵尊(在りし日の)
地蔵尊(在りし日の)

大正十二年九月一日の大震に倒れただけで無事だった地蔵尊が、大正十三年一月十五日の中震に二たび倒れて無惨や頭が落ちました。私共の身代りになったようなものです。身代り地蔵と命名して、倒れたまま置くことにしました。

大正十三年 春彼岸の中日

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Last Modified: Wednesday, February 03, 2016
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