みみずのたはこと

Mimizu no tawakoto

徳富蘆花 Tokutomi Roka

落穂の掻き寄せ

デデン

一月一日

七時起床(きしょう)。戸を開けば、霜如雪(しもゆきのごとし)。裏の井戸側(いどばた)に行って、素裸(すっぱだか)になり、釣瓶(つるべ)で三ばい頭から水を浴びる。不精者(ぶしょうもの)の癖(くせ)で、毎日の冷水浴をせぬかわり、一年分を元朝(がんちょう)に済(す)まそうと謂うのである。

戸、窓(まど)の限りを明(あ)け、それから鶏小屋(とりごや)の開闢(かいびゃく)。

畑(はたけ)に出て紅(あか)い実付(みつき)の野茨(のばら)一枝(ひとえだ)を剪(き)って廊下の釣花瓶(つりはないけ)に活(い)け、蕾付(つぼみつき)の白菜(はくさい)一株(ひとかぶ)を採(と)って、旅順(りょじゅん)の記念にもらった砲弾(ほうだん)信管(しんかん)のカラを内筒(ないとう)にした竹の花立(はなたて)に插(さ)し、食堂の六畳に飾(かざ)る。旧臘(きゅうろう)珍らしく暖(あたたか)だったので、霜よけもせぬ白菜に蕾がついたのである。

十時過ぎ、右の食堂で家族打寄り、梅干茶(うめぼしちゃ)一碗(わん)、枯露柿(ころがき)一個(こ)。今日(きょう)此家(ここ)で正月を迎えた者は、主人夫妻、養女、旧臘から逗留中(とうりゅうちゅう)の秋田の小娘(こむすめ)、毎日仕事に来る片眼のかみさん。猫のトラ、犬のデカ、ピン、小犬のチョン、クマ、鶏が十五羽。

十一時雑煮(ぞうに)。東京仕入の種物(たねもの)沢山で、頗(すこぶる)うまい。長者気(ちょうじゃき)どりで三碗代(か)える。尤も餅(もち)は唯三個。

*

朝は晴、やがて薄曇(うすぐも)って寒かったが、正午頃(しょうごころ)からまた日が出て暖(あたたか)になった。

自家(うち)は正月元日でも、四囲(あたり)が十二月一日なので、一向正月らしい気もちがせぬ。年賀に往く所もなく、来る者も無い。

デデンがぶらりと遊びに来た。デデンは唖の巳代吉(みよきち)が事である。唖で口が利けぬが、挨拶(あいさつ)をする場合には、デデンと云う声を出す。彼は姦淫(かんいん)の子である。戸籍面(こせきめん)の父は痴(おろか)で、母は莫連者(ばくれんもの)、実父は父の義弟(ぎてい)で実は此村の櫟林(くぬぎばやし)で拾(ひろ)われた捨子(すてご)である。捨てた父母は何者か知らぬが、巳代吉が唖ながら心霊(しんれい)手巧(しゅこう)職人風のイナセな容子を見れば、祖父母の何者かが想像されぬでもない。巳代吉は三歳(みっつ)までは口をきいた。ある日「おっかあ、お湯が呑みてえ」と呼んだきり唖となった。何ものが彼の舌を縛(しば)ったか。同じ胤(たね)と云う彼の弟も盲であるのを見れば、梅毒(ばいどく)の遺伝もあろう。父母の心の咎(とがめ)も与(あずか)って力あるかも知れぬ。兎に角彼は唖になった。

「イエス行く時、生来(うまれつき)なる瞽(めくら)を見しが、其弟子彼に問ふて曰ひけるは、ラビ、此人の瞽に生れしは誰の罪なるや、己に由るか、又二親に由るか。イエス答へけるは、此人の罪に非ず、亦其二親の罪にもあらず、彼に由て神の作為(わざ)の顕はれん為也。此事を言ひて地に唾(つば)きし、唾にて土を和(と)き、其泥を瞽者(めしひ)の目に塗(ぬ)り、彼に曰ひけるは、シロアムの池に往きて洗(あら)へ。彼則ち往きて洗ひ、目見ることを得て帰れり。」

耶蘇(やそ)程(ほど)の霊力(れいりょく)があるなら、巳代吉の唖は屹度(きっと)癒(なお)る。年来(ねんらい)眼の前に日々此巳代吉に現(あら)わるゝ謎(なぞ)を見ながら、哀(かな)しいかな不信(ふしん)軽薄(けいはく)の余には、其謎を解(と)き其舌の縛(しばり)を解く能力(ちから)が無い。彼がデデンと呼んで来れば、デデンと応ずるまでゝある。

*

淋(さび)しい元日であった。

あまり淋しいので、夜(よる)隣家(となり)の人々を案内にやったら、皆浪花節(なにわぶし)に出かけて留守だった。

(明治四十四年)

芝生の上

正月に入って、連日(れんじつ)美晴(びせい)。

庭を歩くと、吹くともない風が冷やり/\顔を撫(な)でる。日はほか/\と暖かい。杉(すぎ)は鳶色(とびいろ)になり、松は微黄(びこう)を帯(お)び、裸(はだか)になった楓(かえで)の枝(えだ)には、四十雀(しじゅうから)が五六羽(ぱ)、白頬(しろほ)の黒頭(くろあたま)を傾(かし)げて見たり、ヒョイ/\と枝から枝に飛んだりして居る。地蔵様(じぞうさま)の影が薄(うっ)すら地に落ちて居る。

デカとピンとチョンが、白茶(しらちゃ)のフラシ天(てん)の敷物(しきもの)を敷きつめた様な枯れて乾(かわ)いた芝生(しばふ)に悠々(ゆうゆう)と寝(ね)そべり、満身に日を浴(あ)びながら、遊んで居る。過去は知らず、将来は知らず、現在の彼等は幸福(こうふく)である。幸福な彼等を眺(なが)めて楽(たのし)む主人(あるじ)も、不幸な者とは云われない。

勝手の方で、飯(めし)をやる合図(あいず)の口笛(くちぶえ)が鳴ったので、犬の家族は刎(は)ね起きて先を争うて走って往った。主人はやおら下駄(げた)をぬいで、芝生の真中(まんなか)に大の字に仰臥(ぎょうが)した。而して一鳥過(よ)ぎらず片雲(へんうん)駐(とど)まらぬ浅碧(あさみどり)の空(そら)を、何時までも何時までも眺めた。

(明治四十五年 一月十日)

小鳥

芝生を焼く。

水島生(みずしませい)が来た。社会主義(しゃかいしゅぎ)神髄(しんずい)を返えし、大英遊記(だいえいゆうき)を借りて往った。林の中で拾(ひろ)ったと云って、弾痕(だんこん)ある鶇(つぐみ)を一羽(わ)持て来た。食う気になれぬので、楓の下に埋葬(まいそう)。

銃猟(じゅうりょう)は面白いものであろう。小鳥はうまいものである。此村にはあまり銃猟に来る都人士もないので、小鳥は可なり多い。ある日庭を歩いて居ると、突然東の方から嵐(あらし)の様な羽音(はおと)を立てゝ、夥(おびただ)しい小鳥の群(むれ)が悲鳴(ひめい)をあげつゝ裏の雑木林(ぞうきばやし)に飛んで来た。と思うと、やがて銃声がした。小鳥はうまいものである。銃猟は面白いものであろう。然しあの遽(あわただ)しい羽音と、小さな心臓(しんぞう)も破裂(はれつ)せんばかり驚きおびえた悲鳴を聞いては……

午後鳥打(とりうち)帽子(ぼうし)をかぶった丁稚風(でっちふう)の少年が、やゝ久しく門口に立って居たが、思切ったと云う風で土間に入って来た。年は十六、弟子にして呉れと云う。縁(えん)の方へ廻れと云うたら、障子をあけてずンずン入って来たから、縁から突落して馬鹿と叱った。もと谷中村(やなかむら)の者で、父は今深川(ふかがわ)で石工(いしく)、自身はボール箱造って、向う賄(まかない)で月(つき)六円とるそうだ。小説家なぞになるものでない、と云って聞かして、干柿(ほしがき)を三つくれて帰えす。

(明治四十二年 一月十七日)

炬燵

雪がまだ融(と)けぬ。

夜、二畳の炬燵(こたつ)に入って、架上(かじょう)の一冊を抽(ぬ)いたら、「多情多恨(たじょうたこん)」であった。器械的(きかいてき)に頁(ページ)を翻(ひるがえ)して居ると、ついつり込まれて読み入った。ふっと眼を上げると、向うには鶴子が櫓(やぐら)に突伏(つっぷ)して好い気もちにスヤ/\寝て居る。炬燵の上には、猫が咽(のど)も鳴(な)らさず巴形(ともえなり)に眠って居る。九時近い時計がカチ/\鳴る。台所では細君が皿(さら)の音をさして居る。

茫々(ぼうぼう)たる過去と、漠々(ばくばく)たる未来の間に、斯(この)一瞬(いっしゅん)の現今は楽しい実在(じつざい)であろう。

またさら/\と雪になった。

余は多情多恨を読みつゞける。何と云うても名筆である。柳之助(りゅうのすけ)が亡妻(ぼうさい)の墓に雨がしょぼ/\降って居たと葉山(はやま)に語る条(くだり)を読むと、青山(あおやま)墓地(ぼち)にある春日(かすが)燈籠(とうろう)の立った紅葉山人(こうようさんじん)の墓が、突(つ)と眼の前に現(あら)われた。忽ち其墓の前に名刺(めいし)を置いて落涙(らくるい)する一青年(せいねん)士官(しかん)の姿(すがた)が現われる。それは寄生木(やどりぎ)の原著者(げんちょしゃ)である。あゝ其青年士官――彼自身最早(もう)故山の墓になって居るのだ。

皆さっさと過ぎて行く。

「御徐(おしずか)に!」

斯く云いたい。

何故(なぜ)人生は斯(こ)うさっさと過ぎて往って了(しま)うのであろう?

(明治四十二年 一月二十二日)

蓄音器

あまり淋(さび)しいので、昔は嫌いなものゝ一にして居た蓄音器(ちくおんき)を買った。無喇叺(むらっぱ)の小さなもので、肉声(にくせい)をよく明瞭(めいりょう)に伝える。呂昇(ろしょう)、大隈(おおすみ)、加賀(かが)、宝生(ほうじょう)、哥沢(うたざわ)、追分(おいわけ)、磯節(いそぶし)、雑多(ざった)なものが時々余等の耳に刹那(せつな)の妙音(みょうおん)を伝える。

あたりが静(しずか)なので、戸をしめきっても、四方に余音(よいん)が伝(つた)わる。蓄音器があると云う事を皆知って了うた。そこで正月には村の若者四十余名を招待(しょうだい)して、蓄音器を興行(こうぎょう)した。次ぎには平生世話になる耶蘇教(やそきょう)信者(しんじゃ)の家族を招待した。次ぎには畑仕事で始終厄介(やっかい)になる隣字(となりあざ)の若者等を案内した。今夜は村の婦人連を招(まね)いた。生憎(あいにく)前日来の雨で、到底来者(きて)はあるまいと思うて居ると、それでも傘(かさ)をさして夕刻(ゆうこく)から十数人の来客(らいきゃく)。

妻と鶴子と逗留中(とうりゅうちゅう)の娘とが席に出て取持つ。

余は母屋(おもや)の炉(ろ)を擁(よう)して、書(ほん)を見ながら時々書院のさゞめきに耳傾ける。一曲終る毎に、入り乱れたほめ言葉が聞こえる。曲中ながら笑声が起る。二時間ばかりも過ぎた。茶菓が運ばれた。やがて誰やらクド/\言う様子であったが、音譜(おんぷ)の中には聞き覚えのない肉声が高々と響き出した。

余は窃(そ)と廊下(ろうか)伝(づた)いに書院に往って、障子の外に停(たたず)んだ。蓄音器が歌うのではない。田圃向(たんぼむこ)うのお琴婆さんが歌うのである。

田圃向うの浜田の源(げん)さんの母者(ははじゃ)は、余の字(あざ)で特色ある人物の一人である。彼女は神道(しんどう)大成教(たいせいきょう)の熱心な信者で、あまり大きくもない屋敷の隅には小さな祠(ほこら)が祭ってあって、今でも水垢離(みずごり)とって、天下泰平(てんかたいへい)、国土安穏(こくどあんのん)、五穀成就(ごこくじょうじゅ)、息災延命(そくさいえんめい)を朝々祈るのである。彼女は村の生れでなく、噂(うわさ)によればさる士(さむらい)の芸妓(げいしゃ)に生ませた女らしい。其信心は何時から始まったか知らぬが、其夫が激烈(げきれつ)な脚気(かっけ)にかゝって已に衝心(しょうしん)した時、彼女は身命(しんめい)を擲(なげう)って祈ったれば、神のお告に九年余命(よめい)を授(さず)くるとあった。果然(はたして)夫の病気は畳(たたみ)の目一つずつ漸々快方に向って、九年の後死んだ。顔の蒼白い、頬骨(ほおぼね)の高い、眼の凄(すご)い、義太夫語りの様な錆声(さびごえ)をした婆さんである。「折目高(おりめだか)なる武家(ぶけ)挨拶(あいさつ)」と云う様な切口上で挨拶をするのが癖である。今日も朝方(あさがた)蓄音器招待の礼(れい)に、季節には珍らしい筍(たけのこ)二本持て来てくれた。

琴婆さんは蓄音器の返礼(へんれい)にと云って、文句(もんく)は自作の寿(ことぶき)を唄うて居る。

「福富サンが、皆を集めて遊ばせて下さるゥ……(如何(どう)も声が出ないものですから、エヘン、エヘン――ウーイ、ウーイ、ウーイ)……御親切な福富さんの(ウーイ、ウーイ)ます/\御繁昌(ごはんじょう)で(ウーイ、ウーイ)表(おもて)の方から千両箱、右の方から宝船(たからぶね)(ウーイ、ウーイ)……

障子の外に立聞く主人は、冷汗が流れた。彼は窃(そっ)とぬき足して母屋に帰った。唄(うた)はまだつゞいて、(ウーイ、ウーイ)が Refrain の様に響いて来る。

(明治四十五年 二月六日)

春七日

(一)雛節句

三月三日。別に買った雛も無いから、細君が鶴子を相手に紙雛を折ったり、色紙(いろがみ)の鶴、香箱(こうばこ)、三方(さんぼう)、四方(しほう)を折ったり、あらん限りの可愛いものを集めて、雛壇(ひなだん)を飾(かざ)った。

草餅(くさもち)が出来た。蓬(よもぎ)は昨日鶴子が夏やと田圃(たんぼ)に往って摘(つ)んだのである。東京の草餅は、染料(せんりょう)を使うから、色は美しいが、肝腎(かんじん)の香が薄(うす)い。

今朝は非常の霜だった。午(ひる)の前後はまた無闇(むやみ)と暖(あたたか)で、急に梅が咲き、雪柳(ゆきやなぎ)が青く芽をふいた。山茱萸(さんしい)は黄色の花ざかり。赤い蕾(つぼみ)の沈丁花(ちんちょうげ)も一つ白い口を切(き)った。春蘭(しゅんらん)、水仙(すいせん)の蕾が出て来た。

雲雀(ひばり)が頻(しきり)に鳴く。麦畑(むぎばた)に陽炎(かげろう)が立つ。

唖の巳代吉が裸馬(はだかうま)に乗って来た。女子供がキャッ/\騒(さわ)ぎながら麦畑の向うを通る。若い者が大勢(おおぜい)大師様の参詣(さんけい)に出かける。

春だ。

恋猫(こいねこ)、恋犬(こいいぬ)、鶏(にわとり)は出しても/\巣(す)につき、雀(すずめ)は夫婦で無暗(むやみ)に人の家(うち)の家根(やね)に穴をつくり、木々は芽を吐き、花をさかす。犬のピンの腹(はら)ははりきれそうである。

夜は松の心芽(しんめ)程(ほど)の小さな蝋燭(ろうそく)をともして、雛壇が美(うつく)しかった。

(二)春雨

三月六日。

尽日(じんじつ)雨、山陽(さんよう)の所謂(いわゆる)「春雨(はるさめ)さびしく候」と云う日。

書窓(しょそう)から眺めると、灰色(はいいろ)をした小雨(こさめ)が、噴霧器(ふんむき)で噴(ふ)く様に、弗(ふっ)――弗(ふっ)と北から中(なか)ッ原(ぱら)の杉の森を掠(かす)めて斜(はす)に幾(いく)しきりもしぶいて通る。

つく/″\見て居る内に、英国の発狂(はっきょう)詩人(しじん)ワットソンの God comes down in the rain 神は雨にて降(くだ)り玉う、と云う句を不図(ふと)憶(おも)い出した。其れは「田舎(いなか)の信心(しんじん)」と云う短詩の一句である。全詩(ぜんし)は忘れたが、右の句と、「此処(ここ)田舎の村にては、神を信頼(しんらい)の一念今も尚存し」と云う句と、結句の「此れぞ田舎の信心なる、此れに越すものあらめやも」と云う句を覚えて居る。

農村(のうそん)に天道様(てんとうさま)の信心が無くなったら、農村の破滅(はめつ)である。然るに此信心は日に/\消亡(しょうもう)して、人智人巧唯我唯利の風が日々農村人心の分解(ぶんかい)を促(うなが)しつゝあるのだ。少しでも農村の実情を見知る者は、前途を懸念(けねん)せずには居られぬ。

(三)雨後

三月七日。

近来よく降る。降らなければ曇(くも)る。所謂養花(ようか)の天。

今日は日が出た。朝から暖(あたたか)だ。鶏の声が殊に長閑(のどか)に聞こえる。昨日終日終夜の雨で、畑も土も真黒に潤うた。麦の緑が目立って濃(こ)うなった。緑の麦は、見る眼の驩喜(よろこび)である。其れが嫩(やわ)らかな日光に笑(え)み、若くは面を吹いて寒からぬ程の微風(びふう)にソヨぐ時、或は夕雲(ゆうぐも)の翳(かげ)に青黒く黙(もだ)す時、花何ものぞと云いたい程美しい。

隣家では最早(もう)馬鈴薯(じゃがいも)を植えた。

午後少し高井戸の方を歩く。米俵を積んだ荷馬車が来る。行きすりに不図目にとまった馬子(まご)の風流(ふうりゅう)、俵(たわら)に白い梅の枝が插(さ)してある。白い蝶が一つ、黒に青紋(あおもん)のある蝶が一つ、花にもつれて何処までもひら/\飛んで跟(つ)いて行く。馬子は知らずに好い声を張り上げて、

「飲めよ、ネェ、騒げェよ、三十がァ止(と)ゥめェよゥ。三十過(す)ぎればァ、たゞの人(ひいと)ゥ。コラ/\」

朝の模様で、今日は美晴と思われたが、矢張気の定まらぬ日であった。時々ざあと時雨(しぐれ)の様に降っては止み、東に虹(にじ)が出たり、西に日が現(あら)われて遠方の屋根が白く光ったり、北風が来て田圃(たんぼ)の小川の縁(ふち)とる女竹(めたけ)の藪(やぶ)をざわ/\鳴らしてはきら/\日光を跳(おど)らせたりした。空(そら)の一部は印度藍色(いんどあいいろ)に濃(こ)く片曇(かたくも)りし、村と緑の麦の一部は眩(まぶ)しい片明(かたあか)りして、ミレーの「春」を活かして見る様であった。

(四)摘草

三月八日。

今日も雲雀(ひばり)が頻に鳴く。

午食前(ひるめしまえ)に、夫妻鶴子ピンを連れて田圃に摘草(つみくさ)に出た。田の畔(くろ)の猫柳が絹毛(きぬげ)の被(かつぎ)を脱いで黄(きい)ろい花になった。路傍(みちばた)の草木瓜(くさぼけ)の蕾(つぼみ)が朱(あけ)にふくれた。花は兎に角、吾儕(われら)の附近(あたり)は自然の食物には極めて貧しい処である。芹(せり)少々、嫁菜(よめな)少々、蒲公英(たんぽぽ)少々、野蒜(のびる)少々、蕗(ふき)の薹(とう)が唯三つ四つ、穫物(えもの)は此れっきりであった。

午後本(ほん)を読んで居ると、空中(くうちゅう)に大きな物の唸(うな)り声が響く。縁から見上げると、夏に見る様な白銅色の巻雲(けんうん)を背(うしろ)にして、南の空(そら)に赤い大紙鳶(おおだこ)が一つ颺(あが)って居る。ブラ下げた長い長い二本の縄(なわ)の脚(あし)を軟(やわ)らかに空中に波うたして、紙鳶(たこ)は心(こころ)長閑(のどか)に虚空(こくう)の海に立泳(たちおよ)ぎをして居る。ブーンと云うウナリが、武蔵野一ぱいに響き渡る。

春だ。

晩食に摘草の馳走。野蒜の酢味噌(すみそ)は可(か)、ひたし物の嫁菜は苦(にが)かった。

(五)彼岸入り

三月十八日。彼岸の入り。

風はまだ冷(つめ)たいが、雲雀の歌にも心なしか力(ちから)がついて、富士も鉛色(なまりいろ)に淡(あわ)く霞(かす)む。

庭には沈丁花(ちんちょうげ)の甘(あま)い香(か)が日も夜も溢(あふ)れる。梅は赤い萼(がく)になって、晩咲(おそざき)紅梅(こうばい)の蕾がふくれた。犬が母子(おやこ)で芝生(しばふ)にトチ狂(くる)う。猫が小犬の様に駈(か)け廻(まわ)る。

春だ。

彼岸入りで、団子(だんご)が出来た。

墓参が多い。

夕方、静(しずか)になった墓地に往って見る。沈丁花(ちんちょうげ)、赤椿(あかつばき)の枝が墓前(ぼぜん)の竹筒(たけつつ)や土に插(さ)してある。線香(せんこう)の烟(けむり)が徐(しず)かに颺(あが)って居る。不図見ると、地蔵様の一人(ひとり)が紅木綿(べにもめん)の着物を被(き)て居られる。先月幼(おさ)な娘を亡(な)くした松さんとこで被(き)せ申したのであろう。

(六)蛇出穴

三月二十八日。

近来の美晴。朝飯後高井戸に行って、石を買う。武蔵野に石は無い。砂利(じゃり)や玉石(たまいし)は玉川最寄(もより)から来るが、沢庵(たくあん)の重石(おもし)以上は上流青梅(あおめ)方角から来る。一貫目一銭五厘の相場(そうば)だ。択(えら)んだ石を衡(はかり)にかけさせて居たら、土方体(どかたてい)の男が通りかゝって眼を瞪(みは)り、

「石を衡にかける――驚いたな」

と云った。

午後は田圃(たんぼ)伝いに船橋(ふなばし)の方に出かける。門を出ると、墓地で蛇を見た。田圃の小川の楲(いび)の下では、子供が鮒(ふな)を釣(つ)って居る。十丁そこら往って見かえると、吾家も香爐(こうろ)の家(いえ)程に小さく霞(かす)んで居る。

今日は夕日の富士が、画にかいた「理想(りそう)」の様に遠くて美しかった。

(七)仲春

四月十七日。

戸を開(あ)けて、海――かと思うた。家を繞(めぐ)って鉛色(なまりいろ)の朝霞(あさがすみ)。村々の森の梢(こずえ)が、幽霊(ゆうれい)の様に空(そら)に浮いて居る。雨かと舌鼓(したつづみ)をうったら、霞(かすみ)の中からぼんやりと日輪(にちりん)が出て来た。見る/\日の威力は加わって、光は白く霞に咽(むせ)ぶ。

庭の桜の真盛りである。落葉松(らくようしょう)、海棠(かいどう)は十五六の少年と十四五の少女を見る様。紫の箱根つゝじ、雪柳(ゆきやなぎ)、紅白の椿、皆真盛り。一重山吹も咲き出した。セイゲン、ヤシオなど云う血紅色(けっこうしょく)、紅褐色(こうかっしょく)の春モミジはもとより、槭(もみじ)、楓(かえで)、楢(なら)、欅(けやき)、ソロなどの新芽(しんめ)は、とり/″\に花より美しい。

畑に出て見る。唯(ただ)一叢(ひとむら)の黄なる菜花(なのはな)に、白い蝶が面白そうに飛んで居る。南の方を見ると、中っ原、廻沢(めぐりさわ)のあたり、桃の紅(くれない)は淡く、李は白く、北を見ると仁左衛門の大欅(おおけやき)が春の空を摩(な)でつゝ褐色(かっしょく)に煙(けぶ)って居る。

