みみずのたはこと

Mimizu no tawakoto

徳富蘆花 Tokutomi Roka

草葉のささやき

二百円

樫(かし)の実が一つぽとりと落ちた。其幽(かすか)な響が消えぬうちに、突(つ)と入って縁先に立った者がある。小鼻(こばな)に疵痕(きずあと)の白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物(しまもの)ずくめの小商人(こあきんど)と云う服装(なり)。眉から眼にかけて、夕立(ゆうだち)の空の様な真闇(まっくら)い顔をして居る。

「私(わたし)は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」

と座に着くなり息をはずませて云った。

「私は妻(かない)に不幸な者でして……斯(こう)申上げると最早(もう)御分かりになりましょうが」

最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈(み)ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。

彼は埼玉(さいたま)の者、養子であった。繭(まゆ)商法に失敗して、養家の身代を殆(ほと)んど耗(す)ってしまい、其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。こゝで妻子を呼び迎えて、暫(しばらく)暮らして居たが、思わしい事もないので、大連(だいれん)に移った。日露戦争の翌年の秋である。大連に来て好い仕事もなく、満人臭(まんざくさ)い裏町にころがって居る内に、子供を亡(な)くしてしまった。

「可愛いやつでした。五歳(いつつ)でした、女児(おんなのこ)でしたがね、其(そ)れはよく私になずいて居ました。国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻(かない)は無愛想でしても、女児(やつ)が阿爺(とうさん)、阿爺と歓迎して、帽子(ぼうし)をしまったり、其(そ)れはよくするのです。私も全(まった)く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。其内息を引きとってしまったンです。医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様(そん)な事をしたものでしょう。尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分が曾(かつ)て斯々の事をした、それで斯様(かよう)な罰を受けたと懺悔(ざんげ)したそうですがね」

彼は暫く眼をつぶって居た。

「それから?」

「それから何時まで遊んでも居られませんから、夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、其会社のまあ大将ですね、其大将の家(うち)に奉公に住み込みました。何(なに)しろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、生活なンかそりゃ贅沢(ぜいたく)なもンです。召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。奥さんは好(い)い方で、私共によく眼をかけてくれました。其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何(どう)も妻の容子(ようす)が変(かわ)って来ました。――妻ですか、何、美人なもンですか、些(ちっと)も好くはないのです」と彼は吐き出す様に云った。

「妻の容子がドウも変(へん)になりました。私も気をつけて見て居ると、腑(ふ)に落ちぬ事がいくらもあるのです。主人が馬車で帰って来ます。二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒(びいる)を盆にのせて持て行くのです。私は階段下に居ます。妻が傍眼(わきめ)に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、窃(そっ)と主人の書斎の扉(どあ)の外に抜足(ぬきあし)してじいッと聴いたり、鍵(かぎ)の穴からも覗(のぞ)いて見ました。が、厚い厚い扉(どあ)です。中は寂然(ひっそり)して何を為(し)て居るか分かりません。私は実に――」

彼は泣き声になった。一つに寄(よ)った真黒(まっくろ)い彼の眉はビリ/\動いた。唇(くちびる)は顫(ふる)えた。

「妻の眼色(めいろ)を読もうとしても、主人の貌色(かおいろ)に気をつけても、唯(ただ)疑念(ぎねん)ばかりで証拠を押えることが出来ません。斯様(こん)な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。また其様(そう)妻に云ったことも一度や二度じゃありません。けれども妻は其度に腹を立てます。斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出(いで)なさい、何処ぞへ仕事を探がしに御出(おいで)なさい、と突慳貪(つっけんどん)に云うンです。最早(もう)私も堪忍出来なくなりました」

「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。誰も居ない川原(かわら)です。種々と妻を詰問しましたが、如何(どう)しても実を吐(は)きません。其れから懐中して居た短刀をぬいて、白状(はくじょう)するなら宥(ゆる)す、嘘(うそ)を吐(つ)くなら命を貰(もら)うからそう思え、とかゝりますと、妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責(せ)めつけると、到頭(とうとう)悉皆(すっかり)白状してしまいました」

彼はホウッと長い息をついた。

「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。すると翌日主人が私を書斎に呼びまして『ドウも実に済まぬ事をした。主人の俺(わし)が斯(こ)う手をついてあやまるから、何卒(どうぞ)内済(ないさい)にしてくれ。其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。屹度(きっと)成功さす。これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、二百円、左様、手の切れる様(よう)な十円札(さつ)でした、二百円呉れました」

「君は其二百円を貰ったンだね、何故(なぜ)其(その)短刀で其男を刺殺さなかった?」

彼は俯(うつむ)いた。

「それから?」

「それから一旦(いったん)内地に帰って、また大連に行きました。最早(もう)主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」

「而(そう)して今は?」

「今は東京の場末(ばすえ)に、小さな小間物屋を出して居ます」

「細君(さいくん)は?」

「妻は一緒に居るのです」

話は暫く絶えた。

「一緒に居ますが、面白くなくて/\、胸(むね)がむしゃくしゃして仕様(しよう)がないものですから、それで今日(こんにち)は――」

*

忽然(こつぜん)と風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。

百草園

田の畔(くろ)に赭(あか)い百合(ゆり)めいた萱草(かんぞう)の花が咲く頃の事。ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。暫く話して、百草園(もぐさえん)にでも往って見ようか、と主人は云い出した。百草園は府中(ふちゅう)から遠くないと聞いて居る。府中まではざッと四里、これは熟路(じゅくろ)である。時計を見れば十一時、ちと晩(おそ)いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。

大麦小麦はとくに刈(か)られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑(みどり)ならぬ処もない。其緑の中を一条(ひとすじ)白く西へ西へ山へ山へと這(は)って行く甲州街道を、二人は話しながらさッさと歩いた。太田君は紺絣(こんがすり)の単衣、足駄ばきで古い洋傘(こうもり)を手挾(たばさ)んで居る。主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅(いっちょうら)に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、麦藁の海水帽をかぶり、素足(すあし)に萎(な)えくたれた茶の運動靴をはいて居る。二人はさッさと歩いた。太田君は以前社会主義者として、主義(しゅぎ)宣伝(せんでん)の為、平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、中々健脚である。主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。一日に十里も歩けば、二日目は骨である。二人は大胯(おおまた)に歩いた。蒸暑(むしあつ)い日で、二人はしば/\額の汗を拭(ぬぐ)うた。

府中に来た。千年の銀杏(いちょう)、欅(けやき)、杉など欝々蒼々(うつうつそうそう)と茂った大国魂神社の横手から南に入って、青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川(たまがわ)の磧(かわら)に出た。此辺を分倍河原(ぶばいかわら)と云って、新田義貞大に鎌倉(かまくら)北条勢(ほうじょうぜい)を破った古戦場である。玉川の渡(わたし)を渡って、また十丁ばかり、長堤(ちょうてい)を築いた様に川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た。もと松蓮寺の寺跡(じせき)で、今は横浜の某氏が別墅(べっしょ)になって居る。境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。茶屋からまた一段堆丘(たいきゅう)を上って、大樹に日をよけた恰好(かっこう)の観望台(かんぼうだい)がある。二人は其処の素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁(は)せた。

東京近在で展望無双と云わるゝも譌(うそ)ではなかった。生憎(あいにく)野末の空少し薄曇(うすぐも)りして、筑波も野州上州の山も近い秩父(ちちぶ)の山も東京の影も今日は見えぬが、つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、磧(かわら)と人の手のあとの道路や家屋を示す些(ちと)の灰色とをもて描(えが)かれた大きな鳥瞰画(ちょうかんが)は、手に取る様に二人が眼下に展(ひろ)げられた。「好(い)い喃(なあ)」二人はかわる/″\景(けい)を讃(ほ)めた。

やゝ眺(なが)めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳(かげ)った。時計をもたぬ二人は最早(もう)暮(く)るゝのかと思うた。蒸暑かった日は何時(いつ)しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。唯(と)見(み)ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨(いんき)色の雲がむら/\と立って居る。

「夕立が来るかも知れん」

「然(そう)、降るかも知れんですな」

二人は茶菓の代(しろ)を置いて、山を下りた。太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。日野までは一里強である。山の下で二人は手を分った。

「それじゃ」

「じゃ又」

人家の珊瑚木(さんごのき)の生籬(いけがき)を廻って太田君の後姿(うしろすがた)は消えた。残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡(わたし)の方へ歩いて行った。川上(かわかみ)の空に湧いて見えた黒雲は、玉川(たまがわ)の水を趁(お)うて南東に流れて来た。彼の一足毎に空はヨリ黯(くら)くなった。彼は足を早めた。然し彼の足より雲の脚は尚早かった。一(いち)の宮(みや)の渡を渡って分倍河原に来た頃は、空は真黒になって、北の方で殷々闐々(ごろごろ)雷が攻太鼓をうち出した。農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。府中の方から来る肥料車(こやしぐるま)も、あと押しをつけて、曳々声(えいえいごえ)して家の方へ急いで居る。

「太田君は何(ど)の辺まで往ったろう?」

彼は一瞬時(またたくま)斯く思うた。而して今にも泣き出しそうな四囲(あたり)の中を、黙って急いだ。

府中へ来ると、煤色(すすいろ)に暮れた。時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点(とも)して居る。早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。此処(ここ)で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、こゝに何時(いつ)霽(は)れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家(うち)に急いで居た。彼は一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。腰に下げた手拭(てぬぐい)をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。而して最早大分硬(こわ)ばって来た脛(すね)を踏張(ふんば)って、急速に歩み出した。

府中の町を出はなれたかと思うと、追(おい)かけて来た黒雲が彼の頭上(ずじょう)で破裂(はれつ)した。突然(だしぬけ)に天の水槽(たんく)の底がぬけたかとばかり、雨とは云わず瀑布落(たきおと)しに撞々(どうどう)と落ちて来た。紫色の光がぱッと射す。直(す)ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇(はげ)しい雷(らい)が鳴った。彼はぐっと息(いき)が詰(つま)った。本能的に彼は奔(はし)り出したが、所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。人通りも絶え果てた。彼は唯一人であった。雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあ〻〻ドウ〻〻と漲(みなぎ)り落ちた。彼の頬被りした海水帽(かいすいぼう)から四方に小さな瀑が落ちた。糸経(いとだて)を被った甲斐もなく総身濡れ浸(ひた)りポケットにも靴にも一ぱい水が溜(たま)った。彼は水中を泳ぐ様に歩いた。紫色や桃色の電(いなずま)がぱっ/\と一しきり闇に降る細引(ほそびき)の様(よう)な太い雨を見せて光った。ごろ/\/\雷(かみなり)がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、夥(おびただ)しい爆竹(ばくちく)を一度に点火した様に、ぱち/\/\彼の頭上に砕(くだ)けた。長大(ちょうだい)な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。其(その)度(たび)に彼は思わず立竦(たちすく)んだ。如何(どう)しても落ちずには済(す)まぬ雷(らい)の鳴り様である。何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、屹度(きっと)落ちると覚期(かくご)せねばならなかった。屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。此(この)街道(かいどう)の此部分で、今動いて居る生類(しょうるい)は彼一人である。雷が生(い)き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。雷にうたれて死(し)ぬ運命の人間が、地の此部分にあるなら、其は取りも直(なお)さず彼でなくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里隔(へだ)てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己(じこ)の生涯を省みた。其れは美(うつく)しくない半生であった。妻に対する負債(ふさい)の数々も、緋の文字(もじ)をもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人(ひとり)はとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭(あたま)に閃(ひらめ)いた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\劇(はげ)しく鳴った。最早(もう)今度(こんど)は落ちた、と彼は毎々(たびたび)観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類(しょうるい)に対する憐愍(あわれ)に満された。彼の眼鏡(めがね)は雨の故ならずして曇(くも)った。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。

調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降(こぶ)りになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白(なまじろ)い夕明(ゆうあかり)になった。調布の町では、道の真中(まんなか)に五六人立って何かガヤ/\云いながら地(ち)を見て居る。雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、

