過去帳から
墓守
一
彼は粕谷の墓守である。
彼が家の一番近い隣は墓場である。門から唯三十歩、南へ下ると最早墓地だ。誰が命じたのでもない、誰に頼まれたのでもないが、家の位置が彼を粕谷の墓守にした。
墓守と云って、別に墓掃除するでもない。然し家が近くて便利なので、春秋の彼岸に墓参に来る者が、線香の火を借りに寄ったり、水を汲みに寄ったりする。彼の庭園には多少の草花を栽培して置く。花の盛季は、大抵農繁の季節に相当するので、悠々と花見の案内する気にもなれず、無論見に来る者も無い。然し村内に不幸があった場合には、必庭園の花を折って弔儀に行く。少し念を入れる場合には、花環などを拵えて行く。

墓守のついでに、墓場を奇麗にして、花でも植えて置こうかと思うが、それでは皆が墓参に自家の花を手折って来ても引立たなくなる。平生草を茂らして、春秋の彼岸や盆に墓掃除に来るのも、農家らしくてよい。墓地があまりにキチンとして居るのも、好悪である。と思うので、一向構わずに置く。然し整理熱は田舎に及び、彼の村人も墓地を拡張整頓するそうで、此程周囲の雑木を切り倒し、共有の小杉林を拓いてしもうた。いまに楆の生牆を遶らし、桜でも植えて奇麗にすると云うて居る。惜しい事だ。
二
彼は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往った。粕谷の墓地近くに卜居した時、墓が近くて御気味が悪うございましょうと村人が挨拶したが、彼は滅多な活人の隣より墓地を隣に持つことが寧嬉しかった。誰も胸の中に可なり沢山の墓を有って居る。眼にこそ見えね、我等は夥しい幽霊の中に住んで居る。否、我等自身が誰かの幽霊かも知れぬ。何も墓地を気味悪がるにも当らない。
墓地は約一反余、東西に長く、背は雑木林、南は細い里道から一段低い畑田圃。入口は西にあって、墓は※[横線に長い縦線四本の記号、上巻-241-12]形に並んで居る。古い処で寛文元禄位。銀閣寺義政時代の宝徳のが唯一つあるが、此は今一つはりがねで結わえた二つに破れた秩父青石の板碑と共に、他所から持って来たのである。以前小さな閻魔堂があったが、乞食の焚火から焼けてしまい、今は唯石刻の奪衣婆ばかり片膝立てゝ凄い顔をして居る。頬杖をついて居る幾基の静思菩薩、一隅にずらりと並んだにこ/\顔の六地蔵や、春秋の彼岸に紅いべゝを子を亡くした親が着せまつる子育地蔵、其等が「長十山、三国の峰の松風吹きはらふ国土にまぢる松風の音」だの、上に梵字を書いて「爰追福者為蛇虫之霊発菩提也」だのと書いた古い新しいさま/″\の卒塔婆と共に、寂しい賑やかさを作って居る。植えた木には、樒や寒中から咲く赤椿など。百年以上の百日紅があったのは、村の飲代に植木屋に売られ、植木屋から粕谷の墓守に売られた。余は在来の雑木である。春はすみれ、蒲公英が何時の間にか黙って咲いて居る。夏は白い山百合が香る。蛇が墓石の間を縫うてのたくる。秋には自然生の秋明菊が咲く。冬は南向きの日暖かに風も来ぬので、隣の墓守がよくやって来ては、乾いた落葉を踏んで、其処に日なたぼこりをしながら、取りとめもない空想に耽る。
三
田舎でも人が死ぬ。彼が村の人になってから六年間に、唯二十七戸の小村で、此墓場にばかり葬式の八つもした。多くは爺さん婆さんだが、中には二八の少女も、また傷い気の子供もあった。
ある爺さんは八十余で、死ぬる二日前まで野ら仕事をして、ぽっくり往生した。羨ましい死に様である。ある婆さんは、八十余で、もとは大分難義もしたものだが辛抱しぬいて本家分家それ/″\繁昌し、孫曾孫大勢持って居た。ある時分家に遊びに来て帰途、墓守が縁側に腰かけて、納屋大小家幾棟か有って居ることを誇ったりしたが、杖を忘れて帰って了うた。其杖は今カタミになって、墓守が家の浴室の心張棒になって居る。ある爺さんは、困った事には手が長くなる癖があった。さまで貧でもないが、よく近所のものを盗んだ。野菜物を採る。甘藷を掘る。下肥を汲む。木の苗を盗む。近所の事ではあり、病気と皆が承知して居るので、表沙汰にはならなかったが、一同困り者にして居た。杉苗でもとられると、見附次第黙って持戻ったりする者もあった。此れから汁の実なぞがなくならずにようござんしょう、と葬式の時ある律義な若者が笑った。さる爺さんは、齢は其様なでもなかったが、若い時の苦労で腰が悉皆俛んで居た。きかぬ気の爺さんで、死ぬるまで儞に世話はかけぬと婆さんに云い云いしたが、果して何人の介抱も待たず立派に一人で往生した。其以前、墓守が家の瓜畑に誰やら入込んでごそ/\やって居るので、誰かと思うたら、此爺さんが親切に瓜の心をとめてくれて居たのであった。よく楢茸の初物だの何だの採っては、味噌漉しに入れて持って来てくれた。時には親切に困ることもあった。ある時畑の畔の草を苅ってやると云って鎌を提げて来た。其畑の畔には萱薄が面白く穂に出て、捨て難い風致の径なので其処だけわざ/\草を苅らずに置いたのであった。其れを爺さんが苅ってやると云う。頭を掻いて断わると、親切を無にすると云わんばかり爺さんむっとして帰って往ったこともある。最早楢茸が出ても、味噌漉しかゝえて、「今日は」と来る腰の曲った人は無い。
四
燻炭肥料と云う事が一時はやって、芥屑を燻焼する為に、大きな深い穴が此処其処に掘られた。其穴の傍で子を負った十歳の女児と六歳になる女児が遊んで居たが、誤って二人共穴に落ちた。出ることは出たが、六になる方は大火傷をした。一家残らず遠くの野らへ出たあとなので、泣き声を聞きつける者もなく、十歳になる女児は叱られるが恐さに、火傷した女児を窃と自家へ連れて往って、火傷部に襤褸を被せて、其まゝにして置いた。医者が来た頃は、最早手後れになって居た。墓守が見舞に往って見ると、煎餅の袋なぞ枕頭に置いて、アアン〻〻〻幽かな声でうめいて居た。二三日すると、其父なる人が眼に涙を浮めて、牛乳屋が来たら最早牛乳は不用と云うてくれと頼みに来た。亡くなったのである。此辺では、墓守の家か、博徒の親分か、重病人でなければ牛乳など飲む者は無い。火傷した女児は、瀕死の怪我で貴い牛乳を飲まされたのである。父なる人は神酒に酔うて、赤い顔をして頭を掉る癖がある人である。妙に不幸な家で、先にも五六歳の女児が行方不明で大騒ぎをした後、品川堀から死骸になって上ったことがある。火傷した女児の低いうめき声と、其父の涙に霑んだ眼は、いつまでも耳に目にくっついて居る。
牛乳と云えば、墓守の家から其家へとしばらく廻って居た配達が、最早其方へは往かなくなった。牛乳をのんで居た娘は、五月の初に亡くなったのである。墓守夫婦が村の人になった時、彼女は十一であった。体を二ツ折にしてガックリお辞儀するしゃくんだ顔の娘を、墓守夫婦は何時となく可愛がった。九人の兄弟姉妹の真中で、あまり可愛がられる方ではなかった。可愛がられる其妹は、姉の事を云って、「おやすさんな叱られるクセがある」と云った。やゝ陰気な、然し情愛の深い娘だった。墓守の家に東京から女の子が遊びに来ると、「久ちゃん」「お安さん」とよく一緒に遊んだものだ。彼女も連れて玉川に遊びに往ったら、玉川電車で帰る東京の娘を見送って「別れるのはつらい」と黯然として云った。彼女は妙に不幸な子であった。ある時村の小学校の運動会で饌立競走で一着になり、名を呼ばれて褒美を貰ったあとで、饌立の法が違って居ると女教員から苦情が出て、あらためて呼び出され、褒美を取り戻された。姉が嫁したので、小学校も高等を終えずに下り、母の手助をした。間もなく彼女は肺が弱くなった。成る可く家の厄介になるまいと、医者にも見せず、熟蚕を拾ったり繭を掻いたり自身働いて溜めた巾着の銭で、売薬を買ったりして飲んだ。
去る三月の事、ある午後墓守一家が門前にぶらついて居ると、墓地の方から娘が来る。彼女であった。「あゝお安さん」と声をかけつゝ、顔を見て喫驚した。其処の墓地の石の下から出て来たかと思わるゝ様な凄い黯い顔をして居る。「あゝ気分が悪いのですね、早く帰ってお休み」と妻が云うた。気分が悪くて裁縫の稽古から帰って来たのであった。彼女は其れっきり元気には復さなかった。彼女の家では牛乳をとってのませた。彼女の兄は東京に下肥引きに往った帰りに肴を買って来ては食わした。然し彼女は日々衰えた。遠慮勝の彼女は親兄弟にも遠慮した。死ぬる二三日前、彼女はぶらりと起きて来て、産後の弱った体で赤ん坊を見て居る母の背に立ち、わたしが赤ん坊を見て居るから阿母は少しお休みと云うた。死ぬる前日は、父に負われて屋敷内を廻ってもらって喜んだ。其翌日も父は負って出た。父が唯一房咲いた藤の花を折ってやったら、彼女は枕頭の土瓶に插して眺めて喜んだ。其夜彼女は父を揺り起し、「わたしが快くなったら如何でもして恩報じをするから、今夜は苦艱だから、済まないが阿爺さん起きて居てお呉れ、阿母は赤ん坊や何かでくたびれきって居るから」と云うた。而して翌朝到頭息を引取った。彼女は十六であった。彼女の家は、神道禊教の信徒で、葬式も神道であった。兄の二人、弟の一人と、姉婿が棺側に附いて、最早墓守夫妻が其亡くなった姉をはじめて識った頃の年頃になった彼女の妹が、紫の袴をはいて位牌を持った。六十前後の老衰した神官が拍手を打って、「下田安子の命が千代の住家と云々」と祭詞を読んだ。快くなったら姉の嫁した家へ遊びに行くと云って、彼女は晴衣を拵えてもらって喜んで居たが、到頭其れを着る機会もなかった。棺の上には銘仙の袷が覆うてあった。其棺の小さゝを見た時、十六と云う彼女の本当にまだ小供であったことを思うた。赤土を盛った墓の前には、彼女が常用の膳の上に飯を盛った茶碗、清水を盈たした湯呑なぞならべてあった。墓が近いので、彼女の家の者はよく墓参に来た。墓守の家の女児も時々園の花を折って往って墓に插した。三年前砲兵にとられた彼女の二番目の兄は、此の春肩から腹にかけて砲車に轢かれ、已に危い一命を纔にとりとめて先日めでたく除隊になって帰った。「お安さんは君の身代りに死んだのだ、懇に弔うて遣り玉え」墓守は斯く其の若者に云うた。
五
墓地が狭いので、新しい棺は大抵古い骨の上に葬る。先年村での旧家の老母を葬る日、墓守がぶらりと墓地に往って見たら、墓掘り役の野ら番の一人が掘り出した古い髑髏を見せて、
「御覧なさい、頬の格好が斯う仁左衛門さんに肖てるじゃありませんか。先祖ってえものは、矢張り争われないもんですな」
と云うた。泥まみれの其の髑髏は、成程頬骨の張り方が、当主の仁左衛門さんそっくりであった。土から生れて土に働く土の精、土の化物とも云うべき農家の人は、死んで土になる事を自然の約束として少しも怪むことを為ない。ある婆さんを葬る時、村での豪家と立てられる伊三郎さんが、野ら番の一人でさっさと赤土を掘りながら、ホトケの息子の一人に向い、
「でも好い時だったな、来月になると本当に忙しくてやりきれンからナ」と極めて平気で云うて居た。息子も平気で頷いて居た。死人の手でも借りたい程忙しい六七月に葬式があると、事である。村の迷惑になるので、小供の葬式は、成るべくこっそりする。ある夜、墓守が外から帰って来ると、墓地に一点の火光が見える。やゝ紅い火である。立とまってじいと見て居た彼は、突と墓地に入った。其は提灯の火であった。黒い影が二つ立って居る。近づいて、村の甲乙であることを知った。側に墓穴が掘ってある。「誰か亡くなられたのですか」と墓守が問うた。「えゝ、小さいのが」と一人が答えた。彼等は夜陰に墓を掘り終え、小さな棺が来るのを待って居たのである。
六
古家を買って建てた墓守が二つの書院は、宮の様だ、寺の様だ、と人が云う。外から眺めると、成程某院とか、某庵とか云いそうな風をして居る。墓地が近いので、ます/\寺らしい。演習に来た兵士の一人が、青山街道から望み見て、「あゝお寺が出来たな」と云った。居は気を移すで、寺の様な家に住めば、粕谷の墓守時には有髪の僧の気もちがせぬでも無い。
然し此れが寺だとすれば、住持は恐ろしく悟の開けぬ、煩悩満腹、貪瞋痴の三悪を立派に具足した腥坊主である。彼は好んで人を喰う。生きた人を喰う上に、亜剌比亜夜話にある「ゴウル」の様に墓を掘って死人を喰う。彼は死人を喰うが大好きである。
無論生命は共通である。生存は喰い合いである。犠牲なしでは生きては行かれぬ。犠牲には、毎に良いものがなる。耶蘇は「吾は天より降れる活けるパンなり。吾肉は真の喰物、吾血は真の飲物」と云うたが、実際良いものゝ肉を喰い血を飲んで我等は育つのである。粕谷の墓守、睡眠山無為寺の住持も、想い来れば半生に数限りなき人を殺し、今も殺しつゝある。人を殺して、猶飽かず、其の死体まで掘り出して喰う彼は、畜生道に堕したのではあるまいか。墓守実は死人喰いの「ゴウル」なのではあるまいか。彼は曾て斯んな夢を見た。誰やら憤って切腹した。彼ではなかった様だ。無論去年の春の事だから、乃木さんでは無い。誰やら切腹すると、瞋恚の焔とでも云うのか、剖いた腹から一団のとろ/\した紅い火の球が墨黒の空に長い/\尾を曳いて飛んで、ある所に往って鶏の嘴をした異形の人間に化った。而して彼は其処に催うされて居る宴会の席に加わった。夢見る彼は、眼を挙げてずうと其席を見渡した。手足胴体は人間だが、顔は一個として人間の顔は無い。狼の頭、豹の頭、鯊の頭、蟒蛇の頭、蜥蜴の頭、鷲の頭、梟の頭、鰐の頭、――恐ろしい物の集会である。彼は上座の方を見た。其処には五分苅頭の色蒼ざめた乞食坊主が Preside して居る。其乞食坊主が手を挙げて相図をすると、一同前なる高脚の盃を挙げた。而して恐ろしい声を一斉にわッと揚げた。彼は冷汗に浸って寤めた。惟うに彼は夢に畜生道に堕ちたのである。現の中で生きた人を喰ったり、死んだ死骸を喰ったりばかりして居る彼が夢としては、ふさわしいものであろう。
彼は粕谷の墓守である。彼の住居は外から見てのお寺である。如何様なお寺にも過去帳がある。彼は彼の罪亡ぼしに、其の過去帳から彼の餌になった二三亡者の名を写して見よう。
綱島梁川君
明治四十年九月某の日、柄杓が井に落ちた。女中が錨を下ろして探がしたが、上らぬ。妻が代って小一時間も骨折ったが、水底深く沈んだ柄杓は中々上ろうともしない。最後に主人の彼が引受け、以前相模の海で鱚を釣った手心で、錨索をとった。偖熱心に錨を上げたり下げたりしたが、時々はコトリと手答はあっても、錨の四本の足の其何れにも柄杓はかゝらない。果ては肝癪を起して、井の底を引掻き廻すと、折角の清水を濁らすばかりで、肝腎の柄杓は一向上らぬ。上らぬとなるとます/\意地になって、片手は錨、片手は井筒の縁をつかみ、井の上に伸しかゝって不可見水底の柄杓と闘って居ると、
「郵便が参りました」
と云って、女中が一枚のはがきを持て来た。彼は舌打して錨を引上げ、其はがきを受取った。裏をかえすと黒枠。誰かと思えば、綱島梁川君の訃であった。
彼は其はがきを持ったまゝ、井戸傍を去って母屋の縁に腰かけた。
*
程明道の句に「道通天地有形外」と云うのがある。梁川君の様な有象から無象に通う其「道」を不断に歩いて居る人は、過去現在未来と三生を貫通して常住して居るので、死は単に此生態から彼生態に移ったと云うに過ぎぬ。斯く思うものゝ、死は矢張哀しい而して恐ろしい事実である。
彼は梁川君と此生に於て唯一回相見た。其は此春の四月十六日であった。梁川君の名は久しく耳にして居た。其「見神の実験」及び病間録に収められた他の諸名篇を、彼は雑誌新人の紙上に愛読し、教えらるゝことが多かった。木下尚江君がある日粕谷に遊びに来た時、梁川君の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体に恐入った元気」と云うた。丁度四月十六日には、救世軍のブース大将歓迎会が東京座に開かるゝ筈で、彼も案内をうけて居たので、出京のついでに梁川君を訪うことにしたのであった。
肺患者には無惨な埃まじりの風が散り残りの桜の花を意地わるく吹きちぎる日の午後、彼は大久保余丁町の綱島家の格子戸をくゞった。梁川先生発熱の虞あり、来訪諸君は長談を用捨されたく云々、と主治医の書いた張札が格子戸に貼ってある。食事中との事で、しばらく薄暗い一室に待たされた。「自彊不息」と主人の嘱によって清人か鮮人かの書いた額が掛って居た。やがて案内されて、硝子戸になって居る縁側伝いに奥まった一室に入った。古い段通を敷いた六畳程の部屋、下を硝子戸の本棚にして金字の書巻のギッシリ詰まった押入を背にして、蒲団の上に座って居る浅黒い人が、丁寧に頭を下げて、吸い込む様なカスレ声で初対面の挨拶をした。処女の様なつゝましさがある。たゞ其の人を見る黒い眸子の澄んで凝然と動かぬ処に、意志の強い其性格が閃めく様に思われた。最初其カスレた声を聞き苦しく思い、斯人に談話を強うるの不躾を気にして居た彼は、何時の間にかつり込まれて、悠々と話込んだ。話半に家の人が来客を報ぜられた。綱島君は名刺を見て、「あゝ丁度よい処だった。御紹介しようと思って居ました」と云う。やがて労働者の風をした人が一青年を連れて入って来た。梁川君は、西田市太郎君と云うて紹介し、「実地の経験には、西田さんに学ぶ所が多い」と附け加えた。話は種々に渉った。彼は聖書に顕れた耶蘇基督について不満と思う所は、と梁川君に問うた。例せば実なき無花果を咀った様な、と彼は言を添えた。梁川君は「僕も丁度今其事を思うて居たが、不満と云う訳ではないが、耶蘇の一特色は其イラヒドイ所謂 Vehement な点にある」と答えた。話は菜食の事に移って、彼は旅順閉塞に行く或船で、最後訣別の盃を挙ぐるに、生かして持って来た鶏を料理しようとしたが、誰云い出すともなく、鶏は生かして置こうじゃァないかと、到頭其まゝにして置いた、と云う逸話を話した。梁川君は首を傾げて聴いて居たが、「面白いな」と独語した。一座の話は多端に渉ったが、要するに随感随話で、まとまった事もなかった。唯愉快に話し込んで思わず時を移し、二時間あまりにして西田君列と前後に席を立った。