春の日も午近くなれば、大分青んで来た芝生に新楓(しんふう)の影繁(しげ)く、遊びくたびれて二(ふた)つ巴(ともえ)に寝て居る小さな母子(おやこ)の犬の黒光(くろびか)りする膚(はだ)の上に、桜(さくら)の花片(はなびら)が二つ三つほろ/\とこぼれる。風が吹く。木影(こかげ)が揺(うご)く。蛙が鳴く。一寸(ちょっと)耳をびちっと動かした母犬(おやいぬ)は、またスヤ/\と夢をつゞける。

夕方は、まんまるな紅(あか)い日が、まんじりともせず悠々(ゆうゆう)と西に落ちて行く。横雲(よこぐも)が一寸一刷毛(ひとはけ)日の真中を横に抹(なす)って、画にして見せる。最早(もう)穂(ほ)を孕(はら)んだ青麦(あおむぎ)が夕風にそよぐ。

夜は蛙の声の白い月夜。

(明治四十三年)

ある夜

梅に晩(おそ)く桜に早い四月一日の事。

余は三時過ぎから、ある事の為にある若い婦人を伴うて、粕谷から高輪(たかなわ)に往った。午後の六時から十一時過ぎまで、ある家の主人を訪うてある事を弁じつゞけ、要領を得ずして其家を辞した時は、最早十二時近かった。それでも終電車に乗るを得て、婦人は三宅坂(みやけざか)で下りて所縁(しょえん)の家へ、余は青山で下りて兄の家に往った。

寝入り端(ばな)と見えて、門を敲(たた)けど呼べど叫べど醒めてくれぬ。つい近所に姪(めい)の家があるが、臨月近い彼女を驚かすのも面白くない。余は青山の通を御所(ごしょ)の方へあるいて、交番に巡査を見出し、其指図で北町裏の宿屋を一二軒敲き起した。寤めは寤たが、満員と体の好い嘘(うそ)を云って謝絶された。

電車はとくに寝に往って了った。夜が明けたら築地の病院に腫物(しゅもつ)を病(や)んで入院して居る父を見舞うつもりで、其れ迄新橋停車場の待合室にでも往って寝ようと、月明りと電燈瓦斯の光を踏んで、ぶら/\溜池の通を歩いて新橋に往った。往って見ると此は不覚(ふかく)、扉(と)がしまって居る。駅夫(えきふ)に聞くと、睡むそうな声して、四時半まではあけぬと云う。まだ二時前である。

電燈ばかり明るくてポンペイの廃墟(はいきょ)の様に寂(さび)しい銀座の通りを歩いて東へ折れ、歌舞伎座前を築地の方へ往った。万年橋の袂(たもと)に黙阿弥の芝居に出て来そうな夜啼(よなき)饂飩(うどん)が居る。夜は丑満(うしみつ)頃(ごろ)で、薄寒くもあり、腹も減(へ)った。

「おい、饂飩を一つくれんか」

「へえ」

灯(ひ)の蔭から六十近い爺(おやじ)が顔を出して一寸余を見たが、直ぐ団扇(うちわ)でばたばたやりはじめた。後の方には車が二台居る。車夫の一人は鼾(いびき)をかいて居る。一人は蹴込(けこみ)に腰を据(す)えて、膝かけを頭からかぶって黙って居る。

「へえ、出来ました」

割箸(わりばし)を添えて爺が手渡す丼(どんぶり)を受取って、一口(ひとくち)啜(すす)ると、腥(なまぐさ)いダシでむかッと来たが、それでも二杯食った。

「おい、もう二つこさえて呉れ」

余は代を払い、「ドウモ御馳走様! おい、旦那が下さるとよ」と車夫が他の一人を呼びさます声を聞きすてゝ万年橋を渡った。つい其処の歌舞伎座の書割(かきわり)にある様な紅味(あかみ)を帯びた十一日の月が電線(でんせん)にぶら下って居る。

築地外科病院の鉄扉(てっぴ)は勿論しまって居た。父のと思わるゝ二階の一室に、ひいた窓帷(まどかけ)越(ご)しに樺色(かばいろ)の光がさして居る。余は耳を澄ました。人のうめき声がしたかと思うたが、其は僻耳(ひがみみ)であったかも知れぬ。父は熟睡(じゅくすい)して居るのであろう。其子の一人が今病室の光(あかり)を眺(なが)めて、此(この)深夜(よふけ)に窓の下を徘徊して居るとは夢にも知らぬであろう。

睡(ねむ)くなった。頭がしびれて来た。何処でもよい、此重い頭を横たえたくなった。余はうつら/\と夢心地に本願寺の近辺をぶらついた。体で余は歩かなかった。幽霊のようにふら/\とさまようた。不図墓地に入った。此処は余も知って居る。曾て一葉(いちよう)女史(じょし)の墓を見に来た時歩き廻った墓地である。余は月あかりに墓と墓の間を縫(ぬ)うて歩いた。誰やらの墓の台石(だいいし)に腰かけて見た。然し此処は永く眠るべき場所である。一夜の死を享(う)く可き場所ではない。余は墓地から追い出されて、また本願寺前の広場に出た。

不図本願寺の門があいて居るのを見つけた。門口には巡査か門番かの小屋(こや)があって、あかりがついて居る。然し誰咎(とが)むる者も無いので、突々(つつ)と入って、本堂の縁(えん)に上った。大分西に傾いた月の光は地を這(は)うて、本堂の縁は闇(くら)い蔭(かげ)になって居る。やっと安息の場所を獲(え)て、広縁(ひろえん)に風呂敷を敷き、手枕(たまくら)をして横になった。少しウト/\するかと思うと、直ぐ頭の上で何やらばさ/\と云う響がした。余は眼を開(あ)いて頭上(ずじょう)の闇(やみ)を見た。同時に闇の中に「ク〻ク〻」と云う囁(ささ)やきを聞いた。

「あ、鳩(はと)だ」

余はまたウト/\となった。

月は次第に落ちて行く。

(明治四十二年 四月一日)

与右衛門さん

村の三月節句で、皆が遊んであるく。家は潰(つぶ)され、法律上の妻には出て往かれ、今は実家の厄介(やっかい)になって居る久(ひさ)さんが、何(なに)発心(ほっしん)してか今日はまる/\の青坊主(あおぼうず)に剃(そ)って、手拭肩に独ぶら/\歩いて居る。

甲州街道の小間物屋のおかみが荷を背負(せお)って来た。「ドウもねえあなた、天道様(てんとうさま)に可愛がられまして、此通り真黒でございます」と頬(ほお)を撫(な)でる。気の利いた口のきゝぶり、前半生に面白い話を持て居そうな女だ。負ってあるく荷は十貫目からあると云う。細君が鬢櫛(びんぐし)と鶴子の花簪(はなかんざし)を買うた。

小間物屋のおかみが帰ると、与右衛門(よえもん)さんが地所を買わぬかと云うて来た。少しばかりの地面を買って古い家を建てたりしたので、やれ地面を買わぬかの、古い天水桶用(てんすいおけよう)の釜(かま)を買わぬかの、植木の売物があるのと、蟻(あり)の砂糖(さとう)につく如くたかってくる。金が無いと云っても、中々本当(ほんと)にしてくれぬ。与右衛門さんも其一人である。

与右衛門さんは、村内(そんない)切(き)っての吾儘者(わがままもの)剛慾者(ごうよくもの)としてのけものにさるゝ男である。村内でも工面(くめん)のよい方で、齢(とし)もまだ五十左右(さう)、がっしりした岩畳(がんじょう)の体格、濃い眉の下に開(あ)いた蛇(じゃ)の目の様な二つの眼は鋭く見つめて容易に動かず、頭の頂辺(てっぺん)から足の爪先(つまさき)まで慾気(よくけ)満々(まんまん)として寸分のタルミも無い。岩畳な彼を容(い)るゝその家は、基礎(どだい)を切石(きりいし)にし、柱(はしら)の数を多くし、屋根をトタンで包(つつ)み、縁(えん)を欅(けやき)で張り、木造の鬼(おに)の窟(いわや)の如く岩畳である。彼に属する一切のものは、其堅牢(けんろう)な意志の発現(はつげん)である。彼が家の子女は何処の子女よりも岩畳である。彼の家の黒猫は、小さな犬より大きく、村内の如何なる猫も其威(い)に恐れぬものは無い。彼が家の麦からの束(たば)は、他家(よそ)の二倍もある。彼が家の夜具(よるのもの)は、宇都宮(うつのみや)の釣天井(つりてんじょう)程に重く大きなものだ。彼が家の婆さんは、七十過ぎて元気おさ/\若者を凌(しの)ぐ婆さんである。婆さんの曰く、私(わたし)の家(うち)は信心なんざしませんや。正に其通り、与右衛門さんは神仏(かみほとけ)なんか信ずる様な事はせぬ、徹頭徹尾自力宗(じりきしゅう)の信者である。遠い神仏(しんぶつ)を信心するでもなければ、近所隣の思惑(おもわく)や評判を気にするでもなく、流行(はやり)とか外聞(がいぶん)とかつき合(あい)とか云うことは、一切禁物で、恃(たの)む所は自家の頭と腕、目ざすものは金である。与右衛門さんには道楽(どうらく)と云うものが無いが、金と酒は生命(いのち)にかけて好きである。家(うち)で晩酌(ばんしゃく)に飲み、村の集会で飲み、有権者だけに衆議院議員の選挙(せんきょ)振舞(ぶるまい)で飲み、どうやらすると昼日中(ひるひなか)おかず媼(ばあ)さんの小店(こみせ)で一人で飲んで真赤(まっか)な上機嫌(じょうきげん)になって、笑って無暗(むやみ)にお辞義をしたり、管(くだ)を巻いたり、気焔(きえん)を吐(は)いたりして居ることがある。皆が店を覗(のぞ)いて、与右衛門さんのお株(かぶ)梅ヶ谷の独相撲(ひとりずもう)がはじまりだ、と笑う。与右衛門さんは何処までも自己中心である。人が与右衛門さんの地所を世話すれば、世話人は差措(さしお)いて必直談(じきだん)に来る。自身の世話しかけた地所を人が直談にすれば、一盃機嫌で怒鳴(どな)り込んで来る。

然し与右衛門さんは強慾(ごうよく)であるかわり、彼は詐(うそ)を云わぬ。詐は貨幣(かね)同様(どうよう)天下の通(とお)り物である。都でも、田舎でも、皆それ/″\に詐をつく。多くの商売は詐に築(つ)かれた蜃気楼(しんきろう)と云ってもよい。此辺の田舎でも、些(ちっ)とまとまった買物を頼めば、売主は頼まれた人に、受取(うけとり)は幾何金(いくら)と書きましょうか、ときく。コムミッションの天引(てんびき)は殆(ほとんど)不文律になって居る。人を見て値(ね)を云う位は、世にも自然な事共である。東京から越して来た人に薪(まき)を売った者がある。他の村人が、あまり値段(ねだん)が高いじゃないかと注意したら、売り主の曰く、そりゃ些(ちった)ア高いかも知(し)んねえが、何某(なにがし)さんは金持(かねもち)だもの、此様な時にでも些(ちった)ア儲(も)うけさして貰(もら)わにゃ、と。而(そう)して薪の売主は、衆議院議員選挙権を有って居る、新聞位は読んで居る男である。売る葺萱(ふきがや)の中に屑(くず)をつめ込んで束(たば)を多くする位は何でも無い。

誰も平気に詐(うそ)をつく。然し看板(かんばん)を出した慾張り屋の与右衛門さんは、詐を云わぬ、いかさまをせぬ。それから彼は作代(さくだい)に妻をもたせて一家を立てゝやったり、義弟が脚部に負傷(ふしょう)したりすると、荷車にのせて自身挽(ひ)いて一里余の道を何十度も医者へ通ったり、よく縁者の面倒(めんどう)を見る。与右衛門さんに自慢話(じまんばなし)がある。東京者が杉山か何か買って木を伐(き)らした時、其木が倒れて誤(あやま)って隣合(となりあ)って居る彼与右衛門が所有林(しょゆうりん)の雑木(ぞうき)の一本を折った。最初無断(むだん)で杉を伐りはじめたのであった。与右衛門さんは例(れい)の毛虫眉(けむしまゆ)をぴりりとさせて苦情(くじょう)を持込んだ。御自分に御買いになった木を御伐(おき)りになるに申分は無いが、何故(なぜ)此方の山の木まで御折りになったか、金が欲しくて苦情を申すでは無い、金は入りません、折れた木を元(もと)の様にして戴(いただ)きたい。思いがけない剛敵(ごうてき)に出会(でっくわ)して、東京者も弱った。与右衛門さんは散々並べて先方(せんぽう)を困(こま)らせぬいた揚句(あげく)、多分の賠償金(ばいしょうきん)と詫言(わびごと)をせしめて、やっと不承(ふしょう)した。右は東京者に打勝った与右衛門さんの手柄話の一節である。与右衛門さんは、東京者に此手で行くばかりでなく、近所隣までも此の筆法で行く。そこで与右衛門さんを憚(はばか)って、其の地所の隣地に一寸した事をするにも、屹度(きっと)わたりをつける。

与右衛門さんは評判の長話家(ながばなしや)である。鍬を肩にして野ら仕事の出がけに鉢巻とって「今日(こんにち)は」の挨拶(あいさつ)からはじめて、三十分一時間の立話(たちばなし)は、珍らしくもない。今日も煙管(きせる)をしまっては出し、しまっては出し、到頭二時間と云うものぶっ通しに話された。与右衛門さんは中々の精力家である。「どうもダイ産(さん)としては地所程好いダイ産はありませんからナ」の百万遍(べん)を聞かされた。

「でも斯様(こん)な時代もあったですよ」

と云って、与右衛門さんは九度目(ここのたびめ)に抽(ぬ)き出した煙管(きせる)に煙草をつめながら、斯様(こん)な話をした。

此辺はもと徳川様の天領(てんりょう)で、納(おさ)め物の米や何かは八王子(はちおうじ)の代官所(だいかんしょ)まで一々持って往ったものだ。八王子まではざっと六里、余り面倒なので、田はうっちゃってしまえと云う気になり、粕谷では田を一切烏山(からすやま)にやるから貰(もら)ってくれぬかと相談をかけた。烏山では、タヾでは貰えぬ、と言う。到頭馬弐駄に酒樽(さかだる)をつけて、やっと厄介な田を譲った。

「嘘(うそ)の様な話でさ。惜しい事さね、今ならば……」

と云って、与右衛門さんは煙管(きせる)の雁管(がんくび)をポンと火鉢にはたいて、今にも水が垂(た)りそうな口もとをした。

(明治四十四年 四月三日)

五月五日

五月五日。日曜。節句。余等が結婚十九年の記念日。例によって赤の飯、若芽(わかめ)の味噌汁(みそしる)。

朝飯すまして一家買物に東京行。東京には招魂祭、府中には大国魂(おおくにたま)神社(じんしゃ)の祭礼があるので、甲州街道も東へ往ったり西へ来たり人通りが賑(にぎ)やかだ。新宿、九段、上野、青山と廻(まわ)って、帰途に就いたのが、午後四時過ぎ。東京は賑やかで面白い。賑やかで面白い東京から帰って来ると、田舎も中々悪くない。西日(にしび)に光る若葉の村々には、赭(あか)い鯉が緑の中からふわりと浮いて居る。麦の穂は一面白金色(はくきんしょく)に光り、蛙(かわず)鳴く田は紫雲英(れんげそう)の紅(くれない)を敷き、短冊形(たんざくがた)の苗代(なわしろ)には最早嫩緑(どんりょく)の針(はり)がぽつ/\芽ぐんで居る。夕雲雀(ゆうひばり)が鳴く。日の入る甲州の山の方から塵(ちり)のまじらぬ風がソヨ/\顔を吹く。府中の方から大国魂神社の大太鼓(おおたいこ)がドン/\と遙(はるか)に響(ひび)いて来る。

帰宅したのが六時過ぎ。正面(まとも)に見て眩(まぶ)しくない大きな黄銅色(しんちゅういろ)の日輪(にちりん)が、今しも橋場(はしば)の杉木立(すぎこだち)に沈みかけた所である。

本当に日が永い。

留守に隣から今年(ことし)も檞餅(かしわもち)をもらった。

留守に今一つの出来事があった。橋本のいさちゃんが、浜田の婆(ばあ)さんに連れられ、高島田(たかしまだ)、紋付(もんつき)、真白に塗(ぬ)って、婚礼(こんれい)の挨拶(あいさつ)に来たそうだ。美(うつく)しゅうござんした、と婢(おんな)が云う。

いさちゃんは此辺でのハイカラ娘である。東京のさる身分ある人の女で、里子に来て、貰(もら)われて橋本の女になった。橋本の嗣子(あととり)が亡くなったので、実弟の谷さんを順養子(じゅんようし)にして、いさちゃんを妻(めあ)わしたのである。余等が千歳村に越(こ)して程なく、時々遊びに来る村の娘の中に、垢(あか)ぬけした娘が居た。それがいさちゃんであった。彼女は高等小学を卒(お)え、裁縫(さいほう)の稽古(けいこ)に通った。正月なんか、庇髪(ひさし)に結(ゆ)ってリボンをかけて着物を更(か)えた所は、争われぬ都の娘であったが、それでも平生(ふだん)は平気に村の娘同様の仕事をして、路の悪い時は肥車(こやしぐるま)の後押(あとお)しもし、目籠(めかご)背負(せお)って茄子(なす)隠元(いんげん)の収穫(しゅうかく)にも往った。実家の母やマアガレットに結って居る姉妹等が遊びに来ても、いさちゃんはさして恥じらう風情(ふぜい)も無かった。

田舎は淋(さび)しい。人が殖(ふ)え家が殖えるのは、田舎の歓喜(よろこび)である。人が喰合(くいあ)う都会では、人口の増加は苦痛(くつう)の問題だが、自然を相手に人間の戦(たたか)う田舎の村では、味方の人数が多い事は何よりも力で強味(つよみ)である。小人数(こにんず)の家は、田舎では惨(みじめ)なものだ。何(ど)の家でも、五人六人子供の無い家(うち)は無い。この部落(ぶらく)でも、鴫田(しぎだ)や寺本の様に屈強(くっきょう)な男子(おとこのこ)の五人三人持て居る家(うち)は、家(いえ)も栄(さかえ)るし、何かにつけて威勢(いせい)がよい。養蚕(ようさん)が重(おも)な副業(ふくぎょう)の此地方では、女の子も大切(だいじ)にされる。貧しい家(うち)が扶持(ふち)とりに里子をとるばかりでなく、有福(ゆうふく)な家(うち)でも里子をとり、それなりに貰ってしまうのが少なくない。其まゝに大きくして、内の媳(よめ)にするのが多い。所謂(いわゆる)「蕾(つぼみ)からとる花嫁御(はなよめご)」である。一家総労働の農家では、主僕の間に隔(へだて)がない様に、実の娘と養女の間に格別(かくべつ)の差等(さとう)はない。養われた子女が大きくなっても、別に東京恋しとも思わず、東京に往っても直ぐ田舎に帰って来る。

都会に近い田舎の事で、何(ど)の家(うち)も多少の親類を東京に有(も)って居る。村の祭には東京からも遊びに来る。農閑(のうかん)の季節には、田舎からも東京に遊びに行く。辰(たつ)爺(じい)さんは浅草に親類がある。時々遊びに行くが、帰ると溜息(ためいき)ついて曰く、全く田舎が好(え)えナ、浅草なンか裏が狭くて、雪隠(せっちん)に往っても鼻(はな)ア突(つっ)つく、田舎に帰(けえ)ると爽々(せいせい)するだ、親類のやつが百姓は一日(いちにち)にいくら儲(もう)かるってきくから、こちとらは帳面なンかつけやしねえ、年の暮になりゃ足りた時は足りた、剰(あま)らねえ時は剰らねえンだ、って左様(そう)云ってやりましたよ、と。

東京に往けば、人間に負(ま)けます、と皆が云う。麦(むぎ)の穂(ほ)程人間の顔がある東京では、人間の顔見るばかりでも田舎者はくたびれて了(しま)う。其処(そこ)に電話(でんわ)の鈴(りん)が鳴る。電車が通(とお)る。自動車が走る。号外(ごうがい)が飛ぶ。何かは知らず滅多(めった)無性(むしょう)に忙(せわ)しそうだ。斯様(こん)な渦(うず)の中に捲(ま)き込(こ)まれると、杢兵衛(もくべえ)太五作(たごさく)も足の下が妙にこそばゆくなって、宛無(あてな)しの電話でもかけ、要もないに電車に飛び乗りでもせねば済(す)まぬ気になる。ゆっくりした田舎の時間(じかん)空間(くうかん)の中に住み慣(な)れては、東京好しといえど、久恋(きゅうれん)の住家(すみか)では無い。だから皆帰りには欣々として帰って来る。

田舎では、豊(ゆた)かな生計(くらし)の家(うち)でも、女(むすめ)を東京に奉公に出す。女の奉公と、男の兵役とは、村の両遊学(りょうゆうがく)である。勿論弊害もあるが、軍隊に出た男は概(がい)して話せる男になって帰って来る。いさちゃんのお婿(むこ)さんなども、日露戦争にも出て、何処(どこ)やら垢(あか)ぬけのした在郷(ざいごう)軍人(ぐんじん)である。奉公に出た女にも、東京に嫁入(よめい)る者もあるが、田舎に帰って嫁(とつ)ぐ者が多い。何を云うても田舎は豊かである。田舎に生れた者が田舎を恋(こ)うばかりでなく、都に生れた者でも田舎に育てば矢張田舎が恋しくなる。

いさちゃんも好い生涯(しょうがい)を与えられた。

(明治四十五年)

紫雲英

午後の散歩に一家打連(うちつ)れて八幡山(はちまんやま)、北沢間(きたざわかん)の田圃(たんぼ)に往った。紫雲英(れんげそう)の花盛りである。

此処は西欝々(うつうつ)とした杉山(すぎやま)と、東若々(わかわか)とした雑木山(ぞうきやま)の緑(みどり)に囲(かこ)まれた田圃で、遙(はるか)北手(きたて)に甲州街道が見えるが、豆人(とうじん)寸馬(すんば)遠く人生行路(じんせいこうろ)の図(ず)を見る様で、却(かえっ)てあたりの静(しず)けさを添(そ)える。主人と妻と女児(むすめ)と、田の畔(くろ)の鬼芝(おにしば)に腰を下ろして、持参(じさん)の林檎(りんご)を噛(かじ)った。背後(うしろ)には生温(なまぬる)い田川(たがわ)の水がちょろ/\流れて居る。前は畝(うね)から畝へ花毛氈(はなもうせん)を敷いた紫雲英の上に、春もやゝ暮近(くれちか)い五月の午後の日がゆたかに匂(にお)うて居る。ソヨ/\と西から風が来る。見るかぎり桃色(ももいろ)の漣(さざなみ)が立つ。白い蝶が二つもつれ合うてヒラ/\と舞うて居る。跟(つ)いて来た大きな犬のデカと小さなピンが、蛙(かえる)を追ったり、何かフッ/\嗅(か)いだりして、面白そうに花の海を踏(ふ)み分けて、淡紅(とき)の中に凹(なかくぼ)い緑の線(すじ)をつける。熟々(つくづく)と見て居ると、紅(くれない)の歓楽(かんらく)の世に独(ひとり)聖者(せいじゃ)の寂(さび)しげな白い紫雲英が、彼所(かしこ)に一本、此処(ここ)に一株(かぶ)、眼に立って見える。主人はやおら立って、野に置くべきを我庭に移(うつ)さんと白きを掘る。白い胸掛(むねかけ)をした鶴子は、寧(むしろ)其美しきを撰(えら)んで摘(つ)み且摘み、小さな手に持ち切れぬ程になったのを母の手に預(あず)けて、また盛に摘んで居る。

主人は田川の生温(なまぬる)い水で泥手(どろて)を洗って、鬼芝の畔に腰かけつゝ、紫雲英を摘む女児を眺めて居る。ぽか/\した暮春(ぼしゅん)の日光(ひざし)と、目に映(うつ)る紫雲英の温(あたた)かい色は、何時しか彼をうっとりと三十余年の昔に連れ帰るのであった。