「洗濯物取りに出(で)りゃあの雷だね、わたしゃ薪小屋(まきごや)に逃げ込んだきり、出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」

と云って居る。

雷雨が過ぎて、最早大丈夫(だいじょうぶ)と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。濡(ぬ)れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。

家へ六七丁の辺(へん)まで辿(たど)り着くと、白いものが立って居る。それは妻(つま)であった。家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。あまり晩(おそ)いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

*

翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川(たまがわ)の少し下流で、雷が小舟に落ち、舳(へさき)に居た男はうたれて即死、而して艫(とも)に居た男は無事だった、と云う事を報じた。

「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。

月見草

村の人になった年(とし)、玉川の磧(かわら)からぬいて来た一本の月見草が、今はぬいて捨てる程に殖(ふ)えた。此頃は十数株、少(すくな)くも七八十輪宵毎(よいごと)に咲いて、黄昏(たそがれ)の庭に月が落ちたかと疑われる。

月見草は人好きのする花では無い。殊(こと)に日間(ひるま)は昨夜の花が赭(あか)く凋萎(しお)たれて、如何にも思切りわるくだらりと幹(みき)に付いた態(ざま)は、見られたものではない。然し墨染(すみぞめ)の夕に咲いて、尼(あま)の様に冷たく澄んだ色の黄、其(その)香(か)も幽に冷たくて、夏の夕にふさわしい。花弁(はなびら)の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、はからず眼を見合わす時、誰か心跳(こころおど)らずに居られようぞ。月見草も亦心浅からぬ花である。

八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家(うち)から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。途中、一方が古来(こらい)の死刑場(しおきば)、一方が墓地の其中間(ちゅうかん)を通らねばならぬ処があった。死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む非人小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳(こふん)新墳(しんふん)累々(るいるい)と立並ぶ墓場の砂地には、初夏の頃から沢山月見草が咲いた。日間(ひるま)通る時、彼は毎(つね)に赭くうな垂(だ)れた昨宵(ゆうべ)の花の死骸を見た。学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗(のぞ)く花を見た。斯(か)くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。

其墓場の一端には、彼が甥(おい)の墓もあった。甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父(おじ)甥は常に共に遊んだ。ある時叔父は筆の軸(じく)を甥に与えて、犬の如く啣(くわ)えて振れと命じた。従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。叔父はまた振れと迫った。甥はもういやだと頭を掉(ふ)った。憎さげに甥を睨(にら)んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬(ほお)をぐっと突いた。甥は声を立てゝ泣いた。其甥は腹膜炎にかゝって、明(あ)くる年の正月元日病院で死んだ。屠蘇(とそ)を祝うて居る席に死のたよりが届(とど)いた。叔父の彼は異な気もちになった。彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。

墓地は一方大川に面(めん)し、一方は其大川の分流に接して居た。甥は其分流近く葬(ほうむ)られた。甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。自分の甥の墓があると誇り貌(が)に告げて、彼は友達を引張って、甥の墓に詣(まい)った。而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪(ひざまず)いて、凋(しお)れた月見草の花を折って、墓前の砂に插(さ)した。

彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。

腫物

一

人声が賑(にぎ)やかなので、往って見ると、久(ひさ)さんの家は何時(いつ)の間にか解き崩(くず)されて、煤(すす)けた梁(はり)や虫喰(むしく)った柱、黒光りする大黒柱、屋根裏の煤竹(すすたけ)、それ/″\類(るい)を分って積まれてある。近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。件(くだん)の古家(ふるや)を買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、其(そ)れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。時々壁土(かべつち)が撞(どう)と落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、庭木(にわき)や境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、其処らじゅう明るくガランとして居る。

家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳(ふるだたみ)を敷いて、眼の少し下って肥(こ)え脂(あぶら)ぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、おはぐろの剥(は)げた歯を桃色の齦(はぐき)まで見せて、買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出(つきだ)したまゝ、吾不関焉と云う顔をして、コト/\藁(わら)を打って居る。婆さんや唖の巳代吉(みよきち)は本家へ帰ったとか。末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。

一切の人と物との上に泣く様な糠雨(ぬかあめ)が落ちて居る。

あゝ此(この)家(うち)も到頭(とうとう)潰(つぶ)れるのだ。

二

今は二十何年の昔、村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。弟は一人前なかったので婿養子をしたが、婿(むこ)と舅の折合が悪い為に、老夫婦(としよりふうふ)は息子を連れて新家に出た。今(いま)解(と)き崩されて片々(ばらばら)に売られつゝある家(うち)が即ち其れなのである。己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、老夫婦(としよりふうふ)は家財道具万端好いものは皆(みな)引(ひき)たくる様にして持って出た。よく実る柿の木まで掘って持って往った。

痴(おろか)な息子も年頃になったので、調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。名をお広(ひろ)と云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。婿入(むこいり)の時、肝腎(かんじん)の婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、皆ドッと笑い出した。久太郎が彼の名であった。

久さんに一人の義弟があった。久さんが生れて間もなく、村の櫟林(くぬぎばやし)に棄児(すてご)があった。農村には人手が宝(たから)である。石山の爺さんが右の棄児を引受(ひきう)けて育てた。棄児は大きくなって、名を稲次郎(いねじろう)と云った。彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子(むすこ)が行(ゆ)く/\の力にもなれと、稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。

ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くと家(うち)を出たきり行方不明になった。探がし探がした結果、彼は吉祥寺(きちじょうじ)、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。彼は酒が好きだった。年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死(こごえし)んだのを物取りが来て剥(は)いだか、それとも追剥(おいはぎ)が殺して着物を剥いだか、死骸(しがい)は何も告げなかった。彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。

主翁(おやじ)が死んで、石山の新家は媳(よめ)の天下(てんか)になった。誰も久(ひさ)さんの家(うち)とは云わず、宮前のお広さんの家と云った。宮前は八幡前を謂うたのである。外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。彼女は相応(そうおう)に久さんを可愛(かあい)がって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、義弟(ぎてい)稲次郎の子を二人まで生(う)んだ。其子は兄が唖で弟が盲であった。罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。其内、稲次郎は此辺で所謂即座師(そくざし)、繭買(まゆかい)をして失敗し、田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子(おうじ)で首を縊(くく)って死んだ。其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字(となりあざ)の大工が妾の住家となった。私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。

三

背後は雑木林、前は田圃(たんぼ)、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人の辰(たつ)爺(じい)さんの家、それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事(ないしょうごと)には誂向(あつらえむ)きの場所だった。石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。唖と盲は稲次郎の胤(たね)と分ったが、彼(あの)二人(ふたり)は久さんのであろ、とある人が云うたら、否、否、あれは何某(なにがし)の子でさ、とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑(にがわらい)した。Husband-in-Law の子で無い子は、次第に殖(ふ)えた。殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。本家から持ち出したものは、少しずつ本家へ還(かえ)って往った。新家は博徒破落戸(ならずもの)の遊び所になった。博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を己(わ)が不断(ふだん)の住家にした。眼のぎろりとした、胡麻塩髯(ごましおひげ)の短い、二度も監獄の飯を食った、丈の高い六十爺(じじい)の彼は、村内に己が家はありながら婿夫婦(むこふうふ)を其家に住まして、自身は久さんの家を隠れ家にした。昼(ひる)は炉辺(ろべた)の主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕を並(なら)べた。久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵(たくわん)で早飯食わして、僕(ぼく)かなんぞの様に仕事に追い立て、あとでゆる/\鰹節(かつぶし)かいて甘(うま)い汁(しる)をこさえて、九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。

「俺(おら)ァ嬶(かか)とられちゃった」と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。久さんのおかみは「良人(やど)が正直(しょうじき)だから、良人が正直だから」と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。東隣のおとなしい媼(ばあ)さんも「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」などからかった。久さんは怪訝(けげん)な眼を上げて、「え?」と頓狂(とんきょう)な声を出す。「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜(まくわ)を食(く)ってたて事よ、ふ〻〻〻」と媼さんは笑った。久さんの家には、久さんの老母があった。然し婆(ばあ)さんは媳の乱行(らんぎょう)家の乱脈(らんみゃく)に対して手も口も出すことが出来なかった。若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、八十近くなって眼液(めしる)たらして竈(へっつい)の下を焚(た)いたり、海老(えび)の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃(は)いたり、杖にすがって媳(よめ)の命のまに/\使(つか)いあるきをしたり、其(そ)れでも其(その)無能(むのう)の子を見すてゝ本家に帰ることを得(え)為(せ)なかった。それに婆(ばあ)さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。白髪頭(しらがあたま)の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。尻切(しりきれ)草履突かけて竹杖(たけづえ)にすがって行く婆さんの背(うしろ)から、鍬(くわ)をかついだ四十男の久さんが、婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。酒でも飲んだ時は、媳に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、「お広(ひろ)、断わるがいゝ」と啖呵(たんか)を切った。

四

死んだ棄児(すてご)の稲次郎が古巣に、大工の妾と入れ代りに東京から書(ほん)を読む夫婦の者が越して来た。地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其韮(にら)や野菜菊は内で作ったの、其炉縁(ろぶち)は自分のだの、と物毎に争(あらそ)うた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其値(ね)を争うた。買主は戯談(じょうだん)に「無代(ただ)でもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者(やそきょうしんじゃ)じゃありませんか。信者が其様(そん)な事を云うてようござンすか」とやり込(こ)めた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其素行(そこう)について少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹(きっ)と向き直り、あべこべに義兄に喰(く)ってかゝり、老人と正直者を任(まか)せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張(よくば)ってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖(くちぐせ)であった。彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。相手かまわず問わず語(がた)りの勢込(いきおいこ)んでまくしかけ、「如何(いか)に兄が本(ほん)が読めるからって、村会議員(そんかいぎいん)だからって、信者だって、理(り)に二つは無いからね、わたしは云ってやりましたのサ」と口癖の様に云うた。人が話をすれば、「呍(うん)、呍(うん)、ふん、ふん」と鼻(はな)を鳴(な)らして聞いた。彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、彼女も村では正札附の莫連者(ばくれんもの)で、堅い婦人達は相手にしなかった。村に武太(ぶた)さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。かみさんは藪睨(やぶにらみ)で、気が少し変である。ピイ/\声(ごえ)で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。「子供ははァ背に負(おぶ)っとる事ですよ。背からおろしといたばかしで、女(むすめ)もなくなっただァ」と云いかけて、斜視(やぶ)の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。また誰に向っても、「萩原(はぎわら)の武太郎は、五宿へ往って女郎買(じょろうかい)ばかしするやくざ者(もの)で」と其亭主の事を訴える。武太さんは村で折紙(おりがみ)つきのヤクザ者である。武太さんに同情する者は、久(ひさ)さんのおかみばかりである。「彼様な女房(にょうぼ)持ってるンだもの」と、武太さんを人が悪く言う毎(ごと)に武太さんを弁護する。然し武太さんの同情者が乏しい様に、久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。唯村の天理教信者のおかず媼(ばあ)さんばかりは、久さんのおかみを済度(さいど)す可く彼女に近しくした。

稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。此方からも麦扱(むぎこ)きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆(えんどう)や里芋を売ってもらったりした。おかみも小金(こがね)を借(か)りに来たり張板を借(か)りに来たりした。其子供もよく遊びに来た。蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。彼女の家に集(つど)う博徒(ばくと)の若者が、夏の夜帰(よがえ)りによく新村入の畑に踏(ふ)み込(こ)んで水瓜を打割って食ったりした。新村入は用があって久さんの家(うち)に往く毎に胸を悪くして帰った。障子(しょうじ)は破れたきり張ろうとはせず、畳(たたみ)は腸(はらわた)が出たまゝ、壁(かべ)は崩(くず)れたまゝ、煤(すす)と埃(ほこり)とあらゆる不潔(ふけつ)に盈(みた)された家の内は、言語道断の汚なさであった。おかみはよく此(この)中(なか)で蚕に桑をくれたり、大肌(おおはだ)ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、破れ障子の内でギッチョンと響(おと)をさせて木綿機を織ったり、大きな眼鏡(めがね)をかけて縁先(えんさき)で襤褸(ぼろ)を繕(つくろ)ったりして居た。