其れから其足で三崎町の東京座に往って、舞台裏で諸君のあとから彼もブース大将の手を握るの愉快を獲た。大将は肉体も見上ぐるばかりの清げな大男で、其手は昨年の夏握ったトルストイの手の様に大きく温であった。午後には梁川君と語り、夜はブース大将の手を握る。四月十六日は彼にとって喜ばしい一日であった。嬉しいあまりに、大将の演説終って喜捨金集めの帽が廻った時、彼は思わず乏しい財布を倒にして了うた。
其後梁川君とははがきの往復をしたり、回光録を贈ってもらったりしたきり、彼も田園の生活多忙になって久しく打絶えて居た。そこで此訃は突然であった。精神的に不朽な人は、肉体も例令其れが病体であっても猶不死の様に思われてならなかったのである。梁川君が死ぬ、其様な事はあまり彼の考には入って居なかった。一枚の黒枠のはがきは警策の如く彼が頭上に落ちた。「死ぬぞ」と其はがきは彼の耳もとに叫んだ。
*
梁川君の葬式は、秋雨の瀟々と降る日であった。彼は高足駄をはいて、粕谷から本郷教会に往った。教会は一ぱいであった。やがて棺が舁き込まれた。草鞋ばきの西田君の姿も見えた。某嬢の独唱も、先輩及友人諸氏の履歴弔詞の朗読も、真摯なものであった。牧師が説教した。「美人の裸体は好い、然しこれに彩衣を被せると尚美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章に述べた」などの語があった。梁川、梁川がやゝ耳障りであった。
彼は棺の後に跟いて雑司ヶ谷の墓地に往った。葬式が終ると、何時の間にか車にのせられて綱島家に往った。梁川君に親しい人が集って居て、晩餐の饗があった。西田君、小田君、中桐君、水谷君等面識の人もあり、識らない方も多かった。
新宿で電車を下りた。夜が深けて居る。雨は止んだが、路は田圃の様だ。彼は提灯もつけず、更らに路を択ばず、ザブ/\泥水を渉って帰った。新宿から一里半も来た頃、真闇な藪陰で真黒な人影に行合うた。彼方はずうと寄って来て、顔をすりつける様にして彼を覗く。彼は肝を冷やした。
「君は誰だ?」
先方から声をかけた。彼は住所姓名を名乗った。而して「貴君は?」ときいた。
「刑事です。大分晩く御帰りですな」
八幡近くまで帰って来ると、提灯ともして二三人下りて来た。彼の影を見て、提灯はとまったが、透かして見て「福富さんだよ」と驚いた様な声をして行き過ぎた。此は八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩があって、怪我人なぞ出来た。其のあとがいまだにごたごたして居るのだ。
帰ると、一時過ぎて居た。
*
其後梁川君の遺文寸光録が出た。彼の名がちょい/\出て居る。彼の事を好く云うてある。総じて人は自己の影を他人に見るものだ。梁川君が彼にうつした己が影に見惚れたのも無理はない。
梁川君が遺文の中、病中唯一度母君に対してやゝ苛厲の言を漏らしたと云って、痛恨して居る。若し其れをだに白璧の微瑕と見るなら、其白璧の醇美は如何であろう。彼の様な汚穢な心と獣的行の者は慙死しなければならぬ。
*
梁川君の訃に接した其日井底に落ちた柄杓は、其の年の暮井浚えの時上がって来た。
然し彼は彼の生前に於て宇宙の那辺にか落したものがある。彼は彼の生涯を献げて、天の上、地の下、火の中、水の中、糞土の中まで潜っても探し出ださねばならぬ。梁川君は端的に其求むるものを探し当てゝ、堂々と凱旋し去った。鈍根の彼はしば/\捉え得たと思うては失い、攫んだと思うては失い、今以て七転八倒の笑止な歴史を繰り返えして居る。但一切のもの実は大能掌裡の筋斗翻に過ぎぬので人々皆通天の路あることを信ずるの一念は、彼が迷宮の流浪に於ける一の慰めである。
梅一輪
一
「お馨さんの梅が咲きましたよ」
斯く妻が呼ぶ声に、彼は下駄を突っかけて、植木屋の庭の様に無暗に樹木を植え込んだ園内を歩いて、若木の梅の下に立った。成程咲いた、咲いた。青軸また緑萼と呼ばるゝ種類の梅で、花はまだ三四輪、染めた様に緑な萼から白く膨らみ出た蕾の幾箇を添えて、春まだ浅い此の二月の寒を物ともせず、ぱっちりと咲いて居る。極の雪の様にいさゝか青味を帯びた純白の葩、芳烈な其香。今更の様だが、梅は凜々しい気もちの好い花だ。
白っぽい竪縞の銘仙の羽織、紫紺のカシミヤの袴、足駄を穿いた娘が曾て此梅の下に立って、一輪の花を摘んで黒い庇髪の鬢に插した。お馨さん――其娘の名――は其年の夏亜米利加に渡って、翌年まだ此梅が咲かぬ内に米国で亡くなった。
其れ以来、彼等は此梅を「お馨さんの梅」と呼ぶのである。

二
米国の画家ヂャルヂ、ヘンリー、バウトンの描いた「メェフラワァの帰り」と云う画がある。メェフラワァは、約三百年前、信仰、生活の自由を享けん為に、欧洲からはる/″\大西洋を越えて、亜米利加の新大陸に渡った清教徒の一群ピルグリム、ファザァスが乗った小さな帆前船である。画は此船が任務を果してまた東へ帰り去る光景を描いた。海原の果には、最早小さく小さくなった船が、陸から吹く追手風に帆を張って船脚軽く東へ走って居る。短い草が生えて、岩石の処々に起伏した浜にはピルグリムの男女の人々が、彼処に五六人、此処に二三人、往く船を遙に見送って居る。前景に立つ若い一対の男女は、伝説のジョン、アルデンとメーリー、チルトンででもあろうか。二人共まだ二十代の立派な若い同士。男は白い幅濶の襟をつけた服を着て、ステッキをついた左の手に鍔広のピュリタン帽を持つ右の手を重ね、女は雪白のエプロンをかけて、半頭巾を冠り、右の手は男の腕に縋り、半巾を持った左の手をわが胸に当てゝ居る。二人の眼はじっと遠ざかり行くメェフラワァ号の最後の影に注がれて居る。メェフラワァは故国との最後の連鎖である。メェフラワァの去ると共に故国の縁は切れるのである。なつかしい過去、旧世界、故国、歴史、一切の記念、其等との連鎖は、彼船脚の一歩〻〻に切れて行くのである。彼等の胸は痛み、眼には涙が宿って居るに違いない。然しながら彼等は若い。彼等は新しい大陸に足を立てゝ居る。彼等の過去は、彼船と共に夢と消ゆる共、彼等の現在は荒寥であるとも、彼等は洋々たる未来を代表して居る。彼等は新世界のアダム、イヴである。
此の画を見る毎に、彼はお馨さんと其恋人葛城勝郎を憶い出さぬことは無い。
三
葛城は九州の士の家の三男に生れた。海軍機関学校に居る頃から、彼は外川先生に私淑して基督を信じ、他の進級、出世、肉の快楽にあこがるゝ同窓青年の中にありて、彼は祈祷し、断食し、読書し、瞑想する青年であった。日露戦争に機関少尉として出陣した彼は、戦争が終ると共に海軍を見限って、哲学文学を以て身を立つる可く決心した。寡婦として彼を育て上げた彼の母、彼の姉、彼の二兄、家族の者は皆彼が海軍を見捨つることに反対した。唯一人満腔の同情を彼に寄せた人があった。其れは其頃彼の母の家に寄寓して居る女学生であった。女学生の名はお馨さんと云った。
お馨さんは、上総の九十九里の海の音が暴風の日には遠雷の様に聞ゆる或村の小山の懐にある家の娘であった。四人の兄、一人の姉、五人の妹を彼女は有って居た。郷里の小学を終えて、出京して三輪田女学校を卒え、更に英語を学ぶべく彼女はある縁によって葛城の母の家に寄寓して青山女学院に通って居た。彼女も又外川先生の門弟で、日曜毎に隅の方に黙って聖書の講義を聴いて居た。富裕な家の女に生れて、彼女は社会主義に同情を有って居た。葛城が軍艦から母の家に帰って来る毎に、彼は彼女と談話を交えた。信仰を同じくし、師を同じくし、同じ理想を趁う二人は多くの点に於て一致を見出した。彼女は若い海軍士官が軍籍を脱することについて家族総反対の中に唯一人の賛成者であった。斯くて二人は自然に相思の中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧の人無き所に跪いて、流水の音を聞きつゝ共に祈った。身は雪の如く、心は火の如く、二人の恋は美しいものであった。
四
本文の筆を執る彼は、明治三十九年の正月、逗子の父母の家で初めて葛城に会った。恰も自家の生涯に一革命を閲した時である。間もなく彼は上州の山に籠る。ついで露西亜に行く。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。
明治四十年の初春、此文の筆者は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑に煙る頃、葛城は渡米の暇乞に来た。一夜泊って明くる日、村はずれで別れたが、中数日を置いて更に葛城を見送る可く彼は横浜に往った。港外のモンゴリヤ号は已に錨を抜かんとして、見送りに来た葛城の姉もお馨さんもとくに去り、葛城独甲板の欄に倚って居た。時間が無いので匆々に別を告げた。此時初めて葛城はお馨さんの事を云うた。ゆく/\世話になろうと思うて居ると云うた。而して今後度々上る様に云って置いたから宜しく頼む、と云うた。斯くて葛城は亜米利加に渡った。
其年夏休前にお馨さんは初めて粕谷に来た。美しいと云う顔立では無いが、色白の、微塵色気も鄙気も無いすっきりした娘で、服装も質素であった。其頃は女子英学塾に寄宿して居たが、後には外川先生の家に移った。粕谷に遊びに往ったと云うてやると、米国から大層喜んでよこす、と云ってよく遊びに来た。今日は学校から玉川遠足をしますから、私は此方へ上りました、と云って朝飯前に来た事もあった。体質極めて強健で、病気と云うものを知らぬと云って居た。新宿から三里、大抵足駄をはいて歩いた。日がえりに往復することもあった。彼女は女中も居ぬ家の不自由を知って居るので、来る時に何時も襷を袂に入れて来た。而して台所の事、拭掃除、何くれとなく妻を手伝うた。家の事情、学校の不平、前途の喜憂、何も打明けて語り、慰められて帰った。妻は次第に彼女を妹の如く愛した。
葛城は新英州の大学で神学を修めて居た。欧米大陸の波瀾万丈沸えかえる様な思潮に心魂を震蕩された葛城は、非常の動揺と而して苦悶を感じ、大服従のあと大自由に向ってあこがれた。彼が故国の情人に寄する手紙は、其心中の千波万波を漲らして、一回は一回より激烈なるものとなった。彼はイブセンを読む可く彼女に書き送った。彼女を頭が固いと罵ったりした。而して彼女をも同じ波瀾に捲き込むべく努めた。斯等の手紙が初心な彼女を震駭憂悶せしめた状は、傍眼にも気の毒であった。彼女は従順にイブセンを読んだ。ツルゲーネフも読んだ。然し彼女は葛城が堕落に向いつゝあるものと考えた。何ともして葛城を救わねばならぬと身を藻掻いた。彼女は立っても居ても居られなくなった。而して自身亜米利加に渡って葛城を救わねばならぬと覚期した。
粕谷の夫妻は彼女を慰めて、葛城が此等の動揺は当に来る可き醗酵で、少しも懸念す可きでないと諭した。然しお馨さんの渡米には、二念なく賛同した。彼葛城の為にも、彼女自身の鍛錬の為にも、至極好い思立と看たのである。彼女は葛城の渡米当時已に自身も渡米す可く身を悶えたが、父の反対によって是非なく思い止まったのであった。
米国からは、あまり乗気でもないが、来るなら紐育ブルックリンの看護婦学校に口があると知らして来た。彼女の師外川先生も、自身新英蘭で一時白痴院の看護手をしたことがあると云うて、彼女の渡米に賛同した。お馨さんは母の愛女であった。母は愛女の為に其望を遂げさすべく骨折る事を諾した。彼女の長兄は、其母を悦ばす可く陰に陽に骨折る事を妹に約した。残る所は彼女の父の承諾だけであった。彼女の父は田舎の平相国清盛として、其小帝国内に猛威を振うている。彼女と葛城の縁談も、中に立って色々骨折る人があったが、彼女の父は断じて許さなかった。葛城の人物よりも其無資産を慮ったのである。葛城の母、兄姉も皆お馨さんの渡米には不賛成であった。葛城の勉強の邪魔になると謂うた。静かにこゝで勉強して葛城の帰朝を待てと勧めた。然しお馨さんは如何しても思い止まることが出来なかった。それに、日本に愚図々々して居れば、心に染まぬ結婚を父に強いられる恐れがあった。
斯様な事情と彼女の切なる心情を見聞する粕谷の夫妻は、打捨てゝ置く訳に行かなかった。葛城が家族の反対に関せず、何を措いても彼女の父の結婚及渡米の許諾を獲べく、単刀直入桶狭間の本陣に斬込まねばならぬと考えた。
五
朧月の夜、葛城家の使者と偽る彼は、房総線の一駅で下りて、車に乗ってお馨さんの家に往った。長い田舎町をぬけて、田圃沿いの街道を小一里も行って、田中路を小山の中に入って、其山ふところの行止りが其家であった。大きな長屋門の傍の潜りを入って、勝手口から名刺を出した。色の褪めた黒紋付の羽織を着た素足の大きな六十爺さんが出て来た。お馨さんの父者人であった。
其夜は烈しい風雨であった。十二畳の座敷に寝かされた彼は、夢を結び得なかった。明くる早々起きて雨戸をあけて見た。庭には大きな泉水を掘り、向うの小山を其まゝ庭にして、蘇鉄を植えたり、石段を甃んだり、石燈籠を据えたりしてある。下駄突かけて、裏の方に廻って見ると、小山の裾を鬼の窟の如く刳りぬいた物置がある。家は茅葺ながら岩畳な構えで、一切の模様が岩倉と云う其姓にふさわしい。まだ可なり吹き降りの中を、お馨さんによく似た十四五、十一二の少女が、片手に足駄を提げ、頭から肩掛をかぶり、跣足で小学校に出かけて行く。座敷に帰って、昼の光であらためて主翁と対面した。住居にふさわしい岩畳なかっぷくである。左の目が眇かと思うたら、其れは眼の皮がたるんでいるのであった。其れが一見人を馬鹿にした様に見える。芳野金陵の門人で、漢学の素養がある。其父なる人は、灌漑用の潴水池を設けて、四辺に恩沢を施して居る。お馨さんの父者人は、十六にして父に死なれ、一代にして巨万の富をなした。六十爺の今日も、名ある博士の弁護士などを顧問に、万事自身で切って廻わして居る。此辺は数名の博士、数十名の学士を出して居る位で、此富豪翁も子女の教育には余程身を入れて居るのであった。
障子に日がさして来た。障子を明けると、青空に映る花ざかりの大きな白木蓮が、夜来の風雨に落花狼藉、満庭雪を舗いて居る。推参の客は主翁に対して久しぶりに嘘と云うものを吐いた。彼は葛城家の使者だと云うた。お馨さんを将来葛城勝郎の妻に呉れと云うた。旅費学資は一切葛城家から出すによって、お馨さんを米国へ遣ってくれと云うた。学校は師範学校見た様なもので、育児衛生を旨とすると云うた。主翁は逐一聞いた上で、煙管をポンと灰吹にはたき、十二三の召使の男児を呼んで御寮様に一寸御出と云え、と命じた。やがてお馨さんの母者人が出て来た。よくお馨さんに肖て居る。十一人の子供を育て、恐ろしい吾儘者の良人に仕えて、しっかり家を圧えて行く婦人の尋常の婦人であるまいと云う事は、葛城家の偽使者も久しく想う処であった。主翁は今一応先刻の御話をと云うた。似而非使者は、試験さるゝ学生の如く、真赤な嘘を真顔で繰り返えした。母者人は顔の筋一つ動かさず聴いて居た。主翁は兎も角忰や親戚の者共とも相談の上追って御返事すると云うた。「六ヶ敷いな」彼は斯く思いつゝ帰途に就いた。
然しながら天はお馨さんに味方するかと思われた。彼女の父は意外にも承諾を与えた。旅券も手に入った。而して葛城が米国へ向け乗船した二年と三月目の明治四十二年の七月六日、横浜出帆の信濃丸で米国に向うた。葛城の姉、お馨さんの長兄夫婦、末の兄、お馨さんによく肖た妹達は、桟橋でお馨さんを見送った。粕谷の夫妻も見送り人の中にあった。妹達は涙を流して居た。水草の裾模様をつけた空色絽のお馨さんは、同行の若い婦人と信濃丸の甲板から笑みて一同を見て居た。彼女は涙を堕し得なかった。其心はとく米国に飛んで居るのであった。船はやおら桟橋を離れた。空色衣の笑貌の花嫁は、白い手巾を振り/\視界の外に消えた。
六
乗船いたしましてから五日目になりますが、幸に海は非常に静かで……友人と同室で御座いますから心配もなく、朝より夕まで笑いつゞけて居る次第にて、非常に幸福で愉快に暮して居ります。互に語り、読書し、議論し、歌を唱い、少しも淋しき事はなく暮して居ります。非常に元気なる故、隣室よりうらやましがられて居る程で御座います。……然し葛城は下等で荷物同様な取扱いをされて非常に苦しんで参りましたのに、私は上等室にて御客様扱いを受けて安楽に暮らして居りますから済まぬような申訳なきような心地がいたして居ります。
七月十日
信濃丸にて
馨子
愛する御姉君に参らす
*
去廿一日午後無事シヤトルに上陸いたしましたから、御安心下さいませ、……明日朝九時発の汽車でニューヨークに参ります。
七月廿四日夜
シヤトルにて
馨子
姉上様
*
昨日ニューヨークに着いたし、漸く目的の地に達し得候まゝ誠にうれしく存じ居り候。……葛城よりもよろしく、非常によろこび居り候。
七月卅一日
ニューヨークにて
馨子
姉上様
*
身の平和、心の喜、筆にも言葉にも尽されず候。
勝郎
あまりのうれしさに、今の米国は天国に候。
八月三日
馨子
ニューヨークにて
*
前略、無事にニューヨークに着きました。ニューヨークの停車場から独りで学校へ行く積りで居りましたら、思いもかけず葛城が迎えに来て居りました。手紙では随分強い事を申してよこしましたが、来て見れば非常によろこんで、よく来たと申して居ります。
前月の十日に病院に参りまして、直ぐ其日から働きました。慣れぬ業と言葉が始めは聞き取れぬので実に困りましたが、だん/\と慣れてよくなりました。実に病院の仕事はハードで御座います。
朝の七時から夜の七時までは腰も掛る事が出来ず、始終立って居りますから、足が痛くて/\実に初めは困りました。然し一日の内二時間は休めますから、一日の働時間は十時間で御座います。身体の工合のよき時はともかく、悪しき時は実にいやになります。慣れぬ仕事の上に一日立ちきりで御座いますから、身体の工合が妙になりまして、種々な変動を起しますが、慣れゝばよろしくなるとの事で御座います。