時は明治十年である。彼は十歳の子供である。彼の郷里は西郷戦争の中心になった。父は祖父を護(ご)して遠方に避難(ひなん)し、兄は京都の英学校に居り、家族の中で唯一人(ただひとり)の男の彼は、母と三人の姉と熊本を東南に距(さ)る四里の山中の伯父(おじ)の家に避難した。山桜(やまざくら)も散って筍(たけのこ)が出る四月の末、熊本城の囲(かこみ)が解(と)けたので、避難の一家は急いで帰途に就いた。伯父の家から川に添(そ)うて一里下れば木山町、二里下ると沼山津(ぬやまづ)村。今夜は沼山津泊(とまり)の予定であった。皆徒歩(かち)だった。木山まで下ると、山から野に出る。彼等は川堤(かわつつみ)を水と共に下って往った。堤の北は藻隠(もがく)れに鮒(ふな)の住む川で、堤の南は一面の田、紫雲英が花毛氈(はなもうせん)を敷き、其の絶間(たえま)〻〻(たえま)には水銹(みずさび)が茜色(あかねいろ)の水蓋(みずぶた)をして居た。行く程に馬上の士官が来た。母が日傘(ひがさ)を横にして会釈(えしゃく)し、最早(もう)熊本に帰っても宜しゅうございましょうかと云うた。宜(よ)いとも/\、皆(みんな)ひどい目に会(あ)った喃(なあ)。と士官が馬上から挨拶(あいさつ)した。其処(そこ)に土俵(どひょう)で築(きず)いた台場(だいば)――堡塁(ほるい)があった。木山の本営(ほんえい)を引揚(ひきあ)げる前、薩軍(さつぐん)が拠(よ)って官軍を拒(ふせ)いだ処である。今は附(つ)け剣(けん)の兵士が番して居た。会釈して一同其処を通りかゝると、蛇が一疋のたくって居る。蛇嫌(へびぎら)いの彼は、色を変えて立どまった。兵士が笑って、銃剣(じゅうけん)の先(さき)で蛇をつっかけて、堤外(ていがい)に抛(ほう)り出した。無事に此(この)関所(せきしょ)も越して、彼は母と姉と嘻々(きき)として堤を歩んだ。春の日はぽかり/\春の水はのたり/\、堤外は一面の紫雲英で、空には雲雀(ひばり)、田には蛙(かわず)が鳴いて居る。明日(あす)家(うち)に帰る前に今夜泊(とま)る沼山津の村は、一里向うに霞んで居る。……

「阿父(おとうさん)、ほら此様(こんな)に摘んでよ」

吾に復(か)えった彼の眼の前に、両手(りょうて)につまんで立った鶴子の白(しろ)胸掛(むねかけ)から、花の臙脂(えんじ)がこぼれそうになって居る。

(明治四十四年 五月八日)

印度洋

夜、新聞で見ると、長谷川(はせがわ)二葉亭(ふたばてい)氏が肺病で露西亜から帰国の船中、コロムボと新嘉坡(シンガポール)の間で死んだとある。去十日の事。

馬琴物(ばきんもの)から雪中梅型(せっちゅうばいがた)のガラクタ小説に耽溺(たんでき)して居た余に、「浮雲(うきぐも)」は何たる驚駭(おどろき)であったろう。余ははじめて人間の解剖室(かいぼうしつ)に引ずり込まれたかの如く、メスの様な其筆尖(ふでさき)が唯恐ろしかった。それからツルゲーネフの翻訳「あひゞき」を国民の友で、「めぐりあひ」を都の花で見た時、余は世にも斯様(こん)な美しい世界があるかと嘆息した。繰(く)り返えし読んで足らず、手ずから写(うつ)したものだ。其後「血笑記(けっしょうき)」を除く外、翻訳物は大抵見た。「其(その)面影(おもかげ)」はあまり面白いとも思わなかった。「平凡(へいぼん)」は新聞で半分から先きを見た。浮雲の筆は枯(か)れきって、ぱっちり眼を開いた五十男の皮肉(ひにく)と鋭利(えいり)と、醒(さ)めきった人のさびしさが犇々(ひしひし)と胸に迫(せま)るものがあった。朝日から露西亜へ派遣(はけん)された時、余は其通信の一行(ぎょう)も見落さなかった。通信の筆は数回ではたと絶えた。而(そう)して帰朝中途の死!

印度洋はよく人の死ぬ所である。昔から船艦(せんかん)の中で死んで印度洋の水底に葬(ほうむ)られた人は数知れぬ。印度洋で死んだ日本人も一人や二人では無い。知人(ちじん)柳房生(りゅうぼうせい)の親戚某神学士(ぼうしんがくし)も、病を得て英国から帰途印度洋で死んで、新嘉坡(シンガポール)に葬られた。二葉亭氏も印度洋で死んで新嘉坡で火葬され、骨になって日本に帰るのである。

高山(こうざん)の麓(ふもと)の谷は深い。世界第一の高峻(こうしゅん)雪山(せつさん)を有(も)つ印度の洋(うみ)は、幾干(いくばく)の人の死体を埋めても埋めても埋めきれぬ。其陸(りく)の菩提樹(ぼだいじゅ)の蔭に「死の宗教」の花が咲いた印度の洋(うみ)は、餌(え)を求めて饜(あ)くことを知らぬ死の海である。烈しい暑(あつ)さのせいもあろうが、印度洋は人の気を変にする。日本郵船のある水夫は、コロムボで気が変になり、春画(しゅんが)など水夫部屋に飾(かざ)って拝(おが)んだりして居たが、到頭印度洋の波を分けて水底深く沈(しず)んで了うた、と其船の人が余に語り聞かせた。印度洋の彼(かの)不可思議(ふかしぎ)な色をして千劫(せんごう)万劫(まんごう)已(や)む時もなくゆらめく謎(なぞ)の様な水面(すいめん)を熟々(つくづく)と見て居れば、引き入れられる様で、吾れ知らず飛び込みたくなる。

三年前余は印度洋を東から西へと渡った。日々海を眺(なが)めて暮らした。海の魔力(まりょく)が次第に及ぶを感じた。三等船客の中に、眼が悪(わる)いので欧洲(おうしゅう)廻(まわ)りで渡米する一青年があって「思出(おもいで)の記(き)」を持て居た。ペナンからコロムボの中間(ちゅうかん)で、余は其思出の記を甲板(かんぱん)から印度洋へ抛(ほう)り込んだ。思出の記は一瞬(いっしゅん)の水煙(みずけむり)を立てゝ印度洋の底深(そこふか)く沈んで往ったようであったが、彼小人菊池慎太郎が果して往生(おうじょう)したや否は疑問である。印度洋は妙に人を死に誘(さそ)う処だ。

(明治四十二年 五月十二日)

自動車

九十一歳の父と、八十四歳の母と逗留(とうりゅう)に来ると云う。青山から人力車では、一時間半はかゝる。去年までは車にしたが、今年(ことし)は今少し楽(らく)なものをと考えて、到頭以前睥睨(へいげい)して居た自動車をとることにした。実は自身乗って見たかったのである。

自動車は余の嫌いなものゝ一(ひとつ)である。曾て溜池(ためいけ)の演伎座前(えんぎざまえ)で、微速力(びそくりょく)で駈(か)けて来た自動車を避(さ)けおくれて、田舎者の婆さんが洋傘(こうもり)を引かけられて転(ころ)んだ。幸に大した怪我(けが)はなかったが、其時自動車の内から若い西洋人がやおら立上り、小雨(こさめ)を厭(いと)うて悠々(ゆうゆう)と洋傘(こうもり)をひらいて下り立った容子のあまりに落つき払ったのを、眼前に見た余は、其西洋人を合せて自動車に対する憎悪(ぞうお)を抑(おさ)えかねた。自動車は其後余の嫌いなものゝ一(ひとつ)であった。

然るに自身乗って見れば、案外乗心地が好い。青山から余の村まで三十分で来た。父が「一家鶏犬一車上、器機妙用瞬間行」なぞ悪詩(あくし)を作った。工合(ぐあい)が好いので、帰りも自動車にした。今度のは些(ちと)大きく、宅の傍(そば)までは来ぬと云う。五丁程歩んで、乗った。栗梅色(くりうめいろ)に塗(ぬ)った真新(まあたら)しい箱馬車式(はこばしゃしき)の立派なものだ。米国から一昨日着いたばかり、全速(ぜんそく)五十哩(まいる)、六千円出たそうだ。父、母、姉、妻、女は硝子戸(がらすど)の内に、余は運転手(うんてんしゅ)と並んで運転手台に腰かけた。

運転手の手にハンドルが一寸捩(ねじ)られると、物珍らしさにたかる村の子供の群(むれ)を離(はな)れて、自動車はふわりと滑(すべ)り出した。村路(そんろ)を出ぬけて青山街道に出る。識(し)る顔の右から左から見る中を、余は少しは得意に、多くは羞明(まぶ)しそうに、眼を開けたりつぶったりして馳(は)せて行く。坂を下って、田圃(たんぼ)を通って、坂を上って、車は次第に速力を出した。荷車が驚いて道側(みちばた)の草中(くさなか)に避(よ)ける。鶏(にわとり)が刮々(くわっくわっ)叫んで忙(あわ)てゝ遁(に)げる。小児(こども)の肩(かた)を捉(とら)え、女が眼を円(まる)くして見送る。囂々(ごうごう)、機関(きかん)が鳴(な)る。弗々々(ふっふっふっ)、屁(へ)の如く放(ひ)り散(ち)らすガソリンの余煙(よえん)。後(あと)には塵も雲と立とうが、車上の者には何でもない。あたり構わず突進する現代精神を具象(ぐしょう)した車である。但人通りが少ないので、此街道は自動車には理想的な道路と云ってよい。

豪徳寺(ごうとくじ)附近に来ると、自動車は一(ひと)かく入れた馬の如く、決勝点(けっしょうてん)を眼の前に見る走者(そうしゃ)の如く、宛(さ)ながら眼を睜(みは)り、呍(うん)と口を結んで、疾風の如く駛(は)せ出した。余は帽子に手を添(そ)えた。麦畑や、地蔵や、眼と口を一緒(いっしょ)にあけた女の顔や、人の声や、眼(め)まぐろしく駈(か)けて来ては後(うしろ)へ飛ぶ。機関の響は心臓の乱拍子(らんぴょうし)、車は一の砲弾(ほうだん)の如く飄(ひゅう)、倏(しゅっ)と唸(うな)って飛ぶ。

「今三十五哩(まいる)の速力です」

と運転手が云う。

余は痛快であった。自動車の意志は、さながら余に乗り移(うつ)って、臆病者(おくびょうもの)も一種の恍惚(エクスタシー)に入った。余は次第に大胆(だいたん)になった。自動車が余を載せて駈けるではなく、余自身が自動車を駆って斯(か)く駛(は)せて居るのだ。余は興(きょう)に乗(じょう)じた。運転手台に前途を睥睨(へいげい)して傲然(ごうぜん)として腰かけた。道があろうと、無かろうと、斯速力で世界の果まで驀地(まっしぐら)に駈けて見たくなった。山となく、野となく、人でも獣(けもの)でもあらゆるものを乗り越え踏みつけ、唯真直に一文字に存分に駈けて駈けて駈けぬいて見たくなった。硝子戸(がらすど)の内を見かえれば、母は眼を閉じ、父は口を開き、姉と妻児(さいじ)は愉快そうに笑って話して居る。

「何(ど)の位でとめられるですかね」またそろ/\臆病風(おくびょうかぜ)が吹いて来た余は、右手にかけて居る運転手に問うた。

「三間前(げんまえ)ならトメます。運転手は中々頭がなければ出来ません」

「随分神経を使うですね」

「エ、然し愉快です――力(ちから)ですから」

忽(たちまち)世田ヶ谷村役場の十字路に来た。南に折れて、狭い路を田圃に下り、坂を上って世田ヶ谷街道に出るまで、荷車が来はせぬか、荷馬車が来はせぬか、と余はびく/\ものであった。

世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″\の人間の間を、悧巧(りこう)な自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。

余は老人子供を扶(たす)け下ろして、ホット一息ついた。

(明治四十五年 五月十八日)

デカの死

昨日隣字(となりあざ)に知辺(しるべ)の結婚があった。余は「みゝずのたはこと」の校正を差措(さしお)いて、鶴子を連れて其席に連(つら)なり、日暮れて帰ると、提灯(ちょうちん)ともして迎えに来た女中は、デカが先刻(せんこく)甲州街道で自動車に轢(ひ)かれたことを告げた。今朝も奥の雨戸を開(あ)けると、芝生(しばふ)に腹這(はらば)いながら、主人の顔を見て尻尾(しっぽ)振(ふ)り/\した。書院の雨戸を開けると、起きて来て縁(えん)に両手をつき、主人に頭(あたま)撫(な)でられて嬉(うれ)しそうに尾を振って居た。正午の頃までは、裏の櫟林(くぬぎばやし)で吠(ほ)えたりして居た。何時の間に甲州街道に遊びに往って無惨(むざん)の最後(さいご)を遂(と)げたのか。

尤も彼は此頃ひどく弱って居た。彼は年来ピンの押入婿(おしいりむこ)であったが、昨秋新に村人の家に飼われた勇猛(ゆうもう)の白犬の為に一度噛み伏せられてピンをとられて以来、俄に弱って著(いちじる)しく老衰して見えた。彼は其の腹慰(はらい)せであるかの如く、何処からかまだ子供々々した牝犬(めいぬ)を主人の家に連れ込んだ。如何に犬好きの家でも、牝犬二匹は厄介である。主人は度々牝犬を捨てたが、直ぐ舞戻(まいもど)って来た。到頭近所の人を頼み、わざ/\汽車で八王子まで連れて往って捨てゝもろうた。二週間前の事である。其後デカが夜毎に帰っては来たが、昼(ひる)は其牝犬を探(さ)がしあるいて居るらしかった。探がし探がして探がし得ず、がっかりした容子(ようす)は、主人の眼にも笑止(しょうし)に見えた。其様(そん)な事で弱って居る矢先(やさき)、自動車に轢(ひ)かるゝ様なことになったのだろう。春秋(しんじゅう)の筆法(ひっぽう)を以てすれば、取りも直さず牝犬を捨てた主人の余の手にかゝって死んだのである。

彼は幡(はた)ヶ谷(や)の阪川牛乳店に生れて、其処(そこ)此処(ここ)に飼われた。名もポチと云い、マルと云い、色々の名をもって居た。ある大家では、籍まで入れて飼って居たが、交尾期(こうびき)にあまり家をあけるので、到頭離籍(りせき)して了うた。其様(そん)な事で彼は甲州街道の浮浪犬(ふろういぬ)になり、可愛がられもし窘(いじ)められもした。最後に主従の縁を結んだのが、粕谷の犬好きの家だった。デカは粕谷の犬になって二年経(へ)た。渡り者のくせで、子飼(こがい)から育てたピンの如くはあり得なかった。主人に跟(つ)いて出ても、中途から気が変って道草を喰(く)ったりしては、水臭(みずくさ)いやつだと主人に怒(おこ)られた。雄犬の癖(くせ)でもあるが、よく家をあけた。先(せん)の主(ぬし)、先々の主、其外一飯(いっぱん)の恩(おん)ある家(うち)をも必訪(たず)ねた。悪戯(いたずら)でもして叱られると、直ぐ甲州街道に逃げて往った。然し彼はよく主人をはじめ一家の者になずいて、仮令余が彼を撲(ぶ)ちたゝくことがあっても、彼は手足をちゞめて横になり、神妙(しんみょう)に頭をのべて鞭(むち)を受けた。其為め余が鞭の手は自然に鈍(にぶ)るのであった。彼は長い間浮浪犬として飢(ひも)じい目をした故(せい)であろ、食物を見ると意地汚(いじきた)なく涎(よだれ)を流した。文豪(ぶんごう)ジョンソンが若い時非常の貧苦を経た結果、位置が出来ても、物を食えば額(ひたい)に太(ふと)い筋(すじ)現(あら)われ、汗(あせ)を流し、犬の如くむしゃ/\喰うた、と云う逸話を思い浮(うか)べて、甚可哀想(かあいそう)になった。其れから彼は餅(もち)でもやると容易(ようい)に食わず、熟(じっ)と主人の顔を見て、其れ切りですか、まだありますかと云う貌(かお)をした。三つも投げて、両手を開(ひら)いて見せると、彼は納得(なっとく)して、三個ながら口に啣(くわ)えて、芝生に行ってゆる/\食うのが癖であった。彼は浮浪の癖が中々脱(ぬ)けなかった。先(せん)の白も彼に色々の厄介をかけたが、デカも近所の鶏(とり)を捕ったりして一再(いっさい)ならず迷惑(めいわく)をかけた。去年の秋の頃は、あまりに家をあけるので、煩悩(ぼんのう)も消え失せ、既に離籍(りせき)しようかとした程であった。其れがまた以前の如く居付(いつ)く様になり、到頭余が家のデカで死んだ。

今朝懇意(こんい)の車屋がデカの死骸(しがい)を連れて来た。死骸は冷たくなって、少し眼をあいて居たが、一点の血痕(けっこん)もなく、唯鼻先(はなさき)に土がついて居た。其死を目撃(もくげき)した人の話に、デカは昨日甲州街道の給田(きゅうでん)に遊びに往って、夕方玉川から帰る自動車目がけて吠(ほ)え付いた。と思うたら、自動車のタイヤに鼻づらを衝(つ)かれたのであろう、ひょろ/\と二度ばかり顛(ころ)んだ。自動車は見かえりもせず東京の方に奔って往って了うた。其容子を見て居た人は、デカを可愛がる人であったので、デカを連れ込んで、水天宮(すいてんぐう)の御符(おふだ)など飲ましたが、駄目であった。

余は鶏柵内(けいさくない)のミズクサの木の根を深く掘って、薦(こも)に包(つつ)んだまゝ眠った様なデカの死骸を葬(ほうむ)った。

(大正二年 二月十七日)

ハムレット

帝国劇場で文芸協会のハムレットがある。芝居と云うものを久しく見ず、評判の帝国座もまだ覗(のぞ)いたことが無いので、見物に出かける。

劇場の外観は白っぽく冷(つめ)たく、あまり好い感じがせぬ。内は流石に綺羅(きら)びやかなものであった。二階の正面に陣取(じんど)って、舞台や天井(てんじょう)、土間、貴顕(きけん)のボックスと、ずっと見渡した時、吾着物の中で土臭(つちくさ)い体(からだ)が萎縮(いしゅく)するように感じた。

幕が上った。十五六世紀の西洋の甲冑(かっちゅう)着(つ)けた士卒が出て、鎌倉武士(かまくらぶし)の白(せりふ)を使う。亡霊(ぼうれい)の出になる。やがて丁抹(でんまるく)王城(おうじょう)の場になる。道具立(どうぐだて)は淋(さび)しいが、国王は眼がぎろりとして、如何にも悪党(あくとう)らしい。ガァツルード妃(ひ)は血色が好過ぎ若過ぎ強過ぎた。緑の上衣の若者を一寸ハムレットかと思うたら、そうではなくて、少し傍見(わきみ)をして居た内に、黒い喪服(もふく)のハムレットが出て来て、低い腰掛(こしかけ)にかけて居た。余は熟々(つくづく)とハムレットの顔を見た。成程違わぬ。舞台のハムレットには、幼(おさ)な顔の土肥(どい)君が残って居る。

土肥君は余の同郷、小学校の同窓(どうそう)である。色の浅黒い、顋(あご)の四角な、鼠(ねずみ)の様な可愛いゝ黒い眼をした温厚(おんこう)な子供であった。阿父(おとっさん)が書家(しょか)樵石(しょうせき)先生だけに、土肥君も子供の時から手跡(しゅせき)見事に、よく学校の先生に褒(ほ)められるのと、阿父が使いふるしの払子(ほっす)の毛先を剪(はさ)み切った様な大文字筆を持って居たのを、余は内々ひどく羨(うらや)んだものだ。其れは西郷戦争前であった。余等の仲間(なかま)では、仲の好い同志遊びに往ったり来たり泊(とま)ったりしたものだ。ある時余は学校の帰りに土肥君と他の二三人を「遊びに来(こ)らし」と引張って、学校から小一里もある余の家に伴(とも)のうた。遊んで居る内日が暮れたので、皆泊ることにした。土肥君は彼(あの)鼠(ねずみ)の様な眼を見据(みす)えて、やゝ不安な寂(さび)しそうな面地をして居たが、皆に説破されて到頭泊った。枕を並べて一寝入(ひとねい)りしたと思うと、余等は起された。土肥君の宅から迎えの使者が来たと云うのである。土肥君はいそ/\起きて一人帰って往った。為めに余等は甚(はなはだ)興を失ったが、子供の事だ、其まゝ寝ついた。翌日はみやげにすると云うて父が秘蔵(ひぞう)のシャボテンの芽(め)をかいで、一同土肥君の宅に押しかける途中、小川で水泳して、枯れてはいけぬと云うて砂の中にシャボテンの芽を仮植(かりう)えしたりしたことがある。其頃の土肥君は、色は黒いが少女(おとめ)の様なつゝましい子であった。余は西郷戦争の翌年京都に往った。其れからかけ違(ちが)って君に逢わざること三十三年。三十四年目に帝国座の舞台で丁抹(でんまるく)の王子として君を見るのである。

興味は一幕毎に加わって行く。オフィリャは可憐(かれん)であった。劇中劇の幕の終、ハムレットの狂喜(きょうき)が殊(こと)に好かった。諫言の場もハムレットの出来は好かった。矢張王妃(おうひ)が強過ぎた。ポロニアスは手に入ったもの。ホラシオは間(ま)がぬけた。オフィリャの狂態(きょうたい)になっての出は凄(すご)く好かった。墓場(はかば)で墓掘(はかほり)の歌う声が実に好く、仕ぐさも軽妙であった。

要するに帝国劇場は荘麗なもの、沙翁劇(さおうげき)は真面目(まじめ)で案外面白いものであった。

大詰(おおづめ)の幕がひかれたのが、九時過ぎ。新宿から車で帰る。提灯(ちょうちん)の火が映(うつ)る程、街道(かいどう)は水が溜(たま)って居る。

「降ったね」

「えゝ/\。ひどい降りでした。上(かみ)では雹(ひょう)が降ったてます」

余等が帝劇のハムレットに喜憂(きゆう)を注(そそ)いで居る間に、北多摩(きたたま)では地が真白になる程雹が降った。余が畑の小麦(こむぎ)も大分こぼれた。隣字(となりあざ)では、麦は種(たね)がなくなり、桑(くわ)も蔬菜(そさい)も青い物全滅(ぜんめつ)の惨状(さんじょう)に会(あ)うた。

(明治四十四年 五月二十四日)

春の暮

庭石菖(にわせきしょう)、またの名は草あやめの真盛りである。茜(あかね)がかった紫と白と、一本二本はさしてめでたい花でもないが、午(ご)の日を受けて何万となく庭一面に咲く時は、緑の地(じ)に紫と白の浮き模様(もよう)、花毛氈(はなもうせん)を敷いた様に美しい。見てくれる人がないから、日傭(ひよう)のおかみを引張って来て見せる。

草あやめの外には、芍薬(しゃくやく)、紫と白と黄の渓蓀(あやめ)、薔薇(ばら)、石竹(せきちく)、矍麦(とこなつ)、虞美人草(ぐびじんそう)、花芥子(はなげし)、紅白(こうはく)除虫菊(じょちゅうぎく)、皆存分に咲いて、庭も園も色々に明(あか)るくなった。

畑では麦が日に/\照って、周囲(あたり)の黯(くら)い緑に競(きそ)う。春蝉(はるぜみ)が鳴(な)く。剖葦(よしきり)が鳴く。蛙(かわず)が鳴く。青い風が吹く。夕方は月見草(つきみそう)が庭一ぱいに咲いて香(かお)る。

今日(きょう)は雨が欲しく、風が恋(こい)しく、蔭(かげ)がなつかしい五月下旬の日であった。蝉(せみ)の音(ね)、色づいた麦、耳にも眼にもじり/\と暑(あつ)く、光(ひか)る緑に眼は痛(いた)い様であった。果然(かぜん)寒暖計(かんだんけい)は途方(とほう)もない八十度を指(さ)した。

落葉木(らくようぼく)が悉皆(すっかり)若葉から青葉になった処で、樫(かし)、松(まつ)、杉(すぎ)、樅(もみ)、椎(しい)等の常緑樹(ときわぎ)や竹(たけ)の類(るい)が、日に/\古葉(ふるは)を落しては若々しい若葉をつけ出した。此頃は毎日掃(は)いても掃いても樫の古葉が落ちる。