五

新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。一は久さんの家(うち)で、今一つは品川堀の側にある店(みせ)であった。其店には賭博(ばくち)をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰(つぶ)れ、目ざす家は久さんの家だけになった。己(わ)が住む家の歴史を知るにつけ、新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩(わずろ)うた。色々の「我」が寄って形成(けいせい)して居る彼家は、云わば大(おお)きな腫物(はれもの)である。彼は眼の前に臭(くさ)い膿(うみ)のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。

ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。彼の眼の前には蝙蝠色(こうもりいろ)の夕闇が広がって居た。其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧(わ)いた様に黒い影がすうと寄って来た。ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。彼は畳の上に退(しざ)り、おかみは縁に腰かけた。

「旦那様、新聞に出て居りましてすか」

と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀(かみそり)で殺害した事を、彼女は何処(どこ)からか聞いたのである。「余りだと思います」と彼女は剃刀の刃を己(わ)が肉(にく)にうけたかの様に切ない声で云った。

聞く彼の胸はドキリとした。今だ、とある声が囁(ささや)いた。彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊(き)いた。おかみは、巳代が三歳(みっつ)までよく口をきいて居たら、ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」と云うたを最後の一言(いちごん)にして、医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、其頃飼(か)った牛を不親切からつい殺してしまいました、其牛の祟(たた)りだと人が申すので、色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。巳代公ばかりじゃ無い、亥之公(いのこう)が盲になったのは如何したものだ、と彼は肉迫した。而して彼はさし俯(うつむ)くおかみに向うて、此(この)家(うち)の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届(ふとどき)の数々を烈しく責めた。彼女は終まで俯いて居た。

それから二三日経(た)つと、彼は屋敷下を通る頬冠(ほおかむり)の丈高い姿を認めた。其れが博徒の親分であることを知った彼は、声をかけて無理に縁側に引張(ひっぱ)った。満地の日光を樫の影が黒(くろ)く染(そ)めぬいて、あたりには人の影(かげ)もなかった。彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒(ふらち)を責め最早(もう)六十にもなって余生幾何もない其身、改心して死花(しにばな)を咲かせろと勧めた。親分は其稼業の苦しい事を話し、ぎろりとした眼から涙の様なものを落して居た。

六

然しながら彼(かの)癌腫(がんしゅ)の様な家の運命は、往く所まで往かねばならなかった。

己が生んだ子は己が処置しなければならぬので、おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩(あんま)の弟子にした。家に居る頃から、盲目ながら他の子供と足場の悪い田舎道を下駄ばきでかけ廻(まわ)った勝気の亥之吉は、按摩の弟子になってめき/\上達し、追々(おいおい)一人前の稼ぎをする様になった。おかみは行々(ゆくゆく)彼をかゝり子にする心算(つもり)であった。それから自身によく肖(に)た太々(ふてぶて)しい容子をした小娘(こむすめ)のお銀を、おかみは実家近くの機屋(はたや)に年季奉公に入れた。

二人の兄の唖の巳代吉(みよきち)は最早若者の数に入った。彼は其父方の血を示(しめ)して、口こそ利けね怜悧な器用な華美(はで)な職人風のイナセな若者であった。彼は吾家に入り浸(びた)る博徒の親分を睨(にら)んだ。両手を組んでぴたりと云わして、親分とおっかあが斯様(こんな)だと眼色を変えて人に訴えた。親分とおかみは巳代吉を邪魔にし出した。ある時巳代公は親分の財布を盗んで銀時計を買った。母を窃(ぬす)む者の財布を盗むは何でもないと思ったのであろう。親分は是れ幸と巡査を頼んで巳代公を告訴し、巳代公を監獄に入れようとした。巳代公を入れるより彼(あの)二人(ふたり)を入れろ、と村の者は罵った。巳代吉は本家から願下(ねがいさ)げて、監獄に入れる親分とおかみの計画は徒労になった。然し親分は中々其居馴れた久さんの家(うち)の炉(ろ)の座(ざ)を動こうともしなかった。親分と唖の巳代吉の間はいよ/\睨合(にらみあい)の姿となった。或日巳代吉は手頃(てごろ)の棒(ぼう)を押取って親分に打ってかゝった。親分も麺棒(めんぼう)をもって渡り合った。然し血気の怒に任(まか)する巳代吉の勢鋭く、親分は右の手首を打折(うちお)られ、加之(しかも)棒に出て居た釘で右手の肉をかき裂(さ)かれ、大分の痛手(いたで)を負うた。隣家の婆さんが駈(か)けつけて巳代吉を宥(なだ)めなかったら、親分は手疵に止まらなかったかも知れぬ。繃帯(ほうたい)して右手(めて)を頸(くび)から釣って、左の手で不精鎌(ぶしょうがま)を持って麦畑の草など親分が掻いて居るのを見たのは二月も後(あと)の事だった。喧嘩の仲入(なかいり)に駈けつけた隣の婆さんは、側杖(そばづえ)喰(く)って右の手を痛めた。久さんのおかみは、詫(わ)び心に婆さん宅の竈(へっつい)の下など焚(た)きながら、喧嘩の折節(おりふし)近くに居合わせながら看過(みすぐ)した隣村の甲乙を思うさま罵って居た。

七

田畑は勿論(もちろん)宅地(たくち)もとくに抵当(ていとう)に入り、一家中日傭(ひやとい)に出たり、おかみ自身(じしん)手織(ており)の木綿物(もめんもの)を負って売りあるいたこともあったが、要するに石山新家の没落は眼の前に見えて来た。「お広さん、大層(たいそう)精(せい)が出ますね」久さんが挽く肥車の後押して行くおかみを目がけて人が声をかけると、「天狗様(てんごうさま)の様に働くのさ」とおかみが答えたりしたのは、昔の事になった。おかみは一切稼ぎを廃(よ)した。而して時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装(なり)をして親分と東京に往った。家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前(きまえ)を見せて素手では帰さなかった。彼女は癌腫の様な石山新家を内から吹き飛ばすべき使命を帯びて居るかの様に不敵(ふてき)であった。

*

到頭腫物(しゅもつ)が潰(つぶ)れる時が来た。

おかみは独で肝煎(きもい)って、家を近在(きんざい)の人に、立木(たちき)を隣字の大工に売り、抵当に入れた宅地を取戻(とりもど)して隣の辰爺さんに売り、大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後、一人残った腫れぼったい瞼(まぶた)をした末の息子を近村の人に頼み、唯一つ残った木小屋を売り飛ばし、而して最早師匠の手を離れて独立して居る按摩の亥之吉(いのきち)と間借(まが)りして住む可く東京へ往って了うた。

酒好きの老母と唖の巳代吉は、家が売れる頃は最早本家へ帰って居た。

嬶(かか)に置去られ、家になくなられ、地面に逃げられ、置いてきぼりを喰(く)って一人木小屋に踏み留まった久さんも、是非なく其姉と義兄の世話になるべく、頬冠(ほおかむり)の頭をうな垂れて草履(ぞうり)ぼと/\懐手(ふところで)して本家に帰った。

屋敷のあとは鋤(す)きかえされて、今は陸稲(おかぼ)が緑々(あおあお)と茂って居る。

わかれの杉

彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡(ちんじゅはちまん)である。型の通りの草葺の小宮(こみや)で、田圃(たんぼ)を見下ろして東向きに立って居る。

月の朔(ついたち)には、太鼓が鳴って人を寄せ、神官が来て祝詞(のりと)を上げ、氏子(うじこ)の神々達が拝殿に寄って、メチールアルコールの沢山(たくさん)入(はい)った神酒を聞召し、酔って紅くなり給う。春の雹祭(ひょうまつり)、秋の風祭(かざまつり)は毎年の例である。彼が村の人になって六年間に、此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽(ひるかぐら)が一度あった。入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事(よりあいごと)があれば、天候季節の許す限りは此処の拝殿(はいでん)でしたものだ。乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、つい昨年になって拝殿に格子戸(こうしど)を立て、締(しま)りをつけた。内務省のお世話が届き過ぎて、神社合併が兎(と)の、風致林(ふうちりん)が角(こう)のと、面倒な事だ。先頃も雑木(ぞうき)を売払って、あとには杉か檜苗(ひのきなえ)を植えることに決し、雑木を切ったあとを望の者に開墾(かいこん)させ、一時豌豆や里芋を作らして置いたら、神社の林地なら早々(そうそう)木を植えろ、畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、其筋から脅(おど)されたので、村は遽(あわ)てゝ総出で其部分に檜苗を植えた。

粕谷八幡はさして古(ふる)くもないので、大木と云う程の大木は無い。御神木と云うのは梢(うら)の枯(か)れた杉の木で、此は社(やしろ)の背(うしろ)で高処だけに諸方から目標(めじるし)になる。烏がよく其枯れた木末(こずえ)にとまる。

別れの杉
別れの杉

宮から阪の石壇(いしだん)を下りて石鳥居を出た処に、また一本百年あまりの杉がある。此杉の下から横長い田圃(たんぼ)がよく見晴される。田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋(いしばし)を渡り、東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干(らんかん)無しの石橋を渡り、やがて二つに分岐(ぶんき)して、直な方は人家の木立の間を村に隠(かく)れ、一は人家の檜林に傍(そ)うて北に折れ、林にそい、桑畑(くわばたけ)にそい、二丁ばかり往って、雑木山の端(はし)からまた東に折れ、北に折れて、六七丁往って終に甲州街道に出る。此雑木山の曲(まが)り角(かど)に、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。

村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下(した)に立って色々の人を送った。彼(かの)田圃を渡(わた)り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで目送(もくそう)した人も少くはなかった。中には生別(せいべつ)即(そく)死別(しべつ)となった人も一二に止まらない。生きては居ても、再び逢(あ)うや否疑問の人も少くない。此杉は彼にとりて見送(みおくり)の杉、さては別れの杉である。就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。

其は小説寄生木(やどりぎ)の原著者篠原良平の小笠原(おがさわら)善平(ぜんぺい)である。明治四十一年の三月十日は、奉天決勝(ほうてんけっしょう)の三週年。彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、三年前の前々日(ぜんぜんじつ)であった。三月十日は朝からちら/\雪が降って、寒い寂(さび)しい日であった。突然彼小笠原は来訪した。一年前、此家の主人(あるじ)は彼小笠原に剣を抛(なげう)つ可く熱心(ねっしん)勧告(かんこく)したが、一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙(えこ)情実に愛想(あいそう)をつかし疳癪(かんしゃく)を起して休職願を出し、北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語(ろご)をやろうと云って居た。陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。雪は終日降り、夜すがら降った。主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反覆(はんぷく)討論(とうろん)した。而して共に六畳に枕(まくら)を並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。

明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。まだ綿の様(よう)な雪がぼったり/\降って居る。此辺では珍らしい雪で、一尺の上(うえ)積(つも)った。彼小笠原は外套の頭巾(ずきん)をすっぽりかぶって、薩摩下駄をぽっくり/\雪に踏(ふ)み込みながら家(うち)を出(で)て往った。主は高足駄を穿(は)き、番傘(ばんがさ)をさして、八幡下別れの杉まで送って往った。

「じゃァ、しっかりやり玉(たま)え」

「色々お世話でした」

傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、また一しきり烈(はげ)しく北から吹きつくる吹雪(ふぶき)の中を、黒い外套姿が少し前俛(まえこご)みになって、一足ぬきに歩いて行く。第一の石橋を渡る。やゝあって第二の石橋を渡る。檜林について曲る。段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、一本檜の処まで来ると、見かえりもせず東へ折(お)れて、到頭(とうとう)見えなくなってしもうた。