私は今は外科室の患者が四十人ばかり居る室で働いて居ります。随分ひどい重傷の人も居ります。脊骨を挫いた人が三人程に、火傷の人や、三階や二階から落ちた人や、盲腸炎の人や、なか/\種々な種類の患者が居ります。
脊骨が折れても余病さえ起さねば大丈夫で御座います。一人は肺炎を起して死にましたが、後の二人は丈夫で居りますが、然し実に痛たそうで随分気の毒で御座います。初めは手術室から帰って来た患者の側に居って看護をいたします事が一番恐ろしく、殊に睡眠剤の臭が鼻について自分が心地が悪くなりましたが、近頃は慣れて平気になりました。それからどんないやな恐ろしい事でも、自分がせねばならぬと思いますれば、何でも出来ます。未だ初めで御座いまして、ベッドを作る事や、病人の敷布をかえる事や、器械を煮て消毒する事や、床ずれの出来ぬように患者の脊をアルコールで擦る事や、氷嚢やら湯嚢やらをあてゝやったり、呑物を作って与えましたり、何やかやと、一日を忙わしく、足は棒のようになりまして、七時に室に帰って参りましても、疲れて起きて居る事が出来ません程で御座います。
朝は六時に起きまして、六時半に食堂に参りますが、初めは慣れぬし、三十分間に顔を洗い髪を結い制服を着、また床をなおす事が出来ませんでしたが、今では出来得るようになりました。慣れゝば十五分位でも出来得るようになるそうで御座います。見ないで後のボタンを掛けるのがむずかしく、出来ないで始めはよわりましたが、いつの間にか慣れて来ました。昼は忙わしいのと、夜は疲れますので、つい/\気不調法にもなりまして、皆様に御無沙汰を申上て居ります。然し夢はなつかしき千歳村の御宅の様子や、また私の母や妹の事など夢みます。いつも夢では日本に居ります。未だ此の地に参りましてから西洋の夢は見ません。年来聞き及びました理想を実際に行う事が出来まして、実に愉快に思います。患者は米国人も居れば、独乙人、伊太利人、ギリーク人、黒色人、実にあらゆる人を交えて居ります。初めは何だか異人のような気がして妙でしたが、今は平気になりまして、黒人でも誰でも自分の同胞の如く思われ、出来得るだけ親切に世話してやりたいと務めて居ります。初めは患者の方でも妙に思うたらしゅう御座いましたが、近頃ではよくなずいて、随分よくおとなしくして居てくれますし、病人の方から親切に語をかけてくれますようになりました。
校長もよろしい御方で、親切にして居て下さいます。私も日本に居りました時は、丈夫でいばりましたが、ニューヨークに参りましてから余り丈夫ではなく、風土やら食物やら万事が変った故で御座いましょう、昨日からも少し工合が悪しく寝て居りましたら、校長も度々見舞に来て呉れますし、なか/\手厚き看護して呉れますから、感謝いたして居ります。今日は午後から病院の働きに出ようと思いましたが、校長から許しが出ませんから、病院に参りませんで、床の上に座って先日から書きかけました御手紙を書きつゞけました。
葛城は明年ユニオンを卒業いたしますから、出ましたら直ぐ独乙へ行って二年程居って、それから直ぐ日本へ帰りたいと申して居ります。私は身体のつゞく限りは病院に居りたいと思うて居ります。出来るなら卒業をしたいと思いますが、卒業せぬでもかまいませんが、とにかく半年居ってもためになると思います。……葛城も本月の三日頃からとう/\働きに参りました。随分やはり骨が折れるそうで、気の毒に思いますが、少しは働いて見た方がよろしいと思います。……前には手紙を書いてから見るまでは一月もかゝりましたが、今は四時間程たてば手紙は参りますし一時間かゝればニューヨークにも行かれます、一週間に一度は多分逢えますから、幸福に思うて居ります。私は是非とも三四年は米国に居りたく思うて居ります、今の処では。
葛城は米国嫌いで、来年になったら直ぐ独乙へ行くと申して居ります。私も独乙行を勧めて居ります。是非行くようにと望んで居ります。
ニューヨークへ行きますには、地下の電車でも、亦エレベーターでもどちらでも取って参れます。私は近頃はニューヨークに独りで参れるようになりました。……御蔭様にて只今は満足して感謝して働いて居ります。少しも日本に未だ帰りたく思いません。永く米国に居りたく思います。米国に参りまして気が清々となりました。葛城が居りますから、何かと心強う御座います。然し手足まといにならぬよう世話にならぬようには充分致して居ります。末筆ながら鶴子様にはどんなに御可愛らしくいらっしゃいましょう。鶴子様位の御子様を見ます度に思い出されます。毎朝小児科の方に三つ四つの床を作りに参りますが、此の頃では子供も慣れて言葉をかけ、また私が帰ります時にはグードバイと皆口々に可愛いゝ声で叫んでくれますから、可愛くて堪らなくなります。可愛いゝ子供も赤児も沢山居ります。どうか御姉上様にも御丈夫でいらっして下さいませ。
九月八日
ブルックリン病院にて
馨子
御なつかしき
御姉上様
御まえに
身体の工合が悪いと申しましたが、大した事は御座いません。殊に病院で御座いますから、病気の心配は少しも御座いませんから、御安心下さいませ。
*
もはや秋となりました。故郷を思い出す時は、第一に粕谷の御家をなずかしく思い出します。去る八日、校長より学生として他の見習いの生徒と共に受け入れられ、今はキャプも貰い受け、真の看護婦になりました。無事に二ヶ月の苦しい見習いの時代は終りましたから、御安心下さいませ。
十月十二日
ブルックリン病院にて
馨子
姉上様
*
御はがきと御写真、夢ではないかとあやしむ程うれしく御なずかしく拝見いたしました。……相かわらず働きが激しいので、私のような者には、身体がとても続かぬと思いましたから止めようと思いましたが、然し倒れる迄は病院に居る積りで居ります。只信仰をもって神の助けによって日々の務をいたして居ります。
十月廿四日
ブルックリン病院にて
馨子
姉上様
*
十一月三日、今日は天長節で御座いますが、私に取っては何の変りもなく今日も一日働きました。然しなずかしき故郷の事が今日は一しお恋しくなずかしく思われます。其後は如何御過し遊ばされますか。いつも御なずかしく、先日御送り下さいました御写真を眺めては自分の弱さを励まして居ります。私は其後変りもなく自分の天職と信じて従事いたして居りますから、御安心下さいませ。先ず御なずかしきまゝに一寸御伺いいたしました。
十一月三日
ブルックリンにて
馨子
姉上様
*
目出度きクリスマスを遙かに御祝い申上ます。
此のエハガキにある可愛い子供は誰で御座いましょうか。鶴ちゃんでは御座いませんでしょうか。あまりよく似て居りますもの。とにかく此の児はクリスマスを是非千歳村のなずかしい御家で迎えたいと申します。大急ぎで今出立いたさせますから、よろしく御願い申します。
一千九百○九年基督降誕になりて
ブルックリンにて
馨子
御姉上様に
七
明治四十三年二月三日、粕谷草堂の一家が午餐の卓について居ると、一通の電報が来た。お馨さんの兄者人からである。眼を通した主人は思わず吁と叫んだ。
馨急病にて死せりと
妻は声を立てゝ哭いた。
主人は直ちに葛城の母と長兄を訪ねた。彼は面目ない心地がした。若し死が人生の最大不幸なら、お馨さんの渡米を沮んだ彼人々は先見の明があったのである。彼は其足で更にお馨さんの父母を訪うことにした。銀座で手土産の浅草海苔を買ったら、生憎「御結納一式調進仕候」の札が眼につく。昨年の春頼まれもせぬ葛城家の使者としてお馨さんの実家に約婚の許諾を獲に往った彼は、一年もたゝぬに此様な用事で二たび其家を訪おうとは思わなかった。
終列車は千葉までしか行かなかった。彼は千葉に泊って、翌朝房総線の一番に乗った。停車場に下りると、お馨さんの兄さんが待って居た。兄さんは赤い紙に書いた葛城から来た電文を見せた。
馨子急病昨夜世を去る
とある。兄さんはまた、父は非常に興奮して、終夜酒を飲み明かし、母や私に出て行けと申しますと云った。
岩倉家の玄関で車を下りると、お馨さんの阿爺が出て来た。座に請ぜられて、一つ二つ淀みがちな挨拶をすると、阿爺さんが突然わァッと声を立てゝ哭いた。少し話してまた声を放って哭いた。やがて阿母が出て来た。沈着な阿母も、挨拶半に顔が劇しく痙攣して、涙と共に声を呑んだ。彼は人の子を殺した苛責を劇しく身に受け、唯黙って辞儀ばかりした。
やがて酒が出た。彼は平生一滴も飲まぬが、今日はせめてもの事に阿爺阿母と盃の取りやりをしるしばかりした。岩倉家では丁度十四になる末から三番目の女を、阿母の実家にやる約束をして、其祝いをして居る所にお馨さんの訃報が届いたのだそうだ。丁度お馨さんが米国で亡くなった其晩に、阿母さんが玄関の式台に靴の響を聞きつけ、はッとして出て見たら誰も居なかったそうである。魂の彼女は其時早く太平洋を渡って帰って来たのであった。
彼はお馨さんの兄さんと共に葛城家へ往ってあとの相談をすることにした。阿爺さんは是非新築中の別荘を見て呉れと云って、草履をつッかけて案内に立った。酒ぶとりした六十翁の、溝を刎ね越え、阪を駈け上る元気は、心の苦から逃れようとする犠牲のもがきの様で、彼の心を傷ませた。やがて別荘に来た。其は街道の近くにある田圃の中の孤丘を削って其上に建てられた別荘で、質素な然し堅牢なものであった。西には富士も望まれた。南には九十九里の海――太平洋の一片が浅黄リボンの様に見える。お馨さんは去年此処の海を犬吠ヶ崎の方へ上って米国に渡ったのである。「如何です、海が見えましょう。馨が見えるかも知れん」と主翁が云う。広々とした座敷を指して、「葛城さんが帰って来たら、此処で祝言させようと思って居ました」と主翁がまた云う。
彼は一々胸に釘うたるゝ思であった。
八
お馨さん死去の電報に接して二週間目の二月十六日、午餐の席に郵便が来た。彼此と撰り分けて居た妻は、「あらッ、お馨さんが」と情けない声を立てた。
其はお馨さんが亡くなる二週間余り前のはがきであった。
新年をことほぎ参らせ候。
御正月になりましたら、精い御手紙を認めたいと思うて思うて居りましたが、御正月も元旦からいつもと同じに働いて休みなどは取れませんでしたから、つい/\御無沙汰いたしました。随分久しく御無沙汰申上ました。御許様御家内皆々様には御変りも御座いませんか。私はいつもながら達者で、毎日/\働いて居ります。其後は何の変りもなく無事に病院で勤めて居ります。知らぬ内に種々の事を覚えて行きます。
御正月にはホームシックにかゝりまして実に淋しく、毎日千歳村のなつかしい御家族の御写真のみ眺めて居りました。私は只神の御助けと御導きにより只神の御保護を信じて其日を暮して居ります。いずれ後より精しく申上ます。御なずかしきまゝに一寸申上ました。
一月十三日
米国ブルックリンにて
岩倉馨子
姉上様
彼世からのたよりが又一つ来た。其はお馨さんが臨終十一日前の手紙であった。
クリスマスと新年の祝いも、いつしか過ぎ去りまして、はや今日は二十日正月となりました。昨年の御正月には、御なずかしき御家に上りまして、御雑煮の御祝いに預りました。今でも実に何ともかとも申されぬなずかしきその時の光景を追懐いたします。実に月日の過ぎ行くのは早いもので御座いまして、もはや当地に参りましてから年の半分は立ちました。此様なですから、また御目にかゝる事の出来得る日は近きにある事と思います。
次に私事は相かわらず此病院で働いて居ります。三ヶ月程前から忙わしき婦人の病室の方へ参りましたもので、夜になって室に帰りましても、筆を取る勇気もなく過しましたが、二三日前から前に居った病室に帰りましたので、非常に楽になりました。
三ヶ月間は実に苦しい思いをいたしました。然し実によい経験を得ました。私は日本の看護婦のトレーニングにつきましては、どんなか少しも知りませんが、米国のトレーニング、スクールは、たしかに日本よりは勝って居ると思います。随分軍隊と同じような組織で、きびしゅう御座います。実にある点は高尚で完全ですが、またある点は劣って居る処もありますよう思われます。日本に居りました時とすっかり何から何まで変って居りまして、働いた事とて別に朝から夕までつゞけた事もありませんで、生活が全く異って居りますから、実に苦しく感じました。
近頃は朝から夕まで一度も腰もかけなくとも平気で働いて居ります。然し三ヶ月の間は、実に困りまして、幾度も止めようかと思いましたが、とう/\つゞけました。仕事が苦しいばかりでなく、上のヘッドの看護婦が余り人物の人でないもので、下の私共は実に辛く思いました。実に忙しいと申しましたら、あのような思いは実に/\初めてゞ御座います。若し日本に居ってならば、とても私には勤まりません。此処ではいや応なしですから、とにかく務めて居ります。私は卒業はするかしないか、私はどうしてもいやになれば明日にも止める積りで居ります、たゞ葛城が米国に居ります間は、厄介をかけるのが気の毒ですから、どうか続けたく思います。
友人の中にも、なか/\よい家庭に育って性質のよい人もありますが、また意地の悪い人もあります。やはり面も性質も日本人と同じで御座います。人類ですから、やはり皆人情は同じで御座います。
私は自分のベストを尽して居ります。親切と正直とを旨として居ります。病人もよくなついて呉れますし、自分の受持の病人には満足を与える事が出来ましたから、此れは自分の第一の宝と思うてよろこんで居ります。家に帰る時は、皆よろこんで感謝して帰りますから、是れが私の楽しみで御座いました。
婦人の病室に居りました時は、何から何まで一切世話をせねばなりませんし、中には老人で不随の人もありますから、床ずれの出来ぬようにそれ/″\手あてもせねばなりませんし、何ともかとも申されぬ程忙わしゅう御座います。大抵十二人位の人の世話を一人でいたしますし、また他の病室の病人の事も世話をせねばなりませんから、実に苦しゅう御座います。
看護法の実例なぞは、校長が一々生徒を集めて教えて呉れます。また今は医師が解剖と生理など講じて居ります。昨年はバクテリヤについて講義もきゝました。また校長が自ら看護法など学術的に教えて居ります。講義なども、学術の名は私は知りませんから、なか/\むずかしいですが、またこちらの人もあまりよくは知りませんから、共に勉強して居ります。むずかしいですが、少しは興味が御座います。看護婦は医学の事も知らねばなりませんから、余程勉強せねばなりません。一日一日と少しずつ何かと覚えて参りますから、有り難く思うて居ります。初めての米国にてのクリスマス、余り楽しくも御座いませんでしたが、然しクリスマスの時は、此処でもなか/\にぎやかで御座いました。当日は四時間暇が取れました。クリスマスディナーも御座いまして、なか/\盛んで御座います。皆々上機嫌で、うれしそうで御座います。
学校でもクリスマスにはクリスマスダンスが御座いました。私は生れて初めて真の舞踏会と云うものを見ました。実に優美なもので御座います。夜の八時頃から翌朝の二時か三時まで踊って居ります。元気のよいのには、おどろきました。私は夜会服のかわりに日本服を久々で着ました。皆々非常によろこんでくれました。
御正月には休みもなく、元日から常と同じに働きました。御正月には何となく故郷がなずかしく、さびしくって堪りませんでした。毎日/\忙わしく働いて居りますから、常にはホームシックも起りませんが、半日暇の時などは、実にさびしくて堪らぬ事があります。余り私は外出はいたしません。少なくも一週間に一度は出て、外の変った空気をすわねばならぬと知りつゝも、疲れるのがいやなので、つい/\出ません。当地の人は皆元気です。夜十二時に帰っても、翌日はやはり同じに務めます。学校では、一週に一度は十二時までの許しを貰えますし、三度は十一時までの許を貰えますし、常には十時までは何処に行ってもかまわぬようになって居ります。此処は感心で御座います。此の様に自由でも少しも乱れません。日本の女学校などには、見ようと思うても見られぬ処で御座いましょう。
私は今は自分で働いて自分で生活して居りますから、日本に居った時よりも、苦しみながらも、或一種の愉快が御座います。
葛城はユニオンの方も卒業に近づきました。早いもので、三年も束の間に過ぎ去りました。いつも私共は御なずかしき御両人様の御噂のみいたして居ります。千歳村、実になずかしく思います。
大抵二週間に一度は、逢います。前から私はニューヨークには独りで参れますから、半日暇を取れる時は、二週に一度は参ります。
当地は実に寒さはきびしゅう御座いまして、雪は度々降りますが、家の中の寒防はよく備わって居りますから、家の中の温度は、春のような気候で御座います。私はシモヤケは毎年出来ましたが、今年は冷い思いなどは少しもいたしませんから、手はきれいで、少しも出来ませんから御安心下さいませ。日本に居りました時は、シモヤケには困りました。外は随分寒く、身を切らるゝ様で御座います。雪が降りますと、なか/\溶けませんで、幾日も/\つもって居ります。
今日も雪模様ですから、午後から降るかもわかりません。
書きたい事は山々御座いますが、また次の便りの時にいたします。
乱筆を御許し下さいませ。日本語を此の頃は話しませんし、只葛城と日本語で話すものですから、乱暴な語ばかり習いまして、いつも余り無礼の語をつかって驚く事が御座います。
何卒乱筆乱文御許し下さいませ。
先は御無沙汰御詫びかた/″\御機嫌御伺いまで。
一月廿日
岩倉けい
御なつかしき
御姉上様
御まえに
此れがお馨さんの粕谷に寄せた最後の心の波であった。此手紙を書いて十一日目に、彼女は其最後の戦場なる米国ブルックリン病院看護婦学校の病室に二十四年の生涯を終えたのである。
お馨さんは死んだ。
新生涯の新夫婦、メェフラワァを目送するピュリタンの若い男女の一対の其一人は欠けた。残る一人は如何であろう?