気軽(きがる)な落葉木の若葉も美しいが、重々しい常緑樹の柄(がら)にない嫩(やわら)かな若葉をつけた処も中々好い。ゆさ/\と嫩(やわ)らかな食(く)えそうな若葉をかぶった白樫(しらかし)の瑞枝(みずえ)、杉は灰緑(かいりょく)の海藻(かいそう)めいた新芽(しんめ)を簇立(むらだ)て、赤松(あかまつ)は赭(あか)く黒松(くろまつ)は白っぽい小蝋燭(ころうそく)の様な心芽(しんめ)をつい/\と枝の梢毎(うらごと)に立て、竹はまた「暮春には春服已に成る」と云った様に譬(たと)え様もない鮮(あざ)やかな明るい緑の簑(みの)をふっさりとかぶって、何れを見ても眼の喜(よろこび)である。

今夜はじめて蚊(か)が一つぶゥんと唸(うな)った。

「蚊一つに寝(ね)られぬ宵(よひ)や春の暮」

春は最早(もう)暮るゝのである。

(明治四十五年 五月二十六日)

首夏

先日七の家(うち)から茄子苗(なすなえ)を買ったら、今朝七の母者(ははじゃ)がわざ/\茄子の安否(あんぴ)を見に来た。

此頃の馳走(ちそう)は豌豆(えんどう)めしだ。だが、豌豆にたかる黒虫、青虫の数は、実に際限がない。今日も夫婦で二時間ばかり虫征伐(むしせいばつ)をやった。虫と食を争(あらそ)い、蠅(はえ)と住居(すまい)を争い、人の子もこゝさん/″\の体(てい)たらくだ。

午後筍買(たけのこか)いに隣村まで出かける。筍も末だ。其筈である、新竹(しんちく)伸(の)びて親竹(おやだけ)より早一丈も高くなって居る。往復に田圃(たんぼ)を通った。萌黄(もえぎ)に萌(も)え出した苗代(なわしろ)が、最早(もう)悉皆(すっかり)緑(みどり)になった。南風(みなみ)がソヨ/\吹く。苗代の水に映(うつ)る青空(あおぞら)に漣(さざなみ)が立ち、二寸ばかりの緑秧(なえ)が一本一本涼(すず)しく靡(なび)いて居る。

両三日来夜になると雷様(かみなりさま)が太鼓(たいこ)をたゝき、夕雲(ゆうぐも)の間から稲妻(いなずま)がパッと射(さ)したりして居たが、五時過ぎ到頭大雷雨(だいらいう)になり、一時間ばかりして霽(は)れた。

袷(あわせ)では少し冷(ひや)つくので、羅紗(らしゃ)の道行(みちゆき)を引かけて、出て見る。門外の路には水溜(みずたま)りが出来、熟(う)れた麦は俯(うつむ)き、櫟(くぬぎ)や楢(なら)はまだ緑の雫(しずく)を滴(た)らして居る。西は明るいが、東京の空は紺色(こんいろ)に曇って、まだごろ/\遠雷(えんらい)が鳴って居る。武太(ぶた)さんと伊太(いた)さんが、胡瓜(きゅうり)の苗を入れた大きな塵取(ごみとり)をかゝえて、跣足(はだし)でやって来る。

最早夏に移るのだ。

(明治四十四年 五月二十七日)

憎むと枯れる

戸を開(あ)けると、露一白(つゆいっぱく)。芝生(しばふ)には吉野紙(よしのがみ)を広げた様な蜘網(くものあみ)が張って居る。小さな露の玉を瓔珞(ようらく)と貫(つらぬ)いた蜘(くも)の糸が、枝から枝にだらりと下(さが)って居る。

門の入口に甘(あま)い香(かおり)がすると思うたら、籬根(かきね)にすいかずらの花が何時の間にか咲いて居る。

生々(せいせい)又生々。営々(えいえい)且(かつ)営々。何処(どこ)を向いても凄(すさま)じい自然の活気(かっき)に威圧(いあつ)される。田圃(たんぼ)には泥声(だみごえ)あげて蛙(かわず)が「生(う)めよ殖(ふ)えん」とわめく。雀や燕(つばめ)は出産(しゅっさん)を気がまえて、新巣(しんす)の経営(けいえい)に忙(せわ)しく、昨日も今日も書院(しょいん)の戸袋(とぶくろ)に巣(す)をつくるとて、チュッ/\チュッ/\喧(やかま)しく囀(さえず)りながら、さま/″\の芥(あくた)をくわえ込む。蠅(はえ)がうるさい。蚊(か)がうるさい。薔薇(ばら)にも豌豆(えんどう)にも数限りもなく虫が涌く。地は限りなく草を生(は)やす。四囲(あたり)の自然に攻め立てられて、万物(ばんぶつ)の霊殿(れいどの)も小さくなって了(しま)いそうだ。

隣の金(かね)さんが苗をくれた南瓜(とうなす)の成長を見に来たついでに、斯様(こん)な話をした。金さんの家に、もと非常によく実(な)る葡萄(ぶどう)があった。一年(あるとし)家の新ちゃんが葡萄をちぎると棚(たな)から落ち、大分の怪我をした。それからと云うものは、家の者一同深く其葡萄の木を憎んだ。すると、葡萄は何時となく枯れて了うた。憎むと枯れる。面白い話。新約聖書に、耶蘇(やそ)が実(みの)らぬ無花果(いちじく)を通りかゝりに咀(のろ)うたら、夕方帰る時最早枯れて居たと云う記事がある。耶蘇程の心力の強い人には出来そうな事だ。

夕方真紅(まっか)な提灯(ちょうちん)の様な月が上った。雨になるかと思うたら、水の様な月夜になった。此の頃は宵毎(よいごと)に月が好い。夜もすがら蛙が鳴く。剖葦(よしきり)が鳴く。月に浸(ひた)されて生活する我儕(われら)も、さながら深い静かな水の底(そこ)に住んで居る心地がする。

(明治四十五年 六月一日)

麦愁

机に向うて、終日兀座(こつざ)。

外は今にも降りそうな空の下に、一村(ひとむら)総出の麦収納(むぎしゅうのう)。此方(こち)では鎌の音簌々(さくさく)。彼方(あち)では昨日苅ったのを山の様に荷車に積んで行く。時々賑(にぎ)やかな笑声が響(ひび)く。皆欣々として居る。労働の報酬(むくい)が今来るのだ。嬉(うれ)しい筈。

例年麦秋になると、美的百姓先生の煩悶(はんもん)がはじまる。余は之を自家の麦愁(ばくしゅう)と名づける。先生の家(うち)にも、大麦小麦を合わせて一反そこらの麦の収納をするが、其れは人を傭(やと)うたりして直ぐ片づいてしまう。慰(なぐさ)みにくるり棒を取った処で、大した事も無い。買った米を食う先生には、大麦の二俵三俵取れたところで、何でもないのだ。単純な充実(じゅうじつ)した生活をする農家が今勝誇(かちほこ)る麦秋の賑合(にぎわい)の中に、気の多い美的百姓は肩身狭く、憊(つか)れた心と焦々(いらいら)した気分で自ら己を咀(のろ)うて居る。さっぱりと身を捨てゝ真実の農にはなれず。さりとて思う様に書けもせず。彼方(あち)を羨(うらや)んで見たり、自ら憐んで見たり。中途半端(はんぱ)な吾儘(わがまま)生活をする罰(ばち)だ。致方は無い。もとより見物人も役者の一人ではある。然し離(はな)れて独り見物は矢張寂(さび)しい。

終日懊悩(おうのう)。夕方庭をぶら/\歩いた後、今にも降り出しそうな空の下に縁台(えんだい)に腰かけて、庭一ぱいに寂寥(さびしさ)を咲(さ)く月見草の冷たい黄色の花をやゝ久しく見入った。

(明治四十五年 六月五日)

堀川

一

新聞を見たら、今夜本郷中央会堂で呂昇の堀川がある。蓄音器では、耳にタコの出来る程鳥辺山(とりべやま)も聞いて居る。生(しょう)の声で呂昇の堀川は未だ聞かぬ。咽喉(のど)が悪いとて療治をして居ると云うが如何だろう、と好奇心も手伝うて、午後独歩(どっぽ)荻窪(おぎくぼ)停車場(すてえしょん)さして出かける。

デカが跟(つ)いて来る。ピンは一昨夜子を生んだので、隣家(となり)の前まで見送って、御免を蒙(こうむ)った。朝来の雨は止んで、日が出たが、田圃はまだ路が悪い。田植時(たうえどき)も近いので、何(ど)の田も生温(なまぬる)い水満々と湛(たた)え、短冊形(たんざくがた)の苗代は緑の嫩葉(わかば)の勢揃(せいぞろ)い美しく、一寸其上にころげて見たい様だ。泥(どろ)の楽人(がくじん)蛙の歌が両耳に溢(あふ)れる。甲州街道を北へ突切(つっき)って行く。大麦は苅られ、小麦は少し色づき、馬鈴薯や甘藷(さつまいも)、草箒(くさほうき)などが黒い土を彩(いろ)どって居る。其間を太(ふと)いはりがねを背負って二本ずつ並んで西から北東へ無作法(ぶさほう)に走って居るのが、東京電燈の電柱である。一部を赤く塗(ぬ)って、大きな黒文字で危険と書き、注意と書いてある。其様(そん)な危険なものなら、百姓の頭の上を引張(ひっぱ)らずと、地下でも通したらよさそうなものだ。

よく身投(みなげ)があるので其袂(たもと)に供養(くよう)の卒塔婆(そとば)が立って居る玉川上水の橋を渡って、田圃に下り、また坂を上って松友(しょうゆう)の杉林の間を行く。此処の杉林は見ものである。檣(ほばしら)、電柱、五月鯉(さつきのこい)の棹(さお)などになるのが、奇麗に下枝を下(お)ろされ、殆んど本末の太さの差もなく、矗々(すくすく)と天を刺して居る。電燈会社は、此杉林を横断(おうだん)して更に電線を引きたがって居るが、松友の財産家が一万円出すと云う会社の提議(ていぎ)を刎(は)ねつけて応ぜぬので、手古摺(てこず)って居るそうである。

雨がはら/\と来た。ステッキ一本の余は、降ったり止んだりする危(あぶな)げな空を眺め〻〻行く。田無街道を突切って、荻窪停車場に来た。

中野まで汽車。中野から電車。お茶の水で下りて、本郷中央会堂に往った。

二

何の為の慈善演芸会か知らぬが、中央会堂はほゞ一ぱいになって居た。演壇では、筒袖(つつそで)の少年が薩摩(さつま)琵琶(びわ)を弾(ひ)いて居た。凜々(りり)しくて好い。次ぎは呂昇の弟子の朝顔日記浜松小屋。まだ根から子供だ。其れから三曲(さんきょく)合奏(がっそう)の熊野(ゆや)。椅子にかけての琴、三絃(さみせん)は、見るにあぶなく、弾きにくゝはあるまいかと思われた。三曲済(す)んで休憩(きゅうけい)になった。

九時二十分頃、呂昇が出て来て金屏風(きんびょうぶ)の前の見台(けんだい)に低頭(ていとう)した。連(つ)れ弾(びき)は弟子の昇華(しょうか)。二人共時候にふさわしい白地に太い黒横縞(くろよこしま)段だらの肩衣(かたぎぬ)を着て居る。有楽座で初めて中将姫を聞いた時よりヨリ若く今宵(こよい)は見えた。場内は一ぱいになった。頭の禿(は)げた相場師らしいのや、瀟洒(しょうしゃ)とした服装(なり)の若い紳士や、涼(すず)しく装うた庇髪(ひさしがみ)、皆呂昇の聴者(ききて)である。場所柄に頓着(とんじゃく)なく、しっかり頼みますぞ、など声をかける者がある。それを笑う声も起った。

呂昇は無頓着に三絃取って斜(しゃ)に構え、さっさと語り出した。咽喉(のど)をいためて療治(りょうじ)中だと云うに、相変らず美しい声である。少しは加減して居る様だが、調子に乗ると吾を忘れて声帯(せいたい)が震(ふる)うらしい。語り出しは、今少しだ。鳥辺山(とりべやま)は矢張好かった。灯影(ほかげ)明るい祇園町の夜、線香の煙(けぶり)絶々(たえだえ)の鳥辺山、二十一と十七、黒と紫とに包まれた美しい若い男女が、美しい呂昇の声に乗ってさながら眼の前に踊(おど)った。お俊(しゅん)のさわりはます/\好い。呂昇が堀川のお俊や、酒屋のお園や、壺坂(つぼさか)のお里を語るは、自己を其人に托(たく)するのだ。同じ様な上方女(かみがたおんな)、同じ様な気質(きだて)の女、芸と人とがピッタリ合うて居るのだ。悪かろう筈がない。呂昇が彼美しい声で語り出す美しい女性(にょしょう)の魂(たましい)は、舞台のノラを見たり机の上の青鞜(せいとう)を読んだりする娘達に、如何様(どん)な印象(いんしょう)を与うるであろうか。余は見廻わした。直ぐ隣の腰かけに、水際立(みずぎわた)ってすっきりとした装(なり)をした十八九の庇髪(ひさしがみ)が三人並んで居る。二人は心を空(そら)にして呂昇の方を見入って居る。一人の金縁眼鏡には露が光って居る。日の若い単純(たんじゅん)な代(よ)も、複雑な今日も、根本(こんぽん)の人情に差違はない。唯真故新(ただしんゆえにしん)、古い芸術も新しい耳によく解せられるのである。

猿廻(さるまわ)しに来た。此は呂昇の柄(がら)にも無いし、連れ弾もまずいし、大隈(おおすみ)を聞いた耳には、無論物足らぬ。と思いつゝ、十数年前の歌舞伎座(かぶきざ)が不図眼の前に浮んだ。ぽっと鬘(かつら)をかぶった故人菊五郎の与次郎が、本物の猿を廻わしあぐんで、長い杖(つえ)で、それ立つのだ、それ辞義(じぎ)だと、己(わ)が物好きから舞台面の大切(たいせつ)な情味を散々に打壊(ぶちこわ)して居る。今の梅幸の栄三郎のお俊が、美しい顔に涙はなくて今にも吹き出しそうにして居る。故人片市の婆(ばあ)さんと、故人菊之助の伝兵衛が独(ひとり)神妙(しんみょう)にお婆さんになり伝兵衛になって舞台を締(し)めて居る。余は菊之助が好きだった。彼が真面目(まじめ)な努力の芸術は、若いながらも立派なものであった。彼は自身がする程の役には、何様(どん)な役でも身を入れて勤めた。養父(ようふ)も義弟も菊五郎や栄三郎寧(いっそ)寺島父子になって了(しも)うた堀川の芝居の此猿廻わしの切(きり)にも、菊之助のみは立派(りっぱ)な伝兵衛であった。最早彼は此世に居ない。片市も、菊五郎も居ない。

夥(おびただ)しい拍手が起った。吾に復(かえ)ると呂昇と昇華が演壇の上に平伏(ひれふ)して居た。

三

堀川は十時十五分に終った。外に出ると、雨がぼと/\落ちて居る。雨傘(あまがさ)と、懐中電燈の電池(でんち)を買って、電車で新宿に往った。追分(おいわけ)で下りて、停車場前の陸橋を渡ると、一台居合わした車に乗った。若い車夫はさっさと挽(ひ)き出す。新町を出はなれると、甲州街道は真暗で、四辺(あたり)はひっそりして居た。余程降ったと見えて、道が大分悪い。

「旦那は重うございますね。二十貫(かん)から御ありでしょう」

「なまけるからね」

「エ、如何(どう)しても体を烈(はげ)しく使(つか)うと、ふとりませんな。私ですか、私は十四貫しかありません」

車夫は市川の者、両親は果て、郷里の家は兄がもち、自身は今十二社(じゅうにそう)に住んで、十三の男児(むすこ)を頭に子供が四人、六畳と二畳を三円五十銭で借り、かみさんは麻(あさ)つなぎの内職をして居る。

「だから中々遊んで居られませんや」

烏山(からすやま)の口(くち)で下りて、代を払い、南へ切れ込んだ。

雨は止んで居る。懐中電燈の光を便(たよ)りに、真黒い藪蔭(やぶかげ)の路を通って、田圃(たんぼ)に下りた。夜目にも白い田の水。蛙(かわず)の声が雨の様だ。不図東の空(そら)を見ると、大火事の様に空が焼けて居る。空に映(うつ)る東京の火光(あかり)である。見る/\すうと縮(ちぢ)み、またふっと伸びる。二百万の生霊(せいれい)が吐(つ)く息(いき)ひく息が焔(ほのお)になるのかと物凄(ものすご)い。田圃の行き止まりに小さな流れがある。其処(そこ)に一つ碧(あお)い光が居る。はっと思うと、ついと流れた。螢(ほたる)であった。田圃を上りきると、今度は南の空の根方(ねかた)が赤く焼けて居る。東京程にもないが、此は横浜の火光(あかり)であろう。村々は死んだ様に真黒(まっくろ)に寝て居る。都は魘(おそ)われた様に深夜(しんや)に火の息を吐いて居る。

(明治四十五年 六月十日)

ムロのおかみ

目籠(めかご)を背負(せお)って、ムロのおかみが自然薯(じねんじょ)を売りに来た。一本三銭宛で六本買う。十五銭に負(ま)けろと云うたら、それではこれが飲(の)めぬと、左の手で猪口(ちょこ)をこさえ、口にあてがって見せた。

ムロのおかみは酒が好きである。

ムロのおかみは近村(きんそん)の者である。夫婦はもと兄の家のムロに住んで居たので、今も「ムロ」さん/\と呼ばれて居る。夫婦して一(ひと)つコップから好きな酒を飲み合い、暫時(しばし)も離れぬので、一名鴛鴦(おし)の称がある。夫婦は農家の出だが、別に耕(たがや)す可き田畑も有(も)たぬ。自然薯でも、田螺(たにし)でも、鰌(どじょう)でも、終始他人(ひと)の山林田畑からとって来ては金に換(か)え、飯(めし)に換え、酒に換える。門松すら剪(き)って売ると云う評判がある。村に行わるゝ自然(しぜん)の不文律(ふぶんりつ)で、相応な家計(くらし)を立てゝ居る者が他人の櫟(くぬぎ)の枝一つ折っても由々敷(ゆゆしい)咎(とが)になるが、貧しい者は些(ちっと)やそとのものをとっても、大目に見られる。ムロの鴛鴦夫婦は、此(この)寛典(かんてん)の中に其理想的享楽生活(きょうらくせいかつ)を楽しんで居るのである。

午後到頭雨になった。蛙(かわず)の声が劣(おと)らじと雨に競(きそ)うてわめく。

夜皆寝て了うたあとで、母屋(おもや)の段落(だんおち)で二葉亭訳「うき草」を読んだ。此処(ここ)は引越した年の秋、無理に北側(きたがわ)につぎ足した長五畳の板張(いたばり)で、一尺程段落になって居る。勾配(こうばい)がつかぬので、屋根は海鼠板(なまこいた)のトタンにし、爪立(つまだ)てば頭が閊(つか)える天井(てんじょう)を張った。先には食堂にして居たので、此狭い船房(カビン)の様な棺の中の様な室(しつ)で、色々の人が余等と食を共にした。今は世に亡(な)き人々の記憶が、少なからず此処(ここ)に籠(こも)って居る。

夜は更(ふ)けた。余は「うき草」の巻を開(あ)けたまゝ、読むともなく、想うともなく、テェブルに凭(もた)れて居る。雨がぼと/\頭上(ずじょう)のトタンをたゝく。ランプが䗹々ともえる。

うき草の訳者二葉亭は印度洋で死んだ。原著者のツルゲーネフは夙(とう)に死んだ。然しルヂンは生きて居る。ナタリーも生きて居る。アレキサンドラも、ビカソーフも、バンタレフスキーもワルインツオフも生きて居る。

人生短、芸術千古。

(明治四十二年 六月十五日)

田圃の簑笠

朝から驟雨性(しゅううせい)の雨がざあと降って来たり、繊(ほそ)い雨が煙ったり、蛞蝓(なめくじ)が縁に上り、井戸縁(ぶち)に黄な菌(きのこ)が生(は)えて、畳の上に居ても腹の底まで滲(し)み通りそうな湿(しめ)っぽい日。

今日も庭の百日紅(さるすべり)の梢に蛇が居る。何処かの杉の森で梟(ふくろ)がごろ/\咽(のど)を鳴らして居る。麦が収められて、緑暗い村々に、微(すこ)しの明るさを見せるのは卵色の栗の花である。

蛙の声の間々(あいあい)に、たぶ/\、じゃぶ/\田圃に響(おと)がする。見れば簑笠(みのかさ)がいくつも田に働いて居る。遠く見れば水戸様の饌(ぜん)にのりそうな農人形が、膝まで泥に踏み込んで、柄の長い馬鍬(まんが)を泥に打込んでは曳(えい)やっと捏(こ)ね、また打込んでは曳やっとひく。他所では馬に引かす犁(すき)を重そうに人間が引張って、牛か馬の様に泥水(どろみず)の中を踏み込み/\ひいて行く。労力(ろうりょく)其ものゝ画姿を見る様で、気の毒すぎて馬鹿〻〻しく、腹が立つ。労働は好いが、何故(なぜ)牛馬の働(はたらき)までせねばならぬ乎。

然し千歳村は約千町歩の面積(めんせき)の内、田はやっと六十町歩に過ぎぬ。田の労(ろう)は多くない。馬を使う程でもない、と皆が云う。此れでも昔は馬も居たそうだが、今は馬を飼(か)うも不経済(ふけいざい)で、馬を使うより人力がまだ/\ましと皆が云う。共同して馬を飼うたらと云ったこともあるが共同が中々行われぬ。

馬も一利一害である。余の字(あざ)には、二三年来二十七戸の内で馬を飼う家が三軒出来た。内二軒は男の子が不足なので、東京からの下肥(しもごえ)ひきに馬を飼う事を思い立ったのである。然し石山の馬は、口綱をとって行く主人と調子が合わなかった為、一寸した阪路を下る車に主人は脾腹(ひばら)と太腿(ふともも)をうたせ、二月も寝る程の怪我をした。寺本の馬は、新宿で電車に驚いて、盲目の按摩(あんま)を二人轢(ひ)き倒し、大分の面倒を惹起(ひきおこ)した。其隣の馬は、節句の遊びに乗った親類の村蔵と云う男を刎(は)ね落して、肩骨(かたぼね)を挫(くじ)き、接骨医(せっこつい)に二月も通わねばならぬ様の怪我をさせ、其為一家の予算に狂いが来て、予定の結婚が半歳も延ばされた。

だから馬も考えものだ、と皆が言う。

(明治四十五年 六月十七日)

つゆ霽れ

梅雨中とは云いながら、此十日余思わしい日の目も見ず、畳(たたみ)を拭くと新しい雑巾(ぞうきん)が黴(かび)で真黒になった。今日はからりと霽れて、歓(よろこ)ばしい日光の代(よ)になった。待ちかねた様に蝉(せみ)が高音(たかね)をあげる。ほやり/\水蒸気立つ土には樹影(こかげ)黒々と落ち、処女(おとめ)の袖(そで)の様に青々と晴れた空には、夏雲が白く光る。戸、障子、窓の限りを開放(あけはな)して存分に日光と風とを容(い)れる。

今日の晴を待ちつけた農家は、小踊(こおど)りして、麦うちをはじめた。東でもばた/\、西でもばったばた。東の辰さんの家では、形(なり)は小さいが気前の好い男振りの好い岩公が音頭とりで、「人里(ひとざと)はなれた三軒屋でも、ソレ、住めば都の風が吹(ふ)ゥくゥ、ドッコイ」歌声(うたごえ)賑(にぎ)やかにばったばた。北の金(かね)さん宅(とこ)は口の重い人達ばかり、家族中で歌の一つも歌おうと云う稲公(いねこう)は砲兵に、春っ子は小学校に往って居るので、爺(おやじ)、長男長女、三男の四人(よったり)、歌は歌わぬかわり長男の音公が時々「ヨウ」と懸声に勢(いきおい)をつけて、規則正しくばったばた。西も東も南も北も勇ましい歓喜の勝鬨(かちどき)。聞くからに心(むね)が躍(おど)る。

つゆ霽(は)れやたう/\/\と麦(むぎ)を撲(う)つ

(明治四十三年 六月二十九日)

有たぬ者

新宿八王子間の電車線路工事が始まって、大勢の土方(どかた)が入り込み、村は連日(れんじつ)戒厳令の下(もと)にでも住む様に兢々(きょうきょう)として居る。

天下無敵の強者と云えば、土方人足は其一であろう。彼等は頂天(ちょうてん)立地(りっち)何の恐るゝ処もない赤裸(あかはだか)の英雄である、原人(げんじん)である。彼等は元来裸である。何ものも有(も)たない。有たないから失うことが出来ない。失うものがないから、彼等は恐るゝことを知らぬ。生存競争の戦闘(たたかい)に於て、彼等は常に寄手(よせて)である。唯進んで撃(う)ち而して取ればよいのである。守ると云うは、有つ者の事である。守ると云うは、已に其第一歩に於て敗北(はいぼく)である。