半歳(はんとし)の後、彼は郷里の南部(なんぶ)で死んだ。

漢人の詩に、

歩出(ほしていづ)城東門(じやうとうのもん)、     遙望(はるかにのぞむ)江南路(こうなんのみち)、

前日(ぜんじつ)風雪中(ふうせつのうち)、     故人(こじん)従此去(これよりさる)、

別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。

白

一

彼の前生は多分(たぶん)犬(いぬ)であった。人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程可愛(かあい)いものを知らぬ。子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、裾(すそ)は喰(く)いさかれ、其様(そん)なに着物を汚すならわたしは知らぬと母に叱(しか)られても、また走り出ては犬と狂うた。犬の為には好きな甘(うま)い物(もの)も分けてやり、小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半(よなか)にも起きて見た。明治十年の西郷戦争(さいごうせんそう)に、彼の郷里の熊本は兵戈(へいか)の中心となったので、家を挙(あ)げて田舎に避難したが、オブチと云う飼犬のみは如何しても家(うち)を守って去らないので、近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。三月程して熊本城の包囲が解け、薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、オブチは彼の家に陣(じん)どった薩摩健男(さつまたけお)に喰われてしまって、頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。彼の絶望と落胆は際限が無かった。久しぶりに家(うち)に還(かえ)って、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯哭(なげ)いた。南洲(なんしゅう)の死も八千の子弟の運命も彼には何(なん)の交渉もなく、西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。

村入して間もなく、ある夜先家主(せんやぬし)の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。二子の渡(わたし)の近所から貰って来たと云う。鼻尖(はなさき)から右の眼にかけ茶褐色の斑(ぶち)がある外は真白で、四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前(きまえ)鷹揚(おうよう)に、坊ちゃんと云った様な小犬である。既に近所からもらった黒い小犬もあるので、二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、到頭貰うことにした。今まで畳(たたみ)の上に居たそうな。早速(さっそく)畳に放尿(いばり)して、其晩は大きな塊(かたまり)の糞を板の間にした。

新来の白(しろ)に見かえられて、間もなく黒(くろ)は死に、白の独天下となった。畳から地へ下ろされ、麦飯(むぎめし)味噌汁(みそしる)で大きくなり、美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。雄(おす)であったが、雌(めす)の様な雄であった。

主夫妻(あるじふさい)が東京に出ると屹度跟(つ)いて来る。甲州(こうしゅう)街道(かいどう)を新宿へ行く間(あいだ)には、大きな犬、強い犬、暴(あら)い犬、意地悪い犬が沢山居る。而してそれを嗾(け)しかけて、弱いもの窘(いじ)めを楽む子供もあれば、馬鹿な成人(おとな)もある。弱い白は屹度咬(か)まれる。其れがいやさに隠れて出る様(よう)にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。而して咬まれる。悲鳴をあげる。二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥(む)き出す。己れより小さな犬にすら尾を低(た)れて恐れ入る。果ては犬の影され見れば、己(われ)ところんで、最初から負けてかゝる。それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。最早(もう)懲(こ)りたろうと思うて居ると、今度出る時は、又候(またぞろ)跟いて来る。而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫(かし)の木の下にぐったり寝ながら、夢中で走るかの様に四肢(しし)を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。

弱くても雄は雄である。交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、村内唯一の牝犬(めいぬ)の許(もと)に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、床の下に三日潜(もぐ)り込んで居たのであった。武智十次郎ならねども、美しい白が血だらけになって、蹌踉(よろよろ)と帰って来る姿を見ると、生殖の苦を負(お)う動物の運命を憐まずには居られなかった。一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。美しいポインタァ種の黒犬で、家の人が見廻(みまわ)りして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲(まわり)を巡視し、夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。其犬がぶらりと遊びに来た。而して主人(しゅじん)に愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸(すえくび)で、甚(はなはだ)固くなって居た。牝犬はやがて往きかけた。白は纏綿(てんめん)として後になり先きになり、果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、媒妁(なかだち)して下さいと云い貌(がお)にクンクン鳴いたが、主人はもとより如何ともすることが出来なかった。

其秋白の主人(あるじ)は、死んだ黒のかわりに彼(かの)牝犬の子の一疋をもらって来て矢張(やはり)其(そ)れを黒と名づけた。白は甚(はなはだ)不平(ふへい)であった。黒を向うに置いて、走りかゝって撞(どう)と体当(たいあた)りをくれて衝倒(つきたお)したりした。小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由に動(うご)けぬ処にもぐり込んで、其処(そこ)から白に敵対して吠えた。然し両雄(りょうゆう)並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。而(しか)して再(ふたた)び白の独天下になった。可愛(かあい)がられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、鈍(どん)の性質はいよ/\鈍になった。よく寝惚(ねぼ)けて主人(しゅじん)に吠えた。主人と知ると、恐れ入って、膝行頓首(しっこうとんしゅ)、亀(かめ)の様に平太張りつゝすり寄って詫(わ)びた。わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭(へいしんていとう)して恐る/\すり寄って来る。頭を撫でると、其手を軽く啣(くわ)えて、衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息(ためいき)をついた。

二

死んだ黒(くろ)の兄(あに)が矢張黒と云った。遊びに来ると、白(しろ)が烈しく妬(ねた)んだ。主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日(しゅうじつ)影を見せぬことがあった。

甲州(こうしゅう)街道(かいどう)に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。坊ちゃんの白を一方(ひとかた)ならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐ咬(か)んだ。ある時、裏の方で烈(はげ)しい犬の噛み合う声がするので、出(で)て見ると、黒と白とが彼天狗(てんぐ)犬(いぬ)を散々(さんざん)咬んで居た。元来平和な白は、卿(おまえ)が意地悪だからと云わんばかり恨(うら)めしげな情なげな泣き声をあげて、黒と共に天狗犬に向うて居る。聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立(さかだ)てゝ、甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送(みおく)った。

其後白と黒との間に如何(どん)な黙契が出来たのか、白はあまり黒の来遊(らいゆう)を拒まなくなった。白を貰(もら)って来てくれた大工が、牛乳(ぎゅうにゅう)車(ぐるま)の空箱を白の寝床に買うて来てくれた。其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうって納(おさ)まって居ることもあった。界隈(かいわい)に野犬(やけん)が居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻(いなずま)強盗(ごうとう)の如く横行し、夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。雨戸(あまど)引きあけると、何ものか影の如く走(は)せ去(さ)った。白は後援を得てやっと威厳(いげん)を恢復し、二足三足あと追(おい)かけて叱(しか)る様に吠えた。野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。其様な事が二三度もつゞいた。其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。一夜(いちや)庭先(にわさき)で大騒ぎが起った。飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆(きたい)であった。

白と黒は大の仲好(なかよし)になって、始終共に遊んだ。ある日近所の与右衛門(よえもん)さんが、一盃機嫌で談判(だんぱん)に来た。内の白と彼(かの)黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎が畑(はたけ)の大豆を散々踏み荒したと云うのである。如何して呉(く)れるかと云う。仕方が無いから損害を二円払うた。其後黒の姿はこっきり見えなくなった。通りかゝりの武太(ぶた)さんに問うたら、与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さん家(とこ)では余儀なく作男(さくおとこ)に黒を殺させ、作男が殺して煮(に)て食うたと答えた。うまかったそうです、と武太さんは紅い齦(はぐき)を出してニタ/\笑った。

ある日見知らぬかみさんが来て、此方(こちら)の犬に食われましたと云って、汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏(しゃも)の頭と足を二本出して見せた。内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、確に此方の犬と認(みと)めたのかときいたら、かみさんは白い犬だった、聞けば粕谷(かすや)に悪(わり)イ犬が居るちゅう事だから、其(そ)れで来たと云うのだ。折よく白が来た。かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。然し新参者(しんざんもの)の弱身で、感情を傷(そこな)わぬ為兎(と)に角(かく)軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。彼(かれ)は斯様な出金を東京税(とうきょうぜい)と名づけた。彼等はしば/\東京税を払うた。

白の頭上には何時となく呪咀(のろい)の雲がかゝった。黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪(しょうわる)の天狗犬と交る様になった。天狗犬に嗾(そそのか)されて、色々の悪戯も覚えた。多くの犬と共に、近在(きんざい)の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。遅鈍な白(しろ)は、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、其着物(きもの)の著(いちじる)しい為に認められたのかも知れなかった。其内村の収入役の家で、係蹄(わな)にかけて豚とりに来た犬を捕ったら、其れは黒い犬だったそうで、さし当(あた)り白の冤は霽(は)れた様(よう)なものゝ、要するに白の上に凶(あし)き運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗い翳(かげ)を作った。

到頭白の運命の決する日が来た。隣家(りんか)の主人が来て、数日来猫が居なくなった、不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。貴家(おうち)の白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。

最早詮方は無い。此まゝにして置けば、隣家は宥(ゆる)してくれもしようが、必(かならず)何処(どこ)かで殺さるゝに違いない。折も好し、甲州(こうしゅう)の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。白の主人は夏の朝早く起きて、赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪(おぎくぼ)の停車場(ていしゃば)まで牽(ひ)いて往った。千歳村(ちとせむら)に越した年の春もろうて来て、この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。田圃を通って、雑木山(ぞうきやま)に入る岐(わか)れ道まで来た時、主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙(はるか)に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟(つ)いて来た。停車場前の茶屋で、駄菓子(だがし)を買うてやったが、白は食(く)おうともしなかった。貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。

三

最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家(うち)から約四里甲府(こうふ)の停車場まで帰路(きろ)を探がしたと云う事を報じた。然(しか)し甲府からは汽車である。甲府から東へは帰り様がなかった。

赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。眼尻が少し下(さが)って、口をあんとあいたところは、贔屓目(ひいきめ)にも怜悧な犬ではなかった。然し赤沢君の村は、他(ほか)に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。

*

白が甲州に養(やしな)われて丁度一年目の夏、旧主人(きゅうしゅじん)夫妻(ふさい)は赤沢君を訪ねた。其(その)家(うち)に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。喫驚(びっくり)する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。「白」と声をかくるより早く、土足(どそく)で座敷に飛び上り、膝行(しっこう)匍匐(ほふく)して、忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。其日は始終(しじゅう)跟(つ)いてあるき、翌朝山の上の小舎(こや)にまだ寝て居ると、白は戸の開(あ)くや否飛び込んで来て、蚊帳(かや)越(ご)しにずうと頭をさし寄せた。帰(かえ)りには、予め白を繋(つな)いであった。別(わかれ)に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。而(しか)して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋(とうりんきょう)の辺まで、白(しろ)は彼等の足跡を嗅(か)いで廻(まわ)って、大騒ぎしたと云うことであった。

翌年の春、夫妻は二たび赤沢君(あかざわくん)を訪うた。白は喜のあまり浮かれて隣家(りんか)の鶏を追廻し、到頭一羽を絶息させ、而(しか)して旧主人(きゅうしゅじん)にまた損害を払わせた。

其(その)後(のち)白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。笛吹川(ふえふきがわ)未曾有(みそう)の出水で桃林橋が落ちた。防水護岸の為一村(いっそん)の男総出で堤防に群(むら)がって居ると、川向うの堤に白いものゝ影が見えた。其は隣郡に遊びに往って居た白であった。白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、白は向うの堤を川上へ凡(およそ)二丁ばかり上ると、身を跳(おど)らしてざんぶとばかり濁流、箭の如(ごと)き笛吹川に飛び込んだ。あれよ/\と罵(ののし)り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、斜に洪水の川を游(およ)ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉(いっせい)に喝采の声をあげた。弱い彼にも猟犬(りょうけん)即(すなわ)ち武士の血が流れて居たのである。

白に関する最近の消息は斯(こ)うであった。昨春(さくしゅん)当時(とうじ)の皇太子殿下今日の今上陛下(きんじょうへいか)が甲州御出の時、演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。其(その)時(とき)吠(ほ)えたりして貴顕に失礼(しつれい)があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。主人が拘束されなかったのはまだしもであった。

四

白の旧主(きゅうしゅ)の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、其息子が甘藷売りに往った帰りに神田の青物問屋からテリアル種(しゅ)の鼠(ねずみ)程(ほど)な可愛い牝犬(めいぬ)をもらって来てくれた。ピンと名をつけて、五年来(ごねんらい)飼うて居る。其子孫も大分界隈(かいわい)に蕃殖した。一昨年から押入婿(おしいりむこ)のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。昨秋からは追うても捨(す)てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来(ふうらい)の牝犬も居る。然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。