一月卅一日午後七時半、最愛の我が馨子高貴なる人生の戦に戦い死す。忠信なりし彼の女は、死に至る迄忠信なりき。病は敗血症と腸炎の併発、事極めて意外、病勢は急転直下、僅かに二十時間にして彼女は去る。
盛大なりし葬式(ユニオン神学校に於ける)は、彼女と予とを永しえに結ばん為めの結婚の式なりき。多く言わず、唯察し玉え。
二月三日
勝郎
*
「日蓮は泣かねど、涙隙無し」と。涙隙無きに止まらず、声を挙げて泣ける事も幾たびぞ。怨み、嘆き、悲しみ、悔い、悩み、如何にして此幽闇の力破らんと、空しくあたり見廻わせるも幾度び。……幾度我れ死せば此の苦しみあらざりしものをと思い候。
されど若し弟先んぜば、馨子の悲痛は弟にも勝りて激しかりしならんか。弟をして此の憂闇の力を破り得しむるものは、唯一つ馨子生きて之れが為に戦い、死に及んで止まざりし我等の理想也。彼女の短かき生涯は、その一切の瑕瑾と不完全を以てして、遂に人生最高の理想を追い、之れが為めに戦い、戦い半ばならずして斃れし英雄の生涯也。遂に蜉蝣の如き人生は、生きて甲斐なけん。昔者プラトー、ソクラテスの口をして曰わしめて曰く、“It is not mere life, but a good life that we court”と。仮令馨子凱歌の中に光栄の桂冠戴くを得ざりしにせよ、彼女の生はその畢生の高貴なる焔のあらん限を尽して戦い、戦の途上戦い死せる光栄ある戦死者の生也。此の事、弟をして敬虔馨子の死の前にぬかずき、無限のインスピレーションを茲に汲ましむ。
二月十八日
勝郎
九
五月の初、お馨さんが髪と骨になって日本に帰って来た。お馨さんのカタミを連れ帰ったのは、日本に帰化した米国の女宣教師で、彼女は横須賀に永住して海軍々人の間に伝道し、葛城も久しく世話になって「母」と呼んで居た人で、お馨さんの病死の時は折よく紐育に居合わせ、始終万事の世話をしたのであった。
五月の四日、粕谷草堂の夫妻は鶴子を連れて、お馨さんの郷里に於ける葬式に列なるべく出かけた。両国の停車場で、彼等は古びた中折帽を阿弥陀にかぶった、咽喉に汚れた絹ハンカチを巻いた、金歯の光って眼の鋭い、癇癪持らしい顔をした外川先生と、強情できかぬ気らしい、日本人の彼等よりも却てヨリ好き日本語をつかうF女史に会った。
いつもの停車場で下りて、一同は車をつらねて彼丘の上の別荘に往って憩い、それから本宅に往った。お馨さんの父者人、母者人と三度目の対面をした。十二畳二間を打ぬいて、正面の床に遺髪と骨を納めた箱を安置し、昨日から来て葛城の姉さんが亡き義妹の為に作った花環をかざり、また藤なぞ生けてあった。お馨さんは自身の写真と云う写真を残らず破り棄てたそうで、目に見るべき其姿は残って居なかった。然しお馨さんによく肖た妹達が五人まで居て、其幼な立から二十歳前後を眼の前に見る様であった。外川先生が司会し、お馨さんの学友がオルガンを弾いて、一同讃美歌の「やゝにうつり行く夕日かげの、残るわがいのち、いまか消ゆらん。御使よ、つばさをのべ、とこしえのふるさとに、つれゆきてよ、……」と云うのを歌うた。
粕谷の彼は起ってお馨さんと彼等の干繋を簡単に述べ、父者人に対して卑怯なる虚言の罪を謝し、終に臨み、お馨さんの早世はまことに残念だが、自身の妹か娘があるならば、十人は十人矢張お馨さんの様に戦場に送りたいと思うと言った。
次ぎにF女史が立って、お馨さんの臨終前後の事を述べた。お馨さんは、ブルックリン病院の生徒となって以来、忠実に職分を尽して、校長はじめ先輩、同僚、患者、すべての人の信愛を贏ち得た。発病以来苦痛も中々あったであろうが、一言も不平憂悶の語なく、何をしてもらっても「有難う/\」と心から感謝し、信仰と感謝を以て此世を去った。真に見上げた臨終で、校長はじめ一人として其美しい勇ましい臨終に感激せぬ者は無かった。F女史は斯く事細かに語り来って「私も斯様に米国から御国に伝道に参って居りますが、馨子さんの働きを見れば、其働きの間は実に暫の間でございましたが、私は恥入る様に思います。馨子さんは実にやさしい方で、其上男も及ばぬ凜々しい魂を持ってお出でした。春の初に咲く梅の花の様な方でした」と云うた。
言下に、粕谷の彼は、彼の園内の梅の下に立ち白い花を折って黒髪に插すお馨さんの姿をまざまざと眼の前に見た。本当に彼女は人になった梅の花であった。だから其花を折って簪にしたのだ。彼女にして初めて梅の花を簪にすることが出来る。彼は重ねて思うた。米国からF女史が帰化して、日本に伝道に来る。日本からお馨さんが米国に往って米国の人達に敬愛されて死ぬる。斯うして日米の間は自然に繋がれる。お馨さんは常に日米感情の齟齬を憂えて居る女であった。日米の親和を熱心に祈って居た女であった。其祈は聴かれて、彼女は米国に死んだ。米国の灰になり米国の土になった彼女は、真に日本が米国に遣わした無位無官の本当の平和の使者の一人であったと。蓋「宝の在る所心もまた在る」道理で、お馨さんを愛する程の人は、お馨さんの死んだ米国を懐わずには居られないのである。
最後に外川先生が師弟の関係を述べ、「彼女は強い女であったが、体は強健だし、貧乏はしないし、思いやりと云うものが或は欠ける恐れがあった。だから自分は米国渡航を賛成したのであった。自分は考えた、彼女が二三年も米国に揉まれると、実にエライ女になって来る。然るに今Fさんの言を聞けば、彼女は短かい期間であったが立派に其人格を完成することが出来た。だから死んだのである」と云うた。
外川先生の祈祷で式は終えた。一同記念の撮影をして、それから遺髪と遺骨を岩倉家の菩提寺の妙楽寺に送った。寺は小山の中腹にある。本堂の背後、一段高い墓地の大きな海棠の下に、
岩倉馨子之墓
と云う小さな墓標が立てられた。
*
葛城は其後間もなく独逸に渡った。
千九百十年 六月十八日
ニューヨーク
本日午後三時当地出帆。
三年苦戦健闘のアメリカを去らんとして感慨強し。闘争は一個微弱なる一少年を化して、兎も角も男を作り候。
馨子を煙とせし北米の空、ふり仰いで涙煙の如く胸を襲う。
勝郎
十
生きて居る者は、苦まねばならぬ。死んだお馨さんは、霊になって猶働きつゝあるのだ。
「お馨さんの梅」は、木の生くる限り春毎に咲くであろう。短く此生に生きたお馨さんは、永久に霊に活きて働くであろう。
関寛翁
一
明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な爺さんが訪ねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺と名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、顋に些の疎髯をヒラ/\させ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ず我を折った。
兎も角も上に請じ、問わるゝまゝにトルストイの消息など話す。爺さんは五十年来実行して居る冷水浴の話、元来医者で今もアイヌや移住民に施療して居る話、数年前物故した婆さんの話なぞして、自分は婆の手織物ほか着たことはない、此も婆の手織だと云って、ごり/\した無地の木綿羽織の袖を引張って見せた。面白い爺さんだと思うた。
其後「命の洗濯」「旅行日記」「目ざまし草」など追々爺さんから自著の冊子を送って来た。面白い爺さんの一癖も二癖もある正体が読めて来た。経歴の一端も分かった。爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで、官軍の軍医、病院長として、熱心に働いた。順に行けば、軍医総監男爵は造作もないことであったろうが、持って生れた骨が兎角邪魔をなして、上官と反りが合わず、官に頼って事を為すは駄目と見限りをつけて、阿波徳島に帰り、家禄を奉還して、開業医の生活を始めたのが、明治五年であった。爾来こゝに、孜々として仁術を続け、貧民の施療、小児の種痘なぞ、其数も夥しいものになった。家も相応に富んだ。五男二女、孫も出来、明治三十四年には翁媼共に健やかに目出度金婚式を祝うた。剛気の爺さんは、此まゝ楽隠居で朽果つるを嫌った。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部及び老いの生命二つを其牧場に投ず可く決心した。婆さんもエラ者である。老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり鎌をとって働いた。二年を出でずして婆さんは亡くなる。牧場主任の四男は日露戦役に出征する。爺さん一人淋しく牛馬と留守の任に当って居たが、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野に若手の者と談話を交換し意見を闘わすを楽の一として居る。読書、旅行と共に、若い者相手の他流試合は、爺さんの道楽である。旅行をするには、風呂敷包一つ。人を訪うには、初対面の者にも紹介状なぞ持っては往かぬ。先日の来訪も、型の如く突然たるものであった。
爺さんが北海道に帰ってからよこした第一の手紙は、十三行の罫紙に蠅頭の細字で認めた長文の手紙で、農とも読書子ともつかぬ中途半端な彼の生活を手強く攻撃したものであった。爺さんは年々雁の如く秋は東京に来て春は北に帰った。上京毎にわざ/\来訪して、追々懇意の間柄となった。手ずから採った干薇、萩のステッキ、鶉豆なぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南の老父に此爺さんの噂をしたら父は少し考えて、待てよ、其は昔関寛斎と云った男じゃないかしらん、長崎で脚疾の治療をしてもらったことがある、中々きかぬ気の男で、松本良順など手古摺って居た、と云った。爺さんに聞いたら、果して其は事実であった。其後爺さんは湘南漫遊の砌老父が許に立寄って、八十八の旧患者は八十一の旧医師と互に白鬚を撫して五十年前崎陽の昔を語ると云う一幕があった。所謂縁は異なものである。
北海道も直ぐ開けて了う、無人境が無くならぬ内遊びに来い遊びに来いと、爺さん頻りに促す。彼も一度は爺さんの生活ぶりを見たいと思いながら、何や角と延ばして居る内に、到頭爺さんの住む山中まで汽車が開通して了った。そこで彼は妻、女を連れてあたふた武蔵野から北海道へと遊びに出かけた。
左に掲ぐるは、訪問記の数節である。
二
「北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川の谷を北へ北へまた北へ北へと駛って、夕の四時㓐別駅に着いた。明治四十三年九月二十四日、網走線が㓐別まで開通した開通式の翌々日である。
今にはじめぬ鉄道の幻術、此正月まで草葺の小屋一軒しかなかったと聞く㓐別に、最早人家が百戸近く、旅館の三軒料理屋が大小五軒も出来て居る。開通即下のごったかえす㓐別館の片隅で、祝の赤飯で夕飯を済まし、人夫の一人に当年五歳の女児鶴、一人に荷物を負ってもらい、余等夫婦洋傘を翳してあとにつき、斗満の関牧場さして出かける。
新開町の雑沓を後にして、道は直ぐ西に蒼い黄昏の煙に入った。やがて橋を渡る。㓐別橋である。開通を当に入り込んだ人間が多く仕事が無くて困ると云う人夫の話を聞きながら、滑りがちな爪先上りの路を、懐中電燈の光に照らして行く。雨は止んで、日はとっぷり暮れた。不図耳に入るものがある。颯々――颯々と云う音。はっとして余は耳を立てた。松風か。否、松風でない。峰の嵐でもない。水声である。余は耳を澄ました。何と云う爽な音か。此世の声で無い。確に別天地から通うて来る、聴くまゝに耳澄み心澄み魂も牽き入れらるゝ様ななつかしい音である。人夫にきくと、果して斗満川であった。やがて道は山側をめぐってだら/\下りになった。水声の方からぱっと火光がさす。よく見れば右側山の手に家がある。道の左側にも家がある。人の話声がして止んだ。此だな、と思って音なわすと、道側の矮い草葺の中から真黒な姿がぬっと出て「東京のお客さんじゃありませんか。御隠居が毎日御待兼ねです」と云って、先に立って案内する。水声に架す橋を渡って、長方形の可なり大きな建物に来た。導かるゝまゝにドヤ/\戸口から入ると、眩しい洋燈の光に初見の顔が三つ四つ。やがて奥から咳払いと共に爺さんが出て来た。
「おゝ鶴坊来たかい。よく来た。よく来た」
*
九月二十五日。雨。
爺さんでは長過ぎる。不躾でもある。あらためて翁と呼ぶ。翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓で、四十坪程の質素な木造。立派ではないが建て離しの納屋、浴室、窖室もあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸、山から引いたのと二通りもあって、贅沢はないが不自由もない住居だ。翁は此処に三男余作君、牧場創業以来の老功片山八重蔵君夫婦、片山夫人の弟にして在郷軍人たる田辺新之助君、及び其病妹と共に住んで居る。此処は十勝で、つい川向うが釧路、創業当時の草舎も其の川向にあって、今四男又一君が住んで居る。駅逓の前は直ぐ北見街道、其向うは草叢を拓いて牛馬舎一棟、人の住む矮い草舎が一棟。道側に大きなヤチダモが一樹黄葉して秋雨を滴らして居る。
駅逓東南隅の八畳が翁の居間である。硝子窓から形ばかり埒を結った自然のまゝの小庭や甘藍畑を見越して、黄葉のウエンシリ山をつい鼻のさき見る。小机一つ火の気の少ない箱火鉢一つ。床には小杉榲邨の「淡きもの味はへよとの親こゝろ共にしのびて昔かたらふ」と書いた幅を掛けてある。翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香を焼いて神明に祈り、机の前に端座して老子を読んだのである。老子は翁の心読書、其についでは創世記、詩篇、約百記なぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族の老酋長の物語は、十勝の山中に牛馬と住む己が境涯に引くらべて、殊に興味が深いのであろう。
落つけよとの雨が終日降りくらす。翁の室と板廊下一つ隔てた街道側の八畳にくつろいで居ると、翁は菓子、野葡萄、玉蜀黍、何くれと持て来ては鶴子にも余等にも与え、小さな炉を中に、黒い毛繻子の前掛の膝をきちんと座って、さま/″\の話をする。昔からタヾの医者でなかった翁の所謂灌水は単に身体の冷水浴をのみ意味せぬ如く、治術も頗活機に富んだもので、薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲と云う水薬を調合し、今も待効丸と云う丸薬を与えるが、其れが不思議によく利くそうだ。然し翁の医術はゴマカシではない。此を見てくれとさし出す翁の右手をよく見れば、第三指の尖が左の方に向って鉤形に曲って居る。打診に精神がこもる証拠だ。乃公の打診は何処をたゝいても患者の心臓にピーンと響く、と云うのが翁の自慢である。やがて翁は箱の様なものを抱えて来た。関家の定紋九曜を刳りぬいた白木の龕で、あなたが死ぬ時一処に牧場に埋めて牛馬の食う草木を肥やしてくれと遺言した老夫人の白骨は、此中に在るのだ。翁も夫人には一目置いて、婆は自分よりエラかったと口癖の様に云う。それから五郎君の噂が出る。五郎君は翁の末子である。明治三十九年の末から四十年の始にかけ、余は黒潮と云う手紙代りの小さな雑誌を出したが、其内田舎住居をはじめたので、三号迄も行かぬ二号雑誌に終った。あとを催促の手紙が来た中に、北海道足寄郵便局の関五郎と云う人もあって、手紙に添えて黒豆なぞ送って来た。通り一遍の礼状を出したきり、関とも五郎とも忘れて居ると、翌年関又一と云う人から五郎君死去の報が来た。形式的に弔詞は出したが、何れの名も余には遠いものであった。処があとで関翁の話を聞けば、思いきや五郎君は翁の末子で、翁が武蔵野の茅舎を訪われたのも、実は五郎君の勧であった。要するに余等は五郎君の霊に引張られて今此処に来て翁と対座して居るのである。