世には有たぬ程強い事はない。有たぬ者は、すべてのものを有つのである。彼等には明日は無い。昨日も無い。唯今日がある、刹那(せつな)がある。彼等は神を恐れない。王者(おうしゃ)を恐れない。名聞(みょうもん)を思わない。彼等は失うべき富もない。愛(おし)む可き家族も無い。彼等は其れより以下に落つ可き何等の位置も有たない。国家か、何ものぞ。法律か、何の関係ぞ。習慣(しゅうかん)、何の束縛(そくばく)ぞ。彼等は胃の命令と、腸(ちょう)の法律と、皮膚(ひふ)の要求と、舌頭の指揮と、生殖器の催促(さいそく)の外、何の縛(しば)らるゝ処がない。彼等は自然力其ものである。一触(いっしょく)してタイタニックを沈めた氷山である。華麗(かれい)な羅馬の文明を鉄蹄(てってい)に蹂躙(じゅうりん)した北狄(ほくてき)蛮人である。一切の作為(さくい)文明(ぶんめい)は、彼等の前に灰の如く消えて了う。

土を穿ち、土を移し、土を平(な)らし、土を積む。彼等は工兵の蟻(あり)である。同じ土に仕事する者でも、農は蚯蚓(みみず)である。蚯蚓は蟻を恐れる。

有つ者にとっては、有たぬ者程恐ろしい者は無い。土方人足の村で恐れられるも尤(もっとも)である。然しながら何ものも有たぬ彼等も、まだ生命(いのち)と云うものを有って居る。彼等は生命を惜(おし)む。此れが彼等の弱点である。有たずに強い彼等も、有てば弱くなる虞(おそれ)がある。世にも恐ろしい者は、其生命さえも惜まぬのみか、如何なる条件をもって往っても妥協(だきょう)の望がない人々である。彼等は何ものを有っても満足せぬ。彼等は全宇宙(ぜんうちゅう)を吾有(わがもの)にしなければ満足せぬ。寧(むしろ)吾を全宇宙に与えなければ満足せぬ。其一切を獲ん為には、有てる一切を捨(す)てゝ了う位は何でもない。耶蘇も仏陀(ぶつだ)も斯恐ろしい人達である。

(明治四十五年 七月十三日)

食われるもの

奥の座敷で日課を書いて居ると、縁に蹲(うずくま)って居た猫のトラがひらりと地に飛び下りた。またひらり縁に飛び上ったのを見ると、蜥蜴(とかげ)を啣(くわ)えて居る。窃(そ)と下ろした。蜥蜴は死んだのか、気絶したのか、少しも動かぬ。トラはわんぐりと喰(く)いはじめた。まだ生きて居ると見えて、蜥蜴の尾(お)が右左に揺(うご)いた。トラは遽(あわ)てず、眼を閉(と)じ、頭を傾(かし)げて、悠々(ゆうゆう)と味わい/\食って居る。小さな豹(ひょう)か虎かを見て居る様で、凄(すご)い。蜥蜴の体は最早トラの胃の中にあるに、切れて落ちた鋼鉄色(こうてついろ)の尾の一片は、小さな一疋の虫かなんぞの様にぐるっと巻(ま)いたりほどけたりして居る。トラめは其れも鵜呑(うのみ)にして了うた。蜥蜴のカタミは何も無い。日は相変らず昭々(しょうしょう)と照らして居る。地球は平気で駛(はし)って居る。木の葉一つソヨがぬ。トラは蜥蜴を食ってしまって、世にも無邪気(むじゃき)な顔をして、眼を閉じて眠って了うた。

昨日は庭で青白い螟蛉(あおむし)を褐色(かちいろ)のフウ虫二疋で螫(さ)し殺して吸うて居るのを見た。

一昨日(おととい)は畑を歩いて、苦しい蛙(かわず)の鳴き声を聞いた。ドウしても蛇(へび)にかゝった蛙の鳴き声と思って見まわすと、果然(はたして)二尺ばかりの山かゞしが小さな蛙の足を啣(くわ)えて居る。余は土塊(つちくれ)を投げつけた。山かゞしは蛇の中でも精悍(せいかん)なやつである。蛙の腿(もも)を啣えながら鎌首(かまくび)をたてゝ逃げて行く。竹ぎれを取って戻(もど)ると、玉蜀黍(とうもろこし)の畑に見えなくなった了うた。

優勝(ゆうしょう)劣敗(れっぱい)は天理である。弱肉強食は自然である。宇宙は生命(いのち)のとりやりである。然し強いものゝ上に尚強いものがあり、弱いものゝ下に尚弱いものがある。而して一番弱いものが一番強いものに勝つ場合もある。顕微鏡下(けんびきょうか)に辛(かろ)うじて見得る一細菌(さいきん)が、神の子だイヤ神だと傲(おご)る人間を容易に殺して了うではないか。畢竟(ひっきょう)宇宙は大円(だいえん)。生命は共通。強い者も弱い。弱い者も強い。死ぬるものが生き、生きるものが死に、勝つ者が負け、負ける者が勝ち、食う者が食われ、食われるものも却て食う。般若心経(はんにゃしんきょう)に所謂、不増不減不生不滅不垢不浄、宇宙の本体は正に此である。

然し我等は人間である。差別界(しゃべつかい)に住んで居る。煩悩(ぼんのう)もある。愚痴(ぐち)もある。我等は精神的に生きんと欲する如く、肉体の命も惜しい。吾情を以て他を推す時、犠牲(ぎせい)の叫(さけ)びは聞きづらい。

ダァヰンの兄弟分ワレース博士は、蛇にのまるゝ蛙(かわず)は苦しい処ではない、一種の温味(おんみ)にうっとりとなって快感(かいかん)を以て蛇の喉(のど)を下るのだ、と云うた。大役(たいえき)小志(しょうし)の志賀氏は、旅順戦役を描(か)いて、決死の兵士は精神的(せいしんてき)高調(こうちょう)に入って、所謂苦痛なるものを大(たい)して感じない、と云って居る。如何にも道理で、また事実さもあろうと思わるゝ。

然し我々は人間である。犠牲の声は聞きづらい。

(明治四十五年 七月二十日)

蜩

今年の自家(うち)の麦は、大麦も小麦も言語道断の不作だ。仔細は斯様(こう)である。昨秋の麦蒔(むぎまき)に馬糞(ばふん)を基肥(もとごえ)に使った。其れが世田ヶ谷騎兵聯隊から持って来た新しい馬糞で、官馬の事だから馬が食ってまだよく消化(しょうか)しない燕麦(えんばく)が多量に雑(まじ)って居た。総じて新しい肥料はよくないものだが、自家(うち)には堆肥(たいひ)の用意がない為に、拠所(よんどころ)なく新しい馬糞に過燐酸(かりんさん)を混じて使った。麦が生(は)えると同時に、馬糞の中の燕麦が生えた。麦が伸(の)びると、燕麦も伸びた。燕麦は麦より強い。麦に追肥(おいごえ)をやると、燕麦が勝手に吸(す)ってしまってドン/\生長する。麦畑(むぎばた)が一面燕麦の畑の様になった。非常な手数をかけて一々燕麦をぬいたが、最早(もう)肝腎(かんじん)の麦は燕麦に負けて其(その)穂(ほ)は痩(や)せこけたものになって居た。肥料が肥料を食ってしまったのである。世には斯様(こん)な事が沢山ある。

トルストイの遺著(いちょ)の中、英訳になった劇「生(い)ける屍(しかばね)」を読む。トルストイ化した「イナック、アヽデン」と云う様なものだ。「暗黒(あんこく)の力(ちから)」程の力は無いが、捨てられぬ作である。

縁の籐椅子(とういす)に腰かけて右のドラマを読んで居ると、トルストイ翁の顔やら家族の人々の顔やらが眼の前に浮ぶ。今日(きょう)は七月一日、丁度六年前ヤスナヤ、ポリヤナに居た頃である。曇(くも)ったり晴(は)れたりする空(そら)、上(のぼ)ったり下ったりする丘(おか)、緑が茂って、小麦が熟(う)れて、余の今の周囲も其時に似(に)て居る。

最早はっきりとは文字の見えぬ本を膝(ひざ)にのせて、先刻(さっき)から音もなく降って居た繊(ほそ)い雨の其まゝ融(と)けた蒼(あお)い夕靄(ゆうもや)を眺めて居ると、忽ち向うの蒼い杉の森から、

「リン、――リン、リン」

白銀(はくぎん)の鈴(りん)を振る様な鋭い蜩(ひぐらし)の音が響いた。

(明治四十五年 七月一日)

夏の一日

眼をさますと、真裸(まっぱだか)で寝て居る。外では最早蜩(ひぐらし)が鳴いて居る。蚊帳外(かやそと)の暗い隅では、蚊が呍々(うんうん)唸(うな)って居る。刎(は)ね起きて時計を見れば、五時に十分前。戸をくると、櫟林(くぬぎばやし)から朝日の金光線が射(さ)して居る。

顔を洗うと、真裸で芝生に飛び下り、磨(と)ぎ立ての鎌(かま)で芝を苅りはじめる。雨の様な露だ。草苅(くさかり)は露の間(ま)の事。ざくり、ざくり、ザク、ザク。面白い様に苅れる。

足を洗(あら)って、体(からだ)を拭いて、上ると八時。近来朝飯ぬきで、十時に牛乳(ちち)一合。

今日は少し日課を書いた。

朝餐(あさめし)の午餐は赤の飯だ。今日は細君の誕生日(たんじょうび)である。昨日何か手に隠して持って来たのを、開けて見たら白髪(しらが)が三本だった。彼女にも白髪が生(は)えたのだ。余は十四五から五本や十本の白髪はあった。兎に角部分的には最早(もう)偕白髪(ともしらが)と云う域(いき)に達した訳である。

主婦(しゅふ)の誕生日だが、赤の飯に豆腐汁で、鰯(いわし)の一尾も無い。午前に果樹園(かじゅえん)を歩いて居たら、水蜜の早生(わせ)が五つばかり熟(じゅく)して居るのを見つけた。取りあえず午餐の食卓に上(のぼ)す。時にとっての好いお祝。

今日は夏になって以来の暑(あつ)い日だ。午後は到頭室内九十度に上った。千歳村の生活をはじめて六年、九十度は今日が初である。戸と云う戸、障子と云う障子、窓と云う窓を残らず開放(あけはな)し、母屋(おもや)は仕切の唐紙(からかみ)障子(しょうじ)を一切取払うて、六畳二室板の間ぶっ通しの一間(ひとま)にした。飲むと汗(あせ)になると知りつゝ、たまりかねて冷(つめ)たい麦湯を飲む、サイダアを飲む。飲む片端(かたはし)からぼろ/\汗になって流れる。犬のデカもピンも、猫のトラも、樫の木蔭(こかげ)にぐったり寝て居た。

あまり暑いから髪(かみ)でも苅ろうかと、座敷の縁に胡踞(あぐら)かく。バリカンが駄目なので、剪(はさみ)で細君が三分に苅ってくれた。今朝苅った芝が、最早枯れて白く乾(かわ)いて居る。北海道の牧場の様ですね、と細君が曰う。主人(あるじ)は芝を苅り、妻は主人の髪を苅る。芝の心は知らぬが主人は好い心地になった。

建具(たてぐ)取払って食堂が濶(ひろ)くなった上に、風が立ったので、晩餐の卓(たく)は涼(すず)しかった。飯を食いながら、唯(と)見(み)ると、夕日の残る葭簀(よしず)の二枚屏風に南天の黒い影が躍(おど)って居る。而(そう)して其葭簀を透(す)かして大きな芭蕉の緑の葉がはた/\揺(うご)いて居る。

自動車の響(おと)が青山街道にしたかと思うと、東京のN君外三名が甲斐(かい)の山の写真を撮(と)りに来たのだ。時刻が晩(おそ)くて駄目だったが、無理に二枚程撮って帰った。

日が傾(かたむ)くとソヨ吹きそめた南風(みなみ)が、夜に入ると共に水の流るゝ如く吹き入るので、ランプをつけて置くのが骨だった。母屋の縁に胡座(あぐら)かいて、身も魂も空虚(から)にして涼風(すずかぜ)に浸(ひた)る。ランプの光射(あかりさ)す程は、樫(かし)、ふさもじ、小さな孟宗竹(もうそうちく)の葉が一々緑玉に光って、ヒラ/\キラ/\躍って居る。光の及ばぬあたりは、墨画(すみえ)にかいた様な黒い葉が、千も万も躍って居る。木立(こだち)の間には白けた夏の夜の空(そら)が流れ、其処(そこ)にはまた数限も無い星がチラ/\瞬(またた)いて居る。庭の暗の方から、甘(あま)い香や強い刺戟性(しげきせい)の香が弗々(ふつふつ)と流れて来る。山梔子(くちなし)、山百合の香である。「夏の夜や蚊を疵(きず)にして五百両」これで蚊さえ居なかったら。

今日誤ってもいだ烏瓜(からすうり)を刳(く)って細君が鶴子の為に瓜燈籠(うりどうろう)をつくり、帆かけ舟を彫(ほ)って縁につり下げ、しば/\風に吹き消(け)されながら、小さな蝋燭をともした。緑色に透(す)き徹(とお)った小天地、白い帆かけ舟が一つ中にともした生命(いのち)の火のつゞく限りいつまでもと其表(おもて)を駛(はし)って居る。

(明治四十五年 七月十八日)

明治天皇崩御の前後

一

明治四十五年七月二十一日。

日曜だが、起きぬけに二時間の芝苅(しばかり)。

天皇陛下御不例(ごふれい)の発表があった。わざ/\発表がある程だ。御重態(ごじゅうたい)の程も察せられる。

真黒い雲が今我等の頭上(ずじょう)を覆(おお)うて居る。

*

午後二時過ぎ、雷鳴、電光、沛然(はいぜん)と降雨があった。少し雹(ひょう)が雑(まじ)って居た。

月番から回章(かいしょう)で、二十七日から二十九日まで、「総郷上(あが)り正月」のふれが来た。中日が総出で道路の草苅りだ。回章の月番の名に、見馴(みな)れた寺本の七蔵の名はなくて、息子(むすこ)の喜三郎の名が見える。七蔵さんは此六日に亡(な)くなったのである。変った月番の名を見て、一寸(ちょっと)哀愁(あいしゅう)を覚えた。

二

七月二十二日。

土用三郎と云うに、昨日の夕立以来、今日も曇(くも)って涼しいことである。

白桔梗(しろききょう)、桔梗の花が五つ六つ。白っぽけた撫子(なでしこ)の花が二つ三つ。芝生(しばふ)の何処かで、䗹〻〻(じじじ)と虫が鳴いて居る。

寂(さび)しい。

見る/\小さな雨がほと/\落ちて来た。

寂しい。

夏さびし桔梗(きちかう)の花五つ六つ小雨(こさめ)まじりに虫の声して

三

七月三十日。

例(れい)によって芝苅り。終って、桃の木の下で水蜜桃(すいみつとう)の立喰(たちぐい)。

大きなプリマウス種の雄鶏(おんどり)が、鶏舎の外で死んで居た。羽毛が其処(そこ)此処(ここ)にちらかって居る。昨夜鶏舎の戸をしめる時誤(あやま)って雄鶏をしめ出したので、夜中鼬(いたち)に襲(おそ)われたのである。随分死の苦しみをしたであろうに、家の者はぐっすり寝込(ねこ)んで些(ちっと)も知らなかった。昨秋以来鼬の難(なん)にかゝることこゝに五たびだ。前度に懲(こ)りて、鶏舎の締(しま)りを厳重にしたが、外にしめ出しては詮方(しかた)が無い。梨(なし)の木の下に埋葬。

午後東京から来た学生の一人が、天皇陛下今暁(こんぎょう)一時四十三分崩御(ほうぎょ)あらせられたと云う事を告げた。

陛下崩御――其れは御重態(ごじゅうたい)の報伝わって以来万更(まんざら)思い掛けぬ事ではなかったが。

園内(えんない)を歩いて陛下の御一生を思うた。

東の方を見ると、空も喪装(もそう)をしたのかと思われて、墨色(すみいろ)の雲が東京の空をうち覆(おお)うて居る。暮れ方になって降り出した。

四

七月三十一日。

欝陶(うっとう)しく、物悲しい日。

新聞は皆黒縁(くろぶち)だ。不図新聞の一面に「睦仁(むつひと)」の二字を見つけた。下に「先帝御手跡」とある。孝明天皇の御筆かと思うたのは一瞬時(いっしゅんじ)、陛下は已に先帝とならせられたのであった。新帝陛下の御践祚(ごせんそ)があった。明治と云う年号(ねんごう)は、昨日限り「大正(たいしょう)」と改められる、と云う事である。

陛下が崩御になれば年号も更(かわ)る。其れを知らぬではないが、余は明治と云う年号は永久につゞくものであるかの様に感じて居た。余は明治元年十月の生れである。即ち明治天皇陛下が即位式(そくいしき)を挙げ玉うた年、初めて京都から東京に行幸(みゆき)あった其月東京を西南に距(さ)る三百里、薩摩に近い肥後葦北(あしきた)の水俣(みなまた)と云う村に生れたのである。余は明治の齢(よわい)を吾齢と思い馴(な)れ、明治と同年だと誇(ほこ)りもし、恥じもして居た。

陛下の崩御(ほうぎょ)は明治史の巻を閉(と)じた。明治が大正となって、余は吾生涯が中断(ちゅうだん)されたかの様に感じた。明治天皇が余の半生(はんせい)を持って往っておしまいになったかの様に感じた。

物哀(ものかな)しい日。田圃向うに飴屋(あめや)が吹く笛の一声(ひとこえ)長く響いて、腸(はらわた)にしみ入る様だ。

五

八月一日。

月の朔(ついたち)で、八幡様に神官が来て、お神酒(みき)が上(あが)る。諒闇(りょうあん)中の御遠慮で、今日は太鼓(たいこ)も鳴らなかった。

今日から五日間お経(きょう)をたてる、と云う言いつぎが来た。先帝の御冥福(ごめいふく)の為。

鶏小屋(とりごや)に大きな青大将が入って、模型卵(もけいらん)をのんだ、と日傭(ひよう)のおかみが知らして来た。往って見ると、五尺もある青大将が喉元(のどもと)を膨(ふく)らして、そこらをのたうち廻(まわ)って居る。卵の積りで陶物(やきもの)の模型卵を呑んで、苦しがって居るのだ。折から来合わして居たT君が、尻尾(しっぽ)をつまんで鶏小屋から引ずり出すと、余が竹竿(たけざお)でたゝき殺した。竹で死体を扱(こ)いたら、ペロリと血だらけの模型卵を吐(は)いた。此頃一向卵が出来ぬと思ったら、此先生が毎日召上(めしあが)ってお出でたのだ。青大将の死骸(しがい)は芥溜(ごみため)に捨てた。少し経(た)って見たら、如何(どう)したのか見えなかった。復活(ふっかつ)して逃げたのかも知れぬ。

六

八月二日。

紅蜀葵(こうしょくき)の花が咲いた。

甲州玉蜀黍(とうもろこし)をもぎ、煮(に)たり焼いたりして食う。世の中に斯様(こん)なうまいものがあるかと思う。田園生活も此では中々やめられぬ。

今日は土用中ながら薄寒(うすさむ)い日であった。朝は六十二三度しかなかった。尽日(じんじつ)北の風が吹いて、時々冷(つめ)たい繊(ほそ)い雨がほと/\落ちて、見ゆる限りの青葉が白い裏(うら)をかえして南に靡(なび)き、寂(さび)しいうら哀(かな)しい日であった。

今日は鶏小屋にほゞ鼬(いたち)と見まごうばかりの大鼠が居た。

七

八月八日。

八月に入って四五日、フランネルを着(き)る様な日が続いた。小雨(こさめ)が降る。雲がかぶさる。北から冷たい風が吹く。例年九月に鳴く百舌鳥(もず)が無暗に鳴いたりした。薄い掻巻(かいまき)一つでは足らず、毛布を出す夜もあった。

今日は久し振(ぶ)りに晴れた。空には一片の雲なく、日は晶々(あかあか)として美しく照りながら、寒暖計は八十二三度を越(こ)えず、涼しい南風(みなみ)が朝から晩まで水の流るゝ様に小止(おやみ)なく吹いた。颯々(さっさつ)と鳴る庭の松。かさ/\と鳴る畑の玉蜀黍(とうもろこし)。ざわ/\と鳴る田川の畔(くろ)の青萱(あおかや)。見れば、眼に入る緑は皆動いて居る。庭の桔梗(ききょう)の紫揺(うご)き、雁来紅(けいとう)の葉の紅戦(そよ)ぎ、撫子(なでしこ)の淡紅靡(なび)き、向日葵(ひまわり)の黄頷(うなず)き、夏萩の臙脂(えんじ)乱れ、蝉の声、虫の音(ね)も風につれて震(ふる)えた。夕日傾く頃となれば、風はます/\涼しく、樹影(こかげ)は黒く芝生に跳(おど)った。

「秋来ぬと眼にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」。風の音に驚くばかりかは、さやかに眼に見えて立つ秋の姿(すがた)である。

昨夜は雁声(がんせい)を聞いた。

今朝向うの杉の森に「ツクツクウシ、ツクツクウシ」と云うほのかな秋蝉の声を聞いた。

暦(こよみ)を見たら、今日が立秋である。

八

八月十五日。

此頃のくせで、起き出る頃は、毎(いつ)も満目(まんもく)の霧(きり)。雨だなと思うと、朝飯食ってしまう頃からからりと霽(は)れて、申分なき秋暑(しゅうしょ)になる。

隣の大豆畑に群(むら)がったカナブンの大軍が、大豆の葉をば食い尽(つく)して、今度は自家(うち)の畑に侵入(しんにゅう)した。起きぬけに、夫婦して莚(むしろ)を畑にひろげ、枝豆や苺(いちご)や果樹に群がるカナブンを其上に振(ふる)い落して、石油の空鑵(あきかん)にぶちあけ、五時から八時過ぎまでかゝって、カナブンの約五升を擒(とりこ)にし、熱湯を浴(あび)せて殺した。でもまだ十分の一もとれない。

あまり美事(みごと)の出来だからと云うて、廻沢(めぐりさわ)から大きな水瓜(すいか)唯一個かついで売りに来た。緑地に黒縞(くろしま)のある洋種の丸水瓜(まるすいか)である。重量三貫五百目、三十五銭は高くない。井戸に冷(ひ)やして、午後切って食う。味も好かった。

一月おくれの盆で、墓地が賑(にぎ)やかである。細君が鶴子の為に母屋(おもや)の小さな床に茄子馬(なすうま)をかざり、黒い喪章(もしょう)をつけたおもちゃの国旗をかざり、ほおずきやら烏瓜(からすうり)やら小さな栗やら色々供物(くもつ)をならべて、于蘭盆(うらぼん)の遊びをさせた。

風鈴(ふうりん)の短冊(たんざく)が先日の風に飛ばされたので、先帝の「星のとぶ影のみ見えて夏の夜も更け行く空はさびしかりけり」の歌を書いて下げた。西行(さいぎょう)でも詠(よ)みそうな歌だ。

九

八月十六日。

隣の家鴨(あひる)が二羽迷い込んだ。雌(めす)は捕えて渡したが、雄が床(ゆか)の下深く逃げ込んで、ドウしてもつかまらない。隣の息子(むすこ)が雌を連れて来て、刮々(くゎくくゎく)云わしたら、雄はひとりでに床の下から出て来て、難なく捉(つか)まった。今更の様だが女の力。

夕方縁(えん)の籐椅子(とういす)に腰かけて、静に夕景色を味う。苅(かり)あと青い芝生も、庭中の花と云う花も蔭(かげ)に入り、月下香の香が高く一庭に薫(くん)ずる。金の鎌の様な月が、時々雲に入ったり出たり。南方に淡(あわ)い銀河が流れる。星もちらほら出て居る。村々は最早(もう)黒う暮れて、時々眩(まぶ)しい火光(あかり)がぱっと射す。船橋の方には、先帝(せんてい)の御為に上げるのか、哀々(あいあい)とした念仏の声が長く曳(ひ)いて聞こえる。庭ではスイッチョが鳴く。蟋蟀(きりぎりす)が鳴く。夜と云うに、蝉の一種が鳴く。隣の林にはガチャ/\が鳴く。

寂(さび)しい涼しい初秋の夜。

御大葬の夜

明治天皇大葬(たいそう)の夜である。

七時五十分、母屋(おもや)の六畳を掃(は)いて、清(きよ)い白布をかけた長方形の大きな低い卓子(つくえ)を東向きに直した。上には、秋草の花を活(い)けた小花瓶を右左に置き、正面には橢円形(だえんけい)の小さな鏡を立て、其前に火を入れた青磁(せいじ)の香炉、紫の香包を傍(そば)に置いた。いさゝかランプの心を捻(ねじ)ると、卓子の上の物皆明るく、心も自(おの)ずからあらたまる。家族一同手を膝(ひざ)に、息をのんで控(ひか)えた。

柱時計の短針(たんしん)が八時を指(さ)すか指さぬに、

ドオ………ン!