白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。甲州に往って十年です。村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。「白」は幸福な犬です。

大正十二年二月九日追記

ほおずき

一

其頃は女中も居ず、門にしまりもなかった。一家(いっか)総出(そうで)の時は、大戸を鎖(さ)して、ぬれ縁の柱に郵便箱をぶら下げ、

○○行

夕方(若くは明午○)帰る

御用の御方は北隣(きたどなり)△△氏へ御申残しあれ

小包も同断

月日  氏名

斯く張札(はりふだ)して置いた。稀には飼犬を縁先(えんさ)きの樫の木に繋(つな)いで置くこともあったが、多くは郵便箱に留守をさした。帰って見ると、郵便箱には郵便物の外、色々な名刺や鉛筆書きが入れてあったり、主人(しゅじん)が穿(は)きふるした薩摩下駄を物数寄(ものずき)にまだ真新(まあたら)しいのに穿きかえて行(い)く人なぞもあった。ノートを引きちぎって、斯様なものを書いたのもあった。

君を尋ねて草鞋(わらぢ)で来れば

君は在(いま)さず唯犬ばかり

縁に腰かけ大きなあくび

中で時計が五時をうつ

明治四十一年の新嘗祭の日であった。東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、玉川に遊びに往った。子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児(むすめ)と共に、つい其前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車(しょうにぐるま)を押して、星光を踏みつゝ野路(のじ)を二里くたびれ果てゝ帰宅した。

隣家の女児と門口で別れて、まだ大戸も開けぬ内、二三人の足音と車の響が門口に止まった。車夫が提灯の光に、丈高い男がぬっと入って来(き)た。つゞいて女が入って来た。

「僕が滝沢です、手紙を上げて置(お)きましたが……」

其様(そん)な手紙は未だ見なかったのである。来意(らいい)を聞けば、信州の者で、一晩(ひとばん)御厄介(ごやっかい)になりたいと云うのだ。主人は疲れて大にいやであったが、遠方から来たものを、と勉強して兎に角戸をあけて内に請(しょう)じた。吉祥寺(きちじょうじ)から来たと云う車夫は、柳行李(やなぎごうり)を置いて帰った。

二

ランプの明(あか)りで見れば、男は五分刈(ごぶがり)頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷(まるまげ)に結って居る。主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物(みやげもの)を取出し主人夫妻(しゅじんふさい)の前にならべた。葡萄液一瓶(ひとびん)、「醗酵(はっこう)しない真の葡萄汁(ぶどうしる)です」と男が註を入れた。杏(あんず)の缶詰が二個。「此はお嬢様に」と婦人が取出(とりだ)したのは、十七八ずつも実(な)った丹波酸漿(たんばほおずき)が二本。いずれも紅(あか)いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。「まあ見事(みごと)な」と主婦が歎美の声を放つ。「私の乳母(うば)が丹精(たんせい)して大事に大事に育てたのです」と婦人が誇(ほこ)り貌(が)に口を添えた。二つ三つ語を交(か)わす内に、男は信州、女は甲州の人で、共に耶蘇信者(やそしんじゃ)、外川先生の門弟、此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。畑の仕事でも明日(あした)は少し御手伝しましょうと男が云えば、台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。

兎に角飯(めし)を食うた。飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。「そう、余程痛みますか」と女が憂(うれ)わしそうにきく。「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好(いけな)かった」と男が云う。此大きな無遠慮な吾儘坊(わがままぼっ)ちゃんのお客様の為に、主婦は懐炉(かいろ)を入れてやった。大分(だいぶ)落(おち)ついたと云う。晩(おそ)くなって風呂が沸(わ)いた。まあお客様からと請(しょう)じたら、「私も一緒に御免蒙りましょう」と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。寝(ね)ると云っても六畳二室の家、唐紙一重に主人組(しゅじんぐみ)は此方(こち)、客は彼方(あち)と頭(あたま)突(つ)き合わせである。無い蒲団を都合(つごう)して二つ敷いてやったら、御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。

三

明くる日、男は、「私共は二食で、朝飯(あさめし)を十時にやります。あなた方はお構(かま)いなく」と何方(どち)が主やら客やら分(わ)からぬ事を云う。其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、主人は男を連れて出た。

畠仕事(はたけしごと)をして居る百姓の働き振を見ては、まるで遊んでる様ですな、と云う。彼(かれ)は生活の闘烈しい雪の山国(やまぐに)に生れ、彼自身も烈しい戦の人であった。彼は小学教員であった。耶蘇を信ずる為に、父から勘当(かんどう)同様(どうよう)の身となった。学校でも迫害を受けた。ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖(さしづえ)を取ると、突然(いきなり)劇(はげ)しく先生たる彼の背(せなか)を殴(なぐ)った。彼は徐(しずか)に顧みて何を為(す)ると問うた。其(その)生徒は杖を捨てゝ涙を流し、御免下(ごめんくだ)さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、と跪(ひざまず)いて詫(わ)びた。彼は其生徒を賞(ほ)めて、辞退するのを無理に筆を三本褒美(ほうび)にやった。

斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。落花生が炙(い)れて居る。「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」と云うて女が炙ったのそうな。主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。

女は甲州の釜無川(かまなしがわ)の西に当る、ある村の豪家の女(むすめ)であった。家では銀行などもやって居た。親類内(しんるいうち)に嫁に往ったが、弟が年若(としわか)なので、父は彼女夫妻を呼んで家(うち)の後見をさした。結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目(よそめ)には模範的夫婦と見られた。良人(おっと)はやさしい人で、耶蘇(やそ)教信者で、外川先生の雑誌の読者であった。彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州(しんしゅう)の一男子の文章を読んで、其熱烈な意気は彼女の心を撼(うご)かした。其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。何時(いつ)となく彼女と彼の間に無線電信(むせんでんしん)がかゝった。手紙の往復がはじまった。其内良人は病気になって死んだ。死ぬる前、妻(つま)に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。一年程過ぎた。彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。而して彼女の家では、父死し、弟は年若(としわか)ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、彼女は到頭(とうとう)家(うち)を脱け出して信州の彼が許(もと)に奔(はし)ったのである。

*

朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内(みちしるべ)かた/″\柳行李を負(お)わせてやることにした。

彼は尻をからげて、莫大小(めりやす)の股引(ももひき)白足袋(しろたび)に高足駄をはき、彼女は洋傘(こうもり)を杖(つえ)について海松色(みるいろ)の絹天(きぬてん)の肩掛(かたかけ)をかけ、主婦に向うて、

「何卒(どうぞ)覚(おぼ)えて居て下さい、覚えて居て下さい」

と幾回も繰り返して出て往った。主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

四

一年程過ぎた。

此世から消え失せたかの様に、二人の消息(しょうそく)ははたと絶えた。

「如何(どう)したろう。はがき位はよこしそうなものだな」

主人夫妻は憶(おも)い出(だ)す毎(たび)に斯く云い合った。

丁度(ちょうど)満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日(いちにち)一夜(いちや)を忘れなかった、と書いてある。

吁(ああ)彼女は死んだのか。友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言(いちごん)を言葉通り実行して恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、決して百花園中(ひゃっかえんちゅう)のそゞろあるきではあるまい、とは期(ご)して居たが、彼女は早くも死んだの乎。

聞(き)きたいのは、沈黙の其一年の消息である。知りたいのは、其(その)死(し)の状(さま)である。

*

あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から彼女に関する消息の一端を知ることを得た。

彼等夫妻は千曲川(ちくまがわ)の滸(ほとり)に家をもち、養鶏(ようけい)などやって居た。而して去年(きょねん)の秋の暮、胃病(いびょう)とやらで服薬して居たが、ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加(つけくわ)えた。

*

某氏はまた斯様(こん)な話をした。亡くなった彼女は、思い切った女であった。人の為に金でも出す時は己が着類(きるい)を質入(しちい)れしたり売り払ったりしても出す女であった。彼女の前夫(ぜんふ)は親類仲で、慶応義塾出の男であった。最初は貨殖を努めたが、耶蘇(やそ)を信じて外川先生の門人となるに及んで、聖書の教を文句通(もんくどお)り実行して、決して貸した金の催促をしなかった。其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸(ならずもの)等が借金に押しかけ、数千円は斯くして還らぬ金となった。彼の家には精神病の血があった。彼も到頭遺伝病に犯された。其為彼の妻は彼と別居した。彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者の家(うち)に時々来ては、妻を呼び出してもろうて逢うた。彼の臨終の場にも、妻は居なかった。此時彼女の魂はとく信州にあったのである。彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。実家の母が瞋(いか)ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。然し其前彼女は実家に居る時から追々(おいおい)に金を信州へ送り、千曲川の辺の家(うち)も其れで建てたと云うことであった。

*

彼夜彼女が持(も)て来てくれたほおずきは、あまり見事(みごと)なので、子供にもやらず、小箪笥(こだんす)の抽斗(ひきだし)に大切にしまって置いたら、鼠が何時の間にか其(その)小箪笥を背(うしろ)から噛破って喰ったと見え、年(とし)の暮(くれ)に抽斗をあけて見たら、中実(なかみ)無しのカラばかりであった。

年々(ねんねん)酸漿(ほおずき)が紅くなる頃になると、主婦はしみ/″\彼女を憶(おも)い出すと云うて居る。

碧色の花

色彩の中で何色(なにいろ)を好むか、と人に問われ、色彩について極めて多情な彼(かれ)は答に迷うた。

吾墓の色にす可き鼠色(ねずみいろ)、外套に欲しい冬の杉の色、十四五の少年を思わす落葉松の若緑(わかみどり)、春雨を十分に吸うた紫(むらさき)がかった土の黒、乙女の頬(ほお)に匂(にお)う桜色、枇杷バナナの暖かい黄、檸檬(れもん)月見草(つきみそう)の冷たい黄、銀色の翅(つばさ)を閃かして飛魚の飛ぶ熱帯(ねったい)の海のサッファイヤ、ある時は其面に紅葉を泛(うか)べ或時は底深く日影金糸を垂(た)るゝ山川の明るい淵(ふち)の練(ね)った様な緑玉(エメラルド)、盛り上り揺(ゆ)り下ぐる岩蔭の波の下(した)に咲く海アネモネの褪紅(たいこう)、緋天鵞絨(ひびろうど)を欺く緋薔薇(ひばら)緋芥子(ひげし)の緋紅、北風吹きまくる霜枯の野の狐色(きつねいろ)、春の伶人(れいじん)の鶯が着る鶯茶、平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠(はとはねずみ)、高山の夕にも亦やんごとない僧(そう)の衣にもある水晶にも宿(やど)る紫、波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも大理石にも樺(かば)の膚(はだ)にも極北の熊の衣にもなるさま/″\の白(しろ)、数え立つれば際限(きり)は無い。色と云う色、皆(みな)好(す)きである。

然しながら必其一を択(えら)まねばならぬとなれば、彼は種として碧色を、度(ど)として濃碧(のうへき)を択ぼうと思う。碧色――三尺の春の野川(のがわ)の面(おも)に宿るあるか無きかの浅碧(あさみどり)から、深山の谿(たに)に黙(もだ)す日蔭の淵の紺碧(こんぺき)に到るまで、あらゆる階級の碧色――其碧色の中でも殊(こと)に鮮(あざ)やかに煮え返える様な濃碧は、彼を震いつかす程の力を有(も)って居る。