翁は一冊の稿本を取り出して来て示される。題して関牧場創業記事と云う。披いて見ると色々面白い事がある。牧場も創業以来已に十年、汽車も開通して、万事がこゝに第二期に入らんとして居る。既往を思えば翁も一夢の感があろう。翁はまた此様なものを作ったと云って見せる。場内の農家に頒つ刷物である。
日々の心得の事
一 一家和合して先祖を祭り老人を敬うべし
一 朝は早く起き家業に就き夜は早く寝につくべし
一 諸上納は早く納むべし
一 金銭取引の勘定は時々致すべし
一 他人と寄合の時或は時間の定ある時は必ず守るべし
一 何事にても約束ある上は必ず実行すべし
一 偽言は一切いうべからず
一 火の要心を怠るべからず
一 掃除に成丈注意すべし
一 流し元と掃溜とは気をつけて衛生に害なきよう且肥料にすべき事
一 家具の傷みと障子の切張とに心付くべし
一 喰物はむだにならぬ様に心を用い別して味噌と漬物とは用いたる跡にも猶心を用うべし
一 他人より物をもらいたる時は返礼を忘るべからず
一 買物は前以て価を聞き現金たるべし一厘にてもむだにならぬ様にすべし
一 総て身分より内輪に諸事に心懸くべし人を見さげぬ様に心懸くべし
一 常着は木綿筒袖たるべし
一 種物は成るべく精撰して取るべし
一 農具は錆ぬ様に心懸くべし
一 貯金は少しずつにても怠るべからず
一 一ヶ年の収入に応じて暮方を立つべし
一 一家の経済は家族一同に能く知らせ置くべし
一 他人の子をも我子にくらべて愛すべし
一 他人より諸品を借りたる時は早く返すことに心がくべし
一 場内の農家は互に諸事を最も親しくすべし
一 平生自己の行に心を尽すべし且世上に対すべし
明治四十三年
翁はもと/\我利から広大の牧場地を願下げたと思わるゝを心から嫌って、目下場内の農家がまだ三四戸に過ぎぬのをいたく慙じ、各十町を所有する中等自作農をせめて百戸は場内に入るべく切望して居る。
午後アイヌが来たと呼ばれるので、台所に出て見る。アツシを着た四十左右の眼の鋭い黒髯蓬々たる男が腰かけて居る。名はヱンデコ、翁の施療を受けに利別から来た患者の一人だ。此馬鹿野郎、何故もっと早く来ぬかと翁が叱る。アイヌはキマリ悪るそうに笑って居る。着物をぬいで御客様に毛だらけの膚を見せろ、と翁が云う。体が臭いからとモジ/\するのを無理やりに帯解かせる。上半身が露われた。正に熊だ。腹毛胸毛はものかは、背の真中まで二寸ばかりの真黒な熊毛がもじゃ/\渦まいて居る。余も人並はずれて毛深い方だが、此アイヌに比べては、中々足下にも寄れぬ。熟々感嘆して見惚れる。翁は丁寧に診察を終って、白や紫沢山の薬瓶が並んだ次の間に調剤に入った。
河西支庁の測量技手が人夫を連れて宿泊に来たので、余等は翁の隣室の六畳に移る。不図硝子窓から見ると、庭の楢の切株に綺麗な縞栗鼠が来て悠々と遊んで居る。開けたと云っても、まだ/\山の中だ。
四時過ぎになると、翁の部屋で謡がはじまった。「今を初の旅衣――」ポンと鼓が鳴る。高砂だ。謡も鼓もあまり上手とも思われぬが、毎日午後の四時に粥二椀を食って、然る後高砂一番を謡い、日が暮るゝと灌水して床に入るのが、翁の常例だそうな。
夕飯から余等も台所の板敷で食わしてもらう。食後台所の大きな暖炉を囲んで、余作君片山君夫婦と話す。余作君は父翁の業を嗣いで医者となり、日露戦後哈爾賓で開業して居たが、此頃は牧場分担の為め呼ばれて父翁の許に帰って居る。片山君は紀州の人、もと北海道鉄道に奉職し、後関家に入って牧場の創業に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕ある鳳眼にして長面の片山君は、銭函の海岸で崖崩れの為死んだ愛犬の皮を胴着にしたのを被て、手細工らしい小箱から煙草をつまみ出しては長い煙管でふかしつゝ、悠然とストーブの側に胡踞かき、関翁が婆ァ婆ァと呼ぶ頬の殺げたきかぬ気らしい細君は、モンペ袴をはいて甲斐〻〻しく流しもとに立働いて居ると、隅の方にはよく兎を捕ると云う大きな猫の夫婦が箱の中に共寝して居る。話上手の片山君から創業時代の面白い話を沢山に聞く。㓐別は古来鹿の集る所で、アイヌ等が鹿を捕るに、係蹄にかゝった瘠せたのは追放し、肥大なやつばかり撰取りにして居たそうだ。鮭、鱒、鯇なぞは持ちきれぬ程釣れて、草原にうっちゃって来ることもあり、銃を知らぬ山鳥はうてば落ちうてば落ちして、うまいものゝ例にもなる山鳥の塩焼にも饜いて了まった。たゞ小虫の多いは言語道断で、蛇なぞは人を避くることを知らず、追われても平気にのたくって居たそうな。寒い話では、鍬の刃先にはさまった豆粒を噛みに来た鼠の舌が鍬に氷りついたまゝ死に、鼠を提げると重たい開墾鍬がぶらり下ってもはなれなかった話。哀れな話では、十勝から生活のたつきを求めて北見に越ゆる子もちの女が、食物に困って山道に捨子した話。寂しい話では、片山夫人が良人の留守中犬を相手に四十日も雪中斗満の一つ家に暮らし、四十日間に見た人間の顔とては唯アイヌが一人通りかゝりに寄ったと云う話。不便な話では、牧場は釧路十勝に跨るので、斗満から十勝の中川郡本別村の役場までの十余里はまだ可として、釧路の白糠村役場までは足寄を経て近道の山越えしても中途露宿して二十五里、はがき一枚の差紙が来てものこ/\出かけて行かねばならなかった話。珍な話ではつい其処の斗満川原で、鶺鴒が鷹の子育てた話。話から話と聞いて居ると、片山君夫婦が妬ましくなった。片山君も十年精勤の報酬の一部として、牧場内の土地四十余町歩を分与され、これから関家を辞して自家生活の経理にかゝるのであるが、過去十年関家に尽した創業の労苦の中に得た程の楽は、中々再びし難いかも知れぬ。
九月廿六日。霽。
翁の縁戚の青年君塚貢君の案内で、親子三人㓐別の方に行って見る。斗満橋を渡ると、街道の北側に葭葺の草舎が一棟。明治三十五年創業の際建てた小屋だ、と貢君説明する。今は多少の修補をして、又一君と其縁戚の一少年とが住んで居る。直ぐ其側に二十坪程の木羽葺の此山中にしては頗立派なまだ真新しい家が、戸をしめたまゝになって居る。此は関翁の為に建てられた隠宅だが、隠居嫌の翁は其を見向きもせずして寧駅逓に住み、台所の板敷にストーブを囲んで一同と黍飯を食って居るのである。道をはさんで、粗造な牛舎や馬舎が幾棟、其処らには割薪が山のように積んである。此辺は蕨を下草にした楢の小山を北に負うて暖かな南向き、斗満の清流直ぐ傍を流れ、創業者の住居に選びそうな場所である。山角をめぐって少し往くと、山際に草葺のあばら舎がある。片山君等が最初に建てた小舎だが、便利のわるい為め見すてゝ川側に移ったそうな。何時の間にか㓐別橋に来た。先夜は可なりあるように思ったが、駅逓から十丁には過ぎぬ。聞けば、関牧場は西の方ニオトマムの辺から起って、斗満の谷を川と東へ下り、㓐別川クンボベツ川斗満川の相会する㓐別谷を東のトマリとして南に折れ、三川合して名をあらためて利別川の谷を下って上利別原野の一部に及び、云わば一大鎌状をなして、東西四里、南北一里余、三千余町歩、㓐別停車場及㓐別市街も其内にある。鉄道院では、池田駅高島駅等附近の農牧場所有者の姓氏を駅の名に附する先例により、今の停車場も関と命名すべく内意を示したが、関翁が辞して㓐別駅となったそうな。市街は見ず、橋から引返えす。帰路斗満橋上に立って、やゝ久しく水の流を眺める。此あたり川幅六七間もあろうか。㓐別橋から瞰むる㓐別川の川床荒れて水の濁れるに引易え、斗満川の水の清さ。一個々玉を欺く礫の上を琴の相の手弾く様な音立てゝ、金糸と閃めく日影紊して駛り行く水の清さは、まさしく溶けて流るゝ水晶である。「千代かけてそゝぎ清めん我心、斗満の水のあらん限りは」と翁の歌が出来たも尤である。貢君の話によれば、斗満川の水温は㓐別川の其れより三四度も低いそうな。人跡到らぬキトウス山の陰から来るのだ。然もあろう。今こそ駅逓には冬も氷らぬ清水が山から引かれてあるが、まだ其等の設備もなかった頃、翁の灌水は夏はもとより冬も此斗満川でやったのだ。此斗満の清流が数尺の厚さに氷結した冬の暁、爛々たる曙の明星の光を踏んで、浴衣一枚草履ばきで此川辺に下り立ち、斧で氷を打割って真裸に飛び込んだ老翁の姿を想い見ると、畏敬の情は自然に起る。
駅逓に帰って、道庁技師林常夫君に面会。駒場出の壮年の林学士。目下ニオトマムに天幕を張って居る。明日関翁と天幕訪問の約束をする。
昨夕来泊した若年の測量技手星正一君にも面会。星君が連れた若い人夫が、食饌のあと片付、掃除、何くれとまめ/\しく立働くを、翁は喜ばしげに見やって、声をかけ、感心だと賞める。
午後は親子三人、此度は街道を西南に坂を半上って、牧場の埒内に入る。東向きの山腹、三囲四囲もある楢の大木が、幾株も黄葉の枝を張って、其根もとに清水が湧いたりして居る。馬牛の群の中を牛糞を避け、馬糞を跨ぎ、牛馬舎の前を通って、斗満川に出た。少し川辺に立って居ると、小虫が黒糠の様にたかる。関翁が牧場記事の一節も頷かれる。左程大くはないと云っても長六尺はある蕗や、三尺も伸びた蓬、自然生の松葉独活、馬の尾について殖えると云う山牛蒡、反魂香と云う七つ葉なぞが茂って居る川沿いの径を通って、斗満橋の袂に出た。一坪程の小さな草舎がある。屋後には熊の髑髏の白くなったのや、まだ比較的生しいのを突き刺した棹、熊送りに用うるアイヌの幣束イナホなどが十数本、立ったり倒れたりして居る。此は関家で熊狩に雇って置くアイヌのイコサックルが小屋で、主は久しく留守なのである。覗て見ると、小屋の中は薄暗く、着物の様なものが片隅に置いてある。昔は置きっぱなしで盗まるゝと云う様な事はなかったが、近来人が入り込むので、何時かも大切の鉄砲を盗まれたそうだ。(イコサックルは何を悲観したのか、大正元年の夏多くの熊を射た其鉄砲で自殺した。)
駅逓にはいる時、大勢の足音がする。見れば、巨鋸や嚢を背負い薬鑵を提げた男女が、幾組も/\西へ通る。三井の伐木隊である。富源の開発も結構だが、楢の木はオークの代用に輸出され、エゾ松トヾ松は紙にされ、胡桃は銃床に、ドロはマッチの軸木になり、樹木の豊富を誇る北海道の山も今に裸になりはせぬかと、余は一種猜忌の眼を以て彼等を見送った。
夕方台所が賑やかなので、出て見る。真白に塗った法界屋の家族五六人、茶袋を手土産に、片山夫人と頻に挨拶に及んで居る。やがて月琴を弾いて盛に踊った。
夕食に鮪の刺身がつく。十年ぶりに海魚の刺身を食う、と片山さんが嘆息する。汽車の御馳走だ。
要するに斗満も開けたのである。
九月二十七日。美晴。
今日は斗満の上流ニオトマムに林学士の天幕を訪う日である。朝の七時関翁、余等夫妻、草鞋ばきで出掛ける。鶴子は新之助君が負ってくれる。貢君は余等の毛布や、関翁から天幕へみやげ物の南瓜、真桑瓜、玉蜀黍、甘藍なぞを駄馬に積み、其上に打乗って先発する。仔馬がヒョコ/\ついて行く。又一君も馬匹を見がてら阪の上まで送って来た。
阪を上り果てゝ、囲いのトゲ付鉄線を潜り、放牧場を西へ西へと歩む。赭い牛や黒馬が、親子友だち三々伍々、群れ離れ寝たり起きたり自在に遊んで居る。此処はアイヌ語でニケウルルバクシナイと云うそうだ。平坦な高原の意。やゝ黄ばんだ楢、檞の大木が処々に立つ外は、打開いた一面の高原霜早くして草皆枯れ、彼方此方に矮い叢をなす萩はすがれて、馬の食い残した萩の実が触るとから/\音を立てる。此萩の花ざかりに駒の悠遊する画趣が想われ、こんな所に生活する彼等が羨ましくなった。そこで余等も馬に劣らじと鼻孔を開いて初秋高原清爽の気を存分に吸いつゝ、或は関翁と打語らい、或は黙して四辺の景色を眺めつゝ行く。南の方は軍馬補充部の山又山狐色の波をうち、北は斗満の谷一帯木々の色すでに六分の秋を染めて居る。ふりかえって東を見れば、㓐別谷を劃るヱンベツの山々を踏まえて、釧路の雄阿寒、雌阿寒が、一は筍のよう、他は菅笠のような容をして濃碧の色くっきりと秋空に聳えて居る。やゝ行って、倒れた楢の大木に腰うちかけ、一休してまた行く。高原漸く蹙って、北の片岨には雑木にまじって山桜の紅葉したのが見える。桜花見にはいつも此処へ来る、と関翁語る。
やがて放牧場の西端に来た。直ぐ眼下に白樺の簇立する谷がある。小さな人家一つ二つ。煙が立って居る。それからずっと西の方は、斗満上流の奥深く針葉樹を語る印度藍色の山又山重なり重なって、秋の朝日に菫色の微笑を浮べて居る。余等はやゝ久しく恍惚として眺め入った。あゝ彼の奥にこそ玉の如き斗満の水源はあるのだ。「うき事に久しく耐ふる人あらば、共に眺めんキトウスの月」と関翁の歌うた其キトウスの山は、彼奥にあるのだ。而して関翁の夢魂常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の奥にあるのだ。翁の迦南は其処にある。創業から創業に移る理想家の翁にとって、汽車が開通した㓐別なんぞは最早久恋の地では無い。其身斗満の下流に住みながら、翁の雄心はとくの昔キトウスの山を西に越えて、開闢以来人間を知らぬ原始的大寂寞境の征服に駛せて居る。共に眺めんキトウスの月、翁は久しくキトウスの月を共に眺むる人を求めて居る。若い者さえ見ると、胸中の秘をほのめかす。此日放牧場の西端に立って遙に斗満上流の山谷を望んだ時、余は翁が心絃の震えを切ないほど吾心に感じた。
鉄線を潜って放牧場を出て、谷に下りた。関牧場はこれから北へ寄るので、此れからニオトマムまでは牧場外を通るのである。善良な顔をした四十余の男と、十四五の男児と各裸馬に乗って来た。関翁が声をかける。路作りかた/″\㓐別まで買物に行くと云う。三年前入込んだ炭焼をする人そうな。やがて小さな流れに沿う熊笹葺きの家に来た。炭焼君の家である。白樺の皮を壁にした殖民地式の小屋だが、内は可なり濶くて、畳を敷き、奥に箪笥柳行李など列べてある。妻君も善い顔をして居る。囲炉裏側に腰かけて渋茶の馳走になって居ると、天幕から迎いの人夫が来た。