待ち設(もう)けても今更人の心魂を駭(おどろ)かす大砲の音が、家をも我等の全身をも揺(ゆ)り撼(うご)かして響いた。

今霊轜(れいじゅ)宮城を出でさせられるのだ。

主人(あるじ)は東に向い一拝して香を焚(た)き、再拝して退(さが)った。妻がつゞいて再拝して香を焚き、三拝して退いた。七歳(ななつ)の鶴子も焼香(しょうこう)した。最後に婢(おんな)も香を焚いて、東を拝した。

余が家の奉送(ほうそう)は終った。

*

余は提灯(ちょうちん)ともして、妻と唯二人門を出た。

曇った暗(くら)い夜である。

八幡下の田圃まで往って東を見る。田圃向うの黒い村を鮮(あざ)やかに劃(しき)って、東の空は月の出の様に明るい。何千何万の電燈(でんとう)、瓦斯(がす)、松明(たいまつ)が、彼夜の中の昼を作(な)して居るのであろう。見て居ると、其夥(おびただ)しい明光(あかり)が、さす息引く息であるかの様に伸(の)びたり縮んだりする。其明りの中から時々電(いなずま)の様な光(ひかり)がぴかりと騰(あが)る。

「何の光だろう?」

「写真を撮(と)るマグネシウムの光でしょうか」

「否(いや)、弔砲の閃光(ひかり)かも知れん」

先程から引つゞいて、大きな心臓(しんぞう)の鼓動の如く、正(ただ)しい時を隔(へだ)てゝ弔砲が響(ひび)いて居る。――あゝ鐘が鳴って居る。南のは東覚院(とうがくいん)、宝性寺(ほうしょうじ)、安穏寺(あんのんじ)、北のは――寺、――寺、東にも、西にも、おのがじし然も申合わせた様に、我君眠(ねむ)りませ、永久(とこしえ)に眠りませ、と哀音長く鳴り連れて居る。二つの響はあたかも余等の胸(むね)の響に通うた、砲声の雄叫(おたけ)び、鐘声の悲泣(ひきゅう)。

都も鄙(ひな)も押並(おしな)べて黒きを被(き)る斯大なる哀(かなしみ)の夜に、余等は茫然(ぼうぜん)と東の方を眺めて立った。生温(なまあたた)かい夜風がそよぐ。稲の香(か)がする。

「行(い)きなさるかね」半丁ばかり北の方で突然人声(ひとごえ)がした。

「エ、些(ちっと)ンべ行って見べいと思(も)って」

田圃道(たんぼみち)を東の方へ人の足音がした。やがてパチ/\と拍手(かしわで)の音が闇(やみ)に響く。

轜車(じゅしゃ)は今何(ど)の辺を過ぎさせられるのであろう?

(大正元年 九月十三日)

東の京西の京

(明治天皇の御始終)

西なる京(きやう)に君は生(あ)れましき。

西なる京に生れ玉へる君はしも、東に覇府(はふ)ありてより幾百年、唯東へ東へと代々(よよ)の帝(みかど)父祖(ふそ)の帝の念じ玉ひし東征の矢竹心(やたけごころ)を心として、白羽二重に緋(ひ)の袴(はかま)、五歳(いつつ)六歳(むつつ)の御遊(ぎよいう)にも、侍女(つかへをみな)を馬にして、東下(あづまくだ)りと宣(の)らしつゝ、御所の廊下を駆(か)り玉ひき。

御父祖の夢(ゆめ)は、君が代(よ)に現(うつつ)となりつ。君は維新のおん帝、御十七の若帝(わかみかど)、御束帯に御冠(みかんむり)、御板輿(おんいたごし)に打乗らせ、天下取ったる公卿(くげ)将卒に前後左右を護(まも)らして、錦の御旗を五十三駅(つぐ)の雄風に翻(ひるが)へし、東下りを果(はた)し玉ひぬ。

西の京より移り来て、東の京に君はしも四十五年住み玉ひぬ。東の京に住む君は、西なる京なつかしと思(おぼ)さぬにてはあらざりき。父の帝の眠ります西の京、其処(そこ)に生(あ)れまし十六まで育(そだ)ち玉ひし西の京、君に忘られぬ西の京。せめて暑中(しよちう)は西の京へでも、侍臣斯く申せば、御気色(みけしき)かはり、宣(のたま)ひけらく「朕(ちん)西京を嫌(きら)ふと思ふか。否(いな)、朕は西の京が大好きなり。さりながら、朕、東の京を去らば、誰か日本の政(まつりごと)を見むものぞ?」

大政(おほまつりごと)しげくして、西なる京へ君はしも、御夢(みゆめ)ならでは御幸(みゆき)なく、比叡(ひえい)の朝は霞(かす)む共、鴨(かも)の夕風涼しくも、禁苑(きんゑん)の月冴(さ)ゆとても、鞍馬の山に雪降るも、御所の猿辻(さるつじ)猿の頬(ほ)に朝日は照れど、烏(からす)啼(な)く椋(むく)の梢(こずゑ)に日は入れど、君は来まさず。君が御名(みな)得(え)し祐(さち)の井の、井(ゐど)のほとりの常磐木(ときはぎ)や、落葉木(らくえふぼく)の若葉(わかば)して、青葉(あをば)となりて、落葉(おちば)して、年(とし)また年と空宮(くうきう)に年は遷(うつ)りぬ四十五(しじふいつ)。

四十五年の御代(みよ)長く、事稠(しげ)き代の御安息(みやす)無く、六十路(むそぢ)あまり一年(ひととせ)の御顔(みかお)に寄する年の波、御魂(みたま)は慕(した)ふ西の京、吾事終へつと嘘(うそむ)きて、君逝(ゆ)きましぬ東京に。

東下り、京上り、往来(ゆきき)に果つるおん旅や、御跡(おんあと)印(しる)す駅路(うまやぢ)の繰りひろげたる絵巻物(ゑまきもの)、今巻きかへす時は来ぬ。時こそ来つれ、生涯の御戦闘(みいくさ)終(を)へて凱旋(がいせん)の。時こそ来つれ、生涯の御勤労(みつとめ)果てゝ御安息(おんやす)の。

曩昔(そのかみ)の東下りの御板輿(おんいたごし)を白き柩車(きうしや)に乗り換へて、今こそ君は浄土(きよつち)の西の京へと還(かへ)り玉はめ。

(大正元年 九月十三日)

乃木大将夫妻自刃

九月十五日、御大葬(ごたいそう)の記事を見るべく新聞を披(ひら)くと、忽(たちまち)初号活字が眼を射た。

乃木大将夫妻の自殺

余は息(いき)を飲んで、眼を数行の記事に走らした。

「尤だ、無理は無い、尤だ」

斯く呍(つぶや)きつゝ、余は新聞を顔に打掩(うちおお)うた。

*

日清戦争中、山地中将が分捕(ぶんどり)の高価の毛皮の外套を乃木少将に贈ったら、少将は、傷病兵(しょうびょうへい)にやってしまった。此事を新聞で読んだのが、乃木(のぎ)希典(まれすけ)に余のインテレストを持つ様になった最初であった。其れから明治廿九年乃木中将が台湾(たいわん)総督(そうとく)となる時、母堂が渡台の御暇乞に参内(さんだい)して、皇后陛下の御問に対し、姥(ばば)は台湾の土にならん為、忰(せがれ)の先途(せんど)を見届けん為に台湾に参(まい)ります、と御答え申上げたと云う記事は、また深く余の心に滲(し)みた。余は此母子が好(す)きになった。明治三十四年中、ゴルドン将軍伝を書く時、余はゴルドンを描(えが)く其原稿紙上に乃木将軍の面影(おもかげ)がちらり/\と徂(い)ったり徠(き)たりするを禁じ得なかった。

縁は異(い)なもので、ゴルドン伝を書いた翌々年「寄生木(やどりぎ)」の主人公から突然「寄生木」著作の事を委托(いたく)された。恩人たる乃木将軍の為めにと云う彼の辞(じ)であった。余は例に無く乗地(のりじ)になって引受けた。結果が小説寄生木である。

小説寄生木は、該書(がいしょ)の巻頭にも断(ことわ)って置いた通り、主人公にして原著者なる「篠原良平」の小笠原善平が「寄生木」で、厳密(げんみつ)なる意味に於て余の「寄生木」では無い。寄生木の大木将軍夫妻は、篠原良平の大木将軍夫妻で、余の乃木大将夫妻では無い。余は厳に原文に拠(よ)って、如何なる場合にも寸毫(すんごう)も余の粉飾(ふんしょく)塗抹(とまつ)を加えなかった。そこで、寄生木は、南部(なんぶ)の山中から駈(か)け出した十六歳の少年が仙台で将軍の応接間(おうせつま)の椅子に先ず腰かけて「馬鹿ッ!」と大喝(だいかつ)されてから、二十八歳の休職士官が失意失恋故山に悶死(もんし)するまで、其単純な眼に映(えい)じた第一印象の実録である。固より将軍夫妻は良平の恩人である為に、温かい感謝の膜(まく)を隔(へだ)てゝ見たところもある。然し彼は徹頭徹尾(てっとうてつび)単純にして偽(いつわ)ることを得為(えせ)ぬ男で、且如何なる場合にも見且感ずるを得る自然の芸術家であったことを忘れてはならぬ。余は寄生木によって、乃木大将夫妻をヨリ近く識り得た。

篠原良平は「寄生木」の原稿を余に托し置いて、明治四十一年の秋悶死した。而して、恩人乃木将軍が其名を書いてくれた墓碣(ぼかつ)が故山に建てられた明治四十二年十二月小説寄生木が世に出た。即ち将軍は幕下(ばくか)の彼が為め死後の名を石に書き、彼は恩人の為に生前(せいぜん)の断片的記伝を紙の上に立てた訳(わけ)である。

余は寄生木を乃木大将に贈呈(そうてい)しなかった。然し伝聞(でんぶん)する処によれば、将軍夫妻は読んだそうだ。将軍は巻中にある某の学資金(がくしきん)は某大佐に渡したかと夫人に問い、夫人が渡しましたと答えた事、夫人は通読し終って、著者は一度も材料の為に訪われもしなかったに、よくも斯く精確(せいかく)に書かれた、と云われた事、を聞いた。精確な筈(はず)だ、記憶の好(い)い本人良平が命(いのち)がけで書いたのである。余は将軍夫妻の感想を聞く機会を有(も)たなかった。然しながら寄生木を読んだ将軍夫妻は、生前(せいぜん)顔を合わすれば棒立(ぼうだち)に立ってよくは口もきけず、幼年学校でも士官学校でも学科はなまけ、病気ばかりして、晩年には殊に謀叛気(むほんぎ)を見せて、恩義を弁(わきま)えたらしくもなかった篠原良平が、案外深い感謝あり、理解あり、同情あり、而して個性あり、痛切な苦悶あり、要するに一個真面目の霊魂(れいこん)であったことを今更の様に発見したであろう。兎に角篠原良平の死と「寄生木」とが、寂(さび)しい将軍の晩年に於てまた一の慰藉(いしゃ)となったことは、察(さっ)するに難からぬ。篠原良平が「寄生木」を遺(のこ)した目的の一は達せられたのである。

余は篠原良平の晩年に於て、剣を抛(なげう)つ可く彼に勧告し、彼を乃木将軍から奪(うば)う可く多少の努力をして、彼が悶死の一因を作ったのと、学習院に於て余の為可(すべ)かりし演説が某の注意に因(よ)り院長たる将軍の言によって差止(さしと)められたことを聞いた外、乃木将軍とは一回の対面もせず、一通の書信の往復も為(し)なかった。茫々(ぼうぼう)たる宇宙に於て、大将夫妻と余をいさゝか繋(つな)ぐものがあるならば、其は「寄生木」である。

然しながら寄生木は、篠原良平の寄生木で、余の寄生木では無い。唯将軍と余の間に一の縁(えん)を作ったに過ぎぬ。乃木将軍夫妻程死花(しにばな)が咲(さ)いた人々は近来(きんらい)絶無(ぜつむ)と云ってよい。大将夫妻は実に日本全国民の崇拝(すうはい)愛慕(あいぼ)の的(まと)となった。乃木文学は一時に山をなして出た。斯上(このうえ)蛇足(だそく)を加うる要はないかも知れぬ。然し寄生木によりて一種の縁を将軍夫妻に作った余には、また余相応(そうおう)の義務が感ぜられる。此義務は余にとって不快な義務では無い。余は如何(いか)なる形(かたち)に於てかこの義務を果したいと思うて居る。

コスモス

今日は夏を憶(おも)い出す様な日だった。午後寒暖計が六十八度に上った。白い蝶(ちょう)が出て舞う。蠅(はえ)が活動する。蝉(せみ)さえ一しきり鳴いた。

今はコスモスの真盛(まさかり)である。濃紅、紅、淡紅、白、庭にも、園にも、畑にも、掃溜(はきだめ)の傍(はた)にも、惜気もなく心(しん)を見せて思いのまゝに咲き盛(さか)って居る。誰か見に来ればよいと思うが、終日誰も来(こ)ぬ。唯主人のみ黄金(こがね)の雨と降る暖かい秋の日を浴(あ)びて、存分に色彩の饗応に預かる。

たま/\屋敷下(やしきした)を荷車挽いて通りかゝった辰(たつ)爺(じい)さんが、

「花車(だし)の様だね」

とほめて通った。

庭内も、芙蓉、萩、蓮華(れんげ)つゝじは下葉(したば)から色づき、梅桜は大抵落葉し、ドウダン先ず紅に照り初め、落霜紅(うめもどき)は赤く、木瓜(ぼけ)の実(み)は黄に、松はます/\緑に、山茶花(さざんか)は香を、コスモスは色を庭に満たして、実に何とも云えぬ好い時候だ。

夕方屋敷の南端にある欅(けやき)の切株(きりかぶ)に上って眺める。日は何時(いつ)しか甲州の山に落ちて、山は紫に匂(にお)うて居る。白茶色になって来た田圃(たんぼ)にも、白くなった小川の堤(つつみ)の尾花(おばな)にも夕日が光って、眼には見る南村北落の夕けぶり。烏啼き、小鳥鳴き、秋(あき)静(しずか)に今日も過ぎて行く。東京の方を見ると、臙脂色(えんじいろ)の空(そら)に煙が幾条(いくすじ)も真直に上って居る。一番南のが、一昨日火薬が爆発(ばくはつ)して二十余名を殺傷(さっしょう)した目黒の火薬庫の煙だ。

(明治四十四年 十月二十三日)

鍬取りて
鍬取りて

秋さびし

今日(きょう)はさびしい日である。

ダリヤの園を通ると、二尺あまりの茶色(ちゃいろ)の紐(ひも)が動いて居る、と見たは蛇だった。蜥蜴(とかげ)の様な細(ほそ)い頭をあげて、黒い針(はり)の様な舌(した)をペラ/\さして居る。殺そうか殺すまいかと躊躇(ちゅうちょ)して見て居る内に、彼は直ぐ其処(そこ)にある径(けい)一寸ばかりの穴(あな)に這入(はい)りかけた。見る中に吸わるゝ様にズル/\と辷(すべ)り込んで了うた。

園内を歩くと、蝉(せみ)のヌケ殻(がら)が幾個(いくつ)も落ちて居る。昨夜は室内で、小さなものゝ臨終(りんじゅう)の呻吟(うめき)の様なかすかな鳴声(なきごえ)を聞いたが、今朝(けさ)見ればオルガンの上に弱(よわ)りはてたスイッチョが居た。彼は未だ死に得ない。而(そう)して死に得る迄(まで)は鳴かねばならぬのである。

自然は老いて行く。座敷(ざしき)の前を蜂(はち)が一疋歩いて行く。両羽(りょうはね)をつまんでも、螫(さ)そうともせぬ。何に弱ってか、彼は飛(と)ぶ力ももたぬのである。そっと地に下ろしたら、また芝生の方へそろ/\歩いて行く。

今日はさびしい日である。

午後は曇(くも)って泣き出しそうな日であった。

午後になって、いやに蒸暑(むしあつ)い空気(くうき)が湛(たた)えた。懶(ものう)い自然の気を感じて、眼ざとい鶴子が昼寝(ひるね)した。掃き溜には、犬のデカがぐたりと寝て居る。芝生には、猫(ねこ)のトラが眠(ねむ)って居る。

南から風が吹く。暖かい事は六月の風の様で、目を瞑(つぶ)って聞くと、冬も深い凩(こがらし)の響(おと)がする。

今日はさびしい日である。

今は午後四時である。雲を漏(も)れて、西日(にしび)の光がぱっと射(さ)して来た。散りかゝった満庭(まんてい)のコスモスや、咲きかゝった菊や、残る紅の葉鶏頭(はげいとう)や、蜂虻(はちあぶ)の群がる金剛纂(やつで)の白い大きな花や、ぼうっと黄を含んだ芝生や、下葉(したは)の褐色(かっしょく)に凋(しお)れて乾(かわ)いた萩や白樺や落葉松や、皆斯夕日に寂(さび)しく栄(は)えて居る。鮮やかであるが、泣いて居る。美(うる)わしいが、寂しい。

今日はさびしい日である。

(大正元年 十月二十八日)

展望台に上りて

上

余の書窓(しょそう)から西に眺(なが)むる甲斐(かい)の山脈(さんみゃく)を破(は)して緑色濃(こ)き近村(きんそん)の松の梢(こずえ)に、何時の程からか紅白染分(そめわけ)の旗が翻(ひるがえ)った。機動演習(きどうえんしゅう)の目標(もくひょう)かと思うたら、其れは京王電鉄(けいおうでんてつ)が沿線繁栄策の一として、ゆく/\東京市の寺院墓地を移す為めに買収(ばいしゅう)しはじめた敷地(しきち)二十万坪を劃(しき)る目標の一つであった。

京王電鉄調布上高井戸間の線路(せんろ)工事(こうじ)がはじまって、土方(どかた)人夫(にんぷ)が大勢(おおぜい)入り込み、鏡花君の風流線にある様な騒ぎが起ったのは、夏もまだ浅い程の事だった。娘が二人辱(はずか)しめられ、村中の若い女は震え上り、年頃(としごろ)の娘をもつ親は急いで東京に奉公に出すやら、無銭飲食を恐れて急に酒樽を隠すやら、土方が真昼中甲州街道をまだ禁菓(きんか)を喰(く)わぬアダム同様無褌(むふんどし)の真裸(まっぱだか)で横行濶歩、夜は何(ど)の様な家へでも入込むので、未だ曾て戸じまりをしたことがない片眼(かため)婆(ばあ)さんのあばら家まで、遽(あわ)てゝかけ金(がね)よ釘(くぎ)よと騒いだりした。其れも工程の捗取(はかど)ると共に、何時(いつ)しか他所(よそ)に流れて往って了うた。やがて起ったのが、東京の寺院墓地移転用敷地廿万坪買収の一件である。

京王電鉄も金が無い。東京の寺や墓地でも引張(ひっぱ)って来て少しは電鉄沿線の景気をつけると共に、買った敷地を売りつけて一儲(ひともう)けする、此は京王の考としてさもありそうな話である。田舎はもとより金が無い。比較的小作料の低廉な此辺の大地主は、地所を荷厄介(にやっかい)にして居る。また大きな地主で些(ちと)派手(はで)にやって居る者に借金が無い者は殆(ほと)んどない。二十万坪買収は、金に渇(かわ)き切った其或人々にとって、旱田(ひでりだ)に夕立(ゆうだち)の福音(ふくいん)であった。財政整理の必要に迫られて居ると知られた某々の有力者は、電鉄の先棒となって、盛(さかん)に仲間(なかま)を造りはじめた。金は無論欲(ほ)しい。脅嚇(おどかし)も勿論利(き)く。二十万坪の内八万坪、五十三名の地主の内十九名は、売渡(うりわたし)承諾(しょうだく)の契約書(けいやくしょ)に調印してしまった。踟蹰(ちちゅう)する者もあった。余はある人に斯(こ)う云うた、不用の地所があるなら兎も角、恰好(かっこう)の代地があったら格別、でなければ農が土を手放(てばな)すは魚(うお)の水に離(はな)れるようなものだ、金なんか直ぐ泡(あわ)の様に消えて了う、今更農をやめて転業するなぞは十が十堕落(だらく)の原(もと)だ。

売らぬと云う側(がわ)は、人数(にんず)で関係地主の総数(そうすう)五十三人中の三十名、坪数で二十万坪の十二万坪を占めて居る。彼等の云い分はざッと斯様(こう)だ。東京が段々(だんだん)西へ寄って来て、豊多摩(とよたま)荏原(えばら)の諸郡は追々市外宅地や工場等の場所になり、以前専(もっぱ)ら穀作(こくさく)と養蚕(ようさん)でやって居た北多摩郡が豊多摩荏原に代(かわ)って蔬菜(そさい)や園芸品(えんげいひん)を作る様になり、土地の価(あたい)は年々上って来て居る。然るに北多摩郡でも最(もっと)も東京に近い千歳村の僅か五百五十町歩の畑地(はたち)の中、地味(ちみ)も便利も屈指(くっし)の六十余町歩、即ち畑地の一割強を不毛(ふもう)の寺院墓地にして了うのは、惜しいものだ。殊に寺院墓地の如き陰気なものに来られては、陽気な人間は来なくなり、多くなるものは農作物の大敵たる鳥雀の類ばかりだ。廿万坪の内には宅地もある。貧乏鬮(びんぼうくじ)を引当(ひきあ)てた者は、祖先伝来の家屋敷や畑をすてゝ、代地(だいち)と云えば近くて十丁以内にはなく、他郷に出るか、地所が不足では農をよして他に転業しなければならぬ者もあろう。千歳村五百五十戸の中、小作が六割にも上って居る。大面積(だいめんせき)の寺院墓地が出来て耕地減少の結果、小作料は自然騰貴(とうき)する。小作料の騰貴はまだ可(よ)いが、中には小作地が不足して住み馴(な)れた村にも住めなくなり、東京に流れ込んだり、悪くすると法律の罪人(ざいにん)が出来たりする。それから寺院墓地は免租地(めんそち)だから、結局村税の負担が増加する。何も千歳村の活気ある耕地を潰(つぶ)さず共、電車で五分間乃至十分も西に走れば、適当の山林地などが沢山あって、其(その)辺(へん)の者は墓地を歓迎して居る。其方(そち)へ行(い)けばよいじゃないか。反対の理由は、ざっと右の通りだ。尤も中に多少の魂胆(こんたん)もあろうが、大部分は本当に土に生き土に死ぬ自作農の土に対する愛着からである。変化を喜び刺戟(しげき)に生きる都会人には、土に対する本当の農の執着の意味は中々解(げ)せない。真(しん)の農にとって、土はたゞの財産ではない、生命(いのち)其のものである。祖先伝来一切の生命の蓄積して居る土は、其一塊(いっかい)も肉の一片血(ち)の一滴(いってき)である。農から土を奪(うば)うは、霊魂から肉体を奪うのである。換言すれば死ねと云うのである。農を斯(この)土から彼(かの)土に移すのは、霊魂の宿換(やどがえ)を命ずるのである。其多くは死ぬるのである。農も死なゝければならぬ場合はある。然し其(それ)は軽々(かるがる)しく断ずべき事ではない。一は田中正造翁に面識(めんしき)なく谷中村(やなかむら)を見ないからでもあろうが、余は従来(じゅうらい)谷中村民のあまり執念深いのを寧ろ気障(きざ)に思うて居た。六年の田舎住居、多少は百姓の真似(まね)もして見て、土に対する農の心理の幾分を解(げ)しはじめて見ると、余は否(いや)でも曩昔(むかし)の非(ひ)を認(みと)めずには居られぬ。即ち千歳村の墓地問題の如きも、京王電鉄会社や大地主等にとっては利益問題だが、純農者にとっては取りも直さぬ死活問題であるのだ。

然るに京王電鉄は、一方先棒(さきぼう)の村内有力者某々等をして頗る猛烈に運動せしむると共に、一方田夫野人何事をか仕出来(しでか)さんと高(たか)を括(くく)って高圧的(こうあつてき)手段(しゅだん)に出た。即ち関係地主の過半数は反対であるにも関せず、会社は村長の奥印(おくいん)をもって東京府庁に宛(あ)てゝ墓地新設予定地御臨検願を出して了う。霊場敷地展望台を畑の真中(まんなか)に持て来て建てる。果ては、云う事を聴かねば土地収用法を適用するまでの事だ、電鉄の手で買えば一反五百七十円から五百五十円までゞ買うが、土地収用法がものを云えば一反三百円か高くても三百五十円は越(こ)さない、其(それ)でも好(よ)いか、好ければ今に見ろ。斯様(こん)な調子でのしかゝって来た。

売る者は売れ、俺等(おいら)は売らぬ、と澄(す)まして居た反対側(がわ)の人達も、流石(さすが)に怒(おこ)り出した。腰弁当、提灯持参、草鞋(わらじ)がけの運動がはじまった。村会に向って、墓地(ぼち)排斥(はいせき)の決議を促す申請書を出す。村会に於てはまた、大多数を以て墓地排斥の建議案を通過するぞと意気込(いきご)む。それから連判(れんぱん)の陳情書を東京府庁へ出すとて余にも村民の一人として賛成を求めて来た。昨朝の事である。

下

今日(きょう)余は女児と三疋の犬とを連れて、柿を給田(きゅうでん)に買うべく出かけた。薄曇りした晩秋の寂しい午後である。

品川堀に沿うて北へ歩(あゆ)む。昨日連判状を持って来た仲間(なかま)の一人が、かみさんと甘藷(さつま)を掘って居る。

「此処(ここ)らも予定地(よていち)の内ですか」

「え、彼(あの)道路からずっとなんですよ。彼処(あすこ)に旗(はた)が立ってますだ」

成程余が書窓(しょそう)から此頃常に見る旗と同じ紅白染分の旗が、路傍の松の梢(こずえ)にヒラヒラして居る。東北の方にも見える。彼(あの)旗が敗北の白旗(しろはた)に変らなかったなら、此夫婦は来年此処で甘藷を掘ることは出来ぬのである。

余は麦畑に踏込む犬を叱(しか)り、道草(みちくさ)摘(つ)む女児を促(うなが)し、品川堀に沿うて北へ行く。路傍(みちばた)の尾花は霜枯れて、かさ/\鳴って居る。丁度(ちょうど)七年前の此月である。余は妻と此(この)世(よ)の住家(すみか)を探(さ)がして、東京から歩いて千歳村に来た。而して丁度其日の夕方に、疲(つか)れた足を曳(ひ)きずって、正に此路を通って甲州街道に出たのであった。夕日の残る枯尾花(かれおばな)、何処(どこ)やらに鳴く夕鴉(ゆうがらす)の声も、いとどさすらえ人の感を深くし、余も妻も唯黙(だま)って歩いた。我儕(われら)の行衛は何処(どこ)に落ちつくのであろう? 余等は各自(てんで)に斯く案じた。余は一個の浮浪(ふろう)書生(しょせい)、筆一本あれば、住居は天幕(てんまく)でも済(す)む自由の身である。それでさえ塒(ねぐら)はなれた小鳥の悲哀(かなしみ)は、其時ヒシと身に浸(し)みた。土から生れて土を食(く)い土を耕(たがや)して終に土になる土の獣(けもの)の農が、土を奪われ土から追われた時の心は如何(どう)であろう!