高山植物の花については、彼は呶々(どど)する資格が無い。園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。西洋草花(せいようくさばな)にはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。春竜胆(はるりんどう)、勿忘草(わすれなぐさ)の瑠璃草も可憐な花である。紫陽花(あじさい)、ある種の渓蓀(あやめ)、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。秋には竜胆(りんどう)がある。牧師の着物を被た或詩人は、嘗(かつ)て彼の村に遊びに来て、路に竜胆の花を摘(つ)み、熟々(つくづく)見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。露の乾(ひ)ぬ間(ま)の朝顔は、云う迄もなく碧色を要素(ようそ)とする。それから夏の草花には矢車草がある。舶来種のまだ我(わが)邦土(ほうど)には何処やら居馴染(いなじ)まぬ花だが、はらりとした形も、深(ふか)い空色も、涼しげな夏の花である。これは園内(えんない)に見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑の黄(き)ばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗ってトルストイ翁(おう)のヤスナヤ、ポリヤナに赴(おもむ)く時、朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮(こうふん)とで熱病患者の様であった彼の眼にも、花の空色は不思議に深い安息(いこい)を与えた。

夏には更(さら)に千鳥草(ちどりそう)の花がある。千鳥草、又の名は飛燕草。葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様な状(さま)をして居る。園養(えんよう)のものには、白、桃色、また桃色に紫の縞(しま)のもあるが、野生の其(そ)れは濃碧色(のうへきしょく)に限られて居る様だ。濃碧が褪(うつろ)えば、菫色(すみれいろ)になり、紫になる。千鳥草と云えば、直ぐチタの高原が眼に浮ぶ。其れは明治三十九年露西亜の帰途(かえり)だった。七月下旬、莫斯科(もすくわ)を立って、イルクツクで東清鉄道の客車に乗換え、莫斯科を立って十日目(とおかめ)にチタを過ぎた。故国を去って唯四ヶ月、然しウラルを東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。イルクツクで乗換(のりか)えた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。イルクツクから一駅毎に支那人を多く見た。チタでは殊(こと)に支那人が多く、満洲(まんしゅう)近い気もち十分(じゅうぶん)であった。バイカル湖(こ)から一路上って来た汽車は、チタから少し下りになった。下り坂の速力早く、好い気もちになって窓から覗(のぞ)いて居ると、空にはあらぬ地の上の濃い碧色(へきしょく)がさっと眼に映(うつ)った。野生千鳥草の花である。彼は頭を突出して見まわした。鉄路の左右、人気も無い荒寥(こうりょう)を極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧(のうへき)の其花が、今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いて紫(むらさき)がかったり、まだ蕾(つぼ)んだり、何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。窓に凭(もた)れた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。

然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れに優(ま)した美しい碧色を知らぬ。つゆ草、又の名はつき草、螢草(ほたるぐさ)、鴨跖草(おうせきそう)なぞ云って、草姿(そうし)は見るに足らず、唯二弁より成(な)る花は、全き花と云うよりも、いたずら子に挘(むし)られたあまりの花の断片か、小さな小さな碧色の蝶(ちょう)の唯(ただ)かりそめに草にとまったかとも思われる。寿命も短くて、本当に露の間である。然も金粉(きんふん)を浮べた花蕊(かずい)の黄(き)に映発(えいはつ)して惜気もなく咲き出でた花の透(す)き徹(とお)る様な鮮(あざ)やかな純碧色は、何ものも比(くら)ぶべきものがないかと思うまでに美しい。つゆ草を花と思うは誤(あやま)りである。花では無い、あれは色に出た露の精(せい)である。姿脆(もろ)く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那(せつな)の天の消息でなければならぬ。里のはずれ、耳無地蔵の足下(あしもと)などに、さま/″\の他の無名草(ななしぐさ)醜草(しこぐさ)まじり朝露を浴びて眼がさむる様(よう)に咲いたつゆ草の花を見れば、竜胆(りんどう)を讃(ほ)めた詩人の言を此にも仮(か)りて、青空の灝気(こうき)滴(したた)り落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地に甦(よみがえ)らせるつゆ草よ、地に咲く天の花よと讃(たた)えずには居られぬ。「ガリラヤ人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬ間(ま)に蹂(ふ)みにじる。

碧色の草花として、つゆ草は粋(すい)である。

おぼろ夜

早夕飯のあと、晩涼(ばんりょう)に草とりして居た彼は、日は暮れる、ブヨは出る、手足を洗うて上ろうかとぬれ縁に腰かけた。其時門口から白いものがすうと入って来た。彼はじいと近づくものを見て居たが、

「あゝM君(くん)ですか」

と声(こえ)をかけた。

其は浴衣の着流(きなが)しで駒下駄を穿(は)いたM君であった。M君は早稲田(わせだ)中学の教師で、かたわら雑誌に筆を執って居る人である。彼が千歳村に引越したあくる月、M君は雑誌に書く料(りょう)に彼の新生活を見に来た。丁度(ちょうど)樫苗(かしなえ)を植えて居たので、ろく/\火の気の無い室に二時間も君を待たせた。君は慍(いか)る容子もなく徐(しずか)に待って居た。温厚な人である。其れから其年の夏、月の好(い)い一夜(いちや)、浴衣の上に夏羽織など引かけて、ぶらりと尋ねて来た。M君は綱島(つなしま)梁川(りょうせん)君(くん)の言として、先ず神を見なければ一切の事悉く無意義だ、神を見ずして筆を執るなぞ無用である、との説に関し、自身の懊悩(おうのう)を述べ、自分の様な鈍根の者は、一切を抛擲(ほうてき)して先ず神を見る可く全力を傾注する勇気が無い、と嘆息して帰った。

其後久しく消息を聞かなかったが、今夜一年ぶりに突然君は来訪したのであった。

君の所要は、先月茅(ち)ヶ崎(さき)で物故した一文士に関する彼の感想を聞くにあった。彼は故人について取りとめもない話をした。故人と彼とは同じ新聞社の編輯局(へんしゅうきょく)に可なり久しく居たのであったが、故人は才華発越、筆をとれば斬新警抜(ざんしんけいばつ)、話をすれば談論火花を散らすに引易え、彼はわれながらもどかしくてたまらぬ程の迂愚(うぐ)、編輯局の片隅に猫の如く小さくなって居たので、故人と心腹を披(ひら)いて語る機会もなく、故人の方には多少の侮蔑(ぶべつ)あり、彼の方には多少の嫉妬(しっと)羨望(せんぼう)あり、身は近く心ははなれ/″\に住んだ。其後故人も彼も前後に新聞社を出て、おの/\自家(じか)の路を歩み、顔を見ること稀に、消息を聞かぬ日多く打過ぎた。然し彼は一度故人と真剣の話をしたいと久しく思うて居た。日露戦争の終った年の暮、彼は一の心的革命を閲(けみ)して、まさに東京を去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の雑沓(ざっとう)の中に故人を見出した。何処(どこ)ぞへ出かけるところと覚しく、茶色の中折(なかおれ)をかぶり、細巻の傘を持ち、瀟洒(さっぱり)した洋装をして居た。彼は驚いた様な顔をして居る故人を片隅(かたすみ)に引のけて、二分間の立話をした。彼は従来の疎隔(そかく)を謝し、自愛を勧め、握手して別れた。これが最始(さいし)の接近で、また最後の面会であった。

M君と彼の話は、故人の事から死生の問題に入った。心霊の交感、精神療法と、話は色々に移って往った。

彼等は久しく芝生の縁代(えんだい)で話した。M君が辞(じ)し去ったのは、夜も深(ふ)けて十二時近かった。

彼はM君を八幡下まで送って別れた。夏ながら春の様なおぼろ月、谷向うの村は朦朧(ぼんやり)とうち煙り、田圃(たんぼ)の蛙(かわず)の声も夢を誘う様なおぼろ夜である。

「それじゃ」

「失礼」

駒下駄の音も次第(しだい)に幽(かすか)になって、浴衣(ゆかた)姿(すがた)の白いM君は吸わるゝ様に靄(もや)の中に消えた。

*

其後ふっつりM君の消息を聞かなかったが、翌年(よくとし)ある日の新聞に、M君が安心(あんしん)を求む可く妻子を捨てゝ京都山科(やましな)の天華香洞(てんかこうどう)に奔(はし)った事を報じてあった。間もなく君は東京に帰って来たと見え、ある雑誌に君が出家の感想を見たが、やがて君が死去の報は伝えられた。

見神の一義に君は到頭(とうとう)精力(せいりょく)を傾注(けいちゅう)せずに居られなくなったのである。而(しか)して生涯の大事(だいじ)、生存の目的を果したので、君は軽く肉の衣(ころも)を脱いだのであろう。

ヤスナヤ、ポリヤナの未亡人へ

一

夫人(おくさん)。

私は夙(とく)に手紙を差上げねばならなかったのでした。実は幾回(いくたび)も幾回もペンを執(と)ったのでした。ペンを執りは執りながら、如何(どう)しても書くことが出来なかったのです。今日(きょう)、ビルコフさんの書いた故先生小伝の英訳を見て居ましたら、丁度先生の逝去(せいきょ)六週間前に撮影されたと云う先生とあなたの写真が出て居ました。熟々(つくづく)見て居る内に、私の眼は霞(かす)んで来ました。嗚呼ものが言いたい! 話がしたい! 然し先生は最早(もう)霊です。私の拙(まず)い言葉を仮(か)らずとも、先生と話すことが出来ます。書くならあなたに書かねばならぬ。そこで此手紙を書きます。私はうちつけに書きます。万事直截其ものでお出のあなたは、私が心底(しんそこ)から申すことを容(ゆる)して下さるだろうと思います。

二

何から申しましょうか。書く事があまり多い。最初先生の不可思議(ふかしぎ)な遽(にわ)かの家出を聞いた時、私は直ぐ先生の終が差迫(さしせま)って来た事を知りました。それで先生の訃(ふ)に接した時も、少しも驚きませんでした。勿論先生を愛する者にとっては、先生の最期は苦しい最期でした。何故(なぜ)先生は愛妻愛子愛女の心尽しの介抱(かいほう)の中に、其一片と雖も先生を吾有(わがもの)と主張し要求し得ぬものはない切っても切れぬ周囲の中に、穏(おだやか)に死なれる事が何故出来なかったでしょうか? 何故其生の晩景(ばんけい)になって、あわれなひとり者の死に様をする為に其温かな巣(す)からさまよい出られねばならなかったのでしょうか? 世故(せこ)を経尽(へつく)し人事を知り尽した先生が、何故其老年に際し、否(いや)墓に片脚(かたあし)下(おろ)しかけて、釈迦牟尼(しゃかむに)の其生の初に為(せ)られた処をされねばならなかったか? 世間は誰しも斯く驚き怪(あやし)みました。不相変主我的(しゅがてき)だと非難した者も少なくありませんでした。一風(いっぷう)変(かわ)った天才の気まぐれと笑ったのは、まだよい方かも知れません。先生もつらかったでしょう。然し夫人(おくさん)、悲痛の重荷は偏(ひとえ)にあなたの肩上に落ちました。あなたの経歴された処は、思うも恐ろしい。長い長い生涯の間、先生と棲(す)んで先生を愛されたあなたが、此世の旅の夕蔭(ゆうかげ)に、見棄てゝしまわれた様な姿になられようとは! 而(そう)してトルストイの邪魔物は此であると云った様に白昼(ひるひなか)世界の眼の前に曝(さら)しものになられようとは! 夫人、誰かあなたに同情をさゝげずに居られましょう乎。如何に頑固な先生の加担者(かとうど)でも、如何程苦(にが)り切ったあなたの敵対者(てきたいしゃ)でも、堪え難いあなたの苦痛と断腸(だんちょう)の悲哀(かなしみ)とは、其幾分を感ぜずに居られません。彼池の滸(ほと)りの一刹那(いっせつな)を思うては、戦慄(せんりつ)せずには居られません。