茶を飲みながらふと見ると、壁の貼紙に、彼岸会説教、斗満寺と書いてある。斗満寺! 此処に其様なお寺があるのか。えゝありますと云う。折りからさきに馬に乗ってた子の弟が二人、本を抱えて其お寺から帰って来たので、早速案内を頼む。白樺の林の中を五六丁行くと、所謂お寺に来た。此はまた思い切って小さな粗造な熊笹葺き、手際悪く張った壁の白樺赤樺の皮は反っくりかえって居る。関翁を先頭にどや/\入ると、形ばかりの床に荒莚を敷いて、汚れた莫大小のシャツ一つ着た二十四五の毬栗頭の坊さんが、ちょこなんと座って居る。後に、細君であろ、十八九の引つめに結って筒袖の娘々した婦人が居る。土間には、西洋種の瓢形南瓜や、馬鈴薯を堆く積んである。奥の壁つきには六字名号の幅をかけ、御燈明の光ちら/\、真鍮の金具がほのかに光って居る。妙に胸が迫って来た。紙片と鉛筆を出して姓名を請うたら、斗満大谷派説教場創立係世並信常、と書いてくれた。朝露の間は子供に書を教え、それから日々夫婦で労働して居るそうだ。御骨も折れようが御辛抱なさい、急いで立派な寺なぞ建てないで、と云って別を告げる。戸外に紫の蝦夷菊が咲いて居た。あとで聞けば、坊さんは越後者なる炭焼小屋の主人が招いたので、去年も五十円から出したそうだ。檀家一軒のお寺もゆかしいものである。
樺林を拓いて、また一軒、熊笹と玉蜀黍の稈で葺いた小舎がある。あたりには樺を伐ったり焼いたりして、黍など作ってある。関翁が大声で、「婆サン如何したかい、何故薬取りに来ない?」と怒鳴る。爺さんが出て来て挨拶する。婆さんは留守だった。十一二の男児が出て来る。翁は其肩をたゝき顔を覗き込むようにして「如何だ、関の爺を識ってるか。ウム、識ってるか」子供がにこ/\笑う。路は樺林をぬけて原に出る。霜枯れた草原に、野生松葉独活の実が紅玉を鏤めて居る。不図白木の鳥居が眼についた。見れば、子供が抱えて行って了いそうな小さな荒削りの祠が枯草の中に立って居る。誰が何時来て建てたのか。誰が何時来て拝むのか。西行ならばたしかに歌よむであろ。歌も句もなく原を過ぎて、崖の下、小さな流に沿うてまた一つ小屋がある。これが斗満最奥の人家で、駅逓から此処まで二里。最後の人家を過ぎてしばらく行く程に、イタヤの老樹が一株、大分紅葉した枝を、振面白くさし伸べて居る小高い丘に来た。少し早いが此処で昼食とする。人夫が蕗の葉や蓬、熊笹引かゞってイタヤの蔭に敷いてくれたので、関翁、余等夫妻、鶴子も新之助君の背から下りて、一同草の上に足投げ出し、梅干菜で握飯を食う。流れは見えぬが、斗満の川音は耳爽に、川向うに当る牧場内の雑木山は、午の日をうけて、黄に紅に緑に燃えて居る。やがてこゝを立って小さな渓流を渡る時、一同石に跪いて清水をむすぶ。
最早人気は全く絶えて、近くなる時斗満の川音を聞くばかり。鷹の羽なぞ落ちて居る。径は稀に渓流を横ぎり、多く雑木林を穿ち、時にじめ/\した湿地を渉る。先日来の雨で、処々に水溜が出来て居るが、天幕の人達が熊笹を敷き、丸木を渡しなぞして置いて呉れたので、大に助かる。関翁は始終一行の殿として、股引草鞋尻引からげて杖をお伴にてく/\やって来る。足場の悪い所なぞ、思わず見かえると、後見るな/\と手をふって、一本橋にも人手を仮らず、堅固に歩いて来る。斯くて四里を歩んで、午後の一時渓声響く処に鼠色の天幕が見えた。林君以下きながしのくつろいだ姿で迎える。
斗満川辺の少しばかりの平地を拓いて、天幕が大小六つ張ってある。アイヌの小屋も一つある。林林学士を統領として、属員人夫アイヌ約二十人、此春以来此処を本陣として、北見界かけ官有針葉樹林の調査をやって居るのである。別天地の小生涯、川辺に風呂、炊事場を設け、林の蔭に便所をしつらい、麻縄を張って洗濯物を乾し、少しの空地には青菜まで出来て居る。
茶の後、直ぐ川を渡って針葉樹林の生態を見に行く。濶五間程の急流に、楢の大木が倒れて自然に橋をなして居る。幹を踏み、梢を踏み、終に枝を踏む軽業、幸に関翁も妻も事なく渡った。水際の雑木林に入ると、「あゝ誰れか盗伐をやったな」と林学士が云う。胡桃が伐ってある。木の名など頻に聞きつゝ、針葉樹林に入る。此林特有の冷気がすうと身を包む。蝦夷松や椴松、昔此辺の帝王であったろうと思わるゝ大木倒れて朽ち、朽ちた其木の屍から実生の若木が矗々と伸びて、若木其ものが径一尺に余るのがある。サルオガセがぶら下ったり、山葡萄が絡んだり、其自身針葉樹林の小模型とも見らるゝ、緑、褐、紫、黄、さま/″\の蘚苔をふわりと纏うて居るのもある。其間をトマムの剰水が盆景の千松島と云った様な緑苔の塊を洄って、流るゝとはなく唯硝子を張った様に光って居る。やがて麓に来た。見上ぐれば、蝦夷松椴松峯へ峰へと弥が上に立ち重なって、日の目も漏れぬ。此辺はもう関牧場の西端になっていて、林は直ちに針葉樹の大官林につゞいて居るそうだ。此永劫の薄明の一端に佇んで、果なくつゞく此深林の奥の奥を想う。林学士は斯く云うた、北見、釧路、十勝に跨る針葉樹の処女林には、アイヌを連れた技師技手すら、踏み迷うて途方に暮るゝことがある、其様な時には峰を攀じ、峰に秀ずる蝦夷松椴松の百尺もある梢に猿の如く攀じ上り、展望して方向をきめるのです、と。突然銃声が響いた。唯一発――あとはまた森となる。日光恋しくなったので、ここから引返えし、林の出口でサビタの杖など伐ってもらって、天幕に帰る。
勝手元は御馳走の仕度だ。人夫が採って来た茶盆大の舞茸は、小山の如く莚に積まれて居る。やがて銃を負うてアイヌが帰って来た。腰には山鳥を五羽ぶら下げて居る。また一人川下の方から釣棹肩に帰って来た。鯇釣りに往ったのだ。やがてまた一人銃を負うて帰った。人夫が立迎えて、「何だ、唯一羽か」と云う。此も山鳥。先刻聞いた銃声の果なのであろう。火を焚く、味噌を摺る、魚鳥を料理する、男世帯の目つらを抓む勝手元の忙しさを傍目に、関翁はじめ余等一同、かわる/″\川畔に往って風呂の馳走になる。荒削りの板を切り組んだ風呂で、今日は特に女客の為め、天幕のきれを屏風がわりに垂れてある。好い気もちになって上ると、秋の日は暮れた。天幕にはつりランプがつく。外は樺の篝火が真昼の様に明るい。余等の天幕の前では、地上にかん/\炭火を熾して、ブツ/\切りにした山鳥や、尾頭つきの鯇を醤油に浸しジュウ/\炙っては持て来、炙っては持て来る。煮たのも来る。舞茸の味噌汁が来る。焚き立ての熱飯に、此山水の珍味を添えて、関翁以下当年五歳の鶴子まで、健啖思わず数碗を重ねる。
日はもうとっぷり暮れて、斗満の川音が高くなった。幕外は耳もきれそうな霜夜だが、帳内は火があるので汗ばむ程の温気。天幕の諸君は尚も馳走に薩摩琵琶を持出した。十勝の山奥に来て薩摩琵琶とは、思いかけぬ豪興である。弾手は林学士が部下の塩田君、鹿児島の壮士。何をと問われて、取りあえず「城山」を所望する。今日は九月二十七日、城山没落は三十三年前の再昨日であった。塩田君はやおら琵琶を抱え、眼を半眼に開いて、咳一咳。外は天幕総出で立聞く気はい。「夫れ――達人は――」声はいさゝか震えて響きはじめた。余は瞑目して耳をすます。「大隅山の狩くらにィ――真如の月の――」弾手は蕭々と歌いすゝむ。「何を怒るや怒り猪の――俄に激する数千騎」突如として山崩れ落つ鵯越の逆落し、四絃を奔る撥音急雨の如く、呀と思う間もなく身は悲壮渦中に捲きこまれた。時は涼秋九月、処は北海山中の無人境、篝火を焚く霜夜の天幕、幕の外には立聴くアイヌ、幕の内には隼人の薩摩壮士が神来の興まさに旺して、歌断ゆる時四絃続き、絃黙す時声謡い、果ては声音一斉に軒昂嗚咽して、加之始終斗満川の伴奏。手を膝に眼を閉じて聴く八十一の翁をはじめ、皆我を忘れて、「戎衣の袖をぬらし添うらん」と結びの一句低く咽んで、四絃一撥蕭然として曲終るまで、息もつかなかった。讃辞謝辞口を衝いて出る。天幕の外もさゞめいた。興未だ尽きぬので、今一つ「墨絵」の曲を所望する。終って此興趣多い一日の記念に、手帳を出して関翁以下諸君の署名を求める。
それから話聞くべくアイヌを呼んでもらう。御召につれて髭顔二つランプの光に現われ、天幕の入口に蹲踞した。若い方は、先刻山鳥五羽うって来た白手留吉、漢字で立派に名がかけて、話も自由自在なハイカラである。一人は、胡麻塩髯胸に垂るゝ魁偉なアイヌ、名は小川ヤイコク、これはあまり口が利けぬ。アイヌの信仰、葬式の事、二三風習の質問などして、最後に、日本人に不満な点はと問うたら、ヤイコクは重い口から「日本人のゴロツクがイヤだ」と吐き出す様に云った。ゴロツクは脅迫の意味そうな。乳呑子連れた女が来て居ると云うので、二人と入れ代りに来てもらう。眼に凄味があるばかり、例の刺青もして居らず、毛繻子の襟がかゝった滝縞の綿入なぞ着て居る。名もお花さんと云うそうだ。妻が少し語を交えて、何もないので紫メレンスの風呂敷をやった。
惜しい夜も更けた。手を浄めに出て見ると、樺の焚火は燃え下って、ほの白い煙を颺げ、真黒な立木の上には霜夜の星爛々と光って居る。何処かの天幕でぱっと火光がさして、黒い人影が出て来たが、直ぐ入って了った。川音が颯々と嵐の様に響く。持て来た毛布までかさねて、関翁と余等三人、川音を聞き/\趣深い天幕の夢を結んだ。
九月二十八日。微雨。
関翁は起きぬけに川に灌水に行かれた。
朝飯後、天幕の諸君に別れて帰路に就く。成程ニオトマムは山静に水清く、関翁が斗満を去って此処に住みたく思うて居らるゝも尤である。然し余等は無人境のホンの入口まで来たばかり、せめてキトウス山見ゆるあたりまで行かずに此まゝ帰って了うのは、甚遺憾多かった。
帰路余は少し一行に後れて、林中にサビタのステッキを伐った。足音がするのでふっと見ると、向うの径をアイヌが三人歩いて来る。真先が彼留吉、中にお花さんが甲斐〻〻しく子を負って、最後に彼ヤイコクがアツシを着、藤蔓で編んだ沓を穿き、マキリを佩いて、大股に歩いて来る。余は木蔭から瞬きもせず其行進を眺めた。秋寂びた深林の背景に、何と云う好調和であろう。彼等アイヌは亡び行く種族と看做されて居る。然し此森林に於て、彼等は正に主である。眼鏡やリボンの我等は畢竟新参の侵入者に過ぎぬ。余は殊に彼ヤイコクが五束もある鬚髯蓬々として胸に垂れ、素盞雄尊を見る様な六尺ゆたかな堂々雄偉の骨格と悲壮沈欝な其眼光を熟視した時、優勝者と名のある掠奪者が大なる敗者に対して感ずる一種の恐怖を感ぜざるを得なかった。関翁が曾て云われた、山中で山葡萄などちぎると猿に対して気の毒に思う、と。本当だ。山葡萄をちぎっては猿に気の毒、コクワを採っては熊に気の毒、深林を開いてはアイヌに気の毒なのも、自然である。そこで余は思った、熊一変せばアイヌに到らん、アイヌ一変せば日本人に到らん、日本人一変せば悪魔に到らん。余はアイヌを好む。尤も熊を好む。
天幕を出る時ぽと/\落ちて居た雨は止み、傘を翳す程にもなかった。炭焼君の家で昼の握飯を食って、放牧場の端から二たび斗満上流の山谷を回顧し、ニケウルルバクシナイに来ると、妻は鶴子を抱いて駄馬に乗った。貢君が口綱をとって行く。後から仔馬がひょこ/\跟いて行く。時々道草を食って後れては、遽てゝ駈け出し追ついて母馬の横腹に頭をすりつける様にして行く。関翁と余と其あとから此さまを眺めつゝ行く。斯くて午後二時駅逓に帰った。
関翁は過日来足痛で頗行歩に悩んで居られると云うことをあとで聞いた。それに少しも其様な容子も見せず、若い者並に四里の往復は全く恐れ入った。
此夕台所で大きな甘藍を秤にかける。二貫六百目。肥料もやらず、移植もせぬのだから驚く。関翁が家の馳走で、甘藍の漬物に五升藷(馬鈴薯)の味噌汁は特色である。斗満で食った土のものゝ内、甘藍、枝豆、玉蜀黍、馬鈴薯、南瓜、蕎麦、大根、黍の餅、何れも中々味が好い。唯真桑瓜は甘味が足らぬ。
九月二十九日。晴。
今日は余等三人余作君及貢君の案内で、放牧場の農家を見に出かける。阪を上って放牧場の埒外を南へ下り、ニタトロマップの細流を渡り、斗満殖民地入口と筆太に書いた棒杭を右に見て、上利別原野に来た。野中、丘の根に、ぽつり/\小屋が見える。先ず鉄道線路を踏切って、伏古古潭の教授所を見る。代用小学校である。型の如き草葺の小屋、子供は最早帰って、田村恰人と云う五十余の先生が一人居た。それから歩を返えして、利別川辺に模範農夫の宮崎君を訪う。矢張草葺だが、さすがに家内何処となく潤うて、屋根裏には一ぱい玉蜀黍をつり、土間には寒中蔬菜を囲う窖を設け、農具漁具雪中用具それ/″\掛け列べて、横手の馬小屋には馬が高く嘶いて居る。苦い茶を点れて、森永のドロップスなど出してくれた。余等は注文してもぎ立ての玉蜀黍を炉の火で焼いてもらう。主は岡山県人、四十余の細作りな男、余作君に過日の薬は強過ぎ云々と云って居た。宮崎君夫婦はもともと一文無しで渡道し、関家に奉公中貯蓄した四十円を資本とし、拓き分けの約束で数年前此原野を開墾しはじめ、今は十町歩も拓いて居る。今年は豆類其他で千円も収入があろうと云うことであった。細君の阿爺が遙々讃岐から遊びに来て居る。宮崎君の案内で畑を見る。裏には真桑瓜が蔓の上に沢山ころがり、段落ちの畑には土が見えぬ程玉蜀黍が茂り、大豆は畝から畝に莢をつらねて、試に其一個を剖いて見ると、豆粒の肥大実に眼を驚かすものがある。他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍を喰い喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実に甘い。先年皇太子殿下(今上陛下)が釧路で玉蜀黍を召してそれから天皇陛下へおみやげに玉蜀黍を上げられたも尤である。
午後は又一君の案内で、アイヌの古城址なるチャシコツを見る。㓐別川に臨んだちょっとした要害の地、川の方は断崖になり、後はザッとしたものながら、塹濠をめぐらしてある。此処から見ると㓐別は一目だ。関翁は此坂の上に小祠を建てゝ斃死した牛馬の霊を祭るつもりで居る。
夕方三人で又一君宅の風呂をもらいに行く。実は過日来往返の毎に斗満橋の上から見て羨ましく思って居たのだ。風呂は直ぐ川端で、露天に据えてある。水に強いと云う桂の径二尺余の刳りぬき、鉄板を底に鋪き、其上に踏板を渡したもので、こんな簡易な贅沢な風呂には、北海道でなければ滅多に入られぬ。秋の日落ち谷蒼々と暮るゝ夕、玉の様な川水を沸した湯に頸まで浸って、直ぐ傍を流るる川音を聴いて居ると、陶然として即身成仏の妙境に入って了う。
夜上利別のマッチ製軸所支配人久禰田孫兵衛君に面会。もと小学教師をした淡路の人、真面目な若者である。二里の余もある上利別から始終関翁の話を聞きに来るそうだ。
九月三十日。晴。雪のような朝霜。
最早斗満を去らねばならぬ日となった。
早朝関翁以下駅逓の人々に別を告げる。斗満橋を渡って、見かえると、谷を罩むる碧い朝霧の中に、関翁は此方に向い、杖の頭に両手を組んで其上に額を押付けて居られた。
㓐別で余作君に別れ、足寄駅で五郎君の勤務した郵便局を教えられ、高島駅で又一君に別れ、池田駅で旭川行の汽車に乗換え、帯広で貢君に別れ、余等は来た時の同行三人となって了った。汽車は西へ西へと走って、日の夕暮に十勝国境の白茅の山を石狩の方へと上った。此処の眺望は全国の線路に殆んど無比である。越し方を顧みれば、眼下に展開する十勝の大平野は、蒼茫として唯雲の如くまた海の如く、却て北東の方を望めば、黛色の連山波濤の如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁の如く取囲む山々である。関翁の心は彼の山々の中にあるのだ。余は窓に凭って久しく其方を眺めた。中に尤も東北の方に寄って一峯特立頗異彩ある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川の水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。然しながら翁も老齢已に八十を越した。其身其心に随うて彼山を越ゆることが出来るや否や、疑問である。或は翁は摩西の如く、遙に迦南を望むことを許されて、入ることを許されずに終るかも知れぬ。然し翁の心は已にキトウス山を越えて居る。而して翁が百歳の後、其精神は後の若者の体を仮って復活し、必彼山を越え、必彼大無人境を拓くであろう。汽車はます/\国境の山を上る。尾花に残る日影は消え、蒼々と暮れ行く空に山々の影も没して了うた。余は猶窓に凭って眺める。突然白いものが目の前に閃めく。はっと思って見れば、老木の梢である。年久しく風霜と闘うて皮は大部分剥げ、葉も落ちて、老骨稜々たる大蝦夷松が唯一つ峰に突立って居るのであった。