品川堀が西へ曲る点(とこ)に来た。丸太を組んだ高櫓(たかやぐら)が畑中に突立って居る。上には紅白の幕を張って、回向院の太鼓櫓(たいこやぐら)を見るようだ。北表面(きたおもて)へ廻(まわ)ると、墨黒々と筆太(ふでぶと)に

霊場敷地展望台

と洋紙(ようし)に書いて張ったのが、少し破れて風にばた/\して居る。品川堀を渡って、展望台の方へ行くと、下の畑で鉢巻(はちまき)をした禿頭(はげ)の爺(じい)さんが堆肥(つくて)の桶(おけ)を担(かつ)いで、媳(よめ)か娘か一人の女と若い男と三人して麦蒔(むぎまき)をして居る。爺さんは桶を下(お)ろし、鉢巻をとって、目礼(もくれい)した。此は昨夕村会議員の一人と訪ねて来た爺さんである。其宅地も畑も所有地全部買収地(ばいしゅうち)の真中(まんなか)に取こめられ、仮令(たとい)収用法(しゅうようほう)の適用が出来ぬとしても、もし唯一人売らぬとなれば袋(ふくろ)の鼠(ねずみ)の如く出口をふさがれるし、売るとなれば一寸の土も残らず渡して去らねばならぬので、最初から非常に憂惧(ゆうぐ)し、殆(ほとん)ど仕事も手につかず、昨日訪(た)ずねて来た時もオド/\した斯老人の容子は余の心(むね)を傷(いた)ましめた。今其畑に来て見れば、直ぐ隣の畑には爺さんを追い払う云わば敵の展望台があたりを睥睨(へいげい)して立って居る。爺さんは昼は其望台の蔭で畑打ち、夜は望台の夢に魘(おそ)わるゝことであろう。爺さんの寿命を日々(にちにち)夜々(やや)に縮(ちぢ)めつゝあるものは、斯展望台である。余は爺さんに目礼して、展望台の立つ隣の畑に往った。茶(ちゃ)と桑(くわ)と二方を劃(しき)った畑の一部を無遠慮に踏み固めて、棕櫚縄(しゅろなわ)素縄(すなわ)で丸太(まるた)をからげ組み立てた十数間の高櫓(たかやぐら)に人は居なかった。余は上ろうか上るまいかと踟蹰(ちちゅう)したが、終(つい)に女児(じょじ)と犬を下に残して片手欄(てすり)を握りつゝ酒樽の薦(こも)を敷いた楷梯(はしご)を上った。北へ、折れて西へ、折れて南へ、三重(じゅう)の楷梯を上って漸く頂上に達した。中々高い。頂(いただき)は八分板を並べ、丈夫に床(ゆか)をかいてある。

余は思わず嗟嘆(さたん)して見廻(みま)わした。好い見晴らしだ。武蔵野の此辺では、中々斯程の展望所は無い。望台を中心としてほゞ大円形(だいえんけい)をなした畑地は、一寸程になった麦の緑縞(みどりじま)、甘藷(さつま)を掘ったあとの紫がかった黒土、べったり緑青(ろくしょう)をなすった大根畑、明るい緑色の白菜畑(はくさいばたけ)、白っぽい黄色の晩陸稲(おくおかぼ)、入乱れて八方に展開し、其周囲には霜(しも)に染(そ)みた雑木林、人家を包む樫(かし)木立(こだち)、丈高い宮の赤松などが遠くなり近くなりくるり取巻(とりま)いて居る。北を見ると、最早(もう)鉄軌(れえる)を敷いた電鉄の線路が、烏山の木立の間に見え隠れ、此方(こなた)のまだ枕木も敷かぬ部分には工夫が五六人鶴嘴(つるはし)を振(ふ)り上げて居る。西を見れば、茶褐色に焦(こが)れた雑木山の向うに、濃い黛色(たいしょく)の低い山が横長く出没して居る。多摩川(たまがわ)の西岸を縁(ふち)どる所謂多摩の横山で、川は見えぬが流れの筋(すじ)は分明(ぶんみょう)に指さゝれる。少し西北には、青梅(あおめ)から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜(ひそ)んで見えない。唯藍色(あいいろ)の雲の間から、弱い弱い日脚(ひあし)が唯一筋斜(はす)に落ちて居る。

やゝ久しく吾を忘れて眺(なが)め入った余は、今京王電鉄が建てた墓地敷地展望台の上に立って居ることに気がついた。余は更に目をあげてあたりを見廻わした。此望台を中心として、二十万坪六十余町歩の耕地宅地を包囲して、南に東に北に西に規則正しく間隔(かんかく)を置いて高く樹梢に翻って居る十数流の紅白旗は、戦わずして已に勝を宣する占領旗(せんりょうき)かと疑われ、中央に突立ってあたり見下(みお)ろす展望台は、蠢爾(しゅんじ)としてこゝに耕す人と其住家(すみか)とを呑(の)んでかゝって威嚇(いかく)して居る様で、余は此展望台に立つのが恥かしくなった。

雪空の様に曇りつゝ日は早や暮(くる)るに間(ま)もなくなった。何処(どこ)かに鴉(からす)が鳴く。余はさながら不測の運命に魘(おそ)われて悄然(しょうぜん)として農夫の顔其まゝに言(ものい)わぬ哀愁に満ちた自然の面影にやるせなき哀感(あいかん)を誘(さそ)われて、独望台(ぼうだい)にさま/″\の事を想うた。都会と田舎の此争は、如何に解決せらるゝであろう乎。京王は終に勝つであろうか。村は負けるであろうか。資本の吾儘(わがまま)が通るであろう乎。労力の嘆(なげ)きが聴かるゝであろう乎。一年両度緑(みどり)になり黄(き)になり命(いのち)を与うる斯二十万坪の活(い)きた土は、終古(しゅうこ)死の国とならねばならぬのであろうか。今憂(うれい)の重荷(おもに)を負(お)うて直下(すぐした)に働いて居る彼爺さん達、彼処(あち)此処(こち)に鳶色に焦(こが)れた欅(けやき)の下樫(かし)の木蔭に平和を夢みて居る幾個(いくつ)の茅舎(ぼうしゃ)、其等(それら)は所謂文明の手に蠅(はえ)の如く簑虫(みのむし)の宿(やど)の如く払いのけられねばならぬのであろうか。数で云うたら唯(たった)二十万坪の土地、喜憂(きゆう)を繋(か)くる人と戸数と、都の場末の一町内にも足らぬが、大なる人情の眼は唯統計(とうけい)を見るであろうか。東京は帝都(ていと)、寸土(すんど)寸金(すんきん)、生が盛(さか)れば死は退(の)かねばならぬ。寺も移らねばなるまい。墓地も移らずばなるまい。然しながら死にたる骨(ほね)は、死にたる地(ち)に安(やす)んずべきではあるまい乎。寺と墓地とは縁もゆかりもない千歳村の此耕さるべき部分の外に行き得る場所はないのであろう乎。都会が頭なら、田舎は臓腑(ぞうふ)ではあるまい乎。頭が臓腑を食ったなら、終(つい)には頭の最後ではあるまい乎。田舎はもとより都会の恩(おん)を被(き)る。然しながら都会を養い、都会のあらゆる不浄を運(はこ)び去り、新しい生命(いのち)と元気を都会に注(そそ)ぐ大自然の役目を勤むる田舎は、都会に貢献する所がないであろう乎。都会が田舎の意志と感情を無視して吾儘(わがまま)を通すなら、其れこそ本当の無理である。無理は分離である。分離は死である。都会と田舎は一体(いったい)である。農が濫(みだり)に土を離るゝの日は農の死である。都(みやこ)が田舎を潰(つぶ)す日は、都自身の滅亡(めつぼう)である。

彼旗を撤(てっ)し、此望台を毀(こぼ)ち、今自然も愁(うれ)うる秋暮の物悲しきが上に憂愁不安の気雲の如く覆(おお)うて居る斯千歳村に、雲霽れてうら/\と日の光(ひかり)射(さ)す復活の春を齎(もた)らすを得ば、其時こそ京王の電鉄も都と田舎を繋(つな)ぐ愛の連鎖、温(あたた)かい血の通(かよ)う脈管(みゃくかん)となるを得るであろう。

(大正元年 十一月八日)

暮秋の日

竜田姫(たつたひめ)のうっとりと眼を細(ほそ)くし、またぱっと目を瞪(みひ)らく様な、曇りつ照りつ寂しい暮秋の日。

暦(こよみ)の冬は五六日前に立った。霜はまだ二朝(ふたあさ)三朝(みあさ)、しかも軽いのしか降(ふ)らない。但先月の嵐が累(るい)をなしたのか、庭園の百日紅、桜、梅、沙羅双樹(さらそうじゅ)、桃、李、白樺、欅、厚朴(ほう)、木蓮の類の落葉樹は、大抵葉を振うて裸になり、柿やトキワカエデの木の下には、美しい濶(ひろ)い落葉(おちば)が落葉の上に重(かさ)なって厚い茵(しとね)を敷いて居る。菊はまだ褪(うつろ)わずして狂うものは狂いそめ、小菊、紺菊の類は、園の此処彼処にさま/″\な色を見せ、紅白の茶山花(さざんか)は枝上地上に咲きこぼれて居る。ドウダン、ヤマモミジ、一行寺、大盃、イタヤ、ハツシモ、など云う類(たぐい)の楓(かえで)や銀杏(いちょう)は、深く浅く鮮やかにまた渋(しぶ)く、紅、黄、褐(かち)、茜(あかね)、紫さま/″\の色に出で、気の重い常緑木(ときわぎ)や気軽な裸木(はだかぎ)の間を彩(いろ)どる。常緑木の中でも、松や杉は青々とした葉の下に黄ばんだ古葉(ふるは)を簇々(むらむら)と垂(た)れて、自ら新にす可く一吹(いっすい)の風を待って居る。菊、茶山花の香を含んで酒の様に濃い空気を吸いつゝ、余はさながら虻(あぶ)の様に、庭から園、園から畑と徘徊(はいかい)する。庭を歩く時、足下に落葉がかさと鳴る。梅の小枝に妙な物がと目をとめて見ると、蛙(かわず)の干物(ひもの)が突刺してある。此はイタズラ小僧の百舌鳥(もず)めが食料に干(ほ)して置(お)いて其まゝ置き忘れたのである。園を歩く時、大半は種になったコスモスの梢(こずえ)に咲き残った紅白の花が三つ四つ淋(さび)しく迎える。畑には最早大麦小麦が寸余に生えて居る。大根漬菜が青々とまだ盛んな生気(せいき)を見せて居る。籬(かき)の外の畑では、まだ晩蒔(おそまき)の麦を蒔いて居る。向うの田圃では、ザクリ/\鎌の音をさして晩稲(おくて)を苅(か)って居る。

今は午後の四時である。先程からぱっと射(さ)して色と云う色を栄(は)えさして居た日は、雲の瞼(まぶた)の下に隠れて、眼に見る限りの物は沈欝(ちんうつ)な相(そう)をとった。松の下の大分黄ばんだ芝生に立って、墓地の銀杏(いちょう)を見る。さまで大きくもあらぬ径(けい)六寸程の比較的若木(わかぎ)であるが、魚の背骨(せぼね)の一方を削った様に枝は皆北方へ出て、南へは唯一本しか出て居ない。南の枝にも梢にも、残る葉はなくて、黄葉(こうよう)は唯北方に密集して居る。其裸になった梢に、嘴(はし)の大きな痩鴉(やせがらす)が一羽とまって居る。永く永くとまって居たが、尾羽で一つ梢をうって唖々(ああ)と鳴きさまに飛び立った。黄いろい蝶の舞う様に銀杏の葉がはら/\と飄(ひるが)える。

廻沢の杉森(すぎもり)のあなたを、葬式が通ると見えて、「南無阿弥陀ァ仏、南無阿弥陀ァ仏」単調な念仏(ねんぶつ)が泣く様に響いて来る。

(大正元年 十一月十日)

二つの幻影

北風が寒く、冬らしい日。

然し東京附近で冬を云々するのは烏滸(おこ)がましい。如何に寒いと云っても、大地が始終真白(まっしろ)になって居るではなし、少し日あたりのよい風よけのある所では、寒中(かんちゅう)にも小松菜(こまつな)が青々(あおあお)して、崖(がけ)の蔭では菫(すみれ)や蒲公英(たんぽぽ)が二月に咲いたりするのを見るのは、珍らしくない。

北へ行かねば、冬の心地は分からぬ。せめて奥州、北海道、樺太(かばふと)、乃至(ないし)大陸の露西亜(ろしあ)とか西比利亜とかでなければ、本当の冬の趣味は分からぬ。秋日々(ひび)に老いて近づく冬の気息が一刻々々に身に響く頃の一種の恐怖(おそれ)、死に先だつ深い絶望と悲哀は、東京附近の浅薄な冬の真似では到底分からぬ。東京附近の冬は、せい/″\半死半生である。冬が本当の死である国土でなければ、秋の暮の淋し味も、また春の復活の喜も十分には分からぬ。

「おゝ神よ、吾をしてこの春に会うを得せしめ給うを感謝す」と畑で祈ると云う露西亜の老農の心もちには、中々東京附近の百姓はなれぬ。

否(いや)でも応(おう)でも境遇に我等は支配される。我々の邦(くに)では一切の事が兎角徹底せぬわけである。

*

午後散歩、田圃(たんぼ)では皆欣々喜々として晩稲(おくて)を苅って居る。

甲斐(かい)の山を見る可く、青山街道から十四五歩、船橋(ふなばし)の方へ上って居ると、東京の方から街道を二台の車が来る。護謨輪(ごむわ)の奇麗な車である。道の左右の百姓達が鎌の手をとゞめて見て居る。予は持て居た双眼鏡(そうがんきょう)を翳(かざ)した。前なる透(す)かし幌(ほろ)の内は、丸髷に結って真白(まっしろ)に塗った美しい若い婦人である。後の車には、乳母(うば)らしいのが友禅(ゆうぜん)の美しい着物に包まれた女の児を抱(だ)いて居る。玩具など幌の扇骨(ほね)に結いつけてある。今日は十一月の十五日、七五三の宮詣(みやもう)でに東京に往った帰りと見える。二台の護謨輪(ごむわ)が威勢の好い白法被(しろはっぴ)の車夫に挽(ひ)かれて音もなくだら/\坂を上って往って了うと、余はものゝ影が余の立つ方に近づきつゝあるに気づいた。骸骨(がいこつ)が来るのかと思うた。其は一人の婆(ばば)であった。両の眼の下瞼(したまぶた)が悉(ことごと)く朱(あけ)に反(そ)りかえって、椎(しい)の実程の小さな鼻が右へ歪(ゆが)みなりにくっついて居る。小さな風呂敷包を頸(くび)にかけて、草履(ぞうり)の様になった下駄(げた)を突かけて居る。余は恐ろしくなって、片寄って婆(ばあ)さんを通した。今にも婆さんが口をきゝはせぬかと恐れた。然し婆さんは、下瞼の朱(あか)く反りかえった眼でじろり余を見たまゝ、余の傍(わき)を通り過ぎて了うた。程なく雑木山に見えなくなった。

余は今しがた眼の前を過ぎた二つの幻(まぼろし)の意味を思いつゝ、山を見ることを忘れて田圃の方へ下りて往った。

(大正元年 十一月十五日)

入営

辰(たつ)爺(じい)さん宅(とこ)の岩公(いわこう)が麻布聯隊に入営する。

寸志の一包と、吾れながら見事(みごと)に出来た聖護院(しょうごいん)大根(だいこ)を三本提(さ)げて、挨拶に行く。禾場(うちば)には祝入営の旗が五本も威勢(いせい)よく立って、広くもあらぬ家には人影(ひとかげ)と人声(ひとごえ)が一ぱいに溢れて居る。土間の入口で、阿爺(ちゃん)の辰さんがせっせと饂飩粉(うどんこ)を捏(こ)ねて居る。是非(ぜひ)上(あが)れと云うのを、後刻とふりきって、大根を土間に置いて帰る。

午後万歳の声を聞いて、遽(あわ)てゝ八幡(はちまん)に往って見る。最早(もう)楽隊(がくたい)を先頭に行列が出かける処だ。岩公は黒紋付の羽織、袴、靴、茶(ちゃ)の中折帽(なかおれぼう)と云う装(なり)で、神酒(みき)の所為(せい)もあろう桜色になって居る。岩公の阿爺(ちゃん)は体格(なり)は小さい人の好い爺(じい)さんだが、昔は可なり遊んだ男で、小供まで何処かイナセなところがある。

余も行列に加わって、高井戸まで送る。真先(まっさ)きに、紫地に白く「千歳村粕谷少年音楽隊」とぬいた横旗を立てゝ、村の少年が銀笛(ぎんてき)、太鼓(たいこ)、手風琴(てふうきん)なぞピー/\ドン/\賑(にぎ)やかに囃(はや)し立てゝ行く。入営者の弟の沢ちゃんも、銀笛を吹く仲間(なかま)である。次ぎに送入営の幟(のぼり)が五本行く。入営者の附添人としては、岩公の兄貴の村さんが弟と並んで歩いて居る。若い時は、亭主が夜遊びするのでしば/\淋しい留守をして、宵夜中(よいよなか)小使銭(こづかい)貸せの破落戸漢(ならずもの)に踏み込まれたり、苦労に齢(とし)よりも老(ふ)けた岩公の阿母(おふくろ)が、孫の赤坊を負って、草履をはいて小走りに送って来る。四五日前に除隊になった寺本の喜三さんも居る。水兵服(すいへいふく)の丈高(たけたか)い男を誰かと思うたら、休暇で横須賀から帰って来た萩原の忠さんであった。一昨日母者(ははじゃ)の葬式(そうしき)をして沈んだ顔の仁左衛門さんも来て居る。余は高井戸の通りで失敬して、径路(こみち)から帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立に見え隠れして、旗影と少年音楽隊の曲(きょく)が次第に東へ進んで行く。

今日は何処(どこ)も入営者の出発で、船橋の方でも、万歳の声が夕日の空に颺(あが)って居た。

(明治四十四年 十一月三十日)

*

辰爺さんが酔うて昨日の礼に饂飩を持て来た。うっかりして居たが、吾家(うち)は組内だから昨日も何角(なにか)の手伝(てつだい)に行かねばならなかったのであった。

爺さんは泣声(なきごえ)して、

「岩もね、二週間すると来ますだよ」と云う。「兵隊に出すのが嫌だなンか云うことァ出来ねえだ。何でも大きくなる時節で、天子様(てんしさま)も国(くに)を広くなさるだから」と云う。

誰が教えたのかしら。

(同 十二月一日)

生死

霜無く、風無く、雲無く、静かな寂(しず)かな小春の日。

昨夜、台所の竈台(へっついだい)の下の空籠(からかご)の中で、犬のピンがうめいたり叫(さけ)んだりして居たが、到頭四疋子を生んだ。茶色(ちゃいろ)が二疋、黒(くろ)が二疋、あの小さな母胎(ぼたい)からよく四疋も生れたものだ。つい今しがた母胎を出たばかりなのに、小猫(こねこ)の様な啼声(なきごえ)を出して、勢(いきおい)猛(もう)に母の乳にむしゃぶりつく。

子犬の生れた騒ぎに、猫のミイやが居ないことを午過(ひるす)ぎまで気付(きづ)かなかった。「おや、ミイは?」と細君(さいくん)が不安な顔をして見廻(みま)わした時は、午後の一時近かった。総(そう)がかりで家中探がす。居ない。屋敷中探がす。居ない。舌(した)が痛くなる程呼んでも、答が無い。民やをやって、近所を遍(あま)ねく探がさしたが、何処にも居ず、誰も知らぬ、と云う。まだ遠出(とおで)をする猫ではなし、何時(いつ)居なくなったろうと評議する。細君が暫らく考えて「朝は居ましたよ、葱(ねぎ)とりに往く時私に跟(つ)いて畑なぞ歩いて居ました」と云う。如何(どう)なったのだろう? 烏山の天狗犬(てんぐいぬ)に噛(か)まれたのかも知れぬ。三毛(みけ)は美しい小猫だったから、或は人に抱(だ)いて往かれたかも知れぬ。可愛い、剽軽(ひょうきん)な、怜悧(りこう)な小猫だったに、行方不明とは残念な事をして了うた。ひょっとしたら、仲好(なかよ)くして居たピンに子犬が生れたから、ミイが嫉妬して身を隠したのではあるまいか、などあられもない事まで思う。

夕食の席で、民やが斯様(こん)な話をした。今日(きょう)午後猫を捜(さが)して居ると、八幡下で鴫田(しぎた)の婆さんと辰さん家(とこ)の婆さんと話して居た。先刻田圃(たんぼ)向うの雑木山の中で、印半纏(しるしばんてん)を着た廿歳許の男と、小ざっぱりした服装(なり)をした二十(はたち)前後の女が居た。男はせっせと手で土を掘(ほ)って居た。女は世にも蒼ざめた顔をして居た。自然薯(じねんじょ)でも掘るのですかい、と通りかゝりの婆さんがきいたら、何とも返事しなかった。程経てまた通ると、先の男女はまだ其処(そこ)に居た。其前八幡山(はちまんやま)の畑の辺をまご/\して居たそうである。多分闇(やみ)から闇にと堕(お)りた胎児(たいじ)を埋めたのであろう。鴫田の婆さんは、自家(うち)の山に其様(そん)な事でもしられちゃ大変だ、と云うて畑の草の中なぞ杖(つえ)のさきでせゝって居たそうだ。