三

然し夫人、世に先生を非難する者の多かった様に、あなたを非難する者も少くありませんでした。白状します、私も其一人でした。トルストイと云う様な偉大な名は、世界の目標です。先生や先生の一家一門の所作(しょさ)は、万人の具(つぶさ)に瞻(み)る所、批評の的(まと)であります。そこで先生の哀(かな)しい最期前後の出来事は、如何様(どのよう)な微細な事までも、世界中の新聞雑誌に掲載されて、色々の評判を惹起(ひきおこ)しました。私は漏らさず其記事を見ました。無論誤報(ごほう)曲説(きょくせつ)も多かったでしょう。針小棒大(しんしょうぼうだい)の記事も沢山あったに違いありません。然し打明けて云えば、其記事については、私は非常に心を痛(いた)むる事が多かった。打明けて云えば、夫人、私はあなたに対して少からぬ不平があったのです。勿論白が弥(いや)白くなれば、鼠色(ねずみいろ)も純黒(まっくろ)に勢(いきおい)なる様なもので、故先生があまりに物的(ぶってき)自我(じが)を捨てようとせられた為、其反動の余勢であなたは実際以上に自己を主張されねばならぬ様なハメになられたこともありましょう。それでなくても、婦人は自然に物質的になる可き約束の下(もと)にあるのです。先生が産(さん)を治(おさ)むる事をやめられてから、一家の主人役に立たれたあなたが、児孫(じそん)の為に利益を計り権利を主張し、切々(せっせ)と生活の資を積む可く努められたのも、致方はないと云った様な御気の毒なわけで、あなたの方から云えば先生にこそ不平あれ、先生から不足を云われる事はない筈です。と、誰も然(そう)申しましょう。然し夫人、生計を立つると云うも、程度の問題です。あなたが家の為を思わるゝあまり、ノーベル賞金を辞された先生に不満を懐(いだ)かれたり、何万ルーブルの為に先生の声を蓄音器に入れさせようとしたり、其外種々仁人(じんじん)としても詩人としても心の富、霊の自由、人格の尊厳(そんげん)を第一位に置く霊活不覊(れいかつふき)なる先生の心を傷(いた)むるのは知れ切った事まで先生に強(しい)られたのは、あまりと云えば無惨(むざん)ではありますまいか。あなたはトルストイの名を其様(そんな)に軽いやすっぽいものに思ってお出なのでしょう乎。「吾未だ義人(ぎじん)の裔(すえ)の物乞いあるくを見し事なし」とソロモンは申しました。トルストイの妻は其(その)夫(おっと)をルーブルにして置かねばならぬ程貧しい者でしょう乎。トルストイの子女は、其父を食わねば生きられぬ程(ほど)腑甲斐(ふがい)ないものでしょう乎。私にはあなたがハズミに乗って機械的に為(せ)られたと思う外、ドウもあなたのお心持が分かりません。全く正気の沙汰とは思われかねるのです。莫斯科(モスクワ)の小店なぞに切々(せっせ)と売溜(うりだめ)の金勘定ばかりして居るかみさんのマシューリナ、カテーリナならいざ知らず、世界のトルストイの夫人の挙動(ふるまい)としては、よく云えばあまりに謙遜(けんそん)な、正(まさ)しく云えばあまりに信仰がない鄙(さもし)い話ではありますまい乎。私は先生の心中が思われて、つらくてなりません。昔先生が命をかけて惚(ほ)れられた美しい素直なソフィ嬢は、斯様(こん)な心の香(か)の褪(うつろ)った老伯爵夫人になってしまわれたのでしょう乎。其れから先生逝去(せいきょ)後の御家の挙動(ふるまい)は如何です? 私はしば/\叫びました、先生も先生だ、何故(なぜ)先生は彼様な烈しい最後(さいご)の手段を取らずに、犠牲となって穏(おだやか)に家庭に死ぬることが出来なかっただろう乎、あまりに我強(がづよ)い先生であると。然し此は先生がトルストイである事を忘れたからの叫びです。誰にでも其人相応(そうおう)の生き様(よう)があり、また其人相応の死に様があります。トルストイの様な人でトルストイの様な境遇にある者は、彼様な断末魔(だんまつま)が当然で且自然であります。少しも無理は無い。余人にあっては兎も角も、先生にあっては彼様(ああ)でなくては生の結末がつかぬのです。一切の人慾(じんよく)、一切の理想が恐ろしい火の如く衷(うち)に燃えて闘(たたこ)うた先生には、灰色(はいいろ)にぼかした生や死は問題の外なのです。あなたに対する真(しん)の愛から云うても、理想に対する操節(そうせつ)から云っても、出奔(しゅっぽん)と浪死(ろうし)は必然の結果です。仮に先生が其趣味主張を一切胸に畳(たた)んで、所謂家庭の和楽(わらく)の犠牲となって一個の好々翁(こうこうおう)として穏にヤスナヤ、ポリヤナに瞑目(めいもく)されたとして、先生は果してトルストイたり得たでしょう乎。其死が夫人(おくさん)、あなたをはじめとして全世界に彼様(あん)な警策(けいさく)を与えることが出来たでしょう乎。彼(あの)最後(さいご)彼臨終(りんじゅう)あるが為に、先生等身の著作、多年の言説に画竜(がりゅう)の睛(せい)を点(てん)じたのではありますまい乎。確に然です。トルストイは手軽に理想を実行してのける実行家では無い、然しトルストイは理想を賞翫(しょうがん)して生涯を終(おわ)る理想家で無い、トルストイは一切の執着(しゅうちゃく)煩悩(ぼんのう)を軽々に滑(すべ)り脱(ぬ)ける木石人で無い、然しトルストイは最後の一息を以ても其理想を実現すべく奔騰(ほんとう)する火の如き霊であると云う事が、墨黒(すみぐろ)の夜の空に火焔(かえん)の字をもて大書した様に読まるゝのです。獅子は久しく眼に見えぬ檻(おり)の中で獅子吼(ししく)をしたり、毬(まり)を弄(もてあそ)んだり、無聊(むりょう)に悶(もだ)えたりして居ましたが、最後に身を跳(おど)らして一躍(いちやく)檻外(らんがい)に飛び出で、万里の野に奔(はし)って自由の死を遂げました。惨(いた)ましく然も偉大なる死! 先生の死は、先生が最後の勝利でした。夫人、あなたは負けました。だからあなたの煩悶(はんもん)も、御家の沸騰(ふっとう)も起きたのです。但今は斯く思うものゝ、其当時私は思いました、先生は先生としても、何故あなたも令息令嬢達も黙って哀(かな)しんで居られることが出来なかったのでしょう乎。何故の彼(あの)諍論(そうろん)? 何故の彼喧嘩? 無論先生の出奔と死は、云わば爆裂弾(ばくれつだん)を投げたもので、あとの騒ぎが大きいのが自然であるし、また必要でもあるし、石が大きければ水煙も夥(おびただ)しいと云った様なもので、傍眼(わきめ)には醜態(しゅうたい)百出トルストイ家の乱脈(らんみゃく)と見えても、あなたの卒直(そっちょく)一剋(いっこく)な御性質から云っても、令息令嬢達の腹蔵(ふくぞう)なき性質から云っても、世界の目の前にある家の立場(たちば)から云っても、云うべき事は云わねばならず、弁難(べんなん)論諍(ろんそう)も致方はもとよりありますまい。苟且(かりそめ)の平和より真面目の争はまだ優(まし)です。但(ただ)私は先生の彼(あの)惨(いた)ましい死を余儀なくした其事情を思うに忍びず、また先生の墓上(ぼじょう)涙(なみだ)未(いま)だ乾かざるに家族の方々が斯く喧嘩(けんか)さるゝを見るに忍びなかったのであります。然し我々は人間です。人間として衝突は自然の約束であります。先生もよく/\思い込まるればこそ、彼死様(しによう)をされた。而(そう)して偽(いつわ)ることを得(え)為(せ)ぬトルストイ家の人々なればこそ、彼争(あらそい)もあったのでしょう。加之(それに)、承われば此頃では諸事(しょじ)円滑(えんかつ)に運んで居るとやら、愚痴(ぐち)は最早言いますまい。唯先生を中心として起った悲劇に因(よ)り御一同の大小(だいしょう)浅深(せんしん)さま/″\に受けられた苦痛から最好きものゝ生れ出でんことを信じ、且祷(いの)るのみであります。

四

勿論先生があなたを深く深く愛された事は、誰よりもあなたこそ御存じの筈(はず)。あなたを離れて出奔される時にも、先生はあなたを愛して居られた。否(いや)、深くあなたを愛さるればこそ先生は他人に出来ない事を苦痛を忍んで為(せ)られたのです。頗無理な言葉の様ですが、先生の家出の動機の重なる一が、あなたはじめ先生の愛さるゝ人達の済度(さいど)にあった事は決して疑はありません。人は石を玉と握ることもあれば、玉を石と抛(なげう)つ場合もあります。獅子は子を崖(がけ)から落します。我々の捨てるものは、往々我々にとって一番捨て難い宝(たから)なのです。先生にとって人の象(かたち)をとった一番の宝は、あなたでした。臨終の譫言(うわごと)にもあなたの名を呼ばれたのでも分かる。あなたは最後までも先生の恋人でした。あなたの為に先生は彼様(あん)な死をされた。あなたは衷心(ちゅうしん)に確にソレを知ってお出です。夫人、あなたは其深い深い愛の下(もと)に頭を低(た)れて下さることは出来ないのでしょう乎。人の霊魂は不覊(ふき)独立(どくりつ)なもの、肉体一世の結合は彼若(もし)くば彼女の永久の存在を拘束することは出来ないのですから、先生の生前、先生は先生の道、あなたはあなたの路(みち)を別々に辿(たど)られたのも致方は無いものゝ、先生が肉の衣(ころも)を脱がれた今日、私は金婚式でも金剛石婚式(こんごうせきこんしき)でもなく、第二の真の結婚が御両人(おふたり)の間に成就されん事を祈って已(や)まないのであります。悲哀(ひあい)を通して我々は浄(きよ)められるのです。苦痛を経由(けいゆ)して我々は智識に達するのです。敬愛する夫人よ、先生はあなたの良人御家族の父君で御出(いで)でしたが、また凡そ先生を信愛する者の総ての父でした。敬愛する夫人よ、あなたは今ヤスナヤ、ポリヤナ小王国(しょうおうこく)の皇太后で御出ですが、同時にあなたを識(し)る程の者の母君となられるのである事をお忘(わす)れなすってはなりません。夫人、御安心なさい、あなたにお目にかゝった程の者は、誰かあなたの真面目な而(そう)して勇敢な霊魂(たましい)を尊敬せぬ者がありましょう乎。誰かあなたの故先生に対する愛の助勢によって、人類に貢献された働(はたらき)を知らない者がありましょう乎。あなたがお出(いで)でなかったら、先生が果して彼(あの)偉大なトルストイと熟された乎、否乎(いなか)、分かりません。先生が不朽(ふきゅう)である如く、あなたも不朽です。あなたは曾(かつ)て自伝を書いて居ると云うお話でした。あれは著々(ちゃくちゃく)進行しつゝあることゝ思います。私は其面白かる可き頁(ページ)が覗(のぞ)きたくてなりません。出版されたら、種々分明する事があろうと思います。我々一同に対してあなたは楯(たて)の一面を示される義務があります。何卒(どうぞ)独得の真摯(しんし)と気力とをもてあなたの御言(おい)い分(ぶん)をお述べ下さい。我々一同其一日も早く出版されんことを待って居る者であります。