余の胸は一ぱいになった。
君に別れ十勝の国の国境
今越ゆるとてふりかへり見し
かへり見れば十勝は雲になりにけり
心に響く斗満の川音
雲か山か夕霧遠く隔てにし
翁が上を神護りませ
斯く出たらめをはがきに書いつけ、石狩の鹿越駅で関翁宛に投函した。」
三
武蔵野の彼等が斗満を訪うた其年の冬、関翁は最後の出京して、翌明治四十四年の四月斗満に帰った。出京中に二度粕谷の茅廬に遊びに来た。三月の末二度目に来た時は、他の来客や学生なぞに深呼吸の仕方などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人は甲州街道まで翁を送った。馬車を待って乗るから構わず帰れと翁が云うので、翁を茶店の前に残し、少し用を達して戻りかけると、馬車はすれ違いに通ったが、車中に翁の影が見えない。と見ると茶店の方から古びた茶の中折帽をかぶって、例の癖で下顋を少し突出し、濡れ手拭を入れた護謨の袋をぶら提げながら、例の足駄でぽッくり/\刻足に翁が歩いて来る。此時も明治四十一年の春初めて来た時着て居た彼無地の木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手を掉る。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意の車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
翁は斗満に帰ってから、実桜の苗二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚が済んだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其翌日も雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
去年の今日も斯くは降りきと秋の雨
眺めて独君をしぞおもふ
程なく翁から其雑著出版の事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰った雁がまた武蔵野の空に来鳴く時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期をした様であったが、年と共に玉の緒新に元気づき、わずかに病床を離るゝと直ぐ例の灌水をはじめ、例の細字の手紙、著書の巻首に入る可き「千代かけて」の歌を十三枚、著書を配布す可き二百幾名の住所姓名を一々明細に書いて来た。翁にとりては此が形見のつもりであったのである。
「命の洗濯」「命の鍛錬」「旅行日記」「目ざまし草」「関牧場創業記事」「斗満漫吟」をまとめて一冊とした「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京警醒社書店から発行された。翁は其出版を見て聊喜の言を漏らしたが、五月初旬には愈死を決したと見えて、逗子なる老父の許と粕谷の其子の許へカタミの品々を送って来た。其は翁が八十の祝に出来た関牧場の画模様の服紗と、命の洗濯、旅行日記、目ざまし草に一々歌及俳句を自署したものであった。両家族の者残らずに宛てゝ、各別に名前を書いてあった。「人並の道は通らぬ梅見かな」の句が其の中にあった。短冊には、
辞世 一 諸ともに契りし事は半にて
斗満の露と消えしこの身は
八十三老白里
辞世 二 骨も身もくだけて後ぞ心には
永く祈らん斗満の賑
八十三老白里
死後希望 露の身を風にまかせてそのまゝに
落れば土と飛んでそらまで
八十三老白里
死後希望 死出の山越えて後にぞ楽まん
富士の高根を目の下に見て
八十三老白里
と書いてあった。
*
七月初旬、翁の手紙が来て、余作君は斗満を去り、以前の如く医を以て立つことに決し、自身は斗満に留ることを報じた。書末に左の三首の歌があった。
寄川恋
我恋は斗満の川の水の音
夜ひるともにやむひまぞなき
病床独吟
憂き事の年をかさねて八十三とせ
尽きざる罪になほ悩みつゝ
死後希望
身は消えて心はうつるキトウスと
十勝石狩両たけのかひ
翁の絶筆であった。
四
翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮流に与えんと欲し、子は米国風に富まんことを欲した。其為関家の諍は、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起した。翁は其為に心身の精力を消磨した。然し翁は自ら信ずること篤く、子を愛すること深く、神明に祈り、死を決して其子を度す可く努めた。
最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満を訪れた其二周年が来た。雁は二たび武蔵野の空に来鳴いた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御、乃木翁の自刃、など強い印象を人に与うる事実が相ついだ。北の病翁に如何に響いたであろうか、と気にかゝらぬではなかったが、推移って居る内に、突然翁の訃報が来た。
翁は十月十五日、八十三歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終には、形に於て乃木翁に近く、精神に於てトルストイ翁に近く、而して何れにもない苦しみがあった。然し今は詳に説く可き場合でない。
翁の歌に、
遠く見て雲か山かと思ひしに
帰ればおのが住居なりけり
遮莫永い年月の行路難、遮莫末期十字架の苦、翁は一切を終えて故郷に帰ったのである。
次郎桜
朝、珍らしく角田の新五郎さんが来た。何事か知らぬが、もうこゝでと云うのを無理やりに座敷に請じた。新五郎さんは耶蘇信者で、まことに善良な人であるが、至って口の重い人で、疎遠の挨拶にややしばし時間を移した。それから新五郎さんは重い口を開いて、
「実は――隣の勘五郎さんでございますが、其の――勘五郎さん処の次郎さんが亡くなられまして――」
「エッ、次郎さんが? 次郎さんが死んだんですか」
青山学院で最早試験前の忙しくして居るであろうと思った次郎少年が死んだとは、嘘の様な話だ。
新五郎さんは、持て来た医師の診断書を見せた。急性肺炎とある。急報に接して飛んで往った次郎さんの阿爺も、間に合わなかったそうである。夜にかけて釣台にのせて連れて来て、組合中の都合で今日葬式をすると云うのである。
新五郎さんは直ぐ帰り、夫婦も直ぐあとから出かけた。
次郎さんは、千歳村で唯五軒の耶蘇信者の其一軒に生れて、名の如く次男であった。粕谷の夫妻が千歳村に移住した其春、好成績で小学校を卒業し、阿爺は師範学校にでも入れようかと云って居たのを、勧めて青山学院に入れた。学資不足なので、彼は牛乳を配達したり、学校食堂の給仕をしたりして勉強して居た。斯うして約一年過ぎ、最初の学年試験も今日明日と云う際になって、突然病死したのである。彼は父の愛子であった。
連日の雪や雨にさながら沼になった悪路に足駄を踏み込み/\、彼等夫妻は鉛の様に重い心で次郎さんの家に往った。
禾場には村の人達が寄って、板を削り寝棺を拵えて居る。以前は耶蘇教信者と嫌われて、次郎さんのお祖父さんの葬式の時なぞは誰も来て手伝うてくれる者もなかったそうだ。土間には大勢女の人達が立ち働いて煮焚きをして居る。彼等夫妻は上って勘五郎さんに苦しい挨拶した。恵比須さまの様な顔をしたかみさんも出て来た。勧めて無理な勉強をさして、此様な事になってしまって、まことに済みません、と詫ぶる外に彼等は慰めの言を知らなかった。
奥座敷に入ると、次郎さんは蒲団の上に寝て居る。昨日雨中を舁いて来たまゝなので、蒲団が濡れて居る。筒袖の綿入羽織を着て、次郎さんは寝入った様に死んで居る。額を撫でると氷の様に冷たいが、地蔵眉の顔は如何にも柔和で清く、心の美しさも偲ばれる。次郎さんをはじめ此家の子女は、皆小柄の色白で、可愛げな、而して品の良い顔をして居る。阿爺は、亡児の枕辺に座って、次郎さんの幼な立の事から臨終前後の事何くれと細かに物語った。勘五郎さんはもと気負肌で、烈しい人、不平の人であったが、子の次郎さんは非常に柔和な愛の塊の様な児であった。次郎さんの小さな時、縁の上から下に居る弟を飛び越し/\しては遊んで居ると、偶飛び損ねて弟を倒し、自分も倒れてしたゝか鼻血を出した。次郎さんは鼻血を滴らしつゝ、弟の泣く方へ走せ寄って吾を忘れて介抱した。父は次郎さんを愛してよく背に負ったが、次郎さんは成丈父の背を弟に譲って自身は歩いた。次郎さんは到る処で可愛がられた。学課の出来も好かった。両三日前の大雪に、次郎さんは外套もなく濡れて牛乳を配達したので、感冒から肺炎となったのである。彼は気分の悪いを我慢して、死ぬる前日迄働いた。死ぬる其朝も、ふら/\する足を踏みしめて、苦学仲間の某の室に往って、其日の牛乳の配達を頼んだりした。病気は早急であった。医師が手を尽した甲斐もなかった。次郎さんは終に死んだ。屍を踏み越えて進む乱軍の世の中である。学校は丁度試験中で、彼の父が急報に接して駈けつけた時、死骸の側には誰も居なかった。次郎さんは十六であった。
やがて納棺して、葬式が始まった。調子はずれの讃美歌があって、牧師の祈祷説教があった。牧羊者が羊の群を導いて川を渡るに、先ず小羊を抱いて渡ると親羊が跟いて渡ると云う例をひいて、次郎少年の死は神が其父母生存者を導かん為の死である、と牧師は云うた。
日が短い頃で、葬式が家を出たのは日のくれ/″\であった。青山街道に出て、鼻欠地蔵の道しるべから畑中を一丁ばかり入り込んで、薄暗い墓地に入った。大きな松が枝を広げて居る下に、次郎さんの祖母さんや伯母さんの墓がある。其の祖母さんの墓と向き合いに、次郎さんの棺は埋められた。
「祖母さんと話してる様だァね」
と墓掘の人が云う。
「祖母さんが可愛がって居たからナ」
と次郎さんの阿爺が云う。
自身子が無くて他人の子ばかり殺して居る夫妻は、荒んだ心になって、黙って夜道を帰った。
*
一月あまり過ぎた。
梅から桜、八重桜と、園内の春は次第に深くなった。ある朝庭を漫歩きして居た彼は、
「吁、咲いた、咲いた」
と叫んだ。其は庭の片隅に、坊主になる程伐られた若木の塩竈桜であった。昨年次郎さんが出京入学して程なく、次郎さんの阿爺が持って来てくれたのである。其時は満開であった。惜しい事をしたものだ、此花ざかりを移し植えて、無事につくであろうか、枯れはしまいか、と其時は危ぶんだ。果して枯枝が大分出来たが、肝腎の命は取りとめて、剪り残されの枝にホンの十二三輪だが、美しい花をつけたのである。彼はあらためてつく/″\と其花を眺めた。晩桜と云っても、普賢の豊麗でなく、墨染欝金の奇を衒うでもなく、若々しく清々しい美しい一重の桜である。次郎さんの魂が花に咲いたら、取りも直さず此花が其れなのであろう。
清い、単純な、温かな其花を見つめて居ると、次郎さんのニコ/\した地蔵顔が花心から彼を覗いた様であった。
(明治四十一年)
きぬや
明治四十三年十二月二十六日。
書院前の野梅に三輪の花を見つけた。年内に梅花を見るは珍らしい。霜に葉を紫に染めなされた黄寒菊と共に、折って小さな銅瓶に插す。
例年隣家を頼んだ餅を今年は自家で舂くので、懇意な車屋夫妻が臼、杵、蒸籠、釜まで荷車に積んで来て、悉皆舂いてくれた。隣二軒に大威張で牡丹餅をくばる。肥後流の丸餅を造る。碁石程のおかさねは自分で拵えて、鶴子女史大得意である。
逗子の父母から歳暮に相模の海の鯛を薄塩にして送って来た。
同便で来た手紙はがきの中に、思いがけない報知が一つあった。二十二日にとめやのきぬやが面疔で死んだ、と云う知せである。
彼女は粕谷草堂夫妻の新生涯に絡んで忘れ難い恩人の一人である。
明治三十九年美的百姓が露西亜から帰って、青山高樹町に居を定むると間もなく、ある日銀杏返しに白い薔薇の花簪を插した頬と瞼のぽうと紅らんだ二十前後の娘が、突然唯一人でやって来て、女中になると云う。名はとめと云って江州彦根在の者であった。兄が東京で商売をして居るので、彼女も出京してある家に奉公中、逗子で懇意になった老人夫婦の家の女中から高樹町の家の事を聞き込み、自ら推薦して案内もなく女中に来たのであった。使って見ると、少し愚かしい点もあるが、如何にも親切な女で、毎も莞爾々々して居る。一度泥棒が入って後、彼女は離れて独女中部屋に寝るを恐れたが、部屋に戸締りをつけてやると、安心して寝た。その兄はシャツ、ズボン下など莫大小物の卸売をして居るので、彼女も少しミシンを稽古して置きたいと云う。承知したら、彼女は喜んで日々弁当持参で高樹町から有楽町のミシン教場へ通ったが、教場があまり騒々しくて頭がのぼせるし、加上ミシン台の数が少ないので、生徒間に競争が劇しく、ズウズウしい女達が順番になった彼女を押のけてミシンを占領したりするので、彼様な処へは最早行くのは嫌でござりますと云って、到頭女中専門になった。
彼女が奉仕の天使の如く突然高樹町の家に現われてから六月目に、主人夫婦は東京を引払うて田舎に移った。如何に貧乏な書生生活でも、東京で二十円の借家から六畳二室の田舎のあばら家への引越しは、人目には可なりの零落であった。奉公人にはよい見切時である。然しとめやは馴染もまだそれ程深くない主人夫婦を見捨てなかった。彼女は東京に居らねばならぬ身体であったが、当分御手伝をすると云うて、風呂敷に包んだランプをかゝえて彼等に跟いて来た。