其若い男女が、ひょっとしたらまた其処(そこ)へ来て居るかも知れぬ。あるいは無分別をせぬとも限らぬ。

箸(はし)を措(お)くと、外套(がいとう)引かけて出た。体(からだ)も魂(たましい)も倔強(くっきょう)な民が、私お供(とも)致しましょう、と提灯(ちょうちん)ともして先きに立つ。

八幡下の田圃を突切(つっき)って、雑木林の西側を這(は)う径(こみち)に入った。立どまって良(やや)久(ひさ)しく耳を澄(す)ました。人らしいものゝ気(け)もない。

「何処(どこ)に居るかね、不了簡(ふりょうけん)をしちゃいかんぞ。俺(わし)に相談をして呉れんか」

声をかけて置いて、熟(じっ)と聞き耳を立てたが、吾声(わがこえ)の攪乱(かきみだ)した雑木山の静寂(せいじゃく)はもとに復(か)えって、落葉(おちば)一つがさとも云わぬ。霜を含んだ夜気(やき)は池の水の様に凝(こ)って、上半部を蝕(く)い欠(か)いた様な片破(かたわ)れ月が、裸(はだか)になった雑木の梢(こずえ)に蒼白く光って居る。

立とまっては耳を傾(かたむ)け、答(こたえ)なき声を空林(くうりん)にかけたりして、到頭甲州街道に出た。一廻りして、今度は雑木山の東側の径(こみち)を取って返した。提灯は径を歩かして、余は月の光(あかり)を便りに今一度疑問の林に分け入った。株立になった雑木は皆落葉(おちば)して、林の中は月明(つきあかり)でほの白い。櫟(くぬぎ)から楢(なら)と眼をつけ、がさ/\と吾が踏(ふ)み分くる足下(あしもと)の落葉にも気をつけ、木を掘ったあとの窪(くぼみ)を注視し、時々立止って耳を澄ました。

居(い)ない。終に何者も居ない。土の下も黙(だま)って居る。

(明治四十二年 十二月二日)

天理教の祭

おかず媼(ばあ)さんが、天理教会秋祭(あきまつり)の案内に来た。

紙の上の天理教(てんりきょう)は見て居るが、教会を覗(のぞ)いた事は未(ま)だ無い。好い機(おり)だ。往って見る。

下足札(げそくふだ)を出して、百畳敷一ぱいの人である。正面には御簾(みす)を捲いて、鏡が飾ってある。太鼓(たいこ)、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、琴(こと)、琵琶(びわ)なんぞを擁したり、あるいは何ものをも持たぬ手を膝(ひざ)に組んだ白衣(びゃくい)の男女が、両辺に居流れて居る。其白衣の女の中には、おかず媼(ばあ)さんも見えた。米俵が十数俵(ひょう)も神前に積(つ)まれて、奉納者(ほうのうしゃ)の名を書いた奉書紙(ほうしょがみ)が下げてある。

やがて鳴物(なりもの)が鳴り出した。

太鼓の白衣氏が撥(ばち)を握(にぎ)って単調な拍子(ひょうし)をとりつゝ

「ちょっとはなし、神の云うこと聞いてくれ」

と唱(とな)え出した。琴が鳴る。篳篥(ひちりき)が叫ぶ。琵琶が和(わ)する。

黒紋付木綿の綿入に袴(はかま)を穿(は)いた倔強(くっきょう)な若い男が六人、歌につれて神前に踊りはじめた。一進一退、裏(うら)むき表(おもて)むき、立ったり蹲(しゃが)んだり、黒紋付の袖からぬっと出た逞(たく)ましい両の手を合掌(がっしょう)したりほどいたり、真面目に踊って居る。無骨(ぶこつ)で中々愛嬌(あいきょう)がある。「畚(もっこ)かついでひのきしん」と云う歌のところでは、六人ながら新しい畚を担(にな)って踊った。

鳴物は単調に鳴る。歌は単調につゞく。踊は相も変らぬ手振がつゞく。余は多少あき気味であたりを眺(なが)める。皆近辺の人達で、多少の識った顔もある。皆嬉々(きき)として眺めて聴いて居る。

*

天理教祖は実に偉い婆さんであった。其広大な慈悲心は生きて働き、死んでます/\働き、老骨(ろうこつ)地に入ってこゝに数十年、其流れを汲(く)む人の数は実に夥(おびただ)しい数を以て数えられる。仮令(たとい)大和の本教会(ほんきょうかい)は立派な建築を興し、中学などを建て、小むずかしい天理教聖書を作り、已に組織病に罹(かか)ったとしても、婆さんから流れ出た活ける力はまだ/\盛に本当の信徒の間に働いて居る。信ずる者は幸福である。仮令(たとい)其信仰の為に財産をなくして人の物笑(ものわらい)となり、政府の心配となるとも、信ずる者は幸福である。彼等の多くは無学である。彼等に教理を問うても、彼等は唯にこ/\と笑うて、立派な言葉で明かに答える事は出来ぬ。然し信仰を説く者必しも信仰を有(も)つ者でない。信ずる彼等は確(たしか)に其信仰に生きて居るのである。

信仰と生活の一致は、容易で無い。何れの信仰でも雑多(ざった)な信者はある。世界の信者が其信仰を遺憾(いかん)なく実現したら、世界は夙(とう)に無事に苦んで居る筈(はず)だ。天理教徒にも色々ある。財産を天理様に捧(ささ)げてしまって、嬉々(きき)として労役者(ろうえきしゃ)の生活をして居る者もある。天理教で財産を耗(す)って、其報償(むくい)を手あたり次第に徴集(ちょうしゅう)し、助けなき婆さんを窘(いじ)めて店賃(たなちん)をはたる者もある。病気の為に信心して幸に痊(い)ゆれば平気で暴利を貪(むさぼ)って居る者もある。信徒の労力を吸って肥(こ)えて居る教師もある。然し斯(この)せち鹹(から)い世の中に、人知れず美しい心の花を咲かす者も随処(ずいしょ)にある。此春妻が三軒茶屋(さんげんぢゃや)から帰るとて、車はなしひょろ/\する程荷物を提(さ)げて歩(ある)いて居ると、畑に働(はたら)いて居た娘が、今しも小学校の卒業式から優等の褒美をもろうて帰る少年を追かけて呼びとめてくれたので、其少年に荷物を分けて持ってもろうて帰って来た。親切な人々と思うて聞いて見れば、それは天理教信者であった。

人が平気に踏(ふ)みしだく道辺(みちべ)の無名草(ななしぐさ)の其小さな花にも、自然の大活力は現われる。天理教祖は日本の思いがけない水村山郭(さんかく)の此処其処に人知れず生れて居るのである。

*

斯様な事を思うて居る内に、御神楽歌(おかぐらうた)一巻を唱(とな)え囃(はや)し踊る神前の活動はやんで、やがて一脚の椅子テーブルが正面に据(す)えられ、洋服を着た若い紳士が着席し、木下藤吉郎秀吉が信長の草履取(ぞうりとり)となって草履を懐(ふところ)に入れて温(あたた)めた事をきい/\声で演説した。其れが果てると、余は折詰(おりづめ)一個をもらい、正宗(まさむね)一合瓶(ごうびん)は辞して、参拾銭寄進(きしん)して帰った。

耶蘇教は我(が)強(つよ)く、仏教は陰気(いんき)くさく、神道に湿(しめ)りが無い。彼(かの)大なる母教祖(ははきょうそ)の胎内(たいない)から生れ出た、陽気で簡明切実(せつじつ)な平和の天理教が、土(つち)の人なる農家に多くの信徒を有(も)つは尤である。

(明治四十二年 十二月四日)

渦巻

小春日がつゞく。

十二月は余の大好(だいす)きな月である。絢爛(けんらん)の秋が過ぎて、落つるものは落ち尽(つく)し、枯(か)るゝものは枯れ尽し、見るもの皆乾々(かんかん)浄々(じょうじょう)として、寂(さび)しいにも寂しいが、寂しい中にも何とも云えぬ味(あじ)がある。秋に別れて冬になろうと云う此隙(ひま)に、自然が一寸静座の妙境(みょうきょう)に入る其幽玄の趣(おもむき)は言葉に尽くせぬ。

隣字(となりあざ)の仙左衛門が、根こぎの山豆柿(やままめがき)一本と自然薯(じねんじょ)を持て来てくれた。一を庭に、一を鶏(にわとり)の柵(さく)に植える。今年(ことし)は吾家(うち)の聖護院(しょうごいん)大根(だいこ)が上出来だ。種をくれと云うから、二本やる。少し話して行けと云うたら、また近所(きんじょ)に鮭(さけ)が出来たからと云うて、急いで帰った。鮭とは、ぶら下がるの謎で、首縊(くびくく)りがあったと云うのである。

橋本の敬さんが、実弟の世良田(せらだ)某(ぼう)を連れて来た。五歳(いつつ)の年四谷(よつや)に養子に往って、十年前渡米し、今はロスアンゼルスに砂糖(さとう)大根(だいこん)八十町、セロリー四十町作って居るそうだ。妻(つま)を持ちに帰って来たのである。カンタループ、草花の種子をもらう。

此村から外国(がいこく)出稼(でかせぎ)に往った者はあまり無い。朝鮮、北海道の移住者も殆んど無い。余等が村住居の数年間に、隣字の者で下総(しもうさ)の高原に移住し、可なり成功した者が一度帰って来たことがある。何(ど)の家にも、子女の五六人七八人居ない家はないが、それで一向(いっこう)新しい竈(かまど)の殖(ふ)える様子もない。如何(どう)なるかと云えば、女は無論嫁(とつ)ぐが、息子(むすこ)の或者は養子に行く、ある者は東京に出て職を覚える、店(みせ)を出す。何しろ直ぐ近所に東京と云う大渦(おおうず)が巻いて居るので、村を出ると直ぐ東京に吸われてしもうて、移住出稼などに向く者は先ず無いと云うてよい。世良田(せらだ)君なんどは稀有(けう)の例である。

東京に出て相応(そうおう)に暮らして行く者もあるが、春秋の彼岸や盆(ぼん)に墓参に来る人の数は少なく、余の直ぐ隣の墓地でも最早(もう)無縁(むえん)になった墓が少からずあるのを見ると、故郷はなれた彼等の運命が思いやられぬでもない。「家鴨馴知灘勢急、相喚相呼不離湾」何処(どこ)ぞへ往ってしまいたいと口癖(くちぐせ)の様に云う二番目息子の稲公(いねこう)を、阿母(おふくろ)が懸念(けねん)するのも無理は無い。

(明治四十四年 十二月五日)

透視

非常の霜、地皮(ちひ)が全く霜(しも)やけして了うた。

午(ご)の前後はまた無闇(むやみ)と暖(あたたか)だ。凩(こがらし)も黙(だま)り、時雨(しぐれ)も眠(ねむ)り、乾(かわ)いて反(そ)りかえった落葉(おちば)は、木の下に夢(ゆめ)みて居る。烏(からす)が啼(な)いたあとに、隣の鶏(にわとり)が鳴(な)き、雀(すずめ)が去ったあとの楓(かえで)の枝(えだ)に、鷦鷯(みそさざい)がとまる。静かにさす午後の日に白く光(ひか)って小虫(こむし)が飛ぶ。蜘糸(くものい)の断片が日光の道を見せて閃(ひら)めく。甲州の山は小春(こはる)の空(そら)にうっとりと霞(かす)んで居る。

落ちついて、はっきりして、寂しい中に暖か味(み)があって、温(あたた)かい中に寂し味があって、十二月は本当に好い月である。

日曜だが、来客もなくて静(しずか)なことだ。主と妻と女児と、日あたりの好(い)い母屋(おもや)の南縁(なんえん)で、日なたぼっこをして遊ぶ。白茶(しらちゃ)天鵞絨(びろうど)の様に光る芝生(しばふ)では、犬のデカとピンと其子のタロウ、カメが遊んで居る。大きなデカ爺(おやじ)が、自分の頭程(あたまほど)もない先月生れの小犬の蚤(のみ)を噛(か)んでやったり、小犬が母の頸輪(くびわ)を啣(くわ)えて引張ったり、犬と猫と仲悪(なかわる)の譬(たとえ)にもするにデカと猫のトラと鼻(はな)突(つき)合わして互(たがい)に疑(うたが)いもせず、皆悠々と小春の恩光(おんこう)の下(もと)に遊んで居る。「小春」とか「和楽(わらく)」とかの画(え)になりそう。

*

細君が指輪(ゆびわ)をなくしたので、此頃勝手元の手伝(てつだ)いに来る隣字(となりあざ)のお鈴(すず)に頼み、吉(きち)さんに見てもらったら、母家(おもや)の乾(いぬい)の方角(ほうがく)高い処にのって居る、三日(みっか)稲荷様(いなりさま)を信心すると出て来る、と云うた。

吉さんは隣字の人で、日蓮宗の篤信者(とくしんじゃ)、病気が信心で癒(なお)った以来千里眼を得たと人が云う。吉凶(きっきょう)其他分からぬ事があれば、界隈(かいわい)の者はよく吉さんに往って聞く。造作(ぞうさ)なく見てくれる。馬鹿にして居る者もあるが、信ずる者が多い。信ずる者は、吉さんの言(ことば)で病気も癒(なお)り、なくなったものも見出す。此辺での長尾(ながお)郁子(いくこ)、御船(みふね)千鶴子(ちづこ)である。

裏の物置に大きな青大将(あおだいしょう)が居る。吉さんは、其れを先々代の家主のかみさんの霊(れい)だと云う。兎に角、聞く処によれば、これまで吉さんの言が的中(てきちゅう)した例は少なくない。吉さんは人の見得ないものを見る。汽車の轢死人(れきしにん)があった処を吉さんが通ると、青い顔の男女(なんにょ)がふら/\跟(つ)いて来て仕方(しかた)がないそうだ。

余の家にも他の若い者並(なみ)に仕事に来ることがある。五十そこらの、瘠(や)せて力があまりなさそうな無口な人である。

我等は信が無い為に、統一が出来ない為に、おのずから明瞭なものも見えず聞こえずして了うのである。信ずる者には、奇蹟は別に不思議でも何でもない筈(はず)だ。

然しながら我等凡夫(ぼんぷ)は必しも人々尽く千里眼たることは出来ぬ。また必ずしも悉く千里眼たるを要せぬ。長尾郁子や千鶴子も評判が立つと間もなく死んで了うた。不信が信を殺したとも云える。また一方から云えば、幽明(ゆうめい)、物心(ぶっしん)、死生(しせい)、神人(しんじん)の間を隔(へだ)つる神秘の一幕(いちまく)は、容易に掲(かか)げぬ所に生活の面白味(おもしろみ)も自由もあって、濫(みだ)りに之を掲ぐるの報(むくい)は速(すみ)やかなる死或は盲目である場合があるのではあるまいか。命を賭(と)しても此帷幕の隙見(すきみ)をす可く努力せずに居られぬ人を哂(わら)うは吾儕(われら)が鈍(どん)な高慢(こうまん)であろうが、同じ生類(しょうるい)の進むにも、鳥の道、魚の道、虫(むし)の道、また獣(けもの)の道もあることを忘れてはならぬ。

吾儕(われら)は奇蹟を驚異し、透視(とうし)の人を尊敬し、而して自身は平坦な道をあるいて、道の導く所に行きたいものである。

*

夜、鶴子(つるこ)が炬燵(こたつ)に入りながら、昨日東京客からみやげにもらった鉛筆で雑記帳にアイウエオの手習(てならい)をしたあとで、雑記帳の表紙(ひょうし)に「トクトミツルコノデス」と書き、それから

コイヌガウマレマシテ、カワイコトデアリマス

と書いた。これは鶴子女史が生れてはじめての作文だ。細君が其下に記憶の為「ゴネントムツキ」と年齢(とし)をかゝせた。

(明治四十四年 十二月十日)

雪

暮の廿八日は、午食前(ひるめしまえ)から雨になり、降りながら夜に入った。

夜の二時頃、枕辺(まくらべ)近く撞(どす)と云った物音(ものおと)に、余は岸破(がば)と刎(は)ね起きた。身繕(みづくろ)いしてやゝしばし寝床(ねどこ)に突立(つった)って居ると、忍び込んだと思った人の容子(ようす)は無くて、戸の外(そと)にサラ/\サラ/\忍びやかな音がする。

「雪だ!」

先刻(さっき)の物音は、樫(かし)の枝を滑り落ちた雪の響(おと)だったのだ。余は含笑(ほほえ)みつゝまた眠った。

六時、起きて雨戸をあけると、白い光(ひかり)がぱっと眼を射(い)た。縁先(えんさき)まで真白だ。最早(もう)五寸から積って居るが、まだ盛(さかん)に降って居る。

去年は暖かで、ついぞ雪らしい雪を見なかった。年の内に五寸からの雪を見ることは、余等が千歳村の民になってからはじめてゞある。

余は奥書院(おくしょいん)の戸をあけた。西南を一目に見晴(みは)らす此処(ここ)の座敷は、今雪の田園(でんえん)を額縁(がくぶち)なしの画(え)にして見せて居る。庭の内に高低(こうてい)参差(しんし)とした十数本の松は、何れも忍(しの)び得る限(かぎ)り雪に撓(た)わんで、最早払(はら)おうか今払おうかと思い貌(がお)に枝を揺々(ゆらゆら)さして居る。素裸(すっぱだか)になってた落葉木(らくようぼく)は、従順(すなお)に雪の積るに任せて居る。枯萩(かれはぎ)の一叢(ひとむら)が、ぴったりと弓形(ゆみなり)に地に平伏(ひれふ)して居る。余は思わず声を立てゝ笑った。背向(うしろむ)きの石地蔵(いしじぞう)が、看護婦の冠る様な白い帽子を被(き)せられ、両肩(りょうかた)には白い雪のエパウレットをかついで澄まして立ってござるのだ。

余は障子をしめて内に入り、仕事にかゝる前に二通の手紙を書いた。筑波山下(つくばさんか)の医師(いし)なる人に一通。東京銀座の書店主人に一通。水国(すいこく)の雪景色と、歳晩(さいばん)の雪の都会の浮世絵が幻(まぼろし)の如く眼の前に浮ぶ。手紙を書き終えて、余は書き物をはじめた。障子が段々(だんだん)眩(まぶ)しくなって、時々吃驚(びっくり)する様な大きな響(おと)をさしてドサリ撞(どう)と雪が落ちる。机の傍(そば)では真鍮(しんちゅう)の薬鑵(やかん)がチン/\云って居る。

午餐(ごさん)の案内に鶴子が来た。室を出て見ると、雪はぽつり/\まだ降って居るが、四辺(あたり)は雪ならぬ光を含んで明るく、母屋(おもや)前(まえ)の芝生は樫の雫(しずく)で已に斑(まだら)に消えて居る。

「何だ、此れっ切りか。春の雪の様だね」

斯(か)く罵(ののし)りつゝ食卓(しょくたく)に就(つ)く。黒塗膳(くろぬりぜん)に白いものが三つ載(の)せてある。南天(なんてん)の紅(あか)い実(み)を眼球(めだま)にした兎(うさぎ)と、竜髭(りゅうのひげ)の碧(あお)い実(み)が眼球(めだま)の鶉(うずら)や、眉を竜髭の葉にし眼を其実にした小さな雪達磨(ゆきだるま)とが、一盤(ひとばん)の上に同居して居る。鶴子の為に妻が作ったのである。

「此(この)達磨(だるま)さん西洋人(せいようじん)よ、だって眼が碧(あお)いンですもの」と鶴子が曰(い)う。

雪で、今日は新聞が来(こ)ぬ。朝は乳屋(ちちや)、午後は七十近い郵便(ゆうびん)配達(はいたつ)の爺(じい)さんが来たばかり。明日(あす)の餅搗(もちつ)きを頼んだので、隣の主人(あるじ)が糯米(もちごめ)を取りに来た。其ついでに、蒸(ふ)かし立ての甘藷(さつまいも)を二本鶴子に呉(く)れた。

余は奥座敷で朝来(ちょうらい)の仕事をつゞける。寒いので、しば/\火鉢(ひばち)の炭(すみ)をつぐ。障子がやゝ翳(かげ)って、丁度(ちょうど)好い程の明(あかり)になった。颯(さあ)と云う音がする。轟(ごう)と云う響(ひびき)がする。風が出たらしい。四時やゝ廻(まわ)ると、妻が茶(ちゃ)を点(い)れ、鶴子が焼栗(やきぐり)を持て入って来た。

「雪水(ゆきみず)を沸(わ)かしたのですよ」

と妻が曰(い)う。ペンを擱(さしお)いて、取あえず一碗(わん)を傾(かたむ)ける。銀瓶(ぎんびん)と云う処だが、やはり例(れい)の鉄瓶(てつびん)だ。其れでも何となく茶味(ちゃみ)が軟(やわら)かい。手々(てんで)に焼栗を剥(む)きつゝ、障子をあけてやゝしばし外を眺める。北から風が吹いて居る。田圃(たんぼ)向(むこ)うの杉の森を掠(かす)めて、白い風が弗(ふっ)、弗(ふっ)と幾陣(いくしきり)か斜(はす)に吹き通る。庭の内では、蛾(が)の如く花の様な大小の雪片(せっぺん)が、飛(と)んだり、刎(は)ねたり、狂(くる)うたり、筋斗翻(とんぼがえり)をしたり、ダンスをする様にくるりと廻(まわ)ったり、面白そうにふざけ散らして、身軽(みがる)に気軽(きがる)に舞うて居る。消えかけて居た雪の帽が、また地蔵の頭上に高くなった。庭の主貌(あるじがお)した赤松の枝から、時々サッと雪の滝(たき)が落ちる。

「今夜も降りますよ」

斯く云いすてゝ妻は鶴子と立って往った。

余は風雪の音を聞き/\仕事をつゞける。一枚も書くと、最早(もう)書く文字がおぼろになった。余はペンを拭(ふ)いて、立って障子をあけた。

蒼白(あおじろ)い雪の黄昏(たそがれ)である。眼の届く限り、耳の届く限り、人通りもない、物音もしない。唯雪が霏々(ひひ)また霏々と限りもなく降って居る。良(やや)久(ひさ)しく眺める。不図縁先(えんさき)を黒い物が通ると思うたら、其(それ)は先月来余の家に入込んで居る風来犬(ふうらいいぬ)であった。まだ小供〻〻した耳の大きな牝犬(めいぬ)で、何処から如何(どう)して来たか知らぬが、勝手にありついて、追えども逐えども去ろうともせぬ。余の家には雌雄(しゆう)二疋(ひき)の犬が居るので、此上牝犬を飼うも厄介である。わざ/\人を頼んで、玉川向うへ捨てさせた。すると翌日ひょっくり帰って来た。汽車に乗せたらと謂(い)って、荻窪(おぎくぼ)から汽車で吉祥寺(きちじょうじ)に送って、林の中に繋(つな)いで置いたら、頸(くび)に縄きれをぶらさげながら、一週間ぶりに舞(ま)い戻(もど)った。隣字の人に頼んで、二子在の犬好きの家へ世話してもらうつもりで、一先ず其家に繋いで置いてもらうと、長い鎖(くさり)を引きずりながら帰って来た。詮方(せんかた)なくて今は其まゝにしてある。余が口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いたら、彼女(かのじょ)はふっと見上げたが、やがて尾を垂(た)れて、小さな足跡(あしあと)を深く雪に残しつゝ、裏の方へ往って了うた。

雪はまだしきりに降って居る。

余は思うともなく今年一年の出来事をさま/″\と思い浮(うか)べた。身の上、家の上、村の上、自国の上、外国の上、さま/″\と事多い一年であった。種々の形(かたち)で世界の各所(かくしょ)に現(あら)わるゝ、人心(じんしん)の昂奮(こうふん)、人間の動揺が、眼(め)まぐろしくあらためて余の心の眼に映(うつ)った。

何処(どこ)に落着く世の中であろう?

余は久しく久しく何を見るともなく雪の中を見つめる。

大正元年暮の二十九日は蒼白(あおじろ)う暮れて行く。

おのがじし舞ひ狂ひつるあともなし

世は一色(ひといろ)の雪の夕暮

(大正元年 十二月二十九日)

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