五

今日(きょう)は七月の三日です。七年前の丁度(ちょうど)今日は、ヤスナヤ、ポリヤナで御厚遇(ごこうぐう)を享(う)けて居ました。其折お目にかゝった方々や色々の出来事を、私は如何様(どんな)にはっきりと記憶して居るでしょう。正に今日でした、私は彼(あの)はなれからペンとインキを持ち出して、彼楓(かえで)の下の食卓に居られる皆さんの署名を記念の為に求めました。其手帳は今私の手近にあります。私は開(あ)けて見ました。皆(みな)在(ある)焉。先生のも、あなたのも、其他皆さんの手によって署せられた皆さんの名が歴々(れきれき)として其処にあります。インキもまだ乾かないかと思われるばかりです。然るに、想(おも)えば先生の椅子(いす)は最早(もう)永久に空しいのです。此頃は楓(かえで)の下の彼食卓も嘸(さぞ)淋(さび)しいことでしょう。私はマウド氏の先生の伝を見て、オボレンスキー公爵夫人マリーさんも、私がお目にかゝって間もなく死去された事を知りました。私はマリーさんが大好(だいす)きでした。最早あの方もホンの記憶になってしまわれたのです。先頃莫斯科(モスクワ)から帰って来られた小西君に面会しました。小西君は彼哀(かな)しい出来事の少し前に先生に会われ、それから葬儀にも出られたそうです。然しあなたや御家族の事については、あまり知って居られないのでした。多分伯アンドリゥ君は御同居だろうと思います。ドウかよろしく、私は時々アンドリゥ君の事を思うて居るとお伝(つた)え下さい。レオ君の御一家は聖彼得堡(サンペテルブルグ)にお住いですか。ヤスナヤ、ポリヤナの園でトチ/\歩みをして居られたお孫達も、最早大きなむすこさん達になられたでしょう。伯令嬢(はくれいじょう)アレキサンドラは如何して居られますか。私は折々あのヷロンカの川辺で迷子になって、令嬢を煩(わずら)わして探しに来ていたゞいた事を憶(おも)い出します。ミハイル君は如何です。私は唯一度、それもホンの一寸会ったゞけですが、大層好きな方と思いました。ジュリヤ嬢はとくにヤスナヤ、ポリヤナを去られたとか。マコヸィッキー君は今何処に居られるでしょう? スホーチン君は矢張(やはり)ヂュマの議員でお出ですか。オボレンスキー公爵と、鼻眼鏡をかけて居られる其母堂(ぼどう)とは、御息災ですか。イリヤはまだ勤めて居ますか。曾て其人を私も手伝って牧草を掻(か)いた料理番の老細君は達者にして居ますか。

嗚呼彼の楓の下の雪白(まっしろ)の布を覆(おお)うた食卓、其処(そこ)に朝々サモヷルが来り喫(の)む人を待って吟(ぎん)じ、其下の砂は白くて踏むに軟(やわらか)なあの食卓! 先生は読み、あなたは縫(ぬ)うて居られた彼露台(バルコニー)の夕(ゆうべ)! 家の息達と令嬢とマンドリンを弾(ひ)いて歌われた彼ヹランダの一夜! 彼ヷロンカの水浴! 彼涼(すず)しい、而(そう)して木の葉の網目(あみめ)を洩(も)る日光が金の斑点(はんてん)を地に落すあの白樺(しらかば)の林の逍遙(しょうよう)! 先生も其処に眠って居られる。記憶から記憶と群がり来って果しがない。嗟(ああ)今一度なつかしいヤスナヤ、ポリヤナに往って見たい!

敬愛する夫人よ。私は長い手紙を書いてしまいました。最早こゝでペンを擱(さしお)かねばなりません。願わくば神あなたの寂寥(せきりょう)を慰めて力を与え玉わんことを。願わくばあなたの晩年が、彼露西亜(ろしあ)の美(うる)わしい夏の夕(ゆうべ)の様に穏に美しくあらんことを。終(おわり)に臨(のぞ)み、私の妻もあなたの負(お)われ負わるゝ数々(かずかず)の重荷に対し、真実御同情申上げる旨、呉々(くれぐれ)も申しました。

一九一二年 七月三日

ヤスナヤ、ポリヤナと其記念を永久に愛する

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安さん

乞食(こじき)も色々のが来る。春秋(しゅんじゅう)の彼岸、三五月の節句(せっく)、盆なンどには、服装(なり)も小ざっぱりした女等が子供を負(おぶ)って、幾組も隊をなして陽気にやって来る。何処(どこ)から来るのかと聞いたら、新宿(しんじゅく)からと云うた。浅草紙、やす石鹸やす玩具(おもちゃ)など持て来るほンの申訳(もうしわけ)ばかりの商人実際のお貰(もら)いも少からず来る。喰(く)いつめた渡り職人、仕事にはなれた土方、都合(つごう)次第で乞食になったり窃盗(せっとう)になったり強盗(ごうとう)になったり追剥(おいはぎ)になったりする手合も折々(おりおり)来る。曾てある秋の朝、つい門前(もんぜん)の雑木林(ぞうきばやし)の中でがさ/\音がするので、ふっと見ると、昨夜此処に寝たと見えて、一人(ひとり)の古い印半纏(しるしばんてん)を着た四十ばかりの男が、眠(ねむ)たい顔して起き上り、欠伸(あくび)をして往って了うた。

一般的乞食の外に、特別名指しの金乞いも時々来る。やりたくても無い時があり、あってもやりたくない時があり、二拍子(ふたひょうし)揃(そろ)って都合よくやる時もあり、ふかし甘藷(いも)二三本新聞紙に包(つつ)んで御免を蒙る場合もある。然し斯様(こん)な特別のは別にして、彼が村居(そんきょ)六年の間に懇意(こんい)になった乞食が二人ある。仙(せん)さんと安(やす)さん。

仙さんは多少(たしょう)富裕(ゆたか)な家の息子の果であろう。乞食になっても権高(けんだか)で、中々吾儘である。五分苅頭(ごぶがりあたま)の面桶顔(めんつうがお)、柴栗を押つけた様な鼻と鼻にかゝる声が、昔の耽溺(たんでき)を語って居る。仙さんは自愛家である。飲料(いんりょう)には屹度(きっと)湯をくれと云う。曾て昆布(こんぶ)の出しがらをやったら、次ぎに来た時、あんな物をくれるから、醤油(しょうゆ)を損した上に下痢(げり)までした、と嗔(いか)った。小婢(こおんな)一人留守して居る処に来ては、茶をくれ、飯をくれ、果てはお前の着て居る物を脱いでくれ、と強請(ねだ)って、婢は一ちゞみになったことがある。主婦が仙さんの素生(すじょう)を尋ねかけたら、「乃公(おれ)に喧嘩を売るのか」と仙さんは血相を変えた。ある時やるものが無くて梅干(うめぼし)をやったら、斯様なものと顔をしかめる。居合わした主人は、思わず勃然(むっ)として、貰う者の分際(ぶんざい)で好悪(よしあし)を云う者があるか、と叱(しか)りつけたら、ブツ/\云いながら受取ったが、門を出て五六歩行くと雑木林(ぞうきばやし)に投げ棄てゝ往った。追かけて撲(ぶ)ちのめそうか、と思ったが、やっと堪(こら)えた。彼は此後仙さんを憎(にく)んだ。其後一二度来たきり、此二三年は頓斗(とんと)姿(すがた)を見せぬ。

我強(がづよ)い仙さんに引易(ひきか)え、気易(きやす)の安さんは村でもうけがよい。安さんは五十位、色の浅黒(あさぐろ)い、眼のしょぼ/\した、何処(どこ)やらのっぺりした男である。安さんは馬鹿を作って居る。夏着(なつぎ)冬着ありたけの襤褸(ぼろ)の十二一重(じゅうにひとえ)をだらりと纏(まと)うて、破れしゃっぽのこともあり、黒い髪を長く額に垂らして居ることもあり、或は垢染(あかじ)みた手拭を頬冠(ほおかむ)りのこともある。下駄を片足、藁草履(わらぞうり)を片足、よく跛曳(ひ)いてあるく。曾(かつ)て穿(は)きふるしの茶の運動靴(うんどうぐつ)をやったら、早速穿いて往ったが、十日たゝぬ内に最早(もう)跣足(はだし)で来た。

江戸の者らしい。何時(いつ)、如何な事情の下に乞食になったか、余程話を引出そうとしても、中々其手に乗らぬ。唯床屋をして居たと云う。剃刀(そり)の磨(と)ぐのでもありませんか、とある時云うた。主人の髯(ひげ)は六七年来放任主義であまりうるさくなると剪(はさみ)で苅(か)るばかりだし、主婦は嫁(か)して来て十八年来一度も顔を剃(す)ったことがないので、家には剃刀(かみそり)と云うものが無い。折角の安さんの親切も、無駄であった。然し剃刀(そり)があった処で、あの安さんの清潔(きれい)な手では全く恐れ入る。

いつも門口(かどぐち)に来ると、杖のさきでぱっ/\と塵(ごみ)を掃く真似をする。其響(おと)を聞いたばかりで、安さんと分(わか)った。「おゝそれながら……」と中音で拍子(ひょうし)をとって戸口に立つこともある。「春雨(はるさめ)にィ……」と小声で歌うて来ることもある。ある時来たのを捉(つらま)えて、笊(ざる)で砂利を運ぶ手伝をさせ、五銭やったら、其れから来る毎に「仕事はありませんか」と云う。時々は甘えて煙草をくれと云う。此家(うち)では喫(の)まぬと云っても、忘れてはまた煙草をくれと云う。正直の仙さんは一剋(いっこく)で向張りが強く、智慧者(ちえしゃ)の安さんは狡獪(ずる)くて軟(やわらか)な皮をかぶって居た。

夏は乞食の天国である。夏は我儕(われら)も家なンか厄介物を捨てゝしもうて、野に寝、山に寝、日本国中世界中乞食して廻(まわ)りたい気も起る。夏は乞食の天国である。唯蚊(か)だけが疵(きず)だが、至る処の堂宮(どうみや)は寝室(ねま)、日蔭(ひかげ)の草は茵(しとね)、貯えれば腐るので家々の貰い物も自然に多い。ある時、安さんが田川(たがわ)の側に跪(ひざまず)いて居るのを見た。

「何をして居るのかね、安さん?」

声(こえ)をかけると、安さんは寝惚(ねぼ)けた様な眼をあげて、

「エ、エ、洗濯をして」

と答えた。麦藁帽(むぎわらぼう)の洗濯をして居るのであった。処々の田川は彼の洗濯場で、また彼の浴槽であった。

冬は惨(みじめ)だ。小屋かけ、木賃宿(きちんやど)、其れ等に雨雪を凌(しの)ぐのは、乞食仲間でも威張(いば)った手合で、其様な栄耀(えいよう)が出来ぬやからは、村の堂宮(どうみや)、畑の中の肥料(こやし)小屋、止むなければ北をよけた崖(がけ)の下、雑木林の落葉の中に、焚火(たきび)を力にうと/\一夜を明(あか)すのだ。そこでよく火事が起る。彼が隣の墓地(ぼち)にはもと一寸した閻魔堂(えんまどう)があったが、彼が引越して来る少し前に乞食の焚火(たきび)から焼けて了うて、木の閻魔様は灰(はい)になり、石の奪衣婆(だつえば)ばかり焼け出されて、露天(ろてん)に片膝立てゝ恐(こわ)い顔をして居る。鎮守(ちんじゅ)八幡でも、乞食の火が険呑(けんのん)と云うので、つい去年拝殿に厳重な戸締りを設けて了うた。安さんの為に寝所(しんじょ)が一つ無くなったのである。それかあらぬか、近頃一向安さんの影を見かけなくなった。

「安さんは如何したろ?」

彼等はしば/\斯く噂(うわさ)をした。

昨日婢(おんな)が突然安さんの死を報じた。近所の女児(むすめ)が斯く婢に云うたそうだ。

「安さんなァ、安さんな内のお安さんが死んだ些前(ちょっとまえ)に、は、死んじまったとよ」

近所のお安さんと云う娘が死んだのは、五月の初であったから、乞食の安さんは桜の花の頃に死んだものと見える。

安さんは大抵(たいてい)甲州街道南裏の稲荷(いなり)の宮に住んで居たそうだ。埋葬は高井戸でしたと云うが、如何(どん)な臨終(りんじゅう)であったやら。

「あれで中々女が好きでね、女なんかゞ一人で物を持って往ってやるといけないって、皆(みんな)が云ってました」

と婢が云うた。

安さんが死んだか。乞食の安さんが死んだか。

「死んで安心な様な、可哀想(かあいそう)な様な気もちがしますよ」

主婦が云うた。

秋の野にさす雲の翳(かげ)の様に、淡(あわ)い哀(かなしみ)がすうと主人(あるじ)の心を掠(かす)めて過ぎた。

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Last Modified: Wednesday, February 03, 2016
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