東京から引越当座の彼等が態は、笑止なものであった。昨今の知り合いの石山さんを除く外知人とては素よりなく、何が何処にあるやら、何れを如何するものやら、何角の様子は一切分からず。狭いと汚穢とは我慢するとしても、一つ家の寒さは猛烈に彼等に肉迫した。二百万の人いきれで寄り合うて住む東京人は、人烟稀薄な武蔵野の露骨な寒さを想い見ることが出来ぬ。二月の末、三月の始、雲雀は鳴いて居たが、初めて田舎のあばら家住居をする彼等は、大穴のあいた荒壁、吹通しの床下、建具は不足し、ある建具は破れた此の野中の一つ家と云った様な小さな草葺を目がけて日暮れ方から鉄桶の如く包囲しつゝずうと押寄せて来る武蔵野の寒を骨身にしみて味わった。風吹き通す台所に切ってある小さな炉に、木片枯枝何くれと燃される限りをくべてあたっても、顔は火攻、背は氷攻めであった。とめやが独で甲斐々々しく駈け廻った。煮焚勿論、水ももろうてあるき、五丁もはなれた足場の悪い品川堀まで盥をかゝえて洗濯に往っては腰を痛くし、それでも帰途には蕗の薹なぞ見つけて、摘んで来ることを忘れなかった。襷がけのまゝ人に聞き/\近在を買物に駈け歩いて、今日は斯様な処を歩きました、妙な処に店は出してない呉服屋がありましたと一々報告した。彼女は忽ち近隣の人々と懇意になった。墓地向うの家の久さんの子女が久さんを馬鹿にするのを見かねて、余りでございますねと訴えた。唖の子の巳代吉とは殊に懇意になって、手真似で始終話して居た。唖との交渉はとめやに限ると主人夫婦は云うた。馬鈴薯を買うて来ることを巳代公に頼むと云って、とめやが鍬で地を掘る真似をして、指で円いものを拵えて見せて、口にあてゝ食うさまをして、東を指し北を指し、巳代公が頷いたと云って納まって居ると、巳代公は一時間経っても二時間経ってもやって来ぬので、往って見ると自分の事をして居たので、始めてとめやの早合点、巳代公が分からずに居た事が分かって、一同大笑いしたことがある。兎に角彼女の無我にして骨身を惜まぬ快活の奉仕は、主人夫婦の急激な境遇変化に伴う寂寥と不安とを如何ばかり慰めたか知れぬ。移転の騒ぎも一型ついて、日々の生活もほゞ軌道に入ったので、彼女は泣く/\東京に帰った。妻も後影を見送って泣いた。
三月の末東京に帰って、五月中また苺など持って訪ねて来た。翌年丁度引越しの一周年に、彼女はまた手土産を持って訪ねてくれた。去年帰西して、昨日江州から上京したばかりだと云った。四日程逗留して、台所をしたり、裁縫を手伝ったり、折から不元気で居た妻を一方ならず助けて往った。其翌年の春、彼女は同郷の者で姓も同じく商売も兄のと似寄った男に縁づいたことを知らして来た。秋十月の末、ある日丸髷に結った血色の好い若いおかみさんが尋ねて来た。とめやであった。名も絹とあらためて、立派なおかみさんになって居た。夫妻共稼ぎで中々忙しいと云った。其れから東京では正直な人を得難いことをかこって、誰か好い子僧はあるまいかなぞ折から居合わした懇意の大工に聞いて居た。彼女の話の中に一つ面白い事があった。ある時両国橋の上で彼女は四十あまりの如何にも汚ない風をした立ン坊に会うた。つく/″\其顔を見て居た彼女は、立ン坊に向い、好い仕事があるかと聞いた。立ン坊は無いと答えた。橋の上に立って居るよりわたしの家に来て商売の手伝をしないかと云うた。立ン坊も彼女の顔を見て居たが、手伝しましょうと云うた。とめやのきぬやは早速立ン坊を連れて良人に引合わせ、翌日から車を挽かせて行商に出したが、立ン坊君正直に働いて双方喜んで居る云々。此話は非常に旧主人夫婦を悦ばした。あの温順しい女にも、中々濶達な所がある、所謂近江商人の血が流れて居る、とあとで彼等は語り合った。
彼女は其時已に六月の身重であった。今年の春男子を挙げたと云うたよりがあった。今日の其訃は実に突然である。
彼女の臨終は如何であったろうか。当歳の子と夫を残して逝く彼女は嘸残念であったであろう。然し彼女自身は朝に生れて夕に死すとも憾みは無い善良の生涯を送って居たので、生の目的は果した。彼女の実家は仏教の篤信者で、彼女の伯母なぞは南無阿弥陀仏を唱えつゝ安らかな大往生を遂げた。彼女にも其血が流れて居る。
謙遜な奉仕の天使、彼等が我等と共に在るの日、高慢な我等は微笑を以て其弱点を見つゝ十分に尊敬を払わず、当然の事の如く座ながらにして其心尽しの奉仕を受け易い。彼等が去るの日に於て、我等は今更の如く其人と其働の意味を知り得て、あらためて感謝と慚愧を感ずるのである。
命がけ
昨夜は烈しく犬が騒いだ。
今朝起きて見ると、裏庭の梧桐の下に犬が一疋横になって居る。寝たのかと思うと、死んで居るのであった。以前時々内のピンに通って来た狐見た様な小柄の犬だ。デカが噛み殺したと見える。
裏のはなれに泊って居るA君の話によれば、昨夜ピンを張りに来た此犬を、デカがはなれの縁の下に追い込んで、足を啣えて引きずり出し、而して睾丸を啣えて体をドシ/\と大地に投げつけた。A君が余程引きはなそうと骨折ったが、デカが如何しても放さなかったと云う事である。
此辺には牝犬が少ないので、春秋の交尾期になると、猫程しかないピンを目がけて、来るわ/\、白君、斑君、黒君、虎君、ポインタァ君、スパニール君、美君、醜君……婿八人どころの騒ぎではない。デカも昨春までは、其一人であったが、抜群の強猛故に競走者を追払って、押入婿になり済ましたのである。今は正規の夫婿顔して、凡そ眼の届かん限り、耳の聞かん限り、一切の雄犬を屋敷の内へは入れぬ。其目一たび雄犬の影を見ようものなら、血相変えて追払う。宛ながら足の四本に止まるを憾むが如く、一口に他の犬を喰うてしまうことが出来ぬを悲しむ如く、醜の壮夫デカ君が悲鳴をあげつゝ追駈ける。其時はピンもさながらデカに義理を立てるかの如く、横合からワン/\吠えて走って行く。
最初飼った「白」は弱虫だったので、交尾期には他の強い犬に噛まれて、毎に血だらけになった。デカは強いので、滅多に敗は取らぬ。然し其悲鳴して他の雄犬を追かける声は、世にも情無げな、苦痛其ものゝ声である。弱い者素より苦み、強い者がまた苦む。生物は皆苦む。思うに惨ましく、見るに浅ましい。然し此れが自然の約束である。即ち命を捨てゝも命は自己を伝えずには措かぬ。
都々逸氏歌うて曰く、
色のいの字と命のいの字
そこで色事命がけ
生殖は命がけ。嫉妬は必死。遊戯で無い。
命がけで入り込んで、生殖の為に一命を果した彼無名犬の死骸を、欅の根もとに葬った。向うの方には、二本投げ出した前足に頭をのせて、頬杖つくと云う見得でデカがけろりとして眺めて居た。
*
二時間の後、用達に上高井戸に出かけた。八幡の阪で、誰やら脹脛を後から窃と押す者がある。ふっと見ると、烏山の天狗犬が、前足を挙げて彼の脛を窃と撫でて彼の注意を牽いたのである。此犬はあまり大きくもないが、金壺眼の意地悪い悪相をした犬で、滅多に恐怖と云うものを知らぬ鶴子すら初めて見た時は魘えて泣いた。「白」が居た頃、此犬は毎に善良な「白」を窘め、「白」を誘惑して共に隣家の猫を噛み殺し、到頭「白」を遠方にやるべく余儀なくした、云わば白の敵である。白の主人の彼は此犬を憎んで、打殺そうとしば/\思った。デカが来ぬ間は、此犬もピンに通うて来た犬の一つであった。其犬すら雌犬のピン故に、ピンの主人の彼に斯く媚びるのである。甚あわれになった。天狗犬は訴うる様な眼付をしてしば/\彼を見上げ、上高井戸に往って復るまで、始終彼にくっついて歩いた。
帰って家近くなると、天狗犬はデカを恐れて、最早跟いて来なかった。ピンの主人を見送って、悄然と櫟の下の径に立て居った。
*
先日行衛不明で、若来たら留めて置いてくれと照会があった角谷の消息が分かった。彼は十八日の夜、大森停車場附近で鉄道自殺を遂げたのである。
彼オトナしい角谷、今年十九の彼律義な若者が――然し此驚きは、我迂濶と浅薄を証拠立てるに過ぎぬ。
角谷は十三四の年地方から出京して、其主人は親類筋に当る某書店に奉公した。美的百姓が「寄生木」を出す時、角谷は其校正を持って銀座と粕谷の間を自転車で数十回往復した。著者が校正を見る間に、彼は四歳の女児の遊び相手になったり、根が農家の出身だけに、時には鍬取りもしてくれた。ルビ振りを手伝えと云うたら、頭を掻いて尻ごみした。眉の濃い、眼の可愛い、倔強な田舎者らしい骨格をしながら色の少し蒼い、真面目な様で頓興な此十七の青年と、著者の家族は大分懇意になった。角谷は自分の巾着から女児に鼠の画本など買って来た。一度日本橋で、著者の家族三人、電車満員で困って居ると、折から自転車で来かゝった彼が見かけて、自転車を知辺の店に預け、女児を負って新橋まで来てくれた。去年の夏の休には富士山頂から画はがきをよこしたりした。
来たら留めて置いてくれとのはがきに接した時、いさゝか不審に思いは思いながら、まさか彼が生を見捨てようとは思わなかった。
角谷は十二日から三日間、例によって夏休をもろうた。十一日に貯金の全部百二十円を銀行から引出し、同店員で従兄に当る若者宛の遺書を認め、己がデスクの抽斗に入れた。其の遺書には、自分は十九歳を一期として父の許へ行く――父は前年郷里で死んだ――主人には申訳が無いから君から宜しく云うてくれ、荷物は北海道に居る母の許に送ってくれ、運賃として金五円封入して置く、不足したら店員某に七十二銭の貸しがあるから、其れで払ってくれ、と書いてあった。
十二日には、主人の出社を待って、暇乞して店を出で、麻布の伯父の家を訪うて二階に上り、一時間半程眠った。それから日比谷で写真を撮って、主人、伯父、郷里の兄、北海道の母に届く可く郵税一切払って置いた。日比谷から角谷は浅草に往った。浅草公園の銘酒屋に遊んで、田舎出の酌婦に貯蓄債券をやろうかなどゝ戯談を云った。彼は製本屋の職工から浅草、吉原の消息を聞いて居たのである。
角谷の踪跡は此処ではたと絶えた。其れから一週間彼は何処を如何迷うて歩いたか、一切分からぬ。
十八日の夜八時過ぎ、神戸発新橋行の急行列車が、角谷の主人の居に近い大森で一人の男子を轢いた。足は切れ、顔もメチャ/\になって居たが、濃い眉で角谷と分かった。店を出る時白がすりを着て出たが、死骸は紺飛白を着て居た。百二十円の貯金全部を引出した角谷の蟇口には、唯一銭五厘しか残って居なかった。死骸は護謨草履を穿いて居た。護謨草履が欲しい/\と角谷は云って居たのであった。
彼は久しく死ぬ/\と云って居た。死ぬ/\と云って死ぬ者はないものだ、貯金なぞ精出して死ぬ者があるか、と他の店員が笑うと、死ぬ前には奇麗に使って仕舞うと角谷は戯談の様に云って居た。角谷は手が器用で、書籍の箱造り荷拵えなどがうまかった。職人になればよかった、と自身もしばしばこぼして居た。
角谷は十九であった。店は耶蘇教主義であるが、角谷は夜毎の家庭祈祷会などに出るのを厭がって居た。彼の本箱には、梅暦や日本訳のマウパッサン短篇集が入って居た。
謎は自ずから解ける。
ヱデキンドが「春の目ざめ」のモリッツを想わずに居られぬ。
*
夜、外の闇から火光を眼がけて猛烈にカナブンが飛んで来る。ばたンばたンと障子にぶつかる音が、礫の様だ。掴んでは入れ、掴んでは入れして、サイダァの空瓶が忽一ぱいになった。
(明治四十四年 八月二十二日)
暁斎画譜
重田さんが立寄った。重田さんは隣字の人で、気が少し変なのである。躁暴狂でもなく、憂欝狂と云う訳でもなく、唯家業の農を抛擲してぶらぶら歩いて居る。美的百姓が遊び人であるためか、時々音ずれる。
今日も立寄った。挨拶が斯うだ。
「えゝ私は、晩寝郡、早起村、濡垂拭兵衛と申しますが、その、私の弟が発狂致しまして……」
くど/\二言三言云うかと思うと、「それじゃまた」とお辞儀をして往ってしまった。「弟が発狂した」が彼の口癖である。弟とは蓋夫子自道うのであろう。
重田さんの影が消ゆると、安達君の顔が歴々と主人の頭に現われた。
安達君は医学士で、紀州の人であった。
紀州は蜜柑と謀叛人の本場である。紀州灘の荒濤が鬼が城の巉巌にぶつかって微塵に砕けて散る処、欝々とした熊野の山が胸に一物を蔵して黙して居る処、秦始皇に体のよい謀叛した徐福が移住して来た処、謀叛僧文覚が荒行をやった那智の大瀑が永久に漲り落つ処、雄才覇気まかり違えば宗家の天下を一もぎにしかねまじい南竜公紀州頼宣が虫を抑えて居た処、此国には昔から一種熬々した不穏の気が漂うて居る。明治になっても、陸奥宗光を出し、大逆事件にも此処から犠牲の一人を出した。安達君は此不穏の気の漂う国に生れたのである。
余が始めて君を識った時、君はまだ医科大学に居た。小説「黒潮」の巻頭辞を見て、苟くも兄たる者に対して、甚無礼と詰問の手紙をよこした。君自身兄であった。間もなく相見た時は、君もやゝ心解けて居たが、茶色の眼鋭く眉嶮しく、熬々した其顔は、一見不安の念を余に起さした。君は医学を専門にして居たが、文芸を好み高山樗牛の崇拝者で、兄弟打連れて駿州竜華寺に樗牛の墓を弔うたりした。君の親戚が当時余の僑居と同じく原宿にあったので、君はよく親戚に来るついでに遊びに来た。親戚の家の飼犬に噛まれて、用心の為数週間芝の血清注射に通うたなぞ云って居た。君はまた余に惺々暁斎の画譜二巻を呉れた。惺々暁斎は平素猫の様につゝましい風をしながら、一旦酒をあおると欝憤ばらしに狂態百出当る可からざるものがあった。画帖の画も、狸が亀を押しころがしてジッと前足で押さえて居たり、蛇が羽たく雀をわんぐりと啣えて居たり、大きな猫が寝そべりながら凄い眼をしてまだ眼の明かぬ子鼠の群を睨んで居たり、要するに熬々した頭の状態が紙の一枚毎にまざ/\と出て居た。安達君の贈物だけに、一種の興味を感じた。
君は其年医学士になって郷里紀州に帰り、妻を迎え子をもうけ、開業医の生活をして居た。
余が千歳村に引越した其夏、遊びに来た一学生をちと没義道に追払ったら、学生は立腹して一はがき五拾銭の通信料をもらわるゝ万朝報の文界短信欄に福富源次郎は発狂したと投書した。自分は可なり正気の積りで居たが、新聞なるものゝ平気に譌をつく事をまだよく知らぬ人達の間には大分影響したと見え、見舞やら問合せの手紙はがきなどいくらか来て、余は自身で自身の正気を保証す可く余儀なくされた。ある日、庭で覚束ない手つきをして小麦を扱いて居ると、入口で車を下りて洋装の紳士が入って来た。余は眼を挙げて安達君を見た。安達君は彼万朝報の記事を見て、余を見舞にわざ/\東京から来てくれたのであった。君は余の不相変ぼんやりして麦扱きをして居るのを見て、正気だと鑑定をつけたと見え、来て見て安心したと云った。而して此れから北海道の増毛病院長となって赴任する所だと云った。妻子は? ときいたら、はっきりした返事をしなかった。
北海道から林檎やら歌やら送って来た。病院長の生活は淋しいものらしかった。家庭の模様を聞いてやっても、其れだけは何時もお茶を濁して来た。余は
北の国五百重につもる白雪も
埋みは果てじ胸の焔を
訳の分からぬ歌など消息の端にかきつけた。
間もなく君はまた郷里紀州に帰った。而して相変らず医を業としつゝ、其熬々を漏す為に「浜ゆふ」なぞ云う文学雑誌を出したり、俳句に凝ったりして居た。曾て夏密柑を贈ってくれた。余は
紀の国のたより来る日や風薫る
斯様な悪句を書いて酬うた。或時君の令弟が遊びに来た。聞けば、細君は別居して、家庭はあまり面白くもなさそうだが、遠隔の地突込んで聞きもならず、其まゝに打過ぎた。
梅雨季は誰しも発狂しそうな時節だ。安達君から、
梅霖欝々、憂愁如水
などはがきに書いて来た。
翌年の春、突然他の紀州の人から安達君が発狂して自殺したと知らして来た。驚いて令弟宛に弔状を出したら、其れと行き違いに先の人から、安達君は短刀で自殺しかけたが、負傷したまゝで人に止められたと云って、紀州の新聞を一枚送って来た。其れには安達君の直話として、苟も書を読み理義を解する者が、此様な事を仕出来して、と恥じて話して居た。
余は慰問状を出した。其れが紀州に届いたと思う頃、令弟から安達君は到頭先度の傷の為に亡くなった、と知らして来た。
安達君は余の発狂を見舞に来てくれたが、余は安達君の病原に触るゝことが出来なかった。
記念の暁斎画譜は大切に蔵って居る